創作 美登里の青春 続編 3

2024年10月15日 04時50分24秒 | 創作欄

人の才能は、千差万別である。
運動能力であったり、学問の分野であったり、芸術の分野であったり。
美登里は、自分にはどのような能力があるのだろうかと想ってみた。
父親は地元の農業高校を出て農協の職員となった。
母親は? 美登里は母についてどういう経歴なのかほとんど知らない。
イメージとしては、厚化粧で派手な服装で、地元でも浮き上がっているような異質な雰囲気をもった女性であった。
だが、声は優しい響きで甘い感じがした。
体はやせ形の父とは対照的に豊満である。
歌が上手であり、よく歌ってくれた子守唄は今でも美登里の記憶に残っていた。
美登里は美術に興味があったが、絵が描けるわけではなかった。
美登里が勤める美術専門の古本店には、美術愛好家や美術専門家などが来店していたが、特別な出会いがあったわけではない。
美登里は午後1時に東京都美術館の前で待ち合わせをしたので、15分前に着いた。
すでに多くの人たちが来ていた。
二科会はその趣旨によると「新しい価値の創造」に向かって不断の発展を期す会である。
つまり、常に新傾向の作家を吸収し、多くの誇るべき芸術家を輩出してきたのだ。
絵画部、彫刻部、デザイン部、写真部からなる。
概要によると、「春には造形上の実験的創造にいどんで春期展を行い、秋には熟成度の高い制作発表の場とする二科展を開催しようとするものであります」とある。
美登里が、徹と行ったのは秋期展だった。
徹は美登里より、5分後にやってきた。
スニーカーを履き、上下ジーンズ姿である。
「晴れてよかったね」と徹は笑顔で言う。
美登里は徹の歯並びがいいことに気づく。
夜半から降っていた秋雨は午前10時ごろ上がり、青空が広がってきてきた。
上野公園の銀杏は、鮮やかな黄色に染まっていた。
2
人は初めに徹の友人の作品が展示されている彫刻展を見た。
裸体像のなかに、バレリーナ―の彫刻がった。
「これだ」と徹は立ち止まった。
その彫刻は等身大と思われた。
つま先立ちであるから、細く長い足が強調されていた。
乳房はお椀のように丸く突き出ている。
手は大きく広げられていて躍動感を感じさせた。
「いいんじない」と徹は美登里を振り返った。
美登里は頬えみ肯いた。

 

創作 美登里の青春 続編 4

徹は二科展をじっくり見たわけではない。
60
点ほどの彫刻展を見てから絵画展を見た。
それからデザイン展と写真展は流すような足取りで見て回った。
東京都美術館を出ると秋の日差しはまだ高かった。
「不忍池でボートに乗ろうか?」と徹が言う。
「ボートですか?」美登里はボートに乗った経験がなかった。
東叡山寛永寺弁天堂方面へ向かう。
細い参道の両側には、露天商の店が並んでいた。
「何か食べる?」と問いかけながら徹は店を覗く。
西洋人の観光客と思われる若い男女が笑いあいながら綿菓子を食べていた。
小学生の頃、美登里は夏祭りで父と綿菓子を食べたことを思い出した。
徹は美登利を振り返り、「綿菓子も懐かしい味がしそうだね」と微笑む。
夏には大きな緑の葉の間に鮮やかなピンクの花さかせる池の蓮は枯れかけていた。
ボート場には、ローボート、サイクルボート、スワンボートがあった。
「どれに乗る?」と徹は振り返った。
一番、ボートらしいローボートを美登里は選んだ。
美登里はこの日、緑色のジーパンを履いていた。
ボートが転覆することないと思ったが、まさかの時を思ってスカートでなくてよかったとボートが池を滑り出すと思った。
徹がロールを器用に漕ぐので、大きな水しぶきは飛び散らない。
ピンク色のスワンボートとすれ違った。
高校生らしい男女が横に並んで足で笑い合いながらボートを漕いでいた。
美登里は県立の女子高校だったので、男性と交際する機会がなかった。
「楽しそうだね」徹は微笑んだ。
美登里は振り返りながら肯いた。
「タバコ吸っていいかな?」
美登里は黙って肯いた。
「実は大学の卒論は、森鴎外だった。小説『雁』読んだことある?」
「ありません」
美登里は青森県人なので太宰治が好きであった。

それから同じ東北人として宮沢賢治の本も読んでいた。

高校生の時、短歌もやっていたので石川啄木にも惹かれていた。

そして、東北人として最も身近に感じたのが寺山修司だった。

美登里にとって羨ましいほどの多彩な人であった。

「僕の職業は寺山修司です」

「そんなことが言えるんだ」 美登里はかっこいい男だと惚れ込んだ。

徹は暫く、思いを巡らせているように沈黙しながらタバコを吸っていた。
「小説の雁のなかに、この不忍池が出てくる。話は遠い明治の昔のことだけどね」
徹はタバコの煙を池の岸の方へ吹き出した。
タバコの煙が輪になって池に漂った。
ボートを降りると徹は、無縁坂へ美登里を案内した。
「ここが三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の岩崎邸だった。この坂の左側に、昔は小説の中に出てくるような格子戸の古風な民家が並んでいたんだ」

徹が学生時代にはそれらの家々がまだ残されていた。
高い煉瓦造りの塀を背にして、徹は手振り身振りで説明した。
 -------------------------------------------------

<小説の雁の概要>
1880
年(明治13年)高利貸しの妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱くも、結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。
女性のはかない心理描写を描いた作品である。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。

 --------------------------------------------

<参考>

寺山 修司 (てらやま しゅうじ、19351210日~198354日)は、日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。

「言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。

 

創作 美登里の青春 続編 5

人生の途上、何が起こるか分からない。
叔母が東京大学病院に入院した。
本人には「胃潰瘍だ」と告げていたが、スキル性胃がんであった。
胃がんの中で、特別な進み方をする悪性度の高いがんであり、余命は半年~1年と診断されていた。
叔父は美登里に涙を浮かべてそれを告げた。
医師の診断書を手にした叔父の手が小刻みに震えていた。
美登里はその診断書を叔父から手渡されたので読んだ。
美登里も思わず涙を浮かべた。
冬の陽射しは、長い影を落としていた。
徹と訪れたことがある三四郎池の木立が叔母が入院している病棟から見えた。
小太りの叔母は45歳であったが、年より若く見えた。
叔母は24歳の時に子宮筋腫となり、子どもを産めない身となっていた。
叔母は負い目から夫に、「愛人を作ってもいい」と言っていた。
叔母は薄々感じていたが、叔父には愛人が実際に居たのである。
だが、その愛人に若い男との関係ができて、現在は叔父は寂しい身となっていた。
「美登里ちゃん、あの人は何もできない人なのよ。お願い、私が退院するまで、叔父さんの面倒をみてほしいのだけれど、どうかしら」
叔母は美登里の手を握り締めた。
手には福与かな温もりがあった。
美登里は叔母に懇願されて、東京・文京区駒込の叔父の家へ行った。
八百屋お七の墓がある円乗寺の裏に叔父の家があった。
その夜、美登里は風呂に入った。
脱衣場は風呂場にはないので、廊下で着替えてた。

美登里は襖の間に人の気配を感じた。
叔父が美登里の襖の僅かな間から、美登里の裸体を覗き見ていたのだ。
美登里は多少は不愉快であったが、馬鹿な叔父の行為に一歩引いて冷笑を浮かべた。
大好きな父親によく似ていた叔父に、好感を抱いていたので気持ちは許せたのだ。
そして、美登里はその夜、夕食の時に叔父から聞かされた八百屋お七のことを思った。
お七は天和2年(1683年)の天和の大火で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎)と恋仲となった。
翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。
愛する男に会いたいために、放火をする16歳の女の子の浅知恵である。
だが、その激しい情念に美登里は気持ちが突き動かされた。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿