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【寛仁親王牌】“一発逆転グランプリ”絶好のチャンス! 全プロ大会上位者が勝ち上がり有利な4日制GI

2024年10月15日 21時25分27秒 | 未来予測研究会の掲示板

アプリ限定 2024/10/09(水) 

寛仁親王牌の舞台・弥彦競輪場(撮影:北山宏一)

 

寛仁親王牌と全プロの深い関係

 10月17〜20日に弥彦競輪場で開催される「寛仁親王牌・世界選手権記念トーナメント(GI)」。8月下旬に出場選手108名が発表された。

 この大会は、1990年に日本で開催された「世界選手権自転車競技大会」において寛仁親王が名誉総裁を務めたことが由来となっている。近年は前橋競輪場弥彦競輪場で開催されることが多く、過去には青森競輪場で開催されたこともある。

 この大会のひとつの特徴として、5月末に高知で行われた「全日本プロ選手権自転車競技大会(以下「全プロ競技大会」)」における成績が考慮される。さっそく選考条件から見ていこう。

【寛仁親王牌 選考条件】※開催時S級在籍
(1) 開催時S級S班在籍者
(2) 寛仁親王牌で3回以上優勝した者(開催時S1在籍)
(3) パリ五輪自転車競技トラック種目代表選手
(4) 選考期間において2か月以上JCFトラック種目強化指定(S)に所属した者(開催時S1在籍)
(5) 選考期間における世界選トラック競技出場者
(6) 選考期間における世界選に準ずる国際大会トラック競技の1〜3位
(7) 選考期間におけるアジア選ケイリン及びスプリント1位
(8) 過去の五輪自転車トラック種目メダリスト(全プロ競技大会出場かつ開催時S1在籍)
(9) 2024年度全プロ競技大会各種目の1〜3位 (ケイリンは決勝出場者)
(10) 2024年度全プロ競技大会出場者で選考期間における平均競走得点上位者 (同点の場合は選考用賞金獲得額上位者)
(11) (1)〜(10)で108名に達しない場合は2023年度地区プロ大会出場者から平均競走得点を勘案し選手選考委員会が推薦した者
※選考期間は平均競走得点が2024年2月〜7月の6か月間、国際大会成績が2023年8月〜2024年7月の12か月間

 自転車競技での成績に関する選考条件が多数含まれているが、今回の大会日程と「世界選手権自転車競技大会」の日程が重なっているため、太田海也らナショナルチーム勢の出場はない。

 よって、今大会の選考のポイントは(9)(10)の全プロ競技大会出場者、成績上位者ということになる。

 オールスター競輪(GI)に出場した選手のうち、寛仁親王牌の出場権を逃した選手(ナショナルチームを除く)は、北津留翼武藤龍生和田真久留など。和田は賞金14位、武藤は17位と上位だが、いずれも全プロ競技大会には出場していなかった。

 

地元のベテラン・諸橋愛は今大会残念ながら不在に(撮影:北山宏一)

 

 また、昨年大会ファイナリストで弥彦競輪がホームバンクの諸橋愛も同様に、出場選手に名前がなかった。

全プロ競技大会の結果は

「全プロ競技大会」は新型コロナウイルスの影響で、2020年から2022年まで中止に。2023年に富山で4年ぶりに行われ、今年は高知500バンクで開催された。では今年の結果はどうだったのか、振り返ってみよう。

全プロトラック各競技上位者

出場種目 選手名(級班) 所属地区
スプリント 1位 河端朋之(S1)
2位 雨谷一樹(S1)
3位 佐々木悠葵(S1)
中国
関東
関東
 
ケイリン 1位 山口拳矢(SS)
2位 松井宏佑(S1)
3位 郡司浩平(S1)
4位 新山響平(SS)
5位 眞杉匠(SS)
6位 山田庸平(S1)
7位 荒井崇博(S1)
中部
南関東
南関東
北日本
関東
九州
九州
1kmタイム
トライアル
1位 菊池岳仁(S1)
2位 新田祐大(S1)
3位 村田祐樹(S2)
関東
北日本
中部
チーム
スプリント
1位 久米康平(S1)、太田竜馬(S1)、島川将貴(S1)
2位 深谷知広(SS)、渡邉雄太(S1)、簗田一輝(S1)
3位 井上昌己(S1)、佐藤幸治(S2)、梅崎隆介(S2)
四国
南関東
九州
エリミネイション 1位 小林泰正(S1)
2位 小林潤二(S2)
3位 舛井幹雄(A1)
関東
関東
中部
4km個人
パーシュート
1位 近谷涼(A1)
2位 渡辺正光(S2)
3位 梁島邦友(A1)
中部
北日本
関東
4kmチーム
パーシュート
1位 角令央奈(A1)、原井博斗(S2)、橋本陸(A2)、上野恭哉(A1)
2位 近谷涼(A1)、重倉高史(A1)、吉川希望(A1)、南儀拓海(A2)
3位 新村穣(S2)、嶋津拓弥(S1)、堀内俊介(S2)、佐々木龍(S2)
九州
中部
南関東

※太字の選手はS級=寛仁親王牌出場予定。佐藤幸治選手はあっせん停止のため不出場

 

2023年全プロ競技大会ケイリン決勝(撮影:北山宏一)

 

 上記からケイリン、スプリント、1kmタイムトライアル1位が初日メイン「日本競輪選手会理事長杯(日競杯/理事長杯)」に、ケイリン決勝2〜7位(失格除く)、スプリント2〜3位、同1kmT.T.2〜3位、チームスプリント1位が特選予選に出場できる。

寛仁親王牌出場選手の競走得点

 寛仁親王牌出場正選手108名の平均競走得点は、109.08(熊本記念終了時点)。

 参考までに、出場人数が同じ108名のGI全日本選抜は正選手の平均競走得点が109.87、GI高松宮記念杯競輪は110.80。全プロ競技大会で好成績を残したS級2班の選手も多く選ばれることから、寛仁親王牌の平均競走得点はやや低くなっている。

 

前回覇者・古性優作が競走得点120.20でトップ(撮影:北山宏一)

 

 出場選手の中で100点を切っているのは渡辺正光小林潤二梅崎隆介の3名だ。いずれも全プロ競技大会で結果を残しての出場で、渡辺は4km個人パーシュート、小林はエリミネイション、梅崎はチームスプリントで上位に入った。

勝ち上がりを解説

 寛仁親王牌は4日制のGIとなる。初日のシードレースは2種類あり、格上の「日本競輪選手会理事長杯(日競杯/理事長杯)」1レースと特選予選が2レース設けられている。

 日競杯上位5名と特選予選上位2名が2日目メイン「ローズカップ」へ進む。ローズカップ出場選手は失格にならない限り準決勝に進出できる。

 一次予選9レースでは二次予選2種類への勝ち上がりを競う。上位2着までが準決勝へ4着権利の「二次予選A」、3〜4着は準決勝へ2着権利の「二次予選B」へ進むことになる。2着権利は非常に厳しいため、シビアなレースとなりそうだ。

 また日競杯6〜9着と特選予選3〜4着と5着のうち選考順位上位1名が二次予選A、特選予選下位は二次予選Bに回る。

 準決勝以降は通常のグレードレース同様に、上位3名が決勝進出となる。4日制のGIということで、シード組はかなり有利に勝ち上がりを進めることができそう。一方で一次予選スタートの選手にとっては初日から緊張感が大きいだろう。

一発逆転グランプリもあり得る! 4日制GI

 今回の寛仁親王牌の優勝賞金は昨年から200万円アップの4000万円。決勝3着までが1000万円を超える賞金が与えられる。また2日目ローズカップの1着賞金は114万3000円で、準決勝1着は80万5000円だ。

 

2023年寛仁親王牌表彰式(撮影:北山宏一)

 

 優勝者には年末のKEIRINグランプリ出場権が与えられる。賞金でのグランプリ争いも白熱しており、ボーダー上の選手は自身の勝ち上がりはもちろんのこと、出場権を争うライバルとの戦い方も意識してくるだろう。

 熊本記念終了時の賞金ランキングでは、ボーダー上の6〜7000万円台に6名がひしめく接戦に。すでにグランプリの出場権を持った選手の優勝となれば、賞金争いの熾烈さに拍車がかかるだろう。

 

赤パン維持へ“崖っぷち”の松浦悠士(左)と山口拳矢(撮影:北山宏一)

 

 賞金ランキング19位の松浦悠士と25位の山口拳矢が“赤パン”を維持するためには寛仁親王牌か競輪祭、いずれかのGIを獲るしかない。2人とも日競杯からのスタートであるため、一発逆転のチャンスは十分ある。

 競輪祭がシードなしのポイント制予選を含む6日制であることを考えると、ここで「獲りたい」と考えている選手が多いはず。激闘の4日間、競輪ファンの皆さんには初日から余すことなく楽しんでほしい。

 

 

 


宮ちゃんの自宅へ行く

2024年10月15日 18時27分00秒 | 日記・断片

友人の中田さんの奥さんが、先日、救急搬送された。

血圧が上が220もあったそうで、即入院となった。

これで2度目の救急搬送であった。

前回は7年前であっただろうか?

我々は午前5時代の散歩で、宮ちゃんは8時代の散歩に変更したの、最近は出会わない。

「どういているかな?」と気になり、新潟の酒を買って尋ねたら、宮ちゃんは、ガスコンロで飯を炊いていた。

庭で転倒、左胸を打って、散歩は4日間、休んだという。

「痛くて、まいったよ」と言って苦笑した。

さっそく、つまみの缶詰めが出される。

貝とウニなど。

日本酒を飲む宮ちゃん、当方はサワーだった。

昔のスナックや居酒屋、カラオケの話となった。

当時は、小森印刷が取手の東5丁目にあった時代である。

渡辺製作所も近くにあった。

だが、小森印刷はつくば市内に移転する。

渡辺製作所は倒産した。

多くの居酒屋やスナックの客たちが取手市内の東と台宿地区から消えたのである。

まさか小文間小学校、さらに井野小学校と第一中学が井野地区から消えたとは・・・時代の趨勢には驚くばかりだ。

あのころは、多くの団塊世代の子どもたちで、どこの公園も遊び、走り回っていて実に活気に満ちて、街全体が賑わっていた。

取手駅周辺にはキャバレー、パブ、バー、スナック、居酒屋がたくさんあった。

そして、宴会で賑わう料亭もあったのだ。

今は、競輪場に近い白山通り商店街もシャッターが下りて閑散としている。

だが、バブルのころには取手駅周辺には、フィリピンパブが3軒あったのだ。

競輪場はじめ、繁華街には、暴力団員も跋扈している時代でもあった。

当時、駅周辺は競輪ファンたちで賑わいを見せていたが、今は競輪ファンたちは、コンビニでビール、酒を買って立ち飲むばかりで、居酒屋へはほとんど入らないだろう。

それだけ世知辛い時代なのだ。

競輪ファンの大半が年金生活者で、当然、若者世代は休日以外、競輪やできないので、仕事に勤しんでいる。

 

 

 


映画 ポリスアカデミー

2024年10月15日 17時57分11秒 | 社会・文化・政治・経済

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ポリスアカデミー

伝統ある警察学校を舞台にした大ヒットコメディのシリーズ第1弾。変わり者や問題児だらけの警官の卵たちが珍騒動を巻き起こす!

解説

警察学校を舞台に、警官の卵たちのハチャメチャな行動を描くコメディ。製作はポール・マスランスキー。監督は人気テレビ・シリーズWKRP in Cincinnatiのクリエーターで、映画「ストローカー・エース」の脚本を書いているヒュー・ウィルソン。この映画がデビュー作になる。ニール・イズラエルとパット・プロフトの原案に基づき、イズラエル、ブロフト、ヒュー・ウィルソンが脚本を執筆。撮影はマイケル・マーギュリース、音楽はロバート・フォークが担当。出演はスティーヴ・グッテンバーグ、キム・キャトラル、G・W・べイリー、ジョージ・ゲインズなど。日本版字幕は戸田奈津子。テクニカラー、ビスタサイズ。1984年作品。

1984年製作/アメリカ
原題または英題:Police Academy
配給:ワーナー映画
劇場公開日:1984年10月6日

CSテレビのムービープで観たが、10 月11日午後11時30分から、第2弾全員出動が10月12 日午前1時15分から、第3弾は2時50分から全員再訓練の3部作まで続いて観た。

ストーリー

アメリカのある大都市で、女性市長が警察官採用の際のすべての制限を撤廃するという画期的な方針をうち出した。

その結果、とんでもないことになった。適性も何も考えぬ志望者が警察学校に殺到することになり、ラサール校長(ジョージ・ゲインズ)は大あわて。

ハリス警部は伝統を守るため、しごいて早いうちにくず志望者を追い出そうとする。しかし、なかなか連中はしぶとかった。なかでもマホニー(スティーヴ・グッテンバーグ)は要注意人物だった。

彼は駐車場の係員をしていたのだが、横着な客ともめ、ブタ箱入りしかけ署長の命令で警察学校に入れられたのだ。彼の父は元警官で、署長は世話になったことがあり、その礼に彼を1人前の男にしたてあげようと考え、学校をやめるとブタ箱入りだと脅す。

他には、大富豪のお嬢さんカレン(キム・キャトラル)、拳銃狂のタックルベリー、口で巧みに効果音を出すことのできるラーヴェル(マイケル・ウィンスロー)、肥満男のレスリー、巨人のモーゼスなど、型破りの人物ばかり。

ハリス警部とキャラハン警部補は、腕によりをかけてしごき、落伍者が続々と出るが、例の不適格者どもはまだねばっている。マホニーは売春婦をやとって、ラサール校長のナニを吸わせるなどのいたずらをやる。ついにマホニー、モーゼスらは退学のうき目にあう。そこへ、町で暴動が発生したという報が入り、警察学校の生徒も出動することになった。

彼らは周辺の地区を警備するはずだったのに、どうしたことか、最も荒れくるってるところに連れていかれた。

彼らはそこで意外なことに勇猛果敢に行動した。なかでも、マホニーとモーゼスの活躍はめざましかった。こうして、はみ出し学生たちは、立派な警官として卒業式に出席するのであった。(ワーナー映画配給骨一時間三八分)

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スタッフ・キャスト

  • Carey_Mahonerスティーブ・グッテンバーグ

  • Karen_Thompsonキム・キャトラル

  • Lt.HarrissG・W・ベイリー

  • Moses_Hightowerババ・スミス

  • Leslei_Barbarドノバン・スコット

  • Larvell_Jonesマイケル・ウィンスロー

  • Commandant_Lassardジョージ・ゲインズ

  • George_Martinアンドリュー・ルービン

  • Tackelberryデビッド・グラフ

  • Sgt.Callahanレスリー・イースターブルック

  • Chad_Copelandスコット・トムソン

  • Laverne_Hooksマリオン・ラムジー

  • Hookerジョージナ・スペルビン

 


「中道」の理念

2024年10月15日 13時39分32秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼目の前に苦しんでいる人がいれば、親身の声をかける。

悩みを聞き、共に泣き、共に祈り、共のに喜び合う。

この「一人を大切にする」 人間主義の行動が、あらゆる人に無条件に開かれている居場所を提供する。

▼「一は万の母」だ。

一人が立ち上がれば世界は変わる。

今こそ、その一人を励ますのだ。

▼幸福の太陽は、わが胸中にある。

▼悩みのない人生などない。

悩みがあるから祈れるのである。

祈りとは自身の可能性を確信するためのものだ。

▼振り返れが、壁にぶつかるたびに、人間的にも成長できたのだと思う。

▼何があっても負けない、貢献的な人生を生きるのである。

人のためが、自分のためになっているのだ。

社会貢献は決して、自己犠牲ではない。

▼21世紀を「素晴らしい世紀」にするのである。

一人の「いのち」が最高に大事される世紀に!

かけがえのない一人一人の夢が、個性が絢爛と花開く新世紀を目指すのである。

▼「励ましの花束」は、決して枯れることはない。

受け取る側の心のあり方に応じて、常に瑞々しく咲いているのである。

▼日本人にとっては、自分の生きるベースとなる宗教や思想を語ることは容易ではないかもしれない。

釈尊に始まり、法華経を通して、天台、伝教、日連へとつながった「人生の師匠」の存在。

師匠の言葉が、一人一人の弟子の心に強く残っている。

その「師弟の物語」が弟子の視点で語られていく時、さらに大きな流れができるのではないか。

師匠の価値は、弟子できまるのだ。

人が変わり、世界を変えていくのだ。

▼普遍的宗教・哲学は、時代や場所に応じて根を下ろし、花や実を結んできた。

普遍的なものは、国や地域の固有の解決の力となると思う。

個人と個人の関係性の中に「公的な空間」を生み出していくことだ。

一人一人が身近な人を思い、真心で包み込み、つながりを築いていく実践は、「公共的な空間」をさらに広げていくであろう。

▼「中道」の理念には、相対する両極端のどちらにも執着せず、偏らない視点がある。

 

 

 

 


旧優生保護法に人生を奪われた飯塚さんと、新里弁護士のストーリー

2024年10月15日 13時33分41秒 | 社会・文化・政治・経済

ある日、16歳の飯塚淳子さん(仮名)は住み込み先の家の人から「出かけるからついておいで」と言われ、家を出た。向かったのは仙台市の中央を流れる広瀬川に架かる、愛宕橋(あたごばし)。たもとのベンチでおにぎりを食べた後、さらに歩いてたどり着いたのは近くの県立診療所だった。なぜかそこには父親が待っていて、飯塚さんは何も知らされないままに注射を打たれ、手術台に上がった。

「どのように手術されたかは覚えてなくて、気が付いたときはベッドの上。喉が乾くので水を飲もうとしたら、だめだよって看護師さんに止められたことだけはよく覚えてます。」

そのときに卵管を紐で縛られ、一生涯、子どもの産めない身体となったことを、飯塚さんはのちに両親の会話から知ることになる。

今から60年ほど前に実際に起きた出来事だ。そして長い年月は流れて、50代になった飯塚さんのもとに一通の手紙が届いた。亡くなる直前の父からだった。

「やむなく印鑑を押させられたのです。優生保護法に従ってやられたのです。」

真剣な字で綴られていた。飯塚さんは、『優生保護法』という国の法律に従って当時、合法的に断種させられたのだった。

▲愛宕橋(あたごばし)近くの堤防沿いに当時、昼休憩したベンチはあった

 

「不良な子孫の出生を防止する」法律

優生保護法は、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護すること」を目的に、1948年(昭和23年)に制定された日本の法律だ。

この法律により、遺伝性の知的障害や精神障害などの病気があるとされた人への「優生手術(生殖腺を除去することなしに、生殖を不能にする手術)」が定められた。たとえ本人の同意がなくても、医師が申請して優生保護審査会の許可を得れば手術は認められた。また遺伝性でない場合でも、保護義務者の同意があれば同じく認められた。

国による明らかな障害者差別であり、許されない深刻な人権侵害ーー今となっては、誰もがそう思うだろう。しかし、およそ信じられない話だが、世界的な優生思想の運動により、当時は多くの専門家や市民がその正しさを信じた。

結果、優生手術は国策として、1996年(平成8年)に優生保護法が母体保護法へと改正されるまで、48年もの長きに渡って継続される。厚生労働省の記録によれば、旧優生保護法により日本で強制的に不妊手術を受けた人は約2万5千人。中には9歳の子どももいたという。

「あの日からやり直せたら…。」

取材班の車が愛宕橋を越えたとき、今は70代の飯塚さんが、後部座席でつぶやく声がした。到着した診療所跡地は駐車場へと変わっていた。

宮城県立の不妊手術専門診療所は1971年(昭和46年)に廃院となり、診療記録がどこに引き継がれたかさえ、もはや定かではない。飯塚さんの公式な手術記録はどこにも残っていない。

▲診療所の跡地を指差す飯塚さん。過去にマスコミ取材を受けたときに教えてもらったという

 

「人生、本当に返してもらいたい」

飯塚淳子さんは東北沿岸部の集落に、7人きょうだいの長女として生まれた。父は身体が弱くて長期の出稼ぎに出られず、家は大層貧しかった。14歳の飯塚さんは公立中学に通いながら子守りや飯炊きをして母を助けていたという。

ところが、近所の民生委員が、飯塚さんにまったく身に覚えのない泥棒の嫌疑をかけて、福祉事務所に報告。一家が生活保護を受けていることも理由に、飯塚さんを「家庭指導困難な知的障害児」と決めつけ、中学3年時に、知的障害者の収容施設「小松島学園」に入れてしまう。小松島学園は、「愛の10万人運動」という寄付活動で仙台市に設立されたばかりで、当時、民生委員が収容者を集めていたことが、のちの報道で明らかにされている。

「あと1年で卒業したら親を楽にさせてあげられる、働いて親を助けようという思いがあったのに…。」

そう話すと、飯塚さんは手元のファイルをめくり、中学2年のときの担任から届いたという手紙を見せてくれた。便箋には、「いわゆる知恵遅れという印象は残っておりません」の文字があった。先生から見て、飯塚さんは一般的な生徒だったのだ。実際、飯塚さんは20年ほど前に医師の診察を受け、知的障害なしの診断をされている。

▲飯塚さんはひとり暮らしのご自宅で当時を語ってくれた

小松島学園に入れられたことにより、知的障害者とされた飯塚さんは、中学卒業後、職親(知的障害者の生活や職業の指導をする人)のもとで住み込みの家事手伝いをすることになる。職親からは日常的に虐待を受けた。バカだとののしられ、「他人の子だから憎たらしい」と馬乗りになって叩かれ、食事も十分にとらせてもらえなかった。つらくて一度逃げ出したが、すぐに連れ戻されて、県の相談所で知能検査を受けさせられた。

のちに飯塚さんが情報公開請求をして入手した当時の検査判定書には、「礼儀、対人態度良好」のことばと並んでこう書かれている。軽度の知的障害を指す「魯鈍(ろどん)」、そして「優生手術の必要を認められる」。検査は杜撰(ずさん)だった。しかし、それがあの日の手術をもたらした。

その後、飯塚さんは自分を愛宕の診療所へと連れていった非情な職親のもとを離れ、親に紹介された職場で働いた。家庭に憧れて結婚するも、子どもができないからと離婚を切り出された。1990年に再婚した飯塚さんは、今度は夫を信頼して手術を打ち明けた。しかし、夫の親族や勤務先の人びとから一斉に非難を浴び、離婚を迫られた。夫は去っていった。「優生手術を受けた人間は不良」という差別意識は、それだけ深く人びとの心に根ざしていたのだ。

離婚に深く傷ついていた飯塚さんは、しばらくして冒頭の父の最後の手紙を受け取ることになる。そして、国に謝罪と補償を求めて声を上げることを決意する。厚労省には「当時は合法だった」とあしらわれたが、それでも決してあきらめなかった。飯塚さんはいう。

「人生、本当に返してもらいたい。(国に)きちんと責任取ってもらわないと終われないです。」

出会い、そして念願の提訴

新里宏二弁護士と飯塚さんの出会いは、今から10年ほど前にさかのぼる。2013年8月、地元仙台で新里弁護士が「なんでも法律相談」を行っていたところに、飯塚さんがやってきたのだ。飯塚さんが国に最初に謝罪と補償を求めてから16年が経過していた。

「(優生手術のことは)知らなかったけども、これはひでえやなって。法律家として、なんとかしなきゃいかんって思ったよね。」

新里弁護士はすぐに国家賠償請求訴訟を起こすことを考えたという。しかし手術や法改正から長い年月が経っている上、飯塚さんの正式な手術記録が失われていたことなどが困難を極めさせた。

そこで2015年6月、飯塚さんは新里弁護士のサポートのもと、「優生手術は、憲法13条で保障された基本的人権を踏みにじるものである」として、日本弁護士連合会(日弁連)に人権救済を申し立てた。訴えはマスコミに取り上げられ、旧優生保護法の存在は一躍話題となった。

翌年には、国連が日本に被害者救済や補償を行うように勧告。2017年2月には、申し立てを受けた日弁連が意見書を厚労省大臣に提出する。

そのニュースを耳にしたのが、同じ宮城県に住む被害者家族だった。新里弁護士に連絡をしてきて、2018年1月に全国初の提訴にこぎつける。すると、その翌月には宮城県知事が定例会見で記者の質問を受け、飯塚さんの優生手術を認める旨を発言する。医学的に証明でき、検査判定書もあること、また飯塚さんが以前に県に異議申し立てをした際に、当時の県担当者が事実を否定しないと発言していたことなどが理由だった。

そうして、ついに2018年5月、証拠を得た飯塚さんは念願の提訴を果たした。

2019年4月、判決を待たず、被害者へ一時金を支給する法律が、一部国会議員の働きかけにより成立。しかし国の責任は曖昧(あいまい)なまま、支給額も320万円と、被害者が受けた実際の損害にはあまりに少ない金額だった。

その後、札幌で、東京で、大阪で、次々と優生手術被害者が立ち上がり、訴訟の原告に加わった。2022年2月現在、その数は全国で24人となった。支援の輪も全国区で大きく広がってきた。

「彼女が声を上げ続けない限り、ここには至らなかったんだから、すごいなって思いますよ。あれだけ無視されながらもずっと言い続けて。」

新里弁護士は感心した様子で話した。しかし、その直後に「でも」と声を落とした。

「やっぱりそれだけ、彼女が思ってた人生が変わっちゃったんだろうな。この問題をずっとやってきたことは彼女の強さ。でも、本当はもっと柔らかい人生を送りたかったんじゃないかなとは思いますよね。」

▲飯塚さんの若い頃の写真アルバム。「やっぱり人生が狂わされたなって…」と新里弁護士

 

立ちはだかった除斥期間の壁

2019年5月28日、全国初の地裁判決は、世の注目を大きく集めた。原告の飯塚さん、新里弁護士率いる弁護団や支援者らは、緊張してその日を迎えた。

ーー仙台地裁判決。幸福追求権を保障する憲法13条により、「自分の身体に関することを自身で選択して意思決定する権利(リプロダクティブ権)」を基本的人権として認める。「旧優生保護法」の規定は憲法違反であり無効。ここまでは画期的判断といえた。

しかし、裁判所は、被害発生から長期間経過すると権利行使ができなくなるとする民法の「除斥期間(※)」の規定を適用して、原告の賠償請求の一切を棄却する。

同法が優生思想を根付かせ、当時、被害者が声を上げることが「現実的には困難」だったことまで認めたにもかかわらず、優生手術の被害を受けてからすでに20年の除斥期間が経過しているため、請求する権利は消滅していると飯塚さんらに告げたのだ。

その後の全国での地裁判決もすべて、除斥期間の適用により原告請求は棄却された。中でも2021年1月、札幌地裁の広瀬孝裁判長は、請求棄却の判決理由を読み上げた後にこう述べたという。

「これまで苦労されてきた人生を肌身に感じ、それゆえ(請求を)認容すべきか、直前まで議論に議論を重ねました。しかし、法律の壁は厚く、(術後)60年はあまりにも長く、このような判断となった。」

(※除斥期間:ある一定の権利について、その権利を行使しない場合の権利存続期間。不法行為に基づく損害賠償請求権の場合、不法行為の時から20年を経過したときに消滅する。2020年4月の民法改正で経過期間の更新や停止も可能となったが、施行前に20年を過ぎた問題には適用されないとされる)

▲飯塚さんは地裁判決後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症。今でもときに不安や緊張に襲われるという

 

意思が集い、全国初の勝訴へ

「違憲な法律で生じた人権侵害に、除斥期間を安易に適用すべきではない。」

これまで弁護団は、原告の正義と公平を真正面から主張してきた。しかし、それだけではどうにも乗り越え難い壁があった。突破口を探る弁護団に、二つの法学者の意見が新たな視点で光を照らしてくれたという。

一つは、本ケースの被害の本質は、人としての尊厳に対する持続的な毀損(きそん)であり、ハンセン病患者と同じく、「人生被害」だというものだ。被害は手術で完結したものではなく今もなお継続している。だから、除斥期間は開始さえしていないのではないか。優生手術だけに目がいっていたことに、新里弁護士ははっとさせられたという。

もう一つは、過去に除斥期間に例外を認める判断をした最高裁判決に依拠して、活路を見出すというものだ。

1998年の「予防接種禍訴訟」では、当時、国が義務付けていた予防接種を生後に受けた後遺症で心神喪失、寝たきりとなった男性が、接種から20年を過ぎて提訴。それまで後見人が不在だったために訴訟能力がなかったとして、国からの補償が認められている。「20年経過前の提訴が事情により困難であれば、後見人が選任されるなど権利行使が可能となった時点から6カ月以内は提訴ができる」という時効停止の法意を使った救済が行われたのだ。ここから今回も道を切り拓くことができるのではないか。

ーーそして、2022年2月22日、大阪高裁判決。裁判所は、ついに国に初の賠償命令を下した。待ち望んだ全国初の勝訴だった。

優生手術の被害は国が立法した違憲な法律による重大な人権侵害であり、除斥期間の適用をそのまま認めることは著しく正義、公共の理念に反する。本来は憲法の理念を推進すべきである国が自ら、差別や偏見を助長し続けてきたゆえに、被害者が訴訟提起の前提となる情報や相談の機会を得ることが著しく困難だったといえる、そう太田晃詳裁判長は告げた。

大阪高裁の判決では、1996年の法改正時を除斥期間の開始とした。近畿地方に住む原告らの提訴はそれでもわずかに除斥期間を経過していた。けれども裁判所は、原告は不妊手術が旧優生保護法に基づくものだと長く知らず、あの仙台地裁の提訴のニュースなどによって初めて認識したことを指摘。そこを著しく困難な状況が解消された時点として、時効の法意に基づいて6カ月以内の提訴を認めたのだ。まさしく、正義のための例外的な救済措置だった。

判決後、吉報を受けた新里弁護士はすぐに飯塚さんに電話をかけた。飯塚さんは泣いていた。

▲飯塚さんの書いた知事への手紙。20年以上、ありとあらゆる方法で被害を訴えてきた

 

いのちを分けない社会へ

飯塚さんは過去、絶望から何度もいのちを絶とうとした。今も時折、死にたい気持ちに飲まれそうになると話してくれた。法廷での本人尋問で、裁判長から優生手術であなたが失ったものの持っていた意味はなんですかと問いかけられて、こう答えたという。

「友だちの家にお茶を飲みに行くと子どもや孫たちがしょっちゅう来ているので、それを見てうらやましいなって、私もこんなにぎやかな家庭があったらいいなって、いつも思っています。だから、それが奪われたということなんだろうなって、思っています。」

国の法律により生殖能力を奪われた飯塚さんら原告24人の後ろには、さまざまな理由で沈黙する被害者、2万5千人が存在している。その一人ひとりが望んだかもしれないしあわせを、国は一方的に奪った。そして、彼ら彼女らへの差別にお墨付きまで与えてしまった。

飯塚さんの仙台高裁でのたたかいは、今も続いている。大阪に続く良い判決が出るかはまだわからない。もし出たとしても、飯塚さんの60年余りの時間は決して戻ってこない。受けた痛みもなくならない。けれどせめて、自分の人生を奪ったことを謝罪してほしいとずっと訴えている彼女の切なる声が、ようやく実現した裁判で通るようにと願わずにいられない。

国には、優生手術の被害者への人権侵害は決して許されないものであり、二度と繰り返さないと宣言して、これ以上争わず、真摯(しんし)に謝罪をしてほしい。救済制度も、被害者へ十分な補償を提供するものへと変えていくべきだろう。私たちが本当の意味で優生思想と訣別をして、差別のない社会へと歩みを進めていくためにも。

▲愛宕橋を越え、仙台市を見下ろす丘の上で

取材・文・構成/丸山央里絵(Orie Maruyama)
撮影/布田直志(Naoshi Fuda)
編集/杜多真衣(Mai Toda)

 


旧優性保護法で強制不妊手術

2024年10月15日 11時47分33秒 | 社会・文化・政治・経済
旧優生保護法では、遺伝性疾患や知的障害、精神障害があるとされる人々に対して、本人の同意を得ずに都道府県優生保護委員会の審査を経て強制不妊手術を実施することが認められていました
 
 
旧優生保護法は、戦後の出産ブームによる人口増加や食糧難・住宅難、国民資質の向上を志向する流れを背景に1948年に施行されました。1950年代から1990年代にかけて、同意なく不妊手術を強制された人は約1万65000人に上るとされています。
 
その後、被害者は2万5000人以上ともいわれている。
 
多くが高齢者で、亡くなった人もいて残されら時間は少ない。
「除斥期間」を盾に訴えに耳を傾けようとしなかったにの官僚機構に対して反省を突き付けるものになっている。
 
それは、原爆被害者、イタイイタイ病や水俣病に苦しんだ被害者にも共通するの官僚機構の体質。
すべての被害者の立場を線引きして「矮小化」したいのが、官僚機構なのだ。
つまり、国は被害者救済のための損害賠償金を出したくないのが本音。
 
旧優生保護法は、障害者の尊厳や存在を否定し、差別を助長する流れをつくった法律として、多くの問題点が指摘されています。障害者らが国に損害賠償を求めた裁判では、最高裁大法廷が2024年7月3日に同法を違憲とする判断を下しました。
 
また、不妊手術を受けた被害者には、補償金支給法に基づいて補償金が支給されます。被害者には1500万円、配偶者には500万円が支給され、いずれも本人が亡くなっている場合は遺族が申請できます。
 

“旧優生保護法下で不妊手術強制” 最高裁大法廷で29日弁論 - NHKニュース
2024/05/29 — 「旧優生保護法」は戦後の出産ブームによる急激な人口増加などを背景に1948年に施行された法律です。 ...
 
 
旧優生保護法は違憲、国に賠償命令 最高裁大法廷 - BBCニュース
2024/07/03 — 日本の旧優生保護法のもとで、障害などを理由に不妊手術を強制された人たちが国に損害賠償を求めた裁判で、...
 
 
旧優生保護法下における - 強制不妊手術問題に対する見解
旧優生保護法は、 強制不妊手術の根拠法であると. ともに、障害者の尊厳・存在の否定、 差別を助長す. る流れをつくりだした。
 
 
 
 
 
 

戦いは勇気と勢いで決まる

2024年10月15日 11時22分03秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼真剣に挑むからこそ壁が現れる。

壁を破り続ければ、その先に勝利がある。

敢闘精神を燃やして 壁を破るのである

「敢闘精神」とは、何ものをも恐れぬ獅子王の心である。

▼戦いは勇気と勢いで決まる。

阪神はDeNAに2連敗する。

打撃力で阪神は圧倒されたのだ。

▼人間は、誰しも未知の領域に足を踏み入れることに躊躇するものだ。

「もう限界だ」「これでいい」と感じる地点がある。

だが、逡巡しては何も生まれない。

恐れるな! 臆病の壁を破れ!

限界かと思う壁に突き当たった時が、本当の勝負だ。

「敢闘」とは「敢えて闘う」と書く。

「敢えて」挑戦するのだ。

「敢えて」一歩踏み出すのだ。

そこに、大平野の如く自分の境涯が広がっていくことを忘れまい。

 


強い自分をつくった人が真実の勝利者である

2024年10月15日 10時58分43秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼断じてあきらめない。断じて負けない。

自己との闘争に勝ちゆくことだ。その人が栄光の人である。

▼不断の政治改革

現在、物価高や少子高齢化、自然災害の激甚・頻発化など、数多くの課題を抱えれいる。

衆議院議員選挙は、こうした国内外の諸問題が山積するなかで、国のかじ取りを誰に託すのかを決める、重要な「政権選択」の選挙である。

▼物事に取り組む前から「私にはできない」「どうせ無理」と、挑戦を拒む人もいる。

中にはもっともな理由もある。

だが、否定的な固定観念や思い込みから不要な<限界の壁>を自分でつくっている場合もある。

限界突破への第一歩は<自分の心の壁>を破ることだ。

勝負の結果を左右する最大の要素は<環境や他人>以上に<わが心>である。

強い自分をつくった人が真実の勝利者である。

自身に生き抜き、かけがいのない人生を自分らしく勝ち開きたい。

 


行き詰まりとの悪戦苦闘が青春であり、人生である

2024年10月15日 10時04分13秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼「正義」必ずしも勝つとは限らない。

肝要なのは「正義」なるがゆえに 断じて勝たねばならない。

それこそが我々の強靭なる不退の一念なのだ。

価値を創造するために、勇気と正義を魂に刻み前進するのだ。

真剣な祈りこそが行動の原動力となる。

祈りとは、自身の可能性を引き出すための一念にほかならない。

▼本当に大事なのは、財産でも、地位でも、名声でもない。

人格である。人間性である。それを磨くのが生きる理念・哲学である。

▼「何のための金儲けなのか?」「何のために学ぶのか?」

心に迷いが生じたり、壁にぶっかったりした時は、人生の師との誓いを思い起こし、自分の道を突き進んで行くことだ。

師は、青春時代から詩人ホイットマンを「心の親友」と呼んでいた。

「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘を突き抜けて! 決められた決勝点は取り消すことはできないのだ」

詩集「草の根」の一節。

行き詰まりとの悪戦苦闘が青春であり、人生である。

だからこそ「これだけは、絶対に譲れない!「これだけは、絶対に負けない!」「これだけは、一歩も退けない」という、青春の哲学と誓いを貫くことだ。

勉学や読書、クラブ活動など、自らの舞台で負け魂の挑戦を重ね、生涯の原点を築くのである。

それぞれが決勝点へ向かい、青春の行進を続ける学生の奮闘は、友の希望の光となって輝きわたる。

 

ウォルト・ホイットマン1918年、ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。詩人・随筆家
父親は大工で、十代の頃から新聞社で働き、ジャーナリストとして活動。19歳で自分の新聞を創刊したりしています。
 
その後、教職や出版社を転々とし、1855年、36歳の時に、詩集『草の葉』を自費出版。この詩集を生涯にわたって書き直し、注ぎ足し、校訂し続けます。
 
歴史的には、南北戦争(1861~1865年)が終結し、アメリカは「金メッキ時代」という、繁栄と物質主義に満ちた時代。
それを批判しつつ、距離を置いて、詩作を行います。
 
『死の床版』と呼ばれる、死の直前まで執念で校正した『草の葉』を残しつつ、1892年、72歳で死去しています。
 

 
おれは肉体の詩人であり、おれは精神の詩人だ、
天国の喜びはおれとともにあり、地獄の痛みはおれとともにある、
おれは天国をおれに接木して繁茂させる、おれは地獄を新しい言葉に翻訳する
 

 

 

 

 


創作 美登里の青春 続編 3

2024年10月15日 04時50分24秒 | 創作欄

人の才能は、千差万別である。
運動能力であったり、学問の分野であったり、芸術の分野であったり。
美登里は、自分にはどのような能力があるのだろうかと想ってみた。
父親は地元の農業高校を出て農協の職員となった。
母親は? 美登里は母についてどういう経歴なのかほとんど知らない。
イメージとしては、厚化粧で派手な服装で、地元でも浮き上がっているような異質な雰囲気をもった女性であった。
だが、声は優しい響きで甘い感じがした。
体はやせ形の父とは対照的に豊満である。
歌が上手であり、よく歌ってくれた子守唄は今でも美登里の記憶に残っていた。
美登里は美術に興味があったが、絵が描けるわけではなかった。
美登里が勤める美術専門の古本店には、美術愛好家や美術専門家などが来店していたが、特別な出会いがあったわけではない。
美登里は午後1時に東京都美術館の前で待ち合わせをしたので、15分前に着いた。
すでに多くの人たちが来ていた。
二科会はその趣旨によると「新しい価値の創造」に向かって不断の発展を期す会である。
つまり、常に新傾向の作家を吸収し、多くの誇るべき芸術家を輩出してきたのだ。
絵画部、彫刻部、デザイン部、写真部からなる。
概要によると、「春には造形上の実験的創造にいどんで春期展を行い、秋には熟成度の高い制作発表の場とする二科展を開催しようとするものであります」とある。
美登里が、徹と行ったのは秋期展だった。
徹は美登里より、5分後にやってきた。
スニーカーを履き、上下ジーンズ姿である。
「晴れてよかったね」と徹は笑顔で言う。
美登里は徹の歯並びがいいことに気づく。
夜半から降っていた秋雨は午前10時ごろ上がり、青空が広がってきてきた。
上野公園の銀杏は、鮮やかな黄色に染まっていた。
2
人は初めに徹の友人の作品が展示されている彫刻展を見た。
裸体像のなかに、バレリーナ―の彫刻がった。
「これだ」と徹は立ち止まった。
その彫刻は等身大と思われた。
つま先立ちであるから、細く長い足が強調されていた。
乳房はお椀のように丸く突き出ている。
手は大きく広げられていて躍動感を感じさせた。
「いいんじない」と徹は美登里を振り返った。
美登里は頬えみ肯いた。

 

創作 美登里の青春 続編 4

徹は二科展をじっくり見たわけではない。
60
点ほどの彫刻展を見てから絵画展を見た。
それからデザイン展と写真展は流すような足取りで見て回った。
東京都美術館を出ると秋の日差しはまだ高かった。
「不忍池でボートに乗ろうか?」と徹が言う。
「ボートですか?」美登里はボートに乗った経験がなかった。
東叡山寛永寺弁天堂方面へ向かう。
細い参道の両側には、露天商の店が並んでいた。
「何か食べる?」と問いかけながら徹は店を覗く。
西洋人の観光客と思われる若い男女が笑いあいながら綿菓子を食べていた。
小学生の頃、美登里は夏祭りで父と綿菓子を食べたことを思い出した。
徹は美登利を振り返り、「綿菓子も懐かしい味がしそうだね」と微笑む。
夏には大きな緑の葉の間に鮮やかなピンクの花さかせる池の蓮は枯れかけていた。
ボート場には、ローボート、サイクルボート、スワンボートがあった。
「どれに乗る?」と徹は振り返った。
一番、ボートらしいローボートを美登里は選んだ。
美登里はこの日、緑色のジーパンを履いていた。
ボートが転覆することないと思ったが、まさかの時を思ってスカートでなくてよかったとボートが池を滑り出すと思った。
徹がロールを器用に漕ぐので、大きな水しぶきは飛び散らない。
ピンク色のスワンボートとすれ違った。
高校生らしい男女が横に並んで足で笑い合いながらボートを漕いでいた。
美登里は県立の女子高校だったので、男性と交際する機会がなかった。
「楽しそうだね」徹は微笑んだ。
美登里は振り返りながら肯いた。
「タバコ吸っていいかな?」
美登里は黙って肯いた。
「実は大学の卒論は、森鴎外だった。小説『雁』読んだことある?」
「ありません」
美登里は青森県人なので太宰治が好きであった。

それから同じ東北人として宮沢賢治の本も読んでいた。

高校生の時、短歌もやっていたので石川啄木にも惹かれていた。

そして、東北人として最も身近に感じたのが寺山修司だった。

美登里にとって羨ましいほどの多彩な人であった。

「僕の職業は寺山修司です」

「そんなことが言えるんだ」 美登里はかっこいい男だと惚れ込んだ。

徹は暫く、思いを巡らせているように沈黙しながらタバコを吸っていた。
「小説の雁のなかに、この不忍池が出てくる。話は遠い明治の昔のことだけどね」
徹はタバコの煙を池の岸の方へ吹き出した。
タバコの煙が輪になって池に漂った。
ボートを降りると徹は、無縁坂へ美登里を案内した。
「ここが三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の岩崎邸だった。この坂の左側に、昔は小説の中に出てくるような格子戸の古風な民家が並んでいたんだ」

徹が学生時代にはそれらの家々がまだ残されていた。
高い煉瓦造りの塀を背にして、徹は手振り身振りで説明した。
 -------------------------------------------------

<小説の雁の概要>
1880
年(明治13年)高利貸しの妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱くも、結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。
女性のはかない心理描写を描いた作品である。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。

 --------------------------------------------

<参考>

寺山 修司 (てらやま しゅうじ、19351210日~198354日)は、日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。

「言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。

 

創作 美登里の青春 続編 5

人生の途上、何が起こるか分からない。
叔母が東京大学病院に入院した。
本人には「胃潰瘍だ」と告げていたが、スキル性胃がんであった。
胃がんの中で、特別な進み方をする悪性度の高いがんであり、余命は半年~1年と診断されていた。
叔父は美登里に涙を浮かべてそれを告げた。
医師の診断書を手にした叔父の手が小刻みに震えていた。
美登里はその診断書を叔父から手渡されたので読んだ。
美登里も思わず涙を浮かべた。
冬の陽射しは、長い影を落としていた。
徹と訪れたことがある三四郎池の木立が叔母が入院している病棟から見えた。
小太りの叔母は45歳であったが、年より若く見えた。
叔母は24歳の時に子宮筋腫となり、子どもを産めない身となっていた。
叔母は負い目から夫に、「愛人を作ってもいい」と言っていた。
叔母は薄々感じていたが、叔父には愛人が実際に居たのである。
だが、その愛人に若い男との関係ができて、現在は叔父は寂しい身となっていた。
「美登里ちゃん、あの人は何もできない人なのよ。お願い、私が退院するまで、叔父さんの面倒をみてほしいのだけれど、どうかしら」
叔母は美登里の手を握り締めた。
手には福与かな温もりがあった。
美登里は叔母に懇願されて、東京・文京区駒込の叔父の家へ行った。
八百屋お七の墓がある円乗寺の裏に叔父の家があった。
その夜、美登里は風呂に入った。
脱衣場は風呂場にはないので、廊下で着替えてた。

美登里は襖の間に人の気配を感じた。
叔父が美登里の襖の僅かな間から、美登里の裸体を覗き見ていたのだ。
美登里は多少は不愉快であったが、馬鹿な叔父の行為に一歩引いて冷笑を浮かべた。
大好きな父親によく似ていた叔父に、好感を抱いていたので気持ちは許せたのだ。
そして、美登里はその夜、夕食の時に叔父から聞かされた八百屋お七のことを思った。
お七は天和2年(1683年)の天和の大火で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎)と恋仲となった。
翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。
愛する男に会いたいために、放火をする16歳の女の子の浅知恵である。
だが、その激しい情念に美登里は気持ちが突き動かされた。

 

 


創作 美登里の青春 続編 1

2024年10月15日 04時27分39秒 | 創作欄

「人はなぜ、狂うのか?」
美登里は考えを巡らせたが、答えが見つかる分けではなかった。
「心も風邪をひく」そのように想ってみた。
中学生のころ、夜中にうなされて目を覚ましたら、父が枕もとに座っていたのだ。
頭に手をやると冷蔵庫で冷やした手拭いが額に乗っている。
39度もあった熱が、37度に下がったよ」と父親が微笑んだ。
「何も覚えていない」
心がとても優しい父親は寝ずにずっと枕もとに座って、1人娘である美登里を看病していたのだ。
嬉しさが広がり、美登里は深い眠りについた。
母親は美登里が小学生の頃、美登里の担任の教師と深い関係となり、噂が広がったことから狭い土地に居られず家を出た。
妻子が居た教師は学校を辞め、千葉の勝浦の実家へ帰った。
母親は2年後、家に戻ってきたが再び姿を消すように居なくなる。
美登里は子ども心に、母親が何か精神を病んでいるようにも見えた。
母親は化粧も濃く相変わらず派手な姿であったが、深く憎んでいたその姿が美登里にはとても哀れに想われたのだ。
美登里は性格が父親似で穏やかであり、ほとんど人と喧嘩をした記憶がない。
高校卒業後の進路をどうするか?

地元で働くか都会へ出るか迷っていたが、会社勤めに何か抵抗があった。
組織に馴染めないと思われたのであるが、結局、美登里は高校を卒業すると、東京へ出ることにした。
父親の弟が、東京の神保町で美術専門の古本屋を営んでいたので、美術に興味があった美登里は叔父の勧めるままに、その店で働くことにした。
19
歳の時、美登里は区役所で働いていた徹と出会ったのである。
九段会館の屋上のビアホールで夏だけアルバイトをしていた。
徹は客として区役所の同僚ち3人とビールを飲みに来ていた。
ある夜、美登里は帰りの電車の中で偶然、徹と隣合わせに座っていたのだ。
美登里の視線を感じた徹が、本から目を美登里に転じた。
「ああ、偶然だね。君は九段会館で働いていたよね?」
「ハイ」
美登里は相手の爽やかな笑顔に戸惑い、恥じらいで頬を赤らめた。
それまで男性と交際した経験がなかったのだ。
「ここで、偶然会ったのも何かの縁。今度の日曜日、上野の二科展へ行かない? 僕の友だちが作品を出展しているのだ」
「二科展ですか?」
想わぬ誘いであった。
「行こうよ。今度の日曜日午後1時、東京都美術館の入り口で待ち合わせよう。待っているからね」
下北沢駅で電車が停車したので徹は立ちあがった。
人波に押し流されるように徹は降りて行く。

 

創作 美登里の青春 続編 2

宗教とは、何であるのか?
美登里は、ある日突然、同じアパートに住むその人の訪問を受けた。
何時もその人は爽やかな親しみを込めた笑顔で、元気な張りのある明るい声で挨拶をしていた。
美登里はどのような人なのか、と気にもしていた。
「私は、佐々木敏子です。よろしお願いします」と丁寧に頭を下げるので、美登里も挨拶を返した。
その人とは、毎日のように顔を合わせていたが、訪問を受けるとは思っていなかったので、戸惑いを隠せなかった。
「お部屋にあがらせていただいて、いいかしら?」
その申し出に、嫌とも言えない雰囲気であった。
部屋は幸い片付いていた。
「部屋を綺麗にしているのね」相手は部屋を見回して、笑顔を見せた。
美登里はお茶でも出そうかと台所へ向かおうとしたが、その気配を感じて相手は、「突然で、迷惑でしょ。構わないでください」と制するように言う。
美登里は1枚しかない座布団を出した。

相手はその座布団に座りながら、「お仕事は、どうですか?」と聞く。
「まあまあです」としか答えようがなかった。
「あなたは、幸せですか?」真顔で聞かれたので戸惑いを覚えた。
沈黙するしかない。
美登里は、自分が幸せかどうかを真剣に考えてたことがなかった。
「幸せとは、何だろう?」沈黙しながら、美登里は頭を巡らせた。
気押されるような沈黙の時間が流れた。
相手は美登里をじっと見つめていたのだ。
「私たちと一緒に、美登里さん幸せになりませんか?」
佐々木敏子は結論を言えば、宗教の勧誘のために訪問してきたのだ。
「明日の日曜日、どうでしょうか? 時間があればお誘いします。私たちの集まりに出ませんか?」
美登里は、徹から「二科展へ行かないか」と誘われていた。
「明日は、用事があります」と断った。
「残念ね。それではまた、お誘いするわ。是非、集まりに来てくださいね」
その時の敏子はあっさりした性格のように想われた。
そして、小冊子を2冊置いて行く。

小冊子を開くと聖書の言葉が随所に記されていた。

 

創作 美登里の青春 続編 3

人の才能は、千差万別である。
運動能力であったり、学問の分野であったり、芸術の分野であったり。
美登里は、自分にはどのような能力があるのだろうかと想ってみた。
父親は地元の農業高校を出て農協の職員となった。
母親は? 美登里は母についてどういう経歴なのかほとんど知らない。
イメージとしては、厚化粧で派手な服装で、地元でも浮き上がっているような異質な雰囲気をもった女性であった。
だが、声は優しい響きで甘い感じがした。
体はやせ形の父とは対照的に豊満である。
歌が上手であり、よく歌ってくれた子守唄は今でも美登里の記憶に残っていた。
美登里は美術に興味があったが、絵が描けるわけではなかった。
美登里が勤める美術専門の古本店には、美術愛好家や美術専門家などが来店していたが、特別な出会いがあったわけではない。
美登里は午後1時に東京都美術館の前で待ち合わせをしたので、15分前に着いた。
すでに多くの人たちが来ていた。
二科会はその趣旨によると「新しい価値の創造」に向かって不断の発展を期す会である。
つまり、常に新傾向の作家を吸収し、多くの誇るべき芸術家を輩出してきたのだ。
絵画部、彫刻部、デザイン部、写真部からなる。
概要によると、「春には造形上の実験的創造にいどんで春期展を行い、秋には熟成度の高い制作発表の場とする二科展を開催しようとするものであります」とある。
美登里が、徹と行ったのは秋期展だった。
徹は美登里より、5分後にやってきた。
スニーカーを履き、上下ジーンズ姿である。
「晴れてよかったね」と徹は笑顔で言う。
美登里は徹の歯並びがいいことに気づく。
夜半から降っていた秋雨は午前10時ごろ上がり、青空が広がってきてきた。
上野公園の銀杏は、鮮やかな黄色に染まっていた。
2
人は初めに徹の友人の作品が展示されている彫刻展を見た。
裸体像のなかに、バレリーナ―の彫刻がった。
「これだ」と徹は立ち止まった。
その彫刻は等身大と思われた。
つま先立ちであるから、細く長い足が強調されていた。
乳房はお椀のように丸く突き出ている。
手は大きく広げられていて躍動感を感じさせた。
「いいんじない」と徹は美登里を振り返った。
美登里は頬えみ肯いた。

 


創作欄 美登里の青春 7

2024年10月15日 04時08分29秒 | 創作欄

松戸の裁判所での初公判の光景は、美登里にとって衝撃的であった。
傍聴人は男性が2人、女性は美登里を含めて3人、地元の千葉の新聞社など報道関係者が2人であった。
表面の扉が開き裁判長らが入廷して、全員が起立した。
そして、右側の扉が開き、手錠、腰縄の姿で刑務官に先導されて峰子がうな垂れて入廷してきた。
席に着く前に、峰子の手錠、腰縄が外された。
峰子はうつむいたままで、一度も傍聴席に目を向けることはなかった。
美登里は濃紺の地味なスーツ姿であり、化粧もしていなかった。
初めに検事が詳細に罪状を述べた。
それから国選弁護人が医師の診断書に基づき峰子の弁護をした。
峰子は犯行半年前から地元松戸市内病院の精神科に通院していた。
さらに、東京・四谷に住んでいた時には、信濃町の大学病院の精神科にも通院していた。
弁護士は、犯行時に峰子が心神喪失状態であったと主張した。
裁判官3人が顔を見合せながら言葉を交わしていた。
そして、裁判官が、「次回公判は324日、火曜日、午前11時、それでいいですか」と弁護人に尋ねた。
弁護人は、手帳を確認してから、「結構です」と答えた。
裁判所を出て、美登里は前回と同様に本とチョコ―レートとバナナを差し入れるために、拘置所の所定の店へ行った。
その店で美登里は、暴力団員の三郎に再会した。
「親分の裁判が、午後1時にあるんだ」と三郎が言う。
美登里は罪状が何だろうと思った。
拘置所へ行くと三郎が「ねいさん」と呼ぶも米谷明美が居た。
「2週続けて、拘置所に来るなんて、あんた、偉いね」と明美は微笑んだ。
明美はこの日は和服姿ではなく、豊かな胸が大きく開いた花柄模様のワンピース姿であり、妖艶な感じがした。
明美は39歳であり、19歳の息子が居る母親の姿とは思われない。
明美は和服姿の時は髪をアップにしていたが、この日は長く髪は下ろしていたので、若く見える。
美登里は、後楽園スタジアムでのボクシングの試合の観戦に誘われ、チケットまでもらったのに、その試合に行かなかったことを明美に謝罪した。
「いいよ。気にしなくとも。息子は判定で試合に負けた。あの子は性格が優しいから、ボクシングに向いてないかもしれない。攻めきれなかった」
美登里は、どのように言うべき分からずうなずいた。
美登里はその日、休むわけにいかず、午後から病院の勤務に向かい、その日は午後8時まで残業をした。

 

創作欄 美登里の青春 続編 1

「人はなぜ、狂うのか?」
美登里は考えを巡らせたが、答えが見つかる分けではなかった。
「心も風邪をひく」そのように想ってみた。
中学生のころ、夜中にうなされて目を覚ましたら、父が枕もとに座っていたのだ。
頭に手をやると冷蔵庫で冷やした手拭いが額に乗っている。
39度もあった熱が、37度に下がったよ」と父親が微笑んだ。
「何も覚えていない」
心がとても優しい父親は寝ずにずっと枕もとに座って、1人娘である美登里を看病していたのだ。
嬉しさが広がり、美登里は深い眠りについた。
母親は美登里が小学生の頃、美登里の担任の教師と深い関係となり、噂が広がったことから狭い土地に居られず家を出た。
妻子が居た教師は学校を辞め、千葉の勝浦の実家へ帰った。
母親は2年後、家に戻ってきたが再び姿を消すように居なくなる。
美登里は子ども心に、母親が何か精神を病んでいるようにも見えた。
母親は化粧も濃く相変わらず派手な姿であったが、深く憎んでいたその姿が美登里にはとても哀れに想われたのだ。
美登里は性格が父親似で穏やかであり、ほとんど人と喧嘩をした記憶がない。
高校卒業後の進路をどうするか?

地元で働くか都会へ出るか迷っていたが、会社勤めに何か抵抗があった。
組織に馴染めないと思われたのであるが、結局、美登里は高校を卒業すると、東京へ出ることにした。
父親の弟が、東京の神保町で美術専門の古本屋を営んでいたので、美術に興味があった美登里は叔父の勧めるままに、その店で働くことにした。
19
歳の時、美登里は区役所で働いていた徹と出会ったのである。
九段会館の屋上のビアホールで夏だけアルバイトをしていた。
徹は客として区役所の同僚ち3人とビールを飲みに来ていた。
ある夜、美登里は帰りの電車の中で偶然、徹と隣合わせに座っていたのだ。
美登里の視線を感じた徹が、本から目を美登里に転じた。
「ああ、偶然だね。君は九段会館で働いていたよね?」
「ハイ」
美登里は相手の爽やかな笑顔に戸惑い、恥じらいで頬を赤らめた。
それまで男性と交際した経験がなかったのだ。
「ここで、偶然会ったのも何かの縁。今度の日曜日、上野の二科展へ行かない? 僕の友だちが作品を出展しているのだ」
「二科展ですか?」
想わぬ誘いであった。
「行こうよ。今度の日曜日午後1時、東京都美術館の入り口で待ち合わせよう。待っているからね」
下北沢駅で電車が停車したので徹は立ちあがった。
人波に押し流されるように徹は降りて行く。