予定よりも大分遅れてしまったが、私の一番新しい著作が出版された。CDを作ったりする時もそうだが、その商品が発売される時というのは、それを制作していた時と数カ月のタイムラグがあるので、今回もやっと出たかという印象が強い。本の場合は、CDよりももっと時差が大きく、この著作も実際に書き上がっていたのは、昨年の12月なので、ほぼ半年以上のタイムラグだ。
まあ、でも、無事出版にこぎつけられてホッとしているのは確かだ。出版界は、ここ数年の構造的な不況のせいで本が売れない状況がずっと続いている。時には、「バカの壁」とか「セカチュウ(世界の中心で愛を叫ぶ)」のようなオバケ的に売れるようなものも出るが、ああしたものは突然変異のようなもの。けっして、世の中の人が好んで本を読んだり買ったりするようになったわけではない。音楽業界も似たようなものだし、芝居や映画が急に売れだしたという話しも聞かない。景気は上向いていると誰かが言っていたが、それはごく一部の中国関連の製造業だけのことだろう。エンタテインメントやアート関連というのは、いつの時代も一番最後に富が分配されるところなので、もし仮に景気が本当によくなったとしても、その影響が出るのは数年先の話しだろうと思う。
世の中には、何らかの形で自分の意志を表現したいと思っている人は、それこそゴマンといる。だからこそ、自分のホームページ、自費出版、掲示板、チャットなどで自分の意志を現そうとしている人が多いのだろうと思う。どんな人間も意志や考えを持っている。ただ、その表現の仕方はさまざまだ。ことばで表現する場合もあるし、行動だけで示す場合もあるし、あるいは、音楽や演技や映像、絵などで表現する人もいる。要は、どんなツールを使うかだが、一番やっかいなのがことばを使った表現だ。なぜなら、ことばはほとんどの人が使えるし、使えると思い込んでいるからだ。
音楽の世界でも、作詞と作曲という作業があるが、作曲は専門的な技術がいるから誰でもができるとは普通思わない。しかし、作詞はことばを使うので、ひょっとしたら自分にもできるかもしれないと思う人が多い。まあ、実際にできるかできないかは別にして、実際には、プロの作詞家になるよりもプロの作曲家になる方がはるかに簡単だ。単純に考えればわかるだろう。作曲という技術を持った人の数はそれほど多くはない。その中からプロが生まれる。対して、作詞家になる可能性がある人は日本語を読み書きできる人すべてだとしたら、そのすべての人数からプロが生まれてくることになる。どちらの倍率の方が高いのか?簡単な話しだ。しかも、作詞家が必要な分野は、「うた」に限定される。作曲家は、「うた」だけではなくすべての音楽で必要な人材。確率的に言ったら、これはもうお話にならないぐらい作詞家への道の方が厳しいということがわかるだろう。問題は、誰でもことばが使えるという思い込みだ。
佐世保の少女が殺害された事件でまず思ったのは、こうしたことばへの過信と誤解だ。インターネットが普及してから、この仮想空間の中で擬似的な表現行為があたかも本来の表現行為のように錯覚されて使われている。その恐ろしさが現実のものとなって常に私たちを恐怖に陥れている。チャットや掲示板、そしてHPでの発言の問題点は、ただ一つ。自由と責任のバランスがあまりにもとれていないこと。
誰にでも発言する権利と自由がある。それをチャットや掲示板、HPでやって何が悪い?という意見を言う人がいるが、それはかなり疑問だ。本を出版することと、単にHP上でこうして発言することには大きな隔たりがある。それは、その発言に対してどれだけの責任を取るかということだ。私がこれまでに出版してきた6册の著書の中にあることばのすべてに対して私は責任を負っている。当たり前の話しだ。実際、私の書いた文章に対して、意見やクレームのお便りをくれる人はいる。で、私はそのすべてに対して私の反論や意見、感謝のことばを添えて返事を出している。それが私の責任だからだ。もちろん、私だけでなく、世の中のすべての本の著者がそれをしていると信じているし、それをする義務があると思う。
ところが、自分の名前を出しているHPならまだしも、ハンドルネームなどの匿名で送るチャットや掲示板の書き込みにはまったくその人の責任は存在していない。ひょっとしたら、もともと匿名を許している、形式上、「責任」を持つ必要のないネット上の書き込みというものは、本来「意見」や「発言」として扱うべきものではないのではないのかもしれない。インターネットの中の擬似的表現行為の恐ろしさは、「ことば」が「責任」という重しを持たないまま「自分勝手」に飛び回っているところにあるが、ただ、それをインターネットというインフラのせいにして責めても何の解決にもならない。車が凶器だからといって、車を責めてもしょうがないのと同じことだ。私たち人間が車といい関係につきあっていくには、それ相応の「ルール」や「哲学」を持たなければならない。ましてや、相手は、当たればケガをする車とは違う「仮想空間」だ。人間自身が「空間」を支配しているつもりが実際は支配されていたというようなSFチックなオチにも成りかねない。
ツールを使うのはあくまで人間なんだという意識を、どこまで人間は持っていられるのだろうか?それが一番問題のような気もする。
まあ、でも、無事出版にこぎつけられてホッとしているのは確かだ。出版界は、ここ数年の構造的な不況のせいで本が売れない状況がずっと続いている。時には、「バカの壁」とか「セカチュウ(世界の中心で愛を叫ぶ)」のようなオバケ的に売れるようなものも出るが、ああしたものは突然変異のようなもの。けっして、世の中の人が好んで本を読んだり買ったりするようになったわけではない。音楽業界も似たようなものだし、芝居や映画が急に売れだしたという話しも聞かない。景気は上向いていると誰かが言っていたが、それはごく一部の中国関連の製造業だけのことだろう。エンタテインメントやアート関連というのは、いつの時代も一番最後に富が分配されるところなので、もし仮に景気が本当によくなったとしても、その影響が出るのは数年先の話しだろうと思う。
世の中には、何らかの形で自分の意志を表現したいと思っている人は、それこそゴマンといる。だからこそ、自分のホームページ、自費出版、掲示板、チャットなどで自分の意志を現そうとしている人が多いのだろうと思う。どんな人間も意志や考えを持っている。ただ、その表現の仕方はさまざまだ。ことばで表現する場合もあるし、行動だけで示す場合もあるし、あるいは、音楽や演技や映像、絵などで表現する人もいる。要は、どんなツールを使うかだが、一番やっかいなのがことばを使った表現だ。なぜなら、ことばはほとんどの人が使えるし、使えると思い込んでいるからだ。
音楽の世界でも、作詞と作曲という作業があるが、作曲は専門的な技術がいるから誰でもができるとは普通思わない。しかし、作詞はことばを使うので、ひょっとしたら自分にもできるかもしれないと思う人が多い。まあ、実際にできるかできないかは別にして、実際には、プロの作詞家になるよりもプロの作曲家になる方がはるかに簡単だ。単純に考えればわかるだろう。作曲という技術を持った人の数はそれほど多くはない。その中からプロが生まれる。対して、作詞家になる可能性がある人は日本語を読み書きできる人すべてだとしたら、そのすべての人数からプロが生まれてくることになる。どちらの倍率の方が高いのか?簡単な話しだ。しかも、作詞家が必要な分野は、「うた」に限定される。作曲家は、「うた」だけではなくすべての音楽で必要な人材。確率的に言ったら、これはもうお話にならないぐらい作詞家への道の方が厳しいということがわかるだろう。問題は、誰でもことばが使えるという思い込みだ。
佐世保の少女が殺害された事件でまず思ったのは、こうしたことばへの過信と誤解だ。インターネットが普及してから、この仮想空間の中で擬似的な表現行為があたかも本来の表現行為のように錯覚されて使われている。その恐ろしさが現実のものとなって常に私たちを恐怖に陥れている。チャットや掲示板、そしてHPでの発言の問題点は、ただ一つ。自由と責任のバランスがあまりにもとれていないこと。
誰にでも発言する権利と自由がある。それをチャットや掲示板、HPでやって何が悪い?という意見を言う人がいるが、それはかなり疑問だ。本を出版することと、単にHP上でこうして発言することには大きな隔たりがある。それは、その発言に対してどれだけの責任を取るかということだ。私がこれまでに出版してきた6册の著書の中にあることばのすべてに対して私は責任を負っている。当たり前の話しだ。実際、私の書いた文章に対して、意見やクレームのお便りをくれる人はいる。で、私はそのすべてに対して私の反論や意見、感謝のことばを添えて返事を出している。それが私の責任だからだ。もちろん、私だけでなく、世の中のすべての本の著者がそれをしていると信じているし、それをする義務があると思う。
ところが、自分の名前を出しているHPならまだしも、ハンドルネームなどの匿名で送るチャットや掲示板の書き込みにはまったくその人の責任は存在していない。ひょっとしたら、もともと匿名を許している、形式上、「責任」を持つ必要のないネット上の書き込みというものは、本来「意見」や「発言」として扱うべきものではないのではないのかもしれない。インターネットの中の擬似的表現行為の恐ろしさは、「ことば」が「責任」という重しを持たないまま「自分勝手」に飛び回っているところにあるが、ただ、それをインターネットというインフラのせいにして責めても何の解決にもならない。車が凶器だからといって、車を責めてもしょうがないのと同じことだ。私たち人間が車といい関係につきあっていくには、それ相応の「ルール」や「哲学」を持たなければならない。ましてや、相手は、当たればケガをする車とは違う「仮想空間」だ。人間自身が「空間」を支配しているつもりが実際は支配されていたというようなSFチックなオチにも成りかねない。
ツールを使うのはあくまで人間なんだという意識を、どこまで人間は持っていられるのだろうか?それが一番問題のような気もする。