みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

一時帰宅

2014-04-30 17:06:14 | Weblog
ゴールデンウィーク中に恵子の病院からの一時帰宅が許されて一泊だけ自宅に戻ることになった。
以前入院していたリハビリ病院でも大晦日から正月三日まで一時帰宅したことがあったけれども、そこは自宅ではなく東京の彼女の実家。
今回とは若干事情が違う。
以前の帰宅の時はまだほとんど自分一人で歩くことがなかなかできない状況だったので、彼女が夜トイレに起きるたびに私も一緒に飛び起きてトイレまで連れていくというようなことをしていたけれども、今回はどうなるのかが若干読めない。
病院としては、自宅での生活に慣れてもらおうという配慮での帰宅なのだが、骨折する直前のような歩行にまではまだ回復していないので私自身もどう構えたら良いのかイマイチ不安なところもある。
とはいっても、療法士も私も「もう転ぶことはないだろう」という点では意見が一致している。
ただ、転ばなければ良いというものでもない。
今せっかく良い感じでリハビリが来ているので、このまま以前よりも楽に歩けるような状態になってもらいたい。
彼女の歩行の「ダメだし」は今回担当の若い男性療法士にさんざんしてもらっている。
私が言いたいことは、ほぼ百パーセント彼が代わりに言ってくれている。
その意味では「よくできた療法士さん」だ(笑)。
麻痺している右足の力を未だに「信じる」ことのできない恵子は、以前から左足を高くあげることもあまり前に出すこともできない。
時に「ズリ足」のようになる。
ズリ足では(健常者であっても)すぐにモノにひっかかり転びやすい状態になる。
右足の力を信じられないと自然と左手に持っている杖に頼るようになる。
杖を持つ彼女の左手を見ていると「なんでそこまで力を入れなければならないの」というぐらいガチガチに杖を持っていることが多い(だから、きっとすぐに「疲れて」しまうのだろう)。
健常者が上半身をガチガチに緊張させて歩くことはないが、彼女の歩きはほとんど「上半身で歩いている」ようにも見える。
それぐらい上半身に力が入っているのだ。
楽器だってこんな状態ではちゃんと演奏できるわけがないし、普通の人が彼女のような状態でもし歩けば五分もすれば息が切れてしまうだろう。
この状態でいったん杖がグラついてしまえばとあっという間に身体のバランスを保てなくなる(だから転んでしまったのかもしれない)。
これまでたった三回しか転ばなかったということ自体が不思議なぐらいだ。
これまで彼女がお世話になったどの理学療法士も異口同音に「右足の力はもう十分にあるのだから、もっとスタスタと歩けていいはずなのに…」と口を揃える。
私もそう思うのだが、肝心要の本人がそのことばを一番信用していない(ようだ)。
つまりは、彼女の脳が心の底からそう「思い込んではいない」のだ。
私は、あの手この手で彼女の脳に彼女の右足の力を信じ込ませようと洗脳しにかかるが、本人の脳は懐疑的なままだ。
私と彼女のリハビリが「心理戦」なのは、ここが肝心なポイントだからだ。
「身体のリハビリも楽器の演奏も結局は脳トレ」(身体を動かしているのは脳に他ならない!)。
恵子に一番効果的な治療は、ひょっとしたら「催眠術」なのでは?とさえ思う。
誰か、彼女の脳に「私は歩ける、私は歩ける」と信じこませて欲しい。
それが彼女には一番必要なことなのだから。

41回目のアニバーサリーは

2014-04-22 21:14:57 | Weblog
病院の中で迎えた。
これは初めての体験。
彼女が病気になったのは3年前の秋だが、退院したのは翌年の3月31日なので、39回目も40回目の記念日も自宅で過ごせたのだが、今年は思いがけず病院の中になってしまった。
まあ、ある意味これまでで最もつまらないアニバーサーリーと言えば言えるのだが、たとえ病院の中であっても二人で記念日を過ごせるということが大事(と、二人で無理矢理納得する)。
最近はお菓子を作ったりする時間的余裕もないのでスイーツ作りはパス。代わりに、病院の中で着るスラックスが足りないというので彼女のお気に入りのブランドのすごく明るい春らしい色を買って持っていく(このリハビリ病棟は、日常に戻ることを目的にしているので、患者さんは全て朝寝具から普段着に着替え、また夜寝具に着替えることが義務化され、いわゆる病院着は着用しないことになっている)。
結婚三年目で私は単身先にアメリカに留学した。
一年間日本に残された彼女に私はアメリカから百本の赤いバラを贈った(若かったとはいえ随分とキザなことをしたものだ)。
やはり今回もバラを贈りたいなと思い、アレンジを作ってもらおうといつも行くショッピングモールの中にある花屋さんを朝イチ9時で訪れるが看板に開店は10時からだと(ナニ?)。
仕方がないので、モール内のスーパーマーケットで買い物をして時間をつぶすことにした(スーパーは9時からオープンだが、こんな朝早くてもお客さんがたくさんいることにちょっと驚く。みんな早いナ!)。病室で花を置くスペースはあまりないので小さめなアレンジにしてもらうが、赤、黄色、ピンクのバラだけで作ってくださいと言うと花屋のオネエサンに怪訝な顔をされてしまった(カスミ草とかの白ものや緑ものを混ぜないと料金が高くならないからかナ?)。
それでもけっこうキレイなアレンジができあがり病院に持っていくと恵子は早速スケッチを始めた。

41年前のこの日は、季節はずれの台風一過のように生温かい日だったことをよく覚えている。
私はまだ学生だったので(彼女の方は既に就職していたが)まるっきりお金がなく(こればかりは今も変わっていないのはナゼだろう)神田のYMCAで会費制の披露宴を行った。
彼女の父親が牧師のくせに結婚式はしなくて良いというものだから(彼の方から言い出したことなのでこれ幸いとそのことばに便乗した)友人を中心にちょっとハデ目なパーティを行った。
当時、会費制の結婚式をやる人たちなどほとんどいなかった。
別に時代の先駆けになろうなどという気持ちはサラサラなかったが、親に迷惑をかけずに結婚する方法が他に考えつかなかっただけの話だった(私には既に親はいなかったが、彼女の両親にもあまり迷惑はかけたくなかった)。 
その後、二人で共働きしながら子供を作らずに家計も別々に(私が光熱費、向こうが食費みたいな分担をしながら)やってきた二人だ。
なので、彼女が倒れて彼女の貯金通帳も私が管理するようになるまで、私は彼女に収入がいくらあるのかもまったく知らなかったし、彼女も私の収入がいくらかなどまったく知らなかったはずだ。
ある意味、結婚している夫婦というよりも、仲の良い男女の同棲に近いような状態の結婚生活を40年近く送ってきたわけだ。
彼女が病気になり、私には生命保険(入院費もカバーしてくれる)をかけていたが、彼女にはかけなかったことをちょっとヌカッタなとも思ったが、何とかここまで生きてこれたのも奇跡的なことかもしれないと思う。
この先金婚式までイケるのかナ?とも思うが、予測不能なのが人生なので、そればかりは何とも言えない。
この話、どこにオチを持ってくればいいのかなと思っていたら、彼女からメールがあった。
大阪に行ってしまった彼女の叔母から彼女の携帯に電話があったのだという。
私たちの記念日のこと覚えていてオメデトウのひとことでも言うためにかけてきてくれたのかと聞くと、いやそんなことはまったく覚えておらず単なる偶然なのだという。
「そういう人だよな、あの人は。単に自分が寂しくなったから電話してきただけなのだろう」。
かくして、恵子は、今日も看護士さんとまるでトンチンカンな会話しかできない向いのクメさんと「イテテテ、イテテテ」の叫びを五分おきに繰り返す隣のオバアさんの二人に病室で攻め続けられ、挙げ句にもう一人の身勝手な85才の叔母からの愚痴電話で攻められるさんざんなアニバーサリーを迎えたというわけだ。
41回のうちの一回ぐらいはこういうこともあるんだろうナ。
明日、何をして取り返してあげようか...。

看護士さんたちに評判だよ

2014-04-17 19:05:11 | Weblog
恵子からそう言われた。
「毎日病院に来る家族なんてそう滅多にいるもんじゃないから、看護士さんたちが噂をしているんだって」。
そう言えば、看護士さんが熱や血圧などを計りに来るたびに「仲いいですね」とからかわれる。
どう答えて良いのだろうか…。
戸惑う。
私は、彼女が最初に脳卒中で倒れた3年前の9月から入院中の病院にはほぼ毎日のように通ってきた。
今回の入院でも例外ではない。
毎日病院に通うのには私なりの理由があるからだ。
もちろん、彼女の様子を確かめたい、世話をしたい、できるだけ一緒にいて気持ちを気遣いたいということもそうなのだが、それ以上に毎日のリハビリの様子を全て見ておきたいのだ。
麻痺した身体の機能を回復させる手伝いをするには「プロの作業療法士や理学療法士がやっているリハビリをつぶさに見ておかないといけない」と私は彼女の最初に入院時に心に決めた。
なぜなら、実際にほとんどの時間を一緒に過ごすのは私だし、私が家で適切な指導ができないことには彼女の回復の手助けはできないと思ったからだ(彼女は、病院にいる時間より自宅にいる時間の方が確実に長いのだから)。
最初の病院では、まったく「モノ」になっていた彼女の身体が少しずつ動き出す様子もつぶさに観察できたし、身体の機能を回復させるということは、すなわち脳の指令をいかに円滑に身体の隅々まで伝えることであるかという人間の脳の指令と運動のメカニズムも十分に理解することができた。
ある意味、これまで関わった多くの療法士さんたちの技術レベルや人間性など、治療に「何がどう必要か」ということも理解できるようになった。
もちろん、多くの家族が私のように毎日患者に付き添っていることなどできないかもしれないが、病院という場所や医師、看護士、療法士といった治療のプロだけに任せっきりにするよりも、たとえ素人であっても患者の一番身近な人間が技術的にも精神的にも「最も頼りになる人間」になっている方が患者には心強いのではないかと思っている。
しかも、今回の予期せぬ入院は、ある意味、私たちにとって「良かった」ことだったのかもしれないとも思い始めている。
というのも、これまでの二年半で彼女は彼女なりに回復の方法も日常生活の諸仕方も身につけてきたのだが、ほとんど一緒にいる私から見て「もうちょっとこうすればもっと良くなるのに」とか「え、そんなやり方しちゃうの?」というようなこともけっこうあったからだ。
ベッドからの起き上がり方にしてももうちょっと力を抜いたやり方はあるはずと私なりにアドバイスをするが、本当に聞いてくれているのか流されてしまっているのか、いつまでたってもやり方が改まらなかったりしていた。
そして起きてしまった今回の「転倒」「手術」「入院」「リハビリ」だ。
今回の入院での最大の「収穫」は、理学療法士の若い彼がとても優秀だったことに尽きる(恵子との相性も良いようだ)。
彼のアドバイスはシンプルでとても適確だ。
まさに「私が言おうと思っていたこと」を私の代わりにズバっと言ってくれている(しかも、私が言うよりもちゃんと聞くし…)。
歩き方の基本も直してくれている。
そして、何よりも大事な「歩くスピード」をつけるための方法(これも私が日頃彼女に言っていたことなのだが)をもう一度基礎から叩きこんでくれているので私は本当に良かったと思っている。
楽器でもそうだが、「自己流」の部分がたくさん入ってしまうと、ある程度のところで頭うちになり成長が止まる。
リハビリもやはり似たようなところがある。
彼女の場合、週に一回程度の通院のリハビリでは、「正しさ」よりも「やり易さ」の方を身体が優先してしまっていたのかもしれない。
恵子が最終的に高いレベルまで回復するためには、今回の入院は必要なことだったのかもしれない。
今、私は本気でそう思い始めている。

『母の眠り』とかけがえのないもの

2014-04-11 20:39:46 | Weblog
『母の眠り』というのは1998年に公開された映画のタイトル。
メリル・ストリープ、レネ・ゼウィルガー、ウィリアム・ハートといった名優たちの共演する安楽死がテーマの映画だ。
しかし、実際に映画を見るとこのテーマはそれほど重要なテーマにはなっておらず(確かにこのテーマを軸にして作られていることはわかるのだが)、むしろ「人生にとって大切なものは何なのか、私たちの生活にとってかけがえのないものは何なのか」をとても素直に考えさせてくれる名画だと私は思っている。
メリル・ストリープとウィリアム・ハート(この人はNYの隣の州ニュージャージー州の大学でアメリカ文学を教える教授)という夫婦の娘であるレネ・ゼウィルガーは、NYで有名雑誌の記者として上昇志向に燃える典型的なキャリアウーマン。
それに対して母親は完璧な主婦であることを誇りとする女性(都会以外に住むアメリカの母は案外このタイプの人が多い)。
母親の生き方を嫌いけっして母親のようにはなりたくないと思って生きている娘が、ある時母が癌にかかったことにより自宅に戻り母の介護をすることになる。
キャリアウーマンとしての自分の人生を母の介護で棒にふってしまうと嘆く娘に、母は死の間際にこう言い残す。
「人が幸せになるのはとても簡単なことなのよ。今あるものを愛せばいいだけなの。あなたも、なくしてしまったものを求めるのをやめたら、人生はもっと穏やかになるはずよ。あなたは今たくさんのものを持っているじゃない。それを愛しさえすればいいのよ」。
この映画が私たちに教えてくれるのは、「ありのままの自分を受け入れられない限り人はずっと不幸であり続けるのでは」ということだと私は思っている。
毎日病気に苦しむ人たちばかりを病院で見ていると、どの患者さんもどの家族もいっけん不幸をたくさん背負って生きているように見えるけれども、それはハタで見ているだけの話で、認知症で家族が何を話しかけてもただ俯いているような患者さんの家族がそれだけで不幸なのかどうかを判断することはできない。
「人間は年を取ればボケてしまうんだから、別にしょうがないじゃないか」と思えば、認知症の方を抱える家族の気持ちも少しは和らぐはず。
私自身も妻の病気と介護、そしてリハビリなどを抱えてまったく「大丈夫」とは思わないけれども、別に自分一人だけがこんな問題を抱えているわけじゃないし(世の中にはもっともっと背負いきれないものを背負わされてしまっている人たちがたくさんいるわけだから)、逆に、自分の妻という存在の「かけがえのなさ」に気づくことができたわけだし、自分自身の生き方を改めて見つめ直すことだってできたんだから、かえって「幸せじゃん」と思えないこともない。
病気も障害もそれを受け入れられない限り不幸は永遠に続くわけだし、人生は短いんだからそんなことで貴重な時間を無駄にはしたくない。
「なったものはしょうがない」し「起こったことはしょうがない」。それよりも今自分にあるものは何なのかを考えれば、映画『母の眠り』の中の母親が娘に言い残した「今あるものを愛すことができれば人はみんな幸せになれる」ということばの意味が本当に理解できるような気がしてならない。
障害があろうがなかろうが、今目の前にいる「大事な人」こそかけがえのないものと考えられる人生の方がはるかに幸せなのではと思う(それは、ダウン症の子供を持つ家族の方たちがよく言うことばでもある)。
少なくとも私には「かけがえのないもの」があるから私は幸せなのかなと思うし、本当はどんな人にも「かけがえのないもの」はあるはずなのに、それを見ようとしないのか、見えていないのか。
「なくしたもの」や「過去」を探し続けるから今の目の前にある大事な「それ」が見えなくなるのだろうか。
不幸は、自分と誰かを比較する時始まるのではないかといつも思っている。
「あの人の方が私よりお金持ち」「あの人の方が私より頭が良い」「あの人の方が私よりやせている」…。
人と競争することを強いられる「都会」の中で人はいやおうなく「比較」するクセを身につけてしまったのかもしれないとも思う。
そうでなくては「都会」というたくさんの人が住む社会では生き残っていくことができないから。
NYという都会でのキャリアを目指す娘が田舎で家庭の主婦として満足している母親を受け入れらないというこの映画の図式は、別にアメリカだけでなく世界中どこにでもあるだろう。
しかし、自分の母親より大事なもの、かけがえのないものなんてこの世の中に存在するはずはないし、自分の娘より大事なものなんてあるはずがないといった当たり前のことを見えなくしているのがやはり「都会」なのかなという気もする。
ちょっとノンビリとした伊豆の風景の中で生活していると、案外「かけがえのないもの」は「都会」よりも見え易くなっているのかもしれない。

リハビリ病棟

2014-04-07 21:23:14 | Weblog
に恵子が移ったということを先日ある友人にメールで知らせたら、彼女、何を思ったか、「リハビリ病棟という響きが『タイガーマスク』の虎の穴のイメージです。なにやら戦闘モードに突入という妄想に入りました」という返信をくれた。
私は、『タイガーマスク』を見たことがないので「虎の穴」と言われてもピンと来ないし、私の中でリハビリ病院とかリハビリ病棟というイメージは堀辰雄の小説とかの高原のサナトリウム、病弱な薄幸の美少女みたいなものだったので、この友人の妄想につきあうことはできなかったけれども、毎日の入院生活を見ているとこの彼女の「妄想」もまんざら「妄想」とも言えないような気がしてきている。

入院生活とは縁遠い健康な人たちには縁のないことだと思うが、現在の日本の医療制度では、病院は急患や手術の必要な患者などの緊急性の高い患者を中心に治療する急性期病院と、容態が安定していて長期のリハビリが必要な患者を受け入れる回復期リハビリ病院の二種類に分かれている(だから、一般の外来患者が診察を受ける病院は基本的に急性期病院だ)。
恵子が手術を受けた病院は当然急性期病院なので、長期入院する場合には、別の回復期リハビリ病院に転院する必要があった。
事実、手術する直前にも担当医師から「ウチで引き受けられるのは四週間までで、それ以降は転院先の病院を探してください」と言われた上で手術を受けたのだ(法的には急性期病院の入院期限は60日ぐらいあるはずなのだがそれも個々の病院の裁量に任されているようだ)。
ところが、手術後「奥さんの骨は思ったよりももろく、回復が健常者の方よりも遅くなりそうなので、6週間程度様子を見ないと手術そのものの結果が良好かどうかわからないかもしれません」と言われた。
「ええ?それでは、4週間が入院のマックスだとしたら6週間様子を見るために必要なこの2週間の空白期間はどうするんですか?様子もちゃんとわからないうちに病院から放り出されてしまうんですか?」と私は尋ねた(もちろん、きつい口調ではなく)。
さすがに、医師もその辺は考慮してくれたようで、「幸い、ウチの4階はリハビリ病棟なので(つまり、急性期病院の中にもう一つの回復期リハビリ病院があるという格好だ)、そちらに移れば長期のリハビリ治療ができます」と言ってくれた。
なんだ、それを先に言ってよという感じだったが、そのリハビリ病棟に移ってみて「やはりここはここで大変なところだな」と思うこともしばしばだ。
リハビリ病棟に入院している患者のほとんどは高齢者で、そこで目にする光景は介護施設とほとんど変わらない。
二年前に恵子が入院していた川崎のリハビリ病院もそうだったが、「ここは介護施設なの?医療機関なの?」と目を疑うような光景が毎日のように繰り広げられているので、看護士さんたちの仕事も施設で働く介護福祉士の仕事とあまり変わらないように見える。
だから、ヘタをすると恵子のように「あまり手のかからない」患者は後回しにされてしまうことが多いのだ(実際は、あまり手がかからないわけではなく、手をかけてもらえないだけなのだが…)。
今日も、病室に行くといきなり恵子が「髪が濡れてるからベッドに寝られない」と泣きそうな顔で訴えてきた。
「え?何それ?」と彼女の髪を触ると確かに濡れている。
先ほどシャワーに入ったというのだが、髪がまだ完全に乾ききらないうちにベッドに戻され寝かされたのだという。
この髪の状態でベッドに寝ろというのはあまりにも乱暴な話だ。
いろいろと聞くとやはりシャワーの世話をしてくれたのは看護士ではなく看護助手のようだった。この人たちの仕事は案外荒っぽい。
これでは風邪をひいてしまうとナースステーションに行って文句を言おうとちょっと「戦闘モード」で向う(笑)と、ちょうど部屋の前を看護士さんが通ったので「ドライヤー貸してもらえませんか?」と尋ねるとアッサリと「あ、今持っていきます」と言ってくれた。
ドライヤーを手に持ち恵子のところに来るとその看護士さん、すぐに恵子にドライヤーをかけ始め、しきりに「ごめんなさいね」と謝る。
別に彼女がさっきのシャワーの張本人ではないのでこの看護士さんに謝ってもらう必要はないのだが、きっとこの看護士さんには(私が説明しなくても)何が起こったのかがすぐに理解できたのだろう。
だから、「代わりに」謝ってくれたのかもしれない。
そうこうしていると、今度は向いのベッドのクメさん(本名ではなく仮名)のところに別の看護士がやってきて「え、またベッドから出ちゃったの」「一人で出ちゃダメよ。危ないから」と言われるが、当のクメさん、聞いているのかいないのか、ベッドから盛んに出ようとする。
困り果てた看護士さんは婦長さんに応援を頼み「拘束しても良いですか?このままだと危険です」と訴えるが、さすがに婦長さんも拘束という手段は取りたくないようで、「もう少し頻繁にベッドに回ってみましょう」という対処で乗り切ることになる(多分それで大丈夫なような気がするが)。
このクメさんのところには毎日のようにお孫さんらしき若い人が面会に尋ねてきているのだが、クメさんとお孫さんたちの会話がかみ合っているのを聞いた試しがない。
いつもお互いに言いたいことだけを言いあっているように見える(というか、聞こえる)。
だからといってけっして言い争っているわけではなく、和気あいあいとした家族の普通の会話に聞こえるところはさすが家族なんだなといつも感心する。
今のリハビリ病院に単なる骨折とか単なる(一つの)疾患だけで入院している人はごくマレで、必ずこうした認知症的な徴候や他の合併症をかかえながら長期の入院生活を送っている人が多いのが現実だ。
まるで介護施設のような会話ややり取りが、この病棟の至るところで(患者、看護士、家族の間で)毎日、毎時間のように繰り広げられている(こういう雰囲気は、たしかに急性期病院ではあまりない)。
なので、恵子も、うかうかしているとこの「ペース」に巻き込まれてしまうことになる。
クメさん騒動がひと段落したところで私は、ベッドにいる恵子に無言で(「大変だけど、頑張れよ」)と目配せをして病院を後にする。
しかし、私が家に帰ってからも恵子から「今部屋の中がこんな…になってる」といった報告メールが来るのだ。
こんなことが毎日繰り返されるようでは、恵子も、夜ゆっくりと休むこともできないのではないだろうか。
やはり、これは友人の言う虎の穴の「戦闘モード」に違いないのかもしれない(ただ、 私には「虎の穴」というものがイマイチよくわかっていないのだが)。

ナザレのイエス

2014-04-04 19:57:43 | Weblog
といっても、別に宗教の話ではない。
単に、人の気持ちというのは身近なところほど理解されないものんだろうかと思ったからだ。
聖書に出てくる話で、生まれ故郷のナザレに帰って説教をしたイエスが「あいつは大工の子だ」と言われ故郷の人々からまったく相手にされなかったエピソードをつい最近の自分の出来事から思い出したのだ。
小学校以来の友人が私に「この老人ホームに話をしてみると良いわよ」と「親切心」からある介護施設を紹介してくれたのだが、結局仕事としては成立しなかった。
例によって、介護施設でやる音楽にお金を払う必要はないという部分で先方とまったく折り合いがつかなかったからだ(「またそこからですか?」という話なのだが)。
私が現在やっている有料の介護施設での音楽サービスは、「有料でなければならない」というところからスタートしているので、通常の介護施設と話をする場合、まずこの部分で交渉は壁にぶちあたる。
先方は「ボランティアで当たり前」と思っているところにこちらが「お金払ってください」と交渉するのだから、そこの最初の壁をどうやったら乗り越えられるかが最初で最大の難関になってくるのも当たり前の話だ。
ただ、この部分だけ見てしまうと私のやろうとしていることは「介護施設相手の商売の一つ」と受けとられかねない。
おそらく、私の知り合いもきっと「取引先を紹介するよ」的な発想で私に紹介してくれたのかもしれない。
それはそれで私に対する親切心からなのだろうが、それだったら、私がなぜ数年前から介護施設を多数経営する大手企業にばかりプレゼンをしているかまで理解した上で声をかけて欲しかった。
ところが、この友人、私のこうした意図をまったく理解してくれてはいなかった(私の最新刊『奇跡のはじまり』を読んでくれていたのだからそんなことぐらい理解できたはずなのに…)。
ある意味、「演奏できる施設が一つ増えれば良いのでしょ」的なノリで私の営業先を一つ紹介したつもりだったようだ(これも親切心なのかナ?)。
これでは、ちょっと具合が悪い。
というか、私の目的そのものが誤解されかねないからだ。
私がなぜ介護関連の大手企業にばかりこだわってきたのか。
それは、一にも二にも「たくさん体験しなければならない」と思ったからだ。
では、なぜたくさん体験しなければならないと思ったのか。
それも単純な理由からだ。
十の施設で体験してわかることと百の施設で体験してわかることでは、単に「量」の違いだけではなく、「質」」が本質的に違ってくると思ったからだ。
十の体験で「見える」ことと百の体験で「見える」ことの違いは大きい。
そう思ったからだ。
いつも、私は知り合いの科学者や医師などから「音楽が医療や介護や人の心に関わる部分でとても重要な役割を果たしていることは<実感>できるんだけど、そのことを科学的に証明できるエビデンスはどこにもないんだよね」と言われ続けてきた。
もちろんそうだと思う。
西洋科学というのは、どんな時も方程式のように論理的に「こうだからこうだ」という理屈を「ことば」や「目に見える形」で証明できなければ何の役にもたたないのだから。
だから、STAP細胞の騒ぎにしても、あれだけエビデンスの信憑性が突っ込まれ続けているのだと思う。
現在の科学は、エビデンスを出さない限り何の価値もないと思われているからだ。
だからこそ、私は、「音楽が人の心や身体にどんな影響を及ぼしてどんな風に役に立つのかをもっと説得力のあることばで語りたい」と思い続けてきたのだ。
それは「音楽療法の範疇でしょう?」という人がいるが、私はそうは思わない。
なぜなら、現在の音楽療法(日本だけでなく世界でも事情はまったく同じダ)は、最初から答えを用意していて、そこに無理矢理、治験者の体験や臨床、論理をこじつけるやり方しかしていないからだ。
これでは、万人を納得させることはできない。
だから、いつも音楽療法は「まやかし(眉唾ものということか)」とか「スピルチュアルであやしげなもの」という印象しかもたれないのだと私は思っている。
ただ、一方で私は「音楽がどういう風に人の身体や心に影響を及ぼしていく」かを科学的に検証して無理にエビデンスを出す必要もないのではと思っている。
それはやれば「可能なこと」なのかもしれないが、それがもし仮に証明されたとして「それが何?」という気が私にはしてならないからだ。
それよりも、施設で『上を向いて歩こう』に涙を流す人の心の満足感だったり癒しだったりの方がなんぼか価値があるのではと思うからだ。
「それじゃあ、全然科学的じゃないじゃないか」と突っ込まれるのは承知の上で、それでも何とか説得力のあることばを(私が)発していくためには「施設で十回演奏しました」より「千回演奏した」上で得られることばの方がはるかに説得力があるだろうという思いから、私は大手介護企業にこだわってプレゼンを続けてきたのだ。
先日伊東市役所でやったコンサートで私が語った「認知症に対する音楽の役割」みたいなことも、世の中では認知症に関することはいつも「それで認知症予防ができるのか?」とか「治療には役立つのか?」というコンテクストで語られることが多いのだが、ある意味、私は「認知症の予防に役立つものなんて本当にあるの?」とも思っているし、ましてや治療薬なんてのも本当に存在するのかなと思っている(進行を遅らせたかに見えるような薬はたしかにあるようだが)。
だから、メディアで「こうすると(これを食べれば、飲めば)認知症予防になります」と語る多くの人に「おいおい、本当にそんなこと言っちゃっていいの?」と心の中でいつも突っ込まずにはいられない。
そんな「不毛なこと(認知症の予防と治療)」に一生懸命になるよりも、「ボケたらボケたで良いじゃない。それよりも、たとえボケても毎日ちょっとでも明るく生活する方法考えた方がよっぽど幸せなんじゃないの」とつい思ってしまう。
「そのためなら音楽はものすごく役立つよ」。
私の考え方の基本はここだ。
「音楽は介護や医療に役に立つんです。でも、それをもっと説得力のあることばで語りたい。それにはもっともっとたくさん現場を体験していかないと…」。
そうした私の考えが理解されないまま、ただ「仕事先が増えれば良いのでしょう」的なお誘いを古い友人から受けた私は、「こんなに長くつきあっていて、これだけ私のことをいろいろ知っているはずなのに、なんでこの人は私の考えを理解してくれないんだろう?」とちょっと寂しさを感じてしまったのだった。
それが故郷で説教をしたイエスが感じた「絶望感」や「寂しさ」と同じかどうかは私にもよくわからないが、案外身近な人ほど「理解」ということばからは遠い存在なのかもしれないなとも思う。
それに、身近な人に対しては「この人はきっとわかっているに違いない」という勝手な思い込みもきっとあるのだろうし、甘えもあるのだろう。
結局、人を納得させていくには、やはり「行動」と「結果」しかないのかもしれない。
私は「たとえ理解者が一人もいなくなって自分だけになってしまっても正しいと思ったことをやりきるゾ」と思うと同時に、やはり、「世の中に理解される道は果てしなく遠いな」と思ったことも確かだ。

療法士とのコミュニケーション

2014-04-02 21:35:18 | Weblog
恵子のリハビリの指導をするのは、療法士と言われる人たちだ。
最初の病院から数えると本当にたくさんの療法士さんたちのお世話になってきた(この二年足らずの間に病院を4つも体験してきたのだから当たり前の話だ)。
その中でも今回入院している病院でお世話になっている若い男性の療法士を私は特に気に入っている。
とても恵子とウマがあっている。
そう思えるからだ。
なぜそう思えるかというと、それは彼の話術のせいかもしれないと思っている。
別にことばが巧みなわけではない。
特に優しいことばや丁寧なことばをかけてくれるわけでもない。
むしろ、彼のことばはぶっきらぼうだ。
でも、彼のことばの一つ一つを私は「信頼できる」し、何よりも患者の「乗せ方」が上手だと思う。
「そうそう、それでいいんだよ」「うまいうまい」「できるじゃない」「でも、こうやった方がもっと楽だよ」
けっして媚びずに適確な指導をしてくれる。
だから恵子も彼のことばに本気で応えようとする。
そんな「コミュニケーション」をはたで見ていてとても好感が持てるし、何よりも「これならリハビリはどんどん進むな」という感触を持つことができる。
事実、今日リハビリ病棟に移ったばかりだというのに、「来週から少しずつ荷重をかけたリハビリをやっていきます」と言われた。
手術した患部が固まるまでは荷重ゼロで、足にまったく負荷をかけないリハビリをやっていくと言われていた。
そして、その分岐点の目安は5週間から6週間だろうと言われていたのに、まだ3週目の来週からもう荷重をかけていくリハビリに切り換えるという。
「本当にそんなに早くていいのだろうか?」と耳を疑ったが、医師も療法士も口を揃えて「大丈夫」と言う。
やはり、これもかの療法士とのコミュニケーションがうまく行っているせいなのだろうか。
世の中、小手先の技術だけではどうにもならないことがあまりにも多い。
そして、その技術の先にあるものを探っていくとはやはり「何をどう伝えるか」ということにも行き着いていく。
しかも、「何をどう伝えるか」なんて、考えるまでもなく答えは決まっている。
こちらの気持ちを相手にどう伝えるか。
これができるかできないかがコミュニケーションなのであって、人間の生活でこれ以上に大事でこれ以上に難しいことなんてあるわけがないのだ。
その意味では、恵子と療法士さん、ものの見事にコミュニケーションが取れている。
この事実だけでも私たちには大きな「希望」だ。