みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

ほぼ4ヶ月ぶりの一時帰宅

2011-12-30 21:25:46 | Weblog
を明日に控えて今日は洋服や下着、そしてコートなどを病院に持っていく。
この4ヶ月の間に夏の終わりからもう真冬になってしまったので、この間に彼女の服や下着など(最初の頃はオムツが多かったが)をいろいろ買ったりしなければならず、女性下着売り場をウロチョロして若干恥ずかしい思いをしてきた(でも、最近はちょっとだけ慣れたかナ?という感じ)。
でも、店員さんに聞くのが一番手っ取り早いということも良くわかった(これの方が時間の短縮にもなるし恥ずかしさもむしろ軽減される)。
明日着て帰る服を持ってこようにもどこに何があるのかもわからないので写メでそれらしきモノの写真を送り「これ?あれ?」と聞いて本当に欲しい洋服を探りあてる。
まだ右手、右足が不自由なので洋服を着るのもなるべく簡単に着れるワンピース系を選ぶことになる。
基本的には不自由な方の足や手が服や下着に入れば後は大丈夫なので、そういう基準でいろいろなものを選択してきた(服を着るというリハビリはけっこうツライものがあるようだ)。
これまで家の外観や内部の写真を病院に持っていき、療法士さんなどに見せ、その形状に合わせた介助の仕方を教えてもらってきた。
家の中は手すりだらけの家なのでそれほどの問題はないような気もするが(お風呂以外は)、問題は玄関の上がり口。
これはおそらくどの家でも同じなのだろう。
段差がどれだけあるかによって上がりにくさが変わって来る。
段差が10センチ以上はけっこうツライ。
現在、病院で訓練しているのは10センチの段差の階段の上り下り。
10センチ階段のすぐ横に20センチという段差の訓練用の階段があるが、そちらはかなりハードな階段に見える(まだ訓練すらさせてもらっていない)。
でも、日本の家屋で20センチぐらいの階段の家や町中の建物の中の階段にはそれぐらいの段差はゴロゴロあるだろう。
先日伊豆の家の玄関の上がりかまちの段差を計ってきたが、ちょうど15センチ。
微妙だな?と思った。
今は、移動式の階段状のスロープや手すりなどの便利な介護用具があるので多分それを購入することになるかもしれない。

アップした絵は恵子が伊豆の自宅に帰る時のイメージを描いたもの。
本当にこんな感じの家なのだが、どうもこの絵だと私と恵子が家を見下ろしているように見えるが、実際は見上げる形状になっている(坂の下からだんだん家まで上り詰めるのだ)。
「これだと見下ろしてるようにしか見えないじゃん。もうちょっとデッサン、しっかり描けよ」と私が言うと、「だって、最初はこんな絵を描くつもりじゃなかったの。だんだんイメージを足していったので結果的にちょっとおかしな構図になってしまったの」と笑いながら言う。
まあ、きっとそうなんだろう。
でも、「早く家に帰りたい」という気持ちはこの絵の中にすごく現れているような気がする。

主婦脳(つまり家事が上手にさばけるようになる脳)

2011-12-30 00:56:58 | Weblog
みたいなものや、スポーツマン脳、あるいは音楽家脳など、それぞれの専門分野の脳があって帽子やカツラを換えるようにそれをすげ替えられるような時代が来ても良いのでは?と時々考えるが、多分無理のような気もする。
脳の細胞や神経は、iPS細胞のように再生させるわけにはいかないので(そういう認識でいいのかナ?)、そんなSFチックな発想は原理的には可能でも実際にはうまくいかないのかもナとも同時に思う。
恵子の入院以来、脳の働きが人間の動きや考えの全てを決定しているので脳からの命令が各末端神経に届きさえすれば全ての機能は作動するみたいな考え方にはなっているものの(これが「主婦脳」「スポーツマン脳」は可能なのでは?と考えた根拠だ)、一方で、脳がいくら命令してもやはり腕や足に筋肉がしっかりついていなければ腕や足は動かないことは彼女のリハビリを見ているとよくわかる。
おそらく彼女の中(つまり脳の中)にも「歩く」イメージや「モノをつかむ」イメージはあるのだろうが、それ相当の筋肉がないと歩くのは容易ではないし、握力がほとんどゼロに近い状態ではものをつかむのも容易ではない。
まあ、それでも、クレパスでの絵の訓練やお箸を無理矢理右手で食べる練習をした成果か、最近ではゴハンを箸で食べる動作も大分「マトモ」になってきた。
「ちょっとヘタ」ぐらいに見えるのはけっこうな進歩と言ってもいいだろう。

今日は、仕事で外に出た後は買い物や家の掃除、そして正月用の煮物作りなどほとんど「主婦業」に精を出した一日だった。
というか、やっと29日になって正月の用意ができるようになった(一夜飾りや一夜づけにならなかっただけまだマシか)。
ゴボウ、ニンジン、シイタケ、コンニャク、サトイモなどを煮た後は、ブリ大根を作ったり、鶏の手羽を焼いたり、コブ巻きを作ったりしたが、いつもなら恵子と二人でやるこうした正月の準備を全部一人でやるというのも若干寂しいものがある。
同居している84歳の義叔母はまったく料理ができないので(そういう女性も珍しいが彼女は家事一切が全くできない)手伝ってもらうわけにもいかない。
それでも、私の留守中に義弟家族が来て叔母に簡単携帯を置いていったらしく(万が一の連絡用にしようと思ったのだろう)、私が野菜を切っているところに近づいてくると出し抜けに「これよくわかんないんだけど、どうやればかかるの?」と聞いてくる(この人は徹底的に自己中な人なので、相手の状況などおかまいなしだ)。
それほど多くない押しボタンの中から相手の探し方と通話の仕方を教え、「試しに私にかけてきてごらん」と言って私にかけるよう促す。
生まれて初めて使った携帯をちゃんと使いこなせた嬉しさからか今日は一日中携帯が彼女のオモチャになっていたようだ。
デイケア仲間の人とずっと通話をしていたらしいが、普通の電話と同じように長い間しゃべって一ヶ月後の請求書を見てビックリしないといいのだが。

豆腐の上を歩くように

2011-12-29 00:14:24 | Weblog
と療法士さんに言われて恵子はおそるおそる足を前に差し出すがそれでもゆったりと足はなかなか出てこない。
なるべく右足だけで体重を支える時間を長くしてください。
私もそう思うのだが、療法士さんが言うようには恵子の足は進まない。
右足はゆっくり出ても左足がすぐに着地してしまう。
右足で身体を支えるのが怖いのだろう。
きっと、右足が不自由だという意識が余計そうさせているのかもしれない。
そんな恵子の動きを見ていたら療法士さんから私への指令が飛んできた。
「必ず右側を歩いて(麻痺のある側)いつでも身体を支えられる位置にいてください。倒れる時は必ず右側ですから」。
今日は私が歩きの介助の方法を教わる日。
なるほど、確かにまともな左手は杖を持っているんだから左手や左足が咄嗟の時に右側の助けにはならない。
「だから、常に不自由な側に立っていてください」と療法士の彼女は言う。
言われてみれば当たり前と思えることなのだが、実際に一緒に歩くとなかなか歩調があわず時々私の方がこけそうになってしまう(彼女の足を見ながら歩くと前や横に注意が行かなくなってしまうので私の方がバランスを崩してしまう)。
しかも病院の廊下にほとんど障害物はないが、普通の道路は障害物がどこにあるかわからない。
おそらく、今は恵子よりも私の方が緊張しているかもしれない。
だって、ドジって彼女を転ばせてしまったらそれは私の責任だし、そんなことになったら目も当てられない。
今日は朝から介護ベッドを搬入してもらったり、お風呂の介護椅子や湯船のヘリに取り付ける取っ手なども持ってきてもらったり(もちろん買ったのだが)と恵子の暮れの一時帰宅に備えての準備に追われた一日だった。
病院での私に対する介助訓練も外泊に備えてのものだ。
そうだ、明日は仕事の帰り、車で病院まで行ってみよう。
大晦日の当日、彼女を迎えに行く私が道に迷ってしまったりしたら大変だから(マジでそれをやってしまいそうだし)。

よく見てるじゃん

2011-12-27 22:35:21 | Weblog
そう言われてすかさず私は、「当たり前だよ。そのためにいつも病院に来てるんだから」と応える。
明日自宅にやってくる介護ベッドのために家の中を片付け掃除してから病院にやってきたために多少バテ気味の私は、病室に入るなり彼女のベッドの脇に腰かけた。
ベッドに腰かけたついでに「足ここに乗っけろ」と言って、彼女の両足を私の膝の上に乗せゆっくりともみ始める。
右足や指、ふくらはぎなどを順番に丁寧にマッサージする。
この数ヶ月常にこと細かく療法士さんのやり方を観察してきたとはいえこちらはズブの素人。
無理な動きをして彼女の足をかえって痛めてしまっては元も子もない。
「これは痛くないか?どんな感じがする?」と常にチェックする。
「本当におんなじ動きしてるね」と感心はされるものの内心はかなりヒヤヒヤしながら動かしている。
たくさんの本から得た知識やリハビリ現場で見てきたことをこうやって恵子に具体的に応用しているのは退院後の長いケアを見越してのこと。
退院後は医療保険が途端に使いにくくなり(全く使えないわけではないが大きな病院は外来でのリハビリをあまり歓迎しないらしい)、介護保険が使える範囲でのリハビリ環境を前提にしなければならない。
介護保険で可能なリハビリ環境は、医療保険でできるリハビリに比べると人や器材などもかなり限られてくる(療法士さんさえいない所が多いからだ)。
それでもリハビリをしっかりと続けていくための自衛手段を以前からこうやって算段しているのだ。

介護ベッドは大晦日から正月3日まで許された自宅への外泊のためのもの。
これも医療保険と介護保険は同時には使えないため自費で用意しなければならない。
ただ、最近介護ベッドはだぶつき気味らしく自費でもかなり安い値段でレンタルできる。
元々家中に手すりは完備していたので(亡くなった恵子の母親が病気療養中に介護保険でつけたものが今回すごく役立つことになる)帰ってくる環境としてはわりと良い方なのではないかと思っている。
それにしても、ほぼ4ヶ月ぶりにシャバに帰ってくる彼女も緊張しているだろうが、迎える私もかなり緊張気味だ。
明日は療法士さんが車への乗り方やその他の介助方法を私に指南してくれる日だ。
何かテストの前日のような緊張感を感じるのはナゼだろう。


リハビリ病院の食事時間は大騒ぎ

2011-12-22 22:44:09 | Weblog
患者さんの中には、自分の手で食べられない人も多いので看護師さんや家族の人が食事の面倒を見たりする(以前恵子がまったく自力で食べられなかった時は私も恵子の食事の面倒を見ていた)。
もちろん、一方で自分一人で黙々と食べている方も大勢いらっしゃる(こんな光景、介護施設の食事風景とどこか似ている)。
人や病気、疾病の種類によって食事のメニューも違うのだが、脳疾患の重い人には会話もおぼつかない人がいる。
そういう人は咀嚼も嚥下も苦手な人が多いのでこぼしたりする以前に食べ物を口に運ぶまでがひと苦労だ。
「口を大きく開けてください」「舌出してください」。
罵声にも似た大声が飛びかう。
それ以前に本当は「聞こえますか?」なのだが、患者さんたちは一見聞こえてないように見える人でも実はけっこう聞こえていたりする。
だから、時々こんな声もする。
「そっち行っちゃダメですよ」「戻ってきてください」「早く食事済ませてください」。
業を煮やすと看護士さんはこんな恫喝をする。
「ごはんちゃんと食べてくれないと点滴にしますよ。それでもいいですか?」
これでたいていの患者(言うことを聞かないのは大体年輩の男性)は言うことを聞く。
なんだ、ちゃんと聞こえてるじゃんと思うが患者にしてみれば入院生活のストレスと男性特有のプライドの高さから勝手な行動をして看護師さんたちを困らせてしまうのだと思う(看護士さんを困らせること自体がストレス発散だったりして?)。
どちらにせよ、リハビリ病院では食事どきが一番患者の「素性」がよくわかるのだ。

私が一緒に食べる時、恵子はいつも右手で最初の何口かを食べるようにしている。
私がそうしてくれと頼んだからだが、今日の彼女の箸さばきはこれまでにないほどにきれいだった。
これまでは見ていてもやっと食べ物をつかむ(というかかろうじて引っかけている程度)感じだったのが今日は箸を使ってきちんと食べているように見えた。
「今日はすごく上手じゃん」と言うと、すかさず「だって毎食ちゃんと練習しているもん」と答える。
本当は最後まで右手だけで食べたいんだけど、それだと時間がかかり過ぎて大変だから、途中から左手にしているのだとも言う。
だから、大晦日に一時帰宅したら「全部右手で食べる」のだそうだ。

リハビリはできたことしかできない。
当たり前のように聞こえるかもしれないが、「脳はできたことしか覚えない」という意味では真理だ。
もっとわかりやすく言うと「脳はできたことだけを『運動の記憶』として脳の中に書き込んでいきニューロン(=脳からの指令の道筋)を作っていく」ということになる(こっちの説明の方が難しいか?)。
恵子は、ずっと正常な左手の助けを借りて右手で絵を描いたり字を書いたりしている。
不自由な右手だけでこれらの動作をやろうとするとどうしても「無理な動作を覚えてしまう」かもしれないからだ。
この「できたことしか覚えない」ということは楽器の習得でも同じ。
正しい指の動かし方を覚えないで無理な動かし方、あるいは間違った動かし方を覚えてしまうと、私たちの指はいつまでたっても「正しい動き」ができない。
だから、最良の方法は、「正しい動き」を「正しい動き」として脳に記憶させるしかないのだ。
楽器だったらゆっくりと練習して正しい音の動きを指に覚えさせることだし、リハビリだったら、人に助けてもらってもいいし、自分の身体の一部が助けてもいいので「正しい歩き方」「正しい指の動き」を脳に覚えさせていくことになる。
「ちゃんと食べないと点滴にしますよ」という看護士さんの恫喝が有効なのは、患者たちもちゃんと「口を使って食べない」と身体が正しい食べ方を覚えずに「寝たきり状態」に近づいて行くことの恐怖を本能的に感じているからだろう。
点滴で生きて行くことは脳そのものの死滅へダイレクトにつながっていく。
食べ物を口から入れて噛むことこそが脳の「活動」でありリハビリそのものになることを患者さんたちは皆よく知っているのダ。
そんな光景を見るとちょっとホッとする。

車椅子の功罪

2011-12-20 00:58:48 | Weblog
車椅子という乗り物(かナ?)のお世話に恵子がなって以来、ここ数ヶ月、車椅子という存在をとても意識するようになった。
車椅子っていうのも良し悪しだナ、とつくづく思う。

日本は、既に介護社会に入ってしまっている。
単に老人が増えるだけではない。
恵子のように脳卒中になる人の割合は実に6人に一人だ。
これって真面目に考えるととんでもない割合だと思う。
例えば、自分の友達6人のうちの一人が脳卒中患者というのはどう考えても異常な世界だ。
でも、その「異常」が「日常」になっていくのがこれからの日本の社会だ。
車椅子の存在は今よりももっともっと大きなものになっていくだろう。
もちろん、車椅子は介助が必要な人にはとてもありがたい存在、であることは確かなのだが、必ずしも良い面、便利な面ばかりではない。
車椅子というのは、使えばわかるのだが、本当に便利で楽な乗り物なのでいったんこの便利さ快適さに慣れると一種の麻薬のようにここから離れられなくなってしまうのではないのか?
いつもそう思っている。
一般的に、車椅子を必要とする人というのはいろいろなケースがあるのだが、恵子のように病気の後遺症や疾患、ケガなどで必要な人と、高齢のためにどうしても車椅子の介助を必要とする人の大きく二種類に分けられる。
問題はこの二種類の人たちにとっての車椅子の意味あいが百八十度違うということだ。
恵子が現在車椅子に乗っているのは、車椅子なしの生活を再び送るための準備段階として利用しているに過ぎない。
これから先ずっと車椅子を使っていこうなどとはこれっぽっちも考えていない。
できるだけ早く車椅子からオサラバしたいのだ。
つまり、車椅子なんかない方が良いけれども仕方なく車椅子に座っている人たちが前者なのだが、後者の場合(老齢で使う場合)の車椅子の存在はちょっとヤバい。
なぜヤバいかというと、それなしでは全く生活のできない本当の「麻薬」になってしまいかねないからだ。
いったん座ったらそれっきり、車椅子に永遠に釘付け、の人も多い。
人間の身体や脳というのは常に怠けようとする。
人はいったん楽なものを見つけるとその誘惑から逃れることがとても難しい。
冬場のコタツからなかなか抜けられなかったり、ぬるま湯からなかなか出られないのもそこが本当に楽で快適だからだ。
人間というのは年寄りになると身体のいろいろなところにガタできて本当にだるくなってくる。
すぐに座りたがる。
それは(年寄りにとって)自然の摂理だから仕方のないことだろう。
だから車椅子をいったん利用し始めると身体も心も一挙に楽になる。
身体が安堵してしまうのかもしれない。
ずっとリハビリ病院でいろいろな患者さんたちを見ていて車椅子から積極的に離れようとする人とそこに甘えようとする人がいるのがよくわかる。
その差は歴然としている。
リハビリの一番の目的は機能の回復と社会復帰だが、人間の脳を甘やかすとこの回復と復帰が容易なことではなくなる。
人の脳は常に全体でバランスを取っている。
どこかの機能が失われると必ず別の機能がそれを補おうとする。
目が見えない人の聴覚能力は目が見える人の何十倍も鋭い。
目の不自由な人はお酒の音と水の音の違いさえも聞き分けられるという。
生物は生き残るための術を身体の全てを使って探そうとするからだ。
それが相互補完作用であり生物の本能でもある。
もともと自殺する本能を持った生物などいない(たまにその機能が狂って集団自殺する生物がいたりするが)。
生物はみな必死に生きようとする。
恵子が今のリハビリ病院に転院した時に作業療法師さんが「きき腕を替える訓練をしましょうか?」と聞いた時、私がその作業療法士さんを烈火のごとく怒鳴りつけたのもそのためだ。
本来回復しなければいけない右腕の代わりに左腕にそれを肩代わりさせるのはほぼ右腕の回復を諦めることに等しいからだ(左腕が仕事を全部やってしまえば右手はもう自分は必要ないと思い回復するニューロンを作ろうとしなくなる)。

恵子が車椅子から自由になる日を心待ちにしている。


なんだかなあ…

2011-12-18 21:27:50 | Weblog
今年を表現する漢字が「絆」というのも日本人の心情からすると至極当然のような気もするが、一方で「なんだかなあ」という割りきれなさも感じる。
今年は3月の震災のせいで日本中が「絆、きずな」の大合唱なのだが、裏を返すとここ最近の日本に人と人との付き合いや連帯意識が希薄になっていることの証拠ではないかナとも思っている。
いま一緒に暮らしている義叔母のところにこの時期お歳暮がよく届く。
しかしよく話を聞いてみるとほとんど人づきあいのない(社交のヘタな)叔母の直接の知り合いからの届け物というよりも、既に亡くなってしまった恵子の両親へのお歳暮がほとんどだという。
故人に贈り物をする(というよりもその家族に)人たちの気持ちは、単に義理というよりも(もう義理はとっくに果たしているだろう)、昔お世話になったことへの感謝の気持ちがいつまでも残っているからなのだろうと思う。
大学教授だった恵子の父は同時に牧師でもあった。
いくつかの教会を持っていたが、ハンセン病施設として知られる多磨全生園の教会で長い間牧師をやっていた。
私も何回か教会に訪れたことがあるが、キリスト教の博愛の精神があるからと言ってしまえばそれまでだが、昔は完全に隔離されていたハンセン病施設での仕事はそれほど楽な仕事ではなかったと思う。
ただ、私が驚くのは義理の父の仕事以上にその妻である義母の日頃の生活態度だった。
牧師の妻だからなのか、彼女の本来の性格のゆえなのか、人を疑うことはまったくせずにどんな人であろうと家に快く招きいれ、時には何時間でも話し、必ず何かを持たせて帰し(見ず知らずの人にだ)、いつも笑顔を絶やさなかった義母ゆえに、亡くなった今でもその彼女宛のお歳暮やお中元が後を断たないのは理解できる気もする。
そんなお歳暮の送り主の中には、その義理の両親夫妻が家に住まわせ面倒を見ていた人たちも多いのだという。
おそらく現在の若い世代の人たちには到底信じられないようなことだろうが、今よりちょっと前の日本では(東京でも)他人の衣食住の面倒を見る、つまり家族以外の他人を居候させる家はそこら中にあった。
もちろん、何世代も一緒に同居し、今よりははるかに広い空間に居住していた時代だ。
高度成長と共に都市も田舎も一挙に核家族化が進んで、何世代もの同居や他人の同居などという風景はいっぺんに吹き飛んでしまったが、もし本当の意味で「絆」ということばを使うのだったらこの時代の人々の暮らしの方がはるかに「絆」で結ばれていたのではないのかと思う。
「卵なくなったから貸して」「お味噌貸して」と隣の奥さんが言えば、こちらの奥さんも「ああ、いいよ、はいどうぞ」と気軽に卵やお味噌を差し出す。
もちろん、「貸して」というのは方便で、実際には「ちょうだい」の意味だが、そんなことを毎日のようにお互いに近所でやり取りする光景は、何ももったいぶって「絆」なんて後生大事に言わなくても私たちは間違いなく絆で結ばれていた証拠だ。
私が今年のことばの「絆」に何か割り切れなさを感じるのはそんな切なさを感じるからなのかもしれない。

『ラストサムライ』のエンディングで作者(西洋人)と思われる人物のナレーションの中に、「日本が開国をして西洋化することによって何か日本人の大切なものが失われてしまったかもしれない」と述懐する部分があったのを妙に思い出してしまった。



病院で恵子と一緒によく食事をする。

2011-12-16 21:59:16 | Weblog
ほとんど夕食のことが多いがこちらの仕事の都合で昼食の時もある。
もちろん向こうは病院食、こちらは買ってきたものだったり自分で作ったりの弁当を食べる(入院患者は家族と一緒の時には病室ではなくラウンジと呼ばれる場所で食事をすることができる)。

以前の急性期の病院では症状に応じて点滴、流動食、軟食、普通食と変遷したが、流動食以降どんな味がするのかとずっと私も味見をしてきた(恵子は絵日記に毎日食事のメニューを記録している)。
面白いもので、食べ物というのは流動食のように形がないと中身を当てるのがとても難しいし(何しろ色以外はみんな同じだ)何を食べても同じ感触になる。
つまり食事としての楽しさはほとんどゼロに近い。
ただ、栄養が足りてるというだけで、点滴よりいくらかマシという感じだ。
軟食(嚥下食)だと多少食事らしくなってくるが、その時も恵子と二人で「早く普通のモノ食べたいネ」と言いあっていた。
普通食になってから「おっ、けっこうここの食事おいしいかも」と喜んだのもつかの間、すぐに現在のリハビリ病院に転院しなければならなくなってしまった。
そこからがちょっといけません。
同じ病院食でありながらも以前の病院との内容の違いに時々唖然とさせられる。
病院食なのだから当然栄養士さんがカロリー計算をして予算内でメニューを作っているはず(現在の医療制度では治療費も毎日の食費も病院によってそれほどの差はないようになっている=差があるのはベッド代だけだ)。
にもかかわらず(条件は同じはずなのに)食事の内容はえらい違う。
これは栄養士さんのセンスの問題なのか技術の問題なのか、あるいは環境の違いなのか(以前の病院は目黒の高級住宅地にあったが現在の病院の所在地は川崎の柿生という田舎だ)?
病院に入院している患者さんにとって食事は最大の楽しみであるはずなのに、「それがこんな食事じゃなあ…!」と私も思っているし恵子も思っているし他の患者さんもそう思っているのでは?(他の患者さんも似たようなことを言っていたのできっとそうなのだ)。
先日も病室に着くなり「今日のお昼肉うどんだったヨ」と恵子が喜こぶ声をあげるので「あ、そう」と素っ気なく答えたが、内心は「おいおい、肉うどんぐらいでそんなに喜ぶなよ…」とちょっと悲しくなった。
以前の病院ではクロワッサンや時にブリオッシュまで出てきた時もあったのに(さすが目黒)この病院で出るパンはスーパーで売っているような普通の小麦粉の食パンのみ。
まあクロワッサンにはバターがたっぷり入ってるのでカロリーを控えるという意味ではよくわかるけど、料理上手な人だったらマーガリンや別の材料でいろいろ工夫しながらおいしいパンを幾種類も作れるはず。
他の料理にしてもいかにも素朴(?)というか「これ何?」というような料理が多いのだが、味つけはほとんど味がないに等しいか薄い醤油の味がする程度の超田舎っぽい料理ばかり(よく出る豆腐ハンバーグもちょっとネ~)。
私の知り合いの男性の脳卒中患者の何人かは2か月とか3か月といった「え?それでいいの?」というぐらいの短い入院生活しか送ってこなかった人が多いのだが、その一因が病院の食事にもあるのかも?と最近は真剣に思っている。
男性は年配であればあるほど(脳卒中患者のほとんどは年輩の人たちだ)プライドと見栄にこだわる人が多いが、もう少し辛抱して入院していればいいのにと思うその気持ちを萎えさせる原因がもし食事だとしたら栄養士の責任はけっこう重いナと思う。
タニタの社員食堂のメニュー本が流行っているのも、カロリー制限と食事の楽しさという一見矛盾するように見える2つのコンセプトをちゃんと両方同時に満たしているからこそ。
やっぱり料理も音楽もセンスだ。

ここ何十年も朝の連ドラなんぞ

2011-12-13 20:51:22 | Weblog
見たことがなかったのに恵子が入院した9月の頭から朝の連ドラを見るようになった。
朝普通に起き、朝普通に食事をしている生活の中でこういうドラマを一度見始めるとそれは簡単に習慣化してしまうという感覚を久しぶりに味わっている。
私は、このテレビという物体の得体の知れない存在感が家庭の中を支配している風景が大嫌いでテレビを家には置いていないのだが、ここは人の家なので「まあいいか」という感じだ(でも、時間帯以外にテレビを見ることはまったくないが)。
「カーネーション」という有名デザイナー三姉妹のお母さんをモデルにしたこのドラマを見ていて先日驚いたのが、主人公の父親が大火傷をするシーン。
何度の火傷なのかはわからないが(この時代に火傷の階級区分などなかったのかもしれない)相当重傷に見えるこの父親は近所の医院らしき場所で治療を受けた後(ドラマではリヤカーで運んでいったからそう遠くの病院まで行ったとは思えないが)自宅で療養することになったからだ。
あれほどの大火傷で自宅に寝て治療?と一瞬思ったが、待てよ、昔はそう言えば大病院で入院なんてことはあまりなかったなと思い出した。
病気しても近所の医者が往診に来るのが普通だったし…。
まあそう考えればこのシーンは別に何も驚くにはあたらないのかもしれないが、やはり現代に生きる我々は「病気と言えば病院」という図式で見てしまう。
おそらく今恵子が入院している患者さんのほとんども昔だったらこのドラマの父親と同じように入院などせずに自宅で療養していたに違いない人たちだ。
ただ、それで本当に治るのかどうかは病気の種類や程度によっても違うのだろうが、おそらく結果その後の人生を不遇のまま過ごさざるをえなかった人も多かったに違いない。
幸い、今の医学や世の中の意識は治療、リハビリ、再生、復帰ということにとても貪欲だ。
そんな簡単に死んでたまるか、ということなのかもしれない。
でも、人の意識というのは本当にいろいろだ。
同じリハビリ治療を続けている患者さんたちにもかなりの違いがあるなといつも感じる。
病院には、いわゆる「良い患者」と「悪い患者」がいる。
これは事実だろう。
でも、これは病院にとって(都合の)良い患者、悪い患者というような意味ではない。
単に、ルールを守る患者さんとそれを無視する患者さんの違いということだ。
ドラマの中の火傷のお父さんは家で治療しているのだから守るべきルールは医者から言われたことを守れるかどうかぐらい。
しかし病院の中は大勢の患者さんが一緒に暮らす一つの「社会」なのだから、自分勝手が許されない部分もたくさんある。
さっきも恵子から携帯メールがあった。
「前のワカランチンおばさんがまた勝手にトイレに行ってしまった。看護士さんが困ってしまうゾ」。
恵子もこのリハビリ病院に移って来た当初は車椅子での移動が極端に制限されていた。
トイレに行くのもままならなかった頃だったからベッドから自力で車椅子に乗り移るのさえ看護士の立ち会いの元で、という制限がついていた。
もちろん、そういった制限は回復につれてどんどんなくなっていくのだが、現在恵子は車椅子での移動はいつでも自由だし、もうすぐ杖での歩行も療法士や看護士の立ち会いがなくてもできるような状態にまで行くと期待している(まだ、杖の歩行はそれほど上手ではないが)。
この件の同室の患者さん(ワカランチンおばさん)は、病院のルールを無視するだけではなく、社交がまったくゼロで誰ともことばを交わそうとはしない(家族の方と話をしているところを見たことはあるが)。
今日も病室に見舞いに訪れた際「こんにちは」と挨拶をしたがまったくの無言でシカトされてしまった(まあ、いつものことだから気にはならないが)。
でも、同室の患者である恵子や他の方たちはけっこう迷惑しているのでは?と想像してしまう(様子は先ほどのように恵子がメールしてくるのでよくわかるのだが)。
男性の患者さんの部屋でも同じような問題がきっとあるに違いない。
でも、男性の場合はもうちょっと勝手が違うのかナ?とも思う。
いつもナースステーションの目の前に陣取って一日中どなり散らしているオジサンはご自分の部屋の中ではどんな様子なのだろう?(本当に一日中何かに誰かに怒鳴っている人なのだ)
ちょっと興味がある。


ほら、こんなに軽く動くよ

2011-12-11 19:55:12 | Weblog
と昨日の夕食時に恵子が言った。
不自由な右手で箸を使い食べ物を口に持ってはいくものの、健常者からみたらかなりあぶなっかしい格好だ。
それでも、嬉しそうにそう見せてくれるのもきっと昼間行った病院でのコンサートのせいかもしれない。
昨日10日の午後、フルムスのメンバー4人(クラリネット、ヴァイオリン、コントラバス、ピアノ)と私で恵子の入院する病院で患者さん向けのコンサートを行った。
きっと無理矢理一番前に座らされたのだろう、恵子が恥ずかしそうに一番前の席に同室の方と並んで座っていた。
いつも見舞いに来ている家族の方々の顔も見えるし、もちろん患者さんたち、看護士さん、療法士さんたちの顔がずらっと並んでいた。
とはいえ、ちょうどこの日にお見舞いに来ていた家族の方たちも大勢いらっしゃった(コンサートを狙って来てくれたのなら有り難いことだが)。
病棟の2階と3階でそれぞれ50人以上は並んでいたので計百人以上の方に聞いていただけたはずだ。
それは、この1ヶ月以上ほぼ毎日のように病室やリハビリ室をうろつき回っている得体の知れないのオヤジの正体が皆に知れ渡った日でもあった。
「ああ、そうなんだ、この人は音楽をやる人なんだ」と認知していただけたらそれだけで十分ではある。
この日コンサートがあることを知ってわざわざお見舞いに来てくれた人たちもいた(いちどきにいろんな人のお見舞いを受けて恵子はビックリしていなかったかナ?)。
演奏メンバーやお見舞い客が帰られた後二人で食事をしている時(この病院は家族がいる時は病室で食べなくてもよい決まりになっている)、冒頭のセリフが恵子の口から飛び出したのだ。
きっと「音楽を聞いたからこんなに軽い動きができるようになったよ」と言いたかったのだと思う。
音楽家である私への精一杯の配慮だろう。
とても嬉しいと同時にこんなにも気を使わせているのかとすまない気持ちにもなった。
二人で「明るいリハビリ」を頑張ろうと毎日戦っているのだが、お互いに気持ちの浮き沈みはあるので、この心づかいにちょっと泣けてしまった。

その翌日である今日は、介護施設にまた別のフルムスメンバー8人を連れての演奏に行った。
演奏というよりは、私が長年考えてきた介護と音楽のあるべき姿を試す意味でのトライアルだ。
私は、音楽は絶対に一方的な作業ではいけないと思っている。
「音楽はコミュニケーション」。そう位置づけてきたし、おそらく人類史の中でも音楽の基本的な姿はそういうものだろうと思っている。
だからこそ、音楽が人の気持ちをほぐし、癒し、そしていわゆる人と人との「絆」を深めることができるのだろうとも思っている。
だとしたら、音楽が医療や介護や看護の現場で役にたたないはずがないとずっと思い続けてきた。
それをきちんとした形で世の中に示していきたいというのが私の考え方だ(もちろんそこにお金を払って買っていただきたいのだ)。
今の介護施設での音楽のあり方は絶対に間違っている。
そう思ってきたからこそのこうした介護施設を経営する企業へのアプローチを昨年からずっと根気よく続けてきた。
今度の震災でもそう確信したが、人が大事な仕事を行う時ボランティアをアテにしていては絶対にダメだということ。
これは確信を持って言える。
ボランティアには「責任」がないのだからいつでも「や~めた」と逃げることができるしそれを強制もできないのだ。
人には「悪意」も「善意」も両方備わっている。
だからこそ、どちらかだけをアテにはできないのだ(人間が善意だけの存在ならアテにしても良いのかもしれないが)
介護のような「大事な」仕事にボランティアをアテにするような風潮がここ何年も続いていることを私はもっての他だと思っている。
大事な仕事をやるためにこそ「プロ」が必要なわけで、それを担うにはそれなりの覚悟と献身と技術がいる。
しかもそれは高いレベルでの技術や覚悟だ。
それを見せるために行った今日の施設でのトライアル演奏だったのだが、これが成功したかどうかを決めるのはこの施設に暮らしている人たちだと思う。
具体的には企業がそのサービスを「買ってくれる」ことが「成功した」としたということの証にはなるのだが、このサービスがこれからの介護にとって絶対に必要だという確信を持っている私としてはこれからもやり続けていくしかない(仮にこの企業が買ってくれなければ新たなクライアントをとことん探していくまでだ)

音楽の必要性は介護だけでなくリハビリにもある。
それはいつも言っていること。
問題はそれにいつ誰が気づいてくれるかだ。
気づいてくれるまで「やり続ける」しかないだろう。

ひと筋縄ではいかない

2011-12-07 20:58:53 | Weblog
と、この頃痛切に感じるのがリハビリ。
一見右肩上がりのように見えていた恵子の回復も最近「ひょっとしたらまた逆戻りしてる?」と思える時がある。
特に、手の回復はイライラするぐらい遅々として進まない。
最近はその上「しびれ」が加わっているので無理な動きがとてもつらそうだ。
昨夜たまたま仕事上の打ち合わせを銀座でしたのだが、会食兼ミーティングのお相手だった芸能界の長老フィクサーS氏も最近脳梗塞から復帰した方だ。
彼の場合幸いにも手や言語に全く障害はなかったものの足は杖をつきながらつらそうに歩かれる。
私がぜひ参考にと「リハビリ病院にはどれぐらい入院なさっていたのですか?」と聞くと「1ヶ月」という答え。
こちらは「え~っ、たったの1ヶ月!?」という感じなのだが、S氏曰く「あんなとこ1ヶ月もいたら一通りこなせるし…仕事も山ほどあったし」。
「いや、こなせるこなせないの問題ではなく…」と喉までことばが出かかったが人生の大先輩であり芸能界の実力者でもある彼にあまり批判めいたことも言えない。
男の人はえてしてこういう病院でも施設でも自分のそれまでのキャリアとプライドで物事を判断なさる人が多い。
偉い人、あるいは偉かった人ほどそうなるのではないだろうか。
このS氏ももうちょっと病院で我慢してリハビリをなさればもうちょっとつらくない状態が作れたのでは?と別れ際思ってしまった(ちょうど雨のシトシト降る銀座の路上を歩くのはつらそうですぐにタクシーを拾って帰られた)。

とはいえ、恵子はある意味最大限病院での治療を続けたいと思っているのだが、今日も身体障害者手帳の申請手続きのことや年末の一時帰宅のことなどでソーシャルワーカーの方と相談をしていたら現在の病院や保険のシステムのことなど知らないことがたくさんあることにちょっと驚かされた。
年末の一時帰宅にしてもその間だけ介護ベッドを借りて入れようと思っても介護保険と医療保険は同時には使えないことや(でも、最近介護ベッドはかなり余っていて超安いらしい)、通院治療をする時に身障者手帳がとても便利に使えることなどいろいろワザを教えてもらったが、ある意味日本の保険生制度はうまく使えさせすればそれほど悪い制度でもないような気がする。
今回のようなリハビリにしても回復期病院に日本は最大180日(つまり半年)までで入院できることになっているがアメリカの場合国民健康保険がないのでそんな長い間入院していたら普通の人は確実に破産してしまう。
なので、アメリカのリハビリ病院の実質的な入院日数はせいぜい1ヶ月程度だ。
そんなんで治るのか?と例のS氏の例を見て思ってしまうのだが、やはり国が違えば医療や保険の制度はまるっきり違ってしまう。
もちろん北欧のようなシステムであれば入院費用の心配もしないでも良いのだろうが、ある意味、日本の制度はいろんな国の「いいとこどり」で何のコンセプトもない中途半端なシステムではあるが、とりあえず使い勝手はありそうだと今日のソーシャルワーカーさんの話を聞いて思った次第だ。


私死にたいんですけど…

2011-12-04 20:46:51 | Weblog
と言って本当に死ぬ人は少ないと思う。
これがもし若い人の口から発せられたことばならばきっと精神的に問題があるのか人生そのものに希望が持てなくなってしまったのかなと考えるのだが、これがお年寄りのことばだとするとまた事情は変わってくる。
得てしてお年寄りの場合の「死にたい」は単なる我が儘の場合が多いからだ。
恵子の隣のベッドのお年寄り(82歳)は一ヶ月ほど前入院してくるなりいきなりこのことばを発した。
でも、日がたつにつれご家族が入れ替わり立ち替わり来る様子を見ると、「ははん、この方は単にいろいろ我が儘をいろんな人に言いたいだけなのだな」とわかってくる。
恵子の同室の患者さんは現在たまたま整形外科の患者さんたちばかり。
つまり恵子のような脳疾患で麻痺になったような患者さんというわけではなく骨折とかリュウマチとかそういう類いの患者さんたちなのだ。
以前は脳梗塞の患者さんも同室にいて、ある意味、恵子にとっても見習うべき「先輩」がいたのだが今はもう退院していない。
なので、恵子にとっては「自分のことをわかってくれる」人、あるいは「自分の症状を話せる」相手が今とても少ないのだ。

今日も日曜なので私以外に見舞い客がいたがその人が帰るなり恵子が「普通の人は私がきっと普通に見えるみたいでちょっと疲れる」と言った。
つまり私のように病状や経過やつらさを理解していない人と一緒にいるとそれだけで疲れるということらしい。
でも、それもある意味病人特有の我が儘な部分なのでは?と思ってしまう。
私は確かに恵子の発症から現在までをつぶさに知っているし何十年も一緒に生活しているのだから他の誰よりも彼女の気持ちを理解しているつもりだが、私は正直言って彼女の痛みやつらさの本当のところはわからない。
いつもそれをわかろうとしているし、何となくわかったようなつもりにはなっているけど、私は彼女の身体を持っているわけではないので本当の本当のところは私にもわからない。
でも、最近は冗談をいいながら「このまま倒れたら怖いだろう」とベッドに寝ている彼女の上に倒れ込む真似をすると、「わあ、それ見るだけで身体がしびれてくる」と言ったりする。
最近の彼女の腕や手には「しびれ」があるのだと言う。
確かに、発症以来これまで「しびれる」という表現をあまり聞いたことはなかった。
「感じない」「変な感じ」「ちょっと痛い」とかいったことばはあっても「しびれる」という表現はここ最近だ。
これも彼女曰く「正座した後のあのしびれに似ている」という。
つまり、恵子に言わせると「治ってくる途中経過みたいなものなのかナ?」と、だんだん自己分析をするようになっている。
そして、私が例によって脳の本とかリハビリの本を読みあさっているのを見て、「あんまり頭でっかちにならないようにね」とウルサク釘を刺す。
そしてトドメは「本の中身は私にもちゃんと見せないとダメよ」だ。
私がこれまでたくさん本を出してきたS社からこの体験を本にして出版することを知っているからだ。
「印税の半分は私にも権利があるのよ」と冗談を言う。
まあね…とことばを濁す私だが、彼女の右手をさすりながら「右手の方がはるかに左手よりツヤツヤしている」と言うと、彼女も「そう。看護士さんもみんな全然違うネと言っていくから左手もマッサージしないとダメかもネ?」。
右手のむくみが少しずつ減っている分、リンパマッサージを片側にばかりし過ぎている成果(?)がこんな形で現れたのかもしれない。

また一つ階段を上がった

2011-12-01 01:21:46 | Weblog
ような気がする。
車椅子を離れ杖での自力歩行の第一歩が始まった。
まだ一階のリハビリ室から2階の自分の病室までの数十歩に過ぎないがここにたどり着くまでの時間と道のりを考えると「やっとここまで来た」という気は正直する。
明日がちょうど発症から3カ月目。
まだ最終目標に到達したわけではないがそこへの道筋がはっきり見えてきたことは確かだ。
すぐに思いだされたのが最初の病院でよく買いに走った紙オムツのこと。
オムツをしなければならないという屈辱とそれを当たり前のこととして受け入れなければならない状況は今思い出してもなぜか切ない。
恵子がオムツをしたままベッドに横たわっていた日々が急に思いおこされた。

私は、入院3週目に紙に書いて恵子にこんな目標を示した。
「 第一関門=一人でトイレに行けるようになる!

第二関門=車椅子なしで移動できるようになる!

第三関門=右手で箸が持てるようになる!

第四関門=杖なしで歩けるようになる!

第五関門=右手で絵が描けるようになる!

以上の動作をするために
正しいイメージで「手と足」を動かすことを脳に働きかける。
常に正しいイメージトレーニングをする。
音楽を聴いて心をリラックスさせる。」

というものだ。
この2番目の階段にやっと足がかかったわけだ。
常に「正しいイメージ」を作りあげることを心がけてきた二人だったが、ひたすらこの達成目標そのものをイメージすることによって目的をどんどん手元に手繰り寄せてきたのかもしれない。

そういえば今日恵子は左手で不自由な右手をさすりながらこんなことを言っていた(彼女は私がしていない時は自分自身でもリンパマッサージをするよう心がけている)。
「この自分の手を触っているとだんだんイメージできるようになってきたの」
「何をイメージできるんだよ?」
聞けば彼女の頭の中で絵を描いている自分がイメージできるようになってきたのだそうだ。
「絵なら今でも描いてるじゃないか」
「そうじゃなくて、ちゃんと前のように絵筆を使って絵を描くイメージが持てるようになったの。なんか描けそうな気がする」
そうか、クレパスで描いている絵と絵筆を使う絵とではかなり開きがあるもんな。
軽くなでていけば絵を描くことができるクレパスと常に繊細な筆さばきが必要とされる絵では脳から来る「指令」にもきっと相当な開きがあるに違いない。
そんなことを考えながら病室を後にして帰り道廊下を歩いていたら看護婦長さんから「みつとみさん、今日嬉しそうね。何かいいことあったの?」と言われてしまった。
どこまでもわかりやすいヤツだ。