いろいろあるけれども、長年音楽の仕事をしてきて一番困ることが、音楽を実際に演奏する側、それを聞く側、そして、その両者をつないでさまざまなイベントや商品を作るスタッフ側の利害が必ずしも一致しないことだ。
それは、立場が違えば利するものが違うのは当たり前、と言いきってしまっていいものなのかどうなのかといつも悩む。
私は、音楽がアートであろうが、エンタテインメントであろうが、ビジネスであろうが、音楽を楽しむというポイントにおいては何の違いもないと思っている。
よく刑事裁判の根本原則が「疑わしきは被告人の利益に」というポイントにあると言われるが、音楽において「すべての利益は聴衆のもの」であるべきだと私は思っている。
多分、ここが一番日本と欧米と違うところなんじゃないのか? ここが日本が明治以降日本が洋楽をやってきた中でずっと勘違いをしてきてしまったポイントなんじゃないだろうか。
単純に「音楽は誰のもの?」みたいな設問を作ってもいい。
音楽は、作曲家のものでも演奏家のものでもない。音楽は聞く人のためのものだし、「誰に」向かってメッセージを送るかというポイントをはずしたら音楽の意味なんか何にもなくなってしまう。
もちろん、アマチュアが自分たちの楽しみのために音楽をやることは何ら否定されないし、そういう「楽しみ方」もあっていいと思うけれど、プロの音楽家、あるいはプロの音楽スタッフがこの大原則「すべての利益は聴衆に」を忘れてしまったら本当に「音楽って何?」になってしまう。
この原則の上にたてば、演奏家が小さい頃から毎日飽きずにひたすら楽器を練習して、指を訓練し、いろいろな修練をするのも「すべては聴衆の楽しみ」のためだし、けっして「先生のため」でもないし「コンクールのため」でもないことは素直に理解できるはずなのだがそれがどこをどう間違ったのか、日本の音楽は「何かを伝える」ことでもなく、「誰かに楽しみを与える」ためでもなく、ただひたすら「ひとりよがり」になってしまった。そんな状況が明治以降の日本の音楽史なのではないだろうか?
いくら何でもそこまでオーバーに言うこともないんじゃないのと思う人もいるかもしれないが、いつまでたっても音楽家が音楽で生計をたてることができないのは、きっとそんなところに根本的な理由があるはずだと私は思っている。選挙のスローガンではないけれど、「立ちたい人より立って欲しい人」だ。音楽家が「聞かせたい音楽」ではなく、聴衆は「聞きたい音楽」を求めているわけで、それが与えられない限り日本で本当の音楽文化というのは根付かないのではないだろうか。
こんなことを考えるのも、毎日いろんな人からいろんなオファーをいただいたり、提案したりしているうちにそういう「難しさ」に毎日遭遇しているからだ。音楽との「いい出会い」を求めてきた人が「今日は来てよかった」と本当に思っていただける「出会い」を作るために日々努力しているのだけれども、それが思うようにならない出来事に遭遇するたびに悩み、立ち止まり考えてしまう。
「どうやったら普通に普通の人たちがもっと音楽を楽しむことのできる環境を作れるだろうか?」
こんなことを考えている人たちはきっとたくさんいるはずなのにナ。
それは、立場が違えば利するものが違うのは当たり前、と言いきってしまっていいものなのかどうなのかといつも悩む。
私は、音楽がアートであろうが、エンタテインメントであろうが、ビジネスであろうが、音楽を楽しむというポイントにおいては何の違いもないと思っている。
よく刑事裁判の根本原則が「疑わしきは被告人の利益に」というポイントにあると言われるが、音楽において「すべての利益は聴衆のもの」であるべきだと私は思っている。
多分、ここが一番日本と欧米と違うところなんじゃないのか? ここが日本が明治以降日本が洋楽をやってきた中でずっと勘違いをしてきてしまったポイントなんじゃないだろうか。
単純に「音楽は誰のもの?」みたいな設問を作ってもいい。
音楽は、作曲家のものでも演奏家のものでもない。音楽は聞く人のためのものだし、「誰に」向かってメッセージを送るかというポイントをはずしたら音楽の意味なんか何にもなくなってしまう。
もちろん、アマチュアが自分たちの楽しみのために音楽をやることは何ら否定されないし、そういう「楽しみ方」もあっていいと思うけれど、プロの音楽家、あるいはプロの音楽スタッフがこの大原則「すべての利益は聴衆に」を忘れてしまったら本当に「音楽って何?」になってしまう。
この原則の上にたてば、演奏家が小さい頃から毎日飽きずにひたすら楽器を練習して、指を訓練し、いろいろな修練をするのも「すべては聴衆の楽しみ」のためだし、けっして「先生のため」でもないし「コンクールのため」でもないことは素直に理解できるはずなのだがそれがどこをどう間違ったのか、日本の音楽は「何かを伝える」ことでもなく、「誰かに楽しみを与える」ためでもなく、ただひたすら「ひとりよがり」になってしまった。そんな状況が明治以降の日本の音楽史なのではないだろうか?
いくら何でもそこまでオーバーに言うこともないんじゃないのと思う人もいるかもしれないが、いつまでたっても音楽家が音楽で生計をたてることができないのは、きっとそんなところに根本的な理由があるはずだと私は思っている。選挙のスローガンではないけれど、「立ちたい人より立って欲しい人」だ。音楽家が「聞かせたい音楽」ではなく、聴衆は「聞きたい音楽」を求めているわけで、それが与えられない限り日本で本当の音楽文化というのは根付かないのではないだろうか。
こんなことを考えるのも、毎日いろんな人からいろんなオファーをいただいたり、提案したりしているうちにそういう「難しさ」に毎日遭遇しているからだ。音楽との「いい出会い」を求めてきた人が「今日は来てよかった」と本当に思っていただける「出会い」を作るために日々努力しているのだけれども、それが思うようにならない出来事に遭遇するたびに悩み、立ち止まり考えてしまう。
「どうやったら普通に普通の人たちがもっと音楽を楽しむことのできる環境を作れるだろうか?」
こんなことを考えている人たちはきっとたくさんいるはずなのにナ。