みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

至福の時

2011-02-18 21:33:55 | Weblog
なんていうどうしようもなく陳腐なタイトルから始めてしまったが、他に適切なことばを思い浮かべることができないのであえてそう呼ばせてもらう。
今日は満月。
当たり前だが月が大きい。
月が大きいということは月明かりも明るいということで、毎晩のように家の灯りを全て落としてお風呂に入るのが私の「楽しみ」になっているのだが(月明かりと海を楽しむために)、満月の夜はもうこれ以上何も望むものはないというほどに「至福の時」を過ごすことができる。
自宅にある温泉につかりこうこうと照らす月明かりとその月の反射する海の水面を楽しむ時間が何ものにも代え難い。
こんな贅沢をしていいんだろうか?と貧乏性の私は折角の楽しみに自らの気持ちに水を差す(笑)。
きっと周りがシーンと静かなのも良いのかもしれない。まだ冬なので、獣たちもみんな騒がない。これが夏であれば、虫や何やらウルサい生き物たちもいるのだが、この季節は本当にシーンと静まり返っている。
昨日は、雨と風で嵐のようだったが、今日は打って変わって静かな満月の夜だ。

昼間、文芸春秋に載っていた芥川賞の2作品を一気に読んだ。
朝吹真理子さんという受賞作家は文学一家に育ったサラブレッドの女性。ともう一人の西村さんはフリーター生活を長きに渡って送ってきた男性。
本当にタイプの正反対の二人の人間の作った作品を読むとやはり、文学作品も音楽と同じで人が作るモノという感を否めない。
ものすごい繊細で計算され尽くした巧みなことばが次から次に紡ぎだされてくる朝吹さんの作品と、いかにもフリーター男性の粗野な生き方が作品として昇華されたものを読み比べると今回の芥川賞が「どちらか一方を選べなかった」という事情もわかるような気がする。
ただ、私は、この2作品とも個人的にはあまり好きではない。
朝吹さんの作品は、「めちゃくちゃ文章が上手」だと思う。だけど、ことばの使い赤があまりにも上手なせいかことば遊びが過ぎるような印象だ。
ちょうどあまりにも上手な楽器の演奏を聞くと逆に音がうすっぺらく聞こえてしまうのに似ているかもしれない。
そして、一方の西村賢太さんの作品は日雇い労働にありつく主人公のフリーターとしての生活の中身や心情はよくわかるけど(私も学生時代は同じような経験はしたことあるので)、だから何?という感じが最後までした。
これら2つの作品に共通な私の不満は、どちらもストーリーがほとんどないということ。つまり、何も起こらない。何もドラマがないということだ。
別に小説にはドラマチックな展開が必要不可欠なわけではないけれど、私の個人的な趣味からすれば何らかの「ドラマ」はあって欲しいと思う。
人の心理や状況のこと、社会性、そしてディテールなどはやはり芥川賞に選ばれるだけあってものすごく上手なんだろうけど、読み終わって「それで、何が言いたいの?」と私なんかは思ってしまう(特に朝吹さんの文章はディテールがあまりにも上手なので余計にそう思えてしまう)。
表現っていうものを多分どうとらえるかなのだろうなとも思う。
音楽はすごく抽象的な表現なので「それで何が言いたいの?」と言われたら「別に」となってしまうようなものもたくさんあるだろうけど、でもそれが表現である以上、絶対に「何かは言いたい」のだろうと思う。
でなければ、音楽を作る必要もないし絵を描く必要もないし、小説を書く必要もないのでは?と思ってしまう。

私は、少なくとも、これまで音楽作品を作ってきたのも、演奏をしてきたのも、本を書いてきたのも、私の中に「表現したいこと」「言いたいこと」があったからだ、
という意味で言えば、朝吹さんにも西村さんにも絶対それはあるはず。
でも、それは私にはストレートには理解できなかった。
要するに、私にはピンと来ないというだけのことなのだろうけど(でも、やはり文章は上手です。二人とも)。

4人のグラミー賞

2011-02-14 23:19:16 | Weblog
いつも海外のコンクールで誰かが優勝したりすると相変わらず「日本人はすごいですね、快挙ですね。世界で後退している日本の評価がこれで上がりますね」なんて馬鹿なコメントをしている人たちがいるけれど(大半がそうだけれど)「おいおいちょっと待てよ」だ。
これって日本人の才能が評価されただけであって決して日本の評価が上がったわけではない。
むしろその逆で彼ら4人を評価したのは外国であってけっして日本ではないということを忘れてはならない。
松本さんにしても内田さんにしても上原さんにしても(もう一人のお琴の人のことはよく知らないが)ずっと前から外国で評価されている。
今回のグラミー賞で評価されてということは、日本という国は音楽や文化を何も評価できない国だということを逆に宣言しているようなものでは(むしろ、かえって恥ずかしいことなのでは?)。

私は前から口を酸っぱくして言っているのだが、演奏家の技術レベルが上がることとその国の文化レベルが上がることは必ずしも一致しないし、そのことで日本はこれまでずっと勘違いをし続けている国なのだ。
明治維新で急に洋楽を勉強し始めた日本人は明治十九年にはもう既にオペラを上演していた。このことをどう見ればいいのか?(日本人にはそれだけ器用な人が多いということだろう)
世の中の人たちが洋楽のドレミファのファとシの音程が歌えなくてしょうがなく「ヨナ抜き音階」なんていう変てこりんな音階を作らざるを得なかったそんな状況でもオペラを上演していた国だ。
このアンバランスさは昔も今も変わらない。
自称音楽家(私もその一人だが)がゴマンといてその九割以上は経済的に自立できない状態なのにも関わらず、グラミー賞を4人も受賞したり世界最高のオーケストラ、ベルリンフィルのコンマスに日本人がなったりするこのアンバランスさこそがある意味「東洋の神秘」「東洋の不可解さ」なのかもしれないのだが果たしてそれはいいことなのか悪いことなのか?

ただ、それにしても最近のFACEBOOK報道にしてもグラミー賞報道にしても日本のメディアというのはどうしてこうトンチンカンな報道しかできないのだろうか?
ちょっと情けない。

ハダカの王様

2011-02-10 19:45:17 | Weblog
というよりは、「誰がネコの首に鈴をつけるのか?」といった話。
私は、自宅にTVを持っていないのでTVを見る機会というのは東京に滞在する時に常宿にしている家での話になってしまうのだが、その数少ないテレビ鑑賞のタイミングでもこれまで何回見たことかわからないほどの頻度で見るCMがある。
パチンコ屋さんのCMで日本の有名なポップスの女性歌手W氏が歌っているCM。彼女のリードで他の人たちもつられて一緒に歌っていくといった設定なのだが、問題はその彼女の歌唱。紅白でもトリを歌うような人なのだからご自分では歌唱に相当の自信がおありだろうが、その放映されているCMでの彼女の音程は明らかにハズれている。これはきっと私だけでなく誰しもが感じているに違いない。
先日もある人から指摘された。
その方ははっきりと「あれは気持ち悪い」と断言された。
その点に関しては私も同感だ。
この歌唱の主である有名なW氏は、芸能界では相当高い地位の持ち主であるがゆえに、きっとあのCMの歌のレコーディングでディレクター氏は「ダメ」を出せなかったに違いない。
通常のレコーディングであれば、例えそれがCMなどの録音であってもスポンサー、広告代理店、ディレクターなど「ダメ」を出す人たちはまわりにたくさんいる。
きっとあのCMの場合も周りに相当の人たちがいたはずなのだろうが、結果的に誰も「ダメ」を出さなかった。だから、あのCMがオンエアされている。
このことをご本人はどう思われているのだろう?
あの音程で「うん、いい」と納得されたのであれば、もはや歌手とは言えないだろう。
でも、誰もネコの首に鈴はつけられない。
かくして「ハダカの王様」は今日も日本の芸能界の宮殿を闊歩して歩くことになるのだろうが、こういう状況というのはご本人にとってもきっと恥ずかしいことだろうし、日本の音楽芸能界が「この程度」という風に見られるだけで日本にとってもあまり良いこととは言えない。
たかだ音程の問題というなかれ。
これは、日本の音楽芸能(ひいてはアート、エンタテインメント全体)の根本的構造に関わる問題なのですから。