みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

ほら、これもできるよ

2013-11-11 20:26:39 | Weblog
そう言って恵子は、私の運転する横で小さなポシェットのジッパーを開けてみせてくれた。
今日リハビリ病院に行く途中の車内の出来事だ。
これまで彼女は、ジッパー式の服はそれがジッパーというだけで着るのを全て諦めていた。
ボタン式の服だけを選び、ゆっくりと「亀のような」動作で時間をかけながら片手で着ていく。
なので、それがたとえどんなにぎこちない動作であっても今日彼女がポシェットのジッパーの開け閉めを自分一人でできたということは、彼女にとっての「革命」とも言える出来事だ。

この一件だけでなく、彼女は最近とみに前向きだ。
精神的に落ち着いてきたのだろう。
私が言う前からいろいろなことにチャレンジして、自ら「できる」という感覚を味わおうとしているようにも見える。
食事のテーブルに着く時も以前は私が椅子を引いたり出したりして彼女が座るのを完全に手助けしていたが、最近はその動作を自分一人でゆっくりと片手だけでやろうと試みる。
片手だけで椅子を引っ張ったり押したりするとなかなか真っすぐには動いてくれない。
それでも、彼女はそれを少しずつ修正し、ちゃんと食事のテーブルにつこうとする(私が手伝おうとすると怒る時すらある)。
そして、今朝のポシェットの一件だ。
子供が初めてトライした動作に成功した時のような満面の笑みと明るさで私に「ほら、できるよ」と報告する。
本当に嬉しそうだった。

彼女がこれほど日常の動作に前向きになったのには、あるキッカケがあった。
それは、つい2週間前に体験したショートステイだった。
それまで彼女がショートステイを経験したことは一度もなかった。
普通、世の中では介護老人を家族が何泊か介護施設に預けることをショートステイと言っているが、これまで私たちはこの制度を一度も利用したことがなかったのだ。
現在の介護保険の枠組みの中では要介護認定の五段階あるランクに応じて月に泊まれる日数が決まっているのだが、彼女の介護度では月の半分ぐらいはショートステイを利用できるはずだった。
けれども、私たちはまだ一度もこの制度を利用していなかった。
別にその利用に抵抗があったわけでも何でもなく、単にその「機会」がなかっただけのことだった。
たまたま2週間ほど前私が一泊で東京に仕事がり、その時試しに一度預けてみようという気になったのだ。
彼女も「うん、やってみる」と言ったが、内心はきっと不安だったはずだ。
しかし、その施設はとても奇麗で清潔そのもの。
しかも個室で、24時間介護士も看護士もいる。
ある意味、病院に入院しているようなものだ(4人部屋の病院より良い環境かも?)。
あとは恵子がどう思うかだけだった。
地域包括支援センターの人たちも、「他は老人ばかりで恵子さんにとって話し相手になるような人もいないので退屈なんじゃないのかな?」と心配をしてくれた。
しかし、彼女はこの「体験」から急激に変わった。
きっと彼女のチャレンジ精神に火がついてしまったのかもしれない。
以来、家の中で積極的に新しいことにトライするようになったのだ。
もちろん、まだ「できないこと」の方がはるかに多いのだが、少なくとも気持ちが前向きになることは、彼女の回復にとって何よりも明るい材料だ。
事実、今日のリハビリでも理学療法士のIさんが、「これだけ足が柔らかければもうそろそろ装具を外しても歩けるはずですよ」と言い、彼女をベッドの脇に裸足で立たせ「5分じっと立っていてください」とストップウォッチを押す。
これまでの彼女にとって最大の課題は「持久力」。
立ったと思った次の瞬間にはすぐ座っていた彼女だけに「5分本当にもつのかな?」と疑問だったが、結果は5分を余裕でオーバーし、Iさんも目を丸くする回復ぶりだった。
これですぐに装具なしで歩行、と一気に行けばよいのだが、ことはそれほど単純でも簡単でもない。
おそらくまだその「実現」には数ヶ月を要すると思うが、今日のこの結果や彼女の前向きさを見ているとそれも単に「時間の問題なのかな」という気もする。

本当の主婦の人たちが

2013-11-06 20:19:17 | Weblog
どう思うのかよくわからないけれど、主夫としてここ二年以上の月日を過ごしてきて時々ふと哀しくなってしまう瞬間がある。
それは、洗濯物を干している時だ。
おそらく、主婦の人たちがご主人の下着を洗濯したり干したりすることには何の抵抗もないのだろうが、立場が逆転して、私のような男性が妻の下着を干している時に感じるあの何とも言えないような「切なさ」と「哀しさ」の入り交じった感情はどう説明すればわかってもらえるのだろうか。
別に洗濯すること自体には何の抵抗もないし、掃除をすることも料理を作ることにも何の抵抗もないのだが、妻の下着を洗うという行為に何ともいえない「哀しさ」を感じてしまうのは一体なぜなのだろう。
元気だったらもちろん彼女が自分で洗いたいだろうし自分で干したいはずのものだ。
それを私が手に持っているからそんな気持ちになるのだろうか。
男性の下着を女性(主婦)が洗うことに何の抵抗もないのは、それが世の中では当たり前を思われているからではないだろう。
きっと女性の脳と男性の脳には決定的に違う何かが存在しているからなのかもしれない。
そうでなければ、私の感じるあの「哀しい」感情をどう説明できるというのだろう。
もし同じような立場の男性がいるならば、ぜひ気持ちを聞いてみたいものだと思う。

本当は、買い物も早く一緒にしたいと思っている。
売り場をゆっくりゆっくりと回れば今でもできないことはないのかもしれない。
しかし、買い物の途中で歩けなくなってしまったらとか(今の彼女の身体には持久力というものが根本的に欠けている)を考えるために買い物も相変わらず自分一人の仕事だ。
もちろん、こんな時間が永遠に続くとは二人ともまったく思ってはいない。
医者が何と言おうが、療法士が何と言おうが私と恵子は最初っから「完全復活」しか考えてこなかった。
そのための方法論を二人で考え着実に実行してきている。
今日もリハビリ病院で同病の人たちの訓練を横目で見ながら、いけないと思いながらも心の中でつい恵子と他の人たちの回復の度合いを比べてしまう。
歩行だけ見ていると健常者とそれほど変わらないような人でも手の痙縮(けいしゅく=筋肉のつっぱり)がかなり残っていて「きっとこのままだとあの痙縮は元に戻らないだろうな」と思われるような人もいる。
かと思うと、逆に、手の動きはスムースなのにずっと車椅子から降りられないでいる人もいたりする。
麻痺の程度もいろいろなのだから回復の度合いも人によって異なるのは当たり前なのだろうが、私と恵子の中での回復のプロセスはいつも二人で同じイメージを作っていくことで進行してきた。
スポーツのイメージトレーニングと同じように、「こうなっていて欲しい」という具体的なイメージを脳に描くことで脳がそれを獲得しようとするその力を信じてやってきたのだ。
筋肉のつっぱりはまだあるものの(肩の力が抜ければあの緊張も取れていくはずなのだが)、恵子の手の形はどんどん健常者のそれに近づいている(最近は親指の付け根の肉球も少しずつ膨らんできている)。入院中から現在も続いているキーボードトレーニングが多少の成果をあげているのかもしれない。
まだ箸や鉛筆を持つと震えるが、家のチェンバロを弾く彼女の手はほとんど震えない。
これも失語症の人が「歌」は歌えるけど会話は明瞭ではないということに似ているのかもしれない。
音楽というものが私と恵子の間にあるおかげで他の脳卒中患者の回復にはない「何か」が得られたのだろうか。
昨日私は変な夢を見た。
友人が「奥様の様子はいかがですか?」と尋ねるので、「見ての通りまだまだ大変ですよ」と言おうと思った瞬間、恵子が軽快に私と友人のところにスキップをしながらやってきたのだ。
これに驚いた私があわてて友人に弁解をしようとしているというオチのついた夢だった。
ほとんど「願望」のなせる夢なのだろうが、夢から醒めた瞬間現実とのギャップをあまり感じなかった私は、「そんな日が来るのもそう遠くはないのかも」と心のどこかで思ったことも確かだった。

入試問題

2013-11-02 10:11:17 | Weblog
に初めて自分の著書(『オーケストラとは何か(新潮選書)』)が使われたのは、ちょうど二十年前の聖心女子大学の入試問題だった。
入試シーズンもとっくに終わった五月頃に突然大学から一枚の断り書きと共に入試問題(国語問題)が送られてきた。
さすがに「え?!」と驚くと共に「なんで事後承諾なの?」という疑問も同時に湧いた。
確かに、自分の関係者に同大学の受験生がいたとしたら公平性を欠くわけだから事後承諾はやむをえないのかなと思う反面もう一つ疑問も湧いた。
「印税はどうなっちゃうの?」。
例えば、新聞の記事が入試に使われようが作家の著書が使われようが「入試は営利事業ではないので、著作権法の特例にあたる」という訳のわからない理屈で入試問題に印税は発生しないのだという(この理屈に「そうだね」と素直に納得できる人はきっと少ないだろう)。
その当時このことをある週刊誌で告発記事にしてもらったが、そんなことぐらいで法律が簡単に変わるわけがない。
今もそのまま入試問題は著作権法の網の目をくぐりぬけて(というか、著作権法に守られて)大学側は「タダで全ての著作を使い放題」を決め込んでいる。
まあ、それがたったの一回ぐらいだったら入試に使われたことが私にとっても「名誉なことだ」で済むかもしれないが私の著書は、この二十年前の聖心女子大以来毎年どこかの入試で使われ続けている。
私がこれまで出した8冊の本全てが国語入試問題の格好のネタになっているが(先生たちは、天声人語のような新聞のコラムとかこういう本から入試問題のネタを探しているということだ)いい加減「印税ちゃんと払ってくれよ」と言いたくもなってくる。
幸いなことに、私はある著作権管理団体の会員なので、この団体が細かくチェックをしてくれていて入試問題そのものにギャラは発生させられなくても、「入試問題集」で発生した印税はきちんと徴収してくれる。
今年も幾つかの高校入試や中学入試に私の『音楽はなぜ人を幸せにするのか(新潮選書)』が使われたらしく、微々たる印税が振り込まれていた(問題集だと、たくさんの問題の中の一つなので、私に振り分けられる印税は本当に微々たるものだ)。
そして、私は今ちょうど次の著作のゲラの校正をしている最中だ。
今度の著作、これまでの8冊とはまったくタイプが違う。
ジャンルとしては、いわゆるドキュメンタリー本になる。
恵子の病気とこれまでの介護生活のことが中心に書かれているのだが、単なる「闘病記」ではないし最初からそのつもりで書いてはいない。
その類いの本なら私があえて書く必要もないと思ったからだ(世の中には患者本人や家族によるいろいろな病気の闘病記がたくさん出版されている)。
恵子の発病は確かに一つの大事なキッカケにはなったのだが、私は、もっと大きな視野で「音楽と病、音楽と介護との関連」を自分の体験を通して書こうと思ったのだ。
事実、私はこの本をキッカケに「音楽が介護に果たす役割」が大きく変わってくれたらと本気で思っている。
なので、著作中には、昨年から行っているある介護企業の経営する数十の介護施設での音楽体験や私が始めた女性オーケストラ<フルムス>の活動のこと、MUSIC-HOPEプロジェクトの話なども随所に登場する。

私は、小さい頃から音楽が単なる「個人の趣味」のような存在であることに強い疑問を持っていた。
個人的に「クラシック音楽が大好きだった」ことは確かだし、フルートという楽器を習いその音楽をこよなく愛していた人間であることも確かだ。
しかし、同時にこんな疑問も持っていた。
「もし、西洋のクラシック音楽を知らない人が初めてクラシック音楽を聞いたらどのように感じるのだろう?私と同じようにはきっと感じないのでは?ひょっとしたら、それを不快に感じる人もいるかもしれない。よく音楽は世界共通のことばとかいう言い方がされるけれど、それって本当だろうか?バッハはバッハ、ビートルズはビートルズって言われても、それって世界中でほんの一握りの人にしか通じない理屈なんじゃないのかな?」
ある意味、「音楽って何?」という疑問が最初っから私の頭を支配していたのだ。
そんなに理屈っぽい奴なら音楽評論家にでもなれば良いじゃないかという人もいるかもしれない。
でも、私は音楽評論家になる気などはサラサラなかった。
「自分自身が音を出さない音楽の世界なんて音楽じゃない」とも本気で思っていたからだ。
そんなことを考えていた十代だったから素直に「音大に行って音楽家になります」とは言えなかったし、料理人になる夢も同時に捨てきれなかった(その頃、シェフなんていうシャレたことばが一般的だったら私の将来も変わっていたかもしれない)。
音楽やろうか料理やろうかと自分の未来のビジョンを明確に持てないまま普通の大学に進みフランス語を専攻した。
そんな人生に迷っていた私の背中を押したのは当時つきあっていた妻の恵子だった。
「音楽の本当の意味を知りたいんだったらプロになるしかないじゃない。逃げることのできないギリギリの崖っぷちで勝負するしかないじゃない。そうやって自分を追い込まない限り見えないモノがあるはずよ。それを見たらいいじゃない」。
彼女のそのひとことで私はプロの道を歩もうと決心した。
それから四十年の月日がたって再び彼女の存在で私はまた新しい道を切り開こうとしている。
彼女が私の背中を押してくれたことによってこれまでのキャリアを作ることができたのだから、これからのキャリアもきっと彼女の存在によって切り開いていくことができる。
そんな気がしている。
なにしろ彼女自身が病気になることによって私に教えてくれた数々の事柄がなかったら今度の著作が誕生しなかったことだけは確かなのだから。