みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

そこにいるだけで

2013-03-25 18:57:48 | Weblog
安心する人というのがきっと誰にもあるのだろうと思う。
先週末頑張ってジャガイモの種芋を植えつけようと土いじりをした。
伊豆のスギ花粉は半端ではない。
きっと、この辺りのスギ花粉が東京や関東一円に飛んでいっているのではと思うぐらいこの辺りには花粉が多い。
しかも、黄砂のシーズンに加えてPMなんとかいう物質もきっと混じっていたのだろう。
畑仕事の後、クシャミや鼻水、セキの連続でとてもまともな人間生活ができないほどになってしまった。
そして、極めつけは、恵子の入浴の介助だった。
花粉症の症状が収まった頃を見計らって彼女の入浴を介助したのだが、入浴後「これは一体風邪なのか、花粉症の症状なのか」サッパリわからないような状態に再びなってしまった。
通常の生活が不可能だと判断して横になり熱を計ると8度を越えている。
ヤバイと思っても後の祭り。ここはきちんと自分の身体を立て直すしかない。
とはいっても、恵子はまだ半身が麻痺したままの状態だ。
彼女に炊事をやらせるわけにはいかない。
ああ、こんな時ヘルパーでも飛んで来てくれて料理でも作ってくれればと思うのだが、介護保険のヘルパーというのはそんな使い方はできない。
きちんと週に何回、何曜日という形でしか彼ら、彼女らは動かない。
気を取り直して身体の痛さや苦しさにむち打って台所に向い二人分の食事を作る。
そんな時ふと思い出したのが、私が小さい頃一緒に暮らしていた祖母の姿だった。
私の祖母は、明治生まれの人間で鹿児島育ちのせいかどちらかというと「男尊女卑」的な考え方の人だった。
あの時代の人はみんなそうなのかもしれない。
大人の男性にいない私の家庭では、小学生であっても私が立派な年長者。
要するに、何をするにも祖母は私を「年長者」としてたてなければ気がすまない人だった。
そんな昔風の気質のせいか、私の小学校時代の学友もあまり私の家には寄りつかなかった。
「お前んちのバアちゃん、おっかねえんだもん」。
昔の家庭はどこでもそうだったが、子供のしつけは親だけの仕事ではなかった。
大人は全ての子供をしつける義務があったのかもしれない。
よく町中でも見ず知らずの大人から呼び止められて「ボク、なになにしちゃダメよ」と説教をされた。
社会が子供を育てるという意識は、まだ昭和三十年代ぐらいまで残っていたのだろう。
とにかく、そんな時代の中でもひときわしつけには厳しい「おばあちゃん」だった。
そんな祖母は、子供の自分が風邪をひいた時は、おかゆ、うどん、そしてリンゴをすったものをよくあてがってくれた。
祖母にしてみれば、これが最も風邪対策になる食事だったのだろう。
それが本当に効くのかどうかは私にもわからなかったが、今にして思えば、こういう祖母(あるいは母親)のような存在は、きっと「ただそこにいるだけで安心」なのだろうと思う。
別に何をしてくれなくても、寝ているそばで座っているだけでも、身体をさすってくれているだけでも病人にとってはこんな心強い存在はいない。
もちろん、今風邪をひいてしまった私のそばにいる恵子がかつての祖母と同じようにおかゆやうどんを用意はしてくれない。
彼女は、私に何かをしたくても何もすることができないのだ。
そんな彼女の悔しさは、彼女の目にあふれる涙を見ればよくわかる。
でも、やはり彼女も、私の祖母同様「そばにいてくれるだけで安心な存在なのだ」と私は確信した。
かつての私が感じた祖母の安心感を、私は彼女の姿を見ているだけでも同じように感じられたからだ。

お雛様と木村曙

2013-03-03 19:32:08 | Weblog
という明治時代の女性作家のことはまったく何の関係もないのだけれど、今日は女性のお祭りということで、この女性のことをふと思い出した。
十八歳という若さで夭折したこの木村曙という女流作家のことを知る人も少ないだろうし、現在この人の書いた小説(4篇ぐらいしかないはずだ)を読もうと思ってもそれを手に入れる術もあまりないのだが、その中でも有名なのは『婦女の鑑』という話だ。
何人も妾を持って三十人以上も子供を作った東京屈指の牛鍋屋の当主の娘として生まれ(彼女自身もその何人かいるお妾さんのうちの一人の子供)、本当は海外留学のチャンスがありながら父親の反対でつぶされたその「夢」を、彼女は小説という形で実現した。
だから、この『婦女の鑑』という小説の主人公はケンブリッジ大学に留学してアメリカで働き帰国して工場を作り貧しい人たちのために仕事を与えるという彼女の「夢」そのままの設定になっている。
しかも、これは当時(明治22年=1989年)の「読売新聞」の連載小説だ。
女性のお祭りの桃の節句にこうした「気概」のある明治の女性たちの姿をつらつらと思い浮かべる。
津田塾大学を作った津田梅子や大逆事件で三十歳で処刑された幸徳秋水の愛人の管野須賀子(彼女は日本人初の女性ジャーナリストだ)、日本画家の上村松園、作家の与謝野晶子など、その生き方のすごさにただただ圧倒されるような女性たちがこの時代には本当に多い。
とはいっても、別に、明治だから女性がすごかったわけではないだろう。
もともと女性はすごいのだから。
ただ、女性がほとんど「人間」としては扱われていなかった時代の日本社会で、「女性であるよりも、まず人間として生きようとした」人たちの生き様が現在の生温い世の中の人たちに半端なく強烈に見えるだけなのかもしれない。
そんなことをアレコレ考えながら今日は、恵子のために「太巻き」を作り(巻き簾を久しぶりに使ったが、アレはのり巻きぐらいしか使い道がないように思えるのだが実際はどうなのだろう)、桜餅と甘酒、ひなあられで物の節句を祝った一日だった。