安心する人というのがきっと誰にもあるのだろうと思う。
先週末頑張ってジャガイモの種芋を植えつけようと土いじりをした。
伊豆のスギ花粉は半端ではない。
きっと、この辺りのスギ花粉が東京や関東一円に飛んでいっているのではと思うぐらいこの辺りには花粉が多い。
しかも、黄砂のシーズンに加えてPMなんとかいう物質もきっと混じっていたのだろう。
畑仕事の後、クシャミや鼻水、セキの連続でとてもまともな人間生活ができないほどになってしまった。
そして、極めつけは、恵子の入浴の介助だった。
花粉症の症状が収まった頃を見計らって彼女の入浴を介助したのだが、入浴後「これは一体風邪なのか、花粉症の症状なのか」サッパリわからないような状態に再びなってしまった。
通常の生活が不可能だと判断して横になり熱を計ると8度を越えている。
ヤバイと思っても後の祭り。ここはきちんと自分の身体を立て直すしかない。
とはいっても、恵子はまだ半身が麻痺したままの状態だ。
彼女に炊事をやらせるわけにはいかない。
ああ、こんな時ヘルパーでも飛んで来てくれて料理でも作ってくれればと思うのだが、介護保険のヘルパーというのはそんな使い方はできない。
きちんと週に何回、何曜日という形でしか彼ら、彼女らは動かない。
気を取り直して身体の痛さや苦しさにむち打って台所に向い二人分の食事を作る。
そんな時ふと思い出したのが、私が小さい頃一緒に暮らしていた祖母の姿だった。
私の祖母は、明治生まれの人間で鹿児島育ちのせいかどちらかというと「男尊女卑」的な考え方の人だった。
あの時代の人はみんなそうなのかもしれない。
大人の男性にいない私の家庭では、小学生であっても私が立派な年長者。
要するに、何をするにも祖母は私を「年長者」としてたてなければ気がすまない人だった。
そんな昔風の気質のせいか、私の小学校時代の学友もあまり私の家には寄りつかなかった。
「お前んちのバアちゃん、おっかねえんだもん」。
昔の家庭はどこでもそうだったが、子供のしつけは親だけの仕事ではなかった。
大人は全ての子供をしつける義務があったのかもしれない。
よく町中でも見ず知らずの大人から呼び止められて「ボク、なになにしちゃダメよ」と説教をされた。
社会が子供を育てるという意識は、まだ昭和三十年代ぐらいまで残っていたのだろう。
とにかく、そんな時代の中でもひときわしつけには厳しい「おばあちゃん」だった。
そんな祖母は、子供の自分が風邪をひいた時は、おかゆ、うどん、そしてリンゴをすったものをよくあてがってくれた。
祖母にしてみれば、これが最も風邪対策になる食事だったのだろう。
それが本当に効くのかどうかは私にもわからなかったが、今にして思えば、こういう祖母(あるいは母親)のような存在は、きっと「ただそこにいるだけで安心」なのだろうと思う。
別に何をしてくれなくても、寝ているそばで座っているだけでも、身体をさすってくれているだけでも病人にとってはこんな心強い存在はいない。
もちろん、今風邪をひいてしまった私のそばにいる恵子がかつての祖母と同じようにおかゆやうどんを用意はしてくれない。
彼女は、私に何かをしたくても何もすることができないのだ。
そんな彼女の悔しさは、彼女の目にあふれる涙を見ればよくわかる。
でも、やはり彼女も、私の祖母同様「そばにいてくれるだけで安心な存在なのだ」と私は確信した。
かつての私が感じた祖母の安心感を、私は彼女の姿を見ているだけでも同じように感じられたからだ。
先週末頑張ってジャガイモの種芋を植えつけようと土いじりをした。
伊豆のスギ花粉は半端ではない。
きっと、この辺りのスギ花粉が東京や関東一円に飛んでいっているのではと思うぐらいこの辺りには花粉が多い。
しかも、黄砂のシーズンに加えてPMなんとかいう物質もきっと混じっていたのだろう。
畑仕事の後、クシャミや鼻水、セキの連続でとてもまともな人間生活ができないほどになってしまった。
そして、極めつけは、恵子の入浴の介助だった。
花粉症の症状が収まった頃を見計らって彼女の入浴を介助したのだが、入浴後「これは一体風邪なのか、花粉症の症状なのか」サッパリわからないような状態に再びなってしまった。
通常の生活が不可能だと判断して横になり熱を計ると8度を越えている。
ヤバイと思っても後の祭り。ここはきちんと自分の身体を立て直すしかない。
とはいっても、恵子はまだ半身が麻痺したままの状態だ。
彼女に炊事をやらせるわけにはいかない。
ああ、こんな時ヘルパーでも飛んで来てくれて料理でも作ってくれればと思うのだが、介護保険のヘルパーというのはそんな使い方はできない。
きちんと週に何回、何曜日という形でしか彼ら、彼女らは動かない。
気を取り直して身体の痛さや苦しさにむち打って台所に向い二人分の食事を作る。
そんな時ふと思い出したのが、私が小さい頃一緒に暮らしていた祖母の姿だった。
私の祖母は、明治生まれの人間で鹿児島育ちのせいかどちらかというと「男尊女卑」的な考え方の人だった。
あの時代の人はみんなそうなのかもしれない。
大人の男性にいない私の家庭では、小学生であっても私が立派な年長者。
要するに、何をするにも祖母は私を「年長者」としてたてなければ気がすまない人だった。
そんな昔風の気質のせいか、私の小学校時代の学友もあまり私の家には寄りつかなかった。
「お前んちのバアちゃん、おっかねえんだもん」。
昔の家庭はどこでもそうだったが、子供のしつけは親だけの仕事ではなかった。
大人は全ての子供をしつける義務があったのかもしれない。
よく町中でも見ず知らずの大人から呼び止められて「ボク、なになにしちゃダメよ」と説教をされた。
社会が子供を育てるという意識は、まだ昭和三十年代ぐらいまで残っていたのだろう。
とにかく、そんな時代の中でもひときわしつけには厳しい「おばあちゃん」だった。
そんな祖母は、子供の自分が風邪をひいた時は、おかゆ、うどん、そしてリンゴをすったものをよくあてがってくれた。
祖母にしてみれば、これが最も風邪対策になる食事だったのだろう。
それが本当に効くのかどうかは私にもわからなかったが、今にして思えば、こういう祖母(あるいは母親)のような存在は、きっと「ただそこにいるだけで安心」なのだろうと思う。
別に何をしてくれなくても、寝ているそばで座っているだけでも、身体をさすってくれているだけでも病人にとってはこんな心強い存在はいない。
もちろん、今風邪をひいてしまった私のそばにいる恵子がかつての祖母と同じようにおかゆやうどんを用意はしてくれない。
彼女は、私に何かをしたくても何もすることができないのだ。
そんな彼女の悔しさは、彼女の目にあふれる涙を見ればよくわかる。
でも、やはり彼女も、私の祖母同様「そばにいてくれるだけで安心な存在なのだ」と私は確信した。
かつての私が感じた祖母の安心感を、私は彼女の姿を見ているだけでも同じように感じられたからだ。