みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

「麻痺って、足が歩き方を忘れているだけ」

2014-05-31 07:46:57 | Weblog
だから、少しずつ思い出していきましょう。
通院先のリハビリ室で、療法士は恵子の右足を触りながらこう言った。
そのことばを聞いた恵子の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
骨折後のリハビリで習った新しい歩き方に慣れようと必死に練習するがなかなか自分のものにできないもどかしさからちょっと焦り気味だった彼女にかけられた療法士の何気ないひとことだった。
医者だったら同じことを言うのにきっと「脳の神経がどうのこうの筋肉がどうの」といった医学的な説明から始めるかもしれない。
しかし、この若い男性療法士はそんな専門的な説明など一切せずに、たったひとことで恵子の心を納得させ安心させてしまった。
以前入院したリハビリ病院の担当医師がいきなり彼女の前で跪き問診を始めた時と同じような「安堵感」を恵子は感じたのかもしれない。
医師、看護士、介護士、療法士など、お年寄りや病気などで弱い立場にいる人間に対するケアというのは技術や知識だけでカバーできるものではない。
医師がたとえ高い技術と薬で治療を施したとしても患者本人の心が病気を治そうと努力しない限り絶対に良くなるものでもない。
多くの介護施設では、お年寄りにきちんとした食事を用意し排泄、入浴、そして健康をきちんと管理しようとしている。
しかし、それだけでお年寄りたちが幸せになるわけでもない。
身体や心の弱った人間、お年寄りに一番大切なものは「明日も生きよう」という気力を本人自身が持つことしかない。
相手と同じ目線で相手が本当に望むことばをかけられないようなケアは本当の意味でのケアとは言えない。
施設での介護や病院での看護の現場をたくさん見ていると「心のケア」をできているスタッフが一体どれだけいるのだろうかといつも疑問に思ってしまう。
先日会った介護関係者はこう言い切った。
「私は自分の身内を施設に預けようとは思いません」。
そのことばの裏には、介護の実情をよく知るが上にどうしても拭いきれない現場スタッフへの強い不信感があるような気がしてならなかった。
でも…と私は思う。
でも、たとえ現状がそうであってもそれでただ諦めてしまって良いのだろうかとも思う。
認知症への対策がいろいろなところでいろいろに考えられ実行されているはずなのに、なにか根本的なものが置き去りにされているようでならない。
認知症の原因は、タンパク質の異常、インシュリン分泌の異常、脳血管障害の後遺症などさまざまに言われているが、けっしてそれだけではないような気がする。
絶対に見落としてはいけない引き金は、「うつ」だろう。
多くの人が言うように、認知症の大半は「うつ」状態から始まることがとても多いのだ。
「明日への希望」を持たない、持てない(病気とか、年をとってしまった、とかいう理由で)状態がその進行を加速させることだけは間違いない。
ことばのコミュニケーションでは不可能な「明日への希望を音楽によってもたらそう」と始めた「ミュージックホーププロジェクト」だが、一方で私たちの日常で最も大事なコミュニケーションツールはことばだということも否定しようのない事実。
ほんの些細なことばが人を傷つけもしするし、この上ない喜びも同時にもたらしてくれる。
別にことば巧みに生きていく必要はないけれど、最低限「相手の立場でものを言う」ことは必要なのではないかと思う。
医療、介護の現場で働く人たちならなおさら「ことば」の一つ一つに丁寧な心配りがされるべきだろう。
恵子を治療する若い療法士は、特別ことばが上手なわけではないし、むしろぶっきらぼうな方だろう。
しかし、彼の治療やことばの一つ一つに私は納得する。
だからこそ、最初のことばのような「やさしさ」で相手を包み込むことができるのではないだろうか。

「目を開けて、もっと私を見て」

2014-05-25 09:46:42 | Weblog
認知症の患者さんは話しかけても返事をしない。
返事があってもトンチンカン。
つまり、会話が成り立たない。
行動も考えていることも予測できない上に、あっと言う間に行方がわからなくなる。
拘束しておかないと家族も社会も迷惑する。
本当に厄介な存在にしか見えないけれども、きっとご本人も苛立っているのだろう。
思う通りにしゃべれない。
思う通りに身体が動かない。
思ってもいないことばかりやってしまう。しゃべってしまう。
だから口をつぐんでいよう。
だからただひたすらじっとしていよう…。
でも、そんなことよりもなんでみんな本当の私を見ようとはしないんだろう?

毎日、メディアで認知症のことが話題にならない日はない。
7年間も行方不明の人がテレビの報道で見つかったり、徘徊の末に鉄道事故を起こしその損害倍賞を遺族が請求されたり、今や、この病気のおかげで誰でもが「加害者」になり誰でもが「被害者」になってしまう世の中になってしまった。
どうしたら認知症になるのを防げるか?
どうしたら徘徊しないようになるのだろうか?

ふと三十年前に読んだある本のことを思い出した。
パトリシア・ムーアというアメリカ人が書いた『Disguised~A true story変装~私は三年間老人だった』だ。
当時若干26歳だった工業デザイナーのムーア氏が、バリアフリーデザインのリサーチのために八十代の老婆に変装して三年間もの間「老い」とは何かを探し求めたというのがこの本の内容だ。
彼女は、この体験をきっかけに老人用デザインというジャンルを開発し専門の会社を作りさまざまなバリアフリー商品を作りだしていった。
私が思い出したのは、この本に書かれたさまざまな出来事ではなく、この本の最後に引用されているある「詩」だ。
この「詩」は、この著作の出版後、介護とか看護の基本的心構えの「規範」としていろいろなところで引用されているので、この詩の存在を知っている人も多いかもしれない。
ケアする人とケアされる人が同じ目線に立たなければならないという認知症ケアメソッド<ユマニチュード>の基本的なアプローチが、「ケアされる人」の視点から書かれているとても良い詩だ。
この「詩」に書かれた老人の心情はきっと三十年前からほとんど変わっていないはずだし、認知症患者だけでなく介護問題を考える上で「絶対に忘れてはいけない」内容だ。

訳本からの引用ではなく原著から自分で訳してみた(日本語としての理解を深めたいという意味で)

「イギリス・アシュルティ病院の老人病棟で一人の老婦人が亡くなりました。
彼女の持ち物を調べていた看護士が、彼女の遺品の中から 彼女が書いたと思われる詩を見つけました。彼女は重い認知症でした」

 ~『目を開けて、もっと私を見て』~

何を見ているの 看護婦さん あなたは何を見ているの
きっとあなたは私のことをこう思っているんでしょう
あんまり利口じゃない 目はうつろで ノロノロしていて
食べものもボロボロこぼして ロクすっぽ返事もしない
大声で「お願いだからやってみて」といっても 気づかない
靴下や靴はしょっちゅうなくすし なんでも人の言うなり
あり余る一日の時間を満たそうとお風呂に入ったり 食事しているだけの
気難しいおばあさん
これがあなたの考えていることなの? 本当にそれがあなたの見ている私なの?

もしそうだとしたら あなたは私のこと何も見てはいませんよ
もっと目をちゃんと開けて見てごらんなさい
私が誰なのかおしえてあげましょう 
ここにじっと座っているこの私が 
あなたの命ずるままに動く この私が誰なのかを。

私が10歳の時
私には、父がいて 母がいて 兄弟・姉妹がいて 私たちは皆愛し合っていました
16歳の少女だった私は 足に羽が生えたようにうかれ 
もうすぐ恋人に出会えることを夢みていました
20歳で花嫁になった私の心は踊り
約束した誓いを胸に刻みながら毎日を暮らしました
25歳で 私は子どもを産みました
私は子らのために 安心して暮らせる幸福な家庭を作りました
30歳 子どもはみるみる大きくなりました
親子の絆は永遠に続くと信じながら
40歳 子供たちは成長し 家を出ていきました
しかしそれでも夫は 私を優しくそばで見守ってくれました
50歳 再び赤ん坊が 私の膝の上で飛び跳ねました
夫と私は またもや子どもに出会ったのです

でも、つらい日々が訪れました 夫が死んだのです
私は、先のことを考え 不安で震えました
子供達は まだまだ自分たちの生活でいっぱいだったからです
私は 愛にあふれた過去を思い日々を過ごしました

いま私はおばあさんと呼ばれるようになりました
自然は残酷です
老人をまるで何もできない馬鹿のようにしかみせません
体はボロボロ 優美さも気力も失せ
嘗てはこころがちゃんとあったはずなのに 今そこにあるのは石ころだけです
それでも この肉体にはまだ少女の残骸が残っていて
いくどもいくども私の心をふくらまそうとします
私は あまりにも早く過ぎ去ってしまった
喜びや苦しみの日々を思い出し
人生をもう一度愛そうと試みます
そして 永遠なものは何もないという現実に気づくのです

だからちゃんと目を開けて見てください 看護婦さん
私は気難しいおばあさんなんかじゃありませんよ
もっと近づいて もっと私を良く見てください!

(訳:みつとみ俊郎)

何度この闘いに

2014-05-17 13:17:48 | Weblog
チャレンジしてきたことだろう。
未だに先ははっきりと見えてこない。
恵子は先日病院を二ヶ月ぶりに退院したが、だからといって急に彼女の麻痺がなくなってしまったわけではなく、相変わらず不自由な身体と格闘する日々は続いている。
退院してもう少し彼女の顔が明るくなってくれるのかなと思ったのは私の勝手な思い込みだったのかもしれない。
彼女の心の中でどんな葛藤が起こっているのかに思いを馳せても彼女とはまったく違った心と肉体を持った私に彼女のことが完全に理解できるわけもない。
先日、東京から新聞社の人がわざわざ車を走らせて伊豆の私の自宅まで取材に来てくれた時のことだ。
私の今度の著作『奇跡のはじまり』や私の立ち上げた「ミュージックホーププロジェクト」のことなどが取材の目的だった。
ふだん、「仕事」で人が尋ねてくると、恵子は別の部屋で静かに自分なりの時間を過ごしている。
しかし、今回は違っていた。
彼女は、私と記者が話をしている最中にわざと割り込むようにやってきたのだ。
え、なんで?と思ったが、きっと、自分の絵を記者に見てもらおうと思ってやってきたのだろう。
案の定、部屋に入るなり私に「スケッチブック持ってきて」と頼む。
まだ片手でスケッチブックのような重たいモノを持ちながら杖で歩くことはできない。
それでも、自分が元気なところを、これだけ頑張って絵を描いているというところを記者に誇示したいのだろうと私は思った。
しかし、実際はそんな単純なことでもなかったようだ。
記者から「生活で大変なことって何かありますか?」と尋ねられると彼女は、「何から何まで夫にやってもらっていて、すまないと思っています」と涙声で自分の気持ちを吐露し始めたのだ。
記者は、帰り際に「思ったよりも元気そうなので、安心しましたよ」と言ってくれたが、きっと本心ではないだろう。
リハビリでこの二ヶ月お世話になった理学療法士も、「みつとみさん(恵子のことだ)ってホント不思議ですね。もっと素早く動けるはずなのに、時々動作が極端にスローになってしまったり、もっとスムースに歩けるはずなのに…」。
そう言っていつも首をひねる。
もっとできるはずなのに…。
これまでもさんざん聞かされたセリフだ。
療法士たちからも医師たちからも。
その日の夜、彼女はベッドの中でまた涙を浮かべた。
「前はいろんなことが当たり前にできたのに、道を歩いている人たちみたいに私も歩けていたのに…」
もちろん、その悔しさはわかるし焦る気持ちもよくわかる(私自身も同じぐらい悔しいのだから)。
しかし、彼女にはもっとわかって欲しいことがある。
それは、これまでにも繰り返し彼女に言ってきたこと。
自分の身体の「いま」にもっと自信を持って欲しいのだ。
「そりゃ、悔しい気持ちはよくわかるけど、本当はもっと手も足も動けるはずなんだよ。麻痺で筋肉が内側にすぐ寄ってしまう右足にしたって、完全に固まってしまった拘縮状態になってしまったわけじゃないだろう…(拘縮とは、身体の一部が麻痺で固まってしまって動かない状態のこと)。自信さえ持てばもっとコントロールできるはずなんだよ。悔しいのはアナタだけじゃないんだよ」。
「自信」。
この二文字が彼女の中にいつ芽生えてくるのだろうと思う。
頭では理解しているのかもしれない。
しかし、彼女の脳から「自信」という情報が手足の末端に伝わる前に「恐怖」という情報の方が先に手足に到達してしまう。
この神経の伝達プロセスをどうしたら逆転できるのかサッパリわからないが、諦めずに何度でもいろいろ試してみるしかない。
よく脳卒中の患者は、発症前と後では人間的なキャラクターが変わってしまうと言われる。
当然だろう。
出血や梗塞で脳の一部がダメージを受けたのだから、ちょっとぐらいキャラクターが変わったって何の不思議もないだろう。
だから、「前はもっと…だったのに…、とか前はもっと…していたのに…」という発症前と後で、患者も家族も比較をして「いま」を受け入れられなくなってしまうのだ。
彼女の「涙」はまさしくこのことを意味している。
だからといって、この状態から即刻抜け出すための特効薬があるわけではない。
楽器だって「できない、できない」と壁にぶちあたったらしばらくそこから離れてしまうしか方法はないだろう。
私は、ふと髪を切ってみようと思い立った。
美容院の帰り、私の心はちょっとウキウキし始めていた。
なんだ、こんな簡単なことだったんだ、と自分でも驚く。
家に戻るなり私は彼女に、「ヘナやろう」と言った。
彼女の髪を天然素材のヘアダイで染めることにしたのだ(前から彼女にやってくれと頼まれていた)。
彼女の髪の手入れも入浴も私の大事な仕事(療法士になったり、栄養士になったり、主婦になったり、美容師になったりと、介護というのはとにかく切れ目がない!)。
久しぶりに奇麗な髪に染まった彼女を見て、私も彼女もちょっとだけ幸せな気分になれた。
きっと、こんな小さな幸せを途切れさせないように毎日工夫して生きていくことが「前向きに生きる」ということなのかもしれない。
そうでも思わないことには、この先の見えない長い「闘い」に勝利することはできないし、「奇跡」も起こらないのだろう(きっと)。

退院

2014-05-10 19:28:29 | Weblog
が思ったよりも早かった。
明日の日曜、ほぼ二ヶ月間の入院生活を終えての退院だ。
連休中の一時帰宅の状況が良かったことが評価されて「もう自宅に戻っても大丈夫でしょう」と医師と療法士から言われ急遽退院が決まったのだ。
ただ、今回の退院を早めた一つの要因でもある若い男性理学療法士の治療をしばらく続けたいと私も恵子も思っているので、退院後の通院治療をひと月ほど続けることにした。
恵子の歩行は、この療法士のおかげで、入院前よりも確実に上手になっている。
骨折し手術した当時は、「これでまたリハビリがゼロに戻されてしまうのか」と二人とも悲嘆し落ち込んだのだが、どうせもう一度リハビリをやり直すんだったら、今悪いところを徹底的に直した方が将来的には得策だろうと思い、この理学療法士にもこちらの気持ちと直して欲しい部分をきちんと話をした。
そのおかげで、麻痺した右足をかばおうとかなり無理をしていた「健康」である左足の負担を軽くすることができるようになった。
左右の足を交互に前に出して進むという当たり前の動作がうまくできなくなっている恵子にとって、左手に持つ杖と不自由な右足(麻痺の足の筋肉は本来随意筋であるべきところが全く不随意筋としてか働かないから余計に始末が悪い)、そして健康な左足とのバランスはとてつもない負担だ。
ふだんのリハビリでも、彼女の歩きはまるで「ロボットの歩き」のように見えていた。
上半身の動きが石のように固く、それこそ上半身の力だけで歩いているように見えたのだ。
そのガチガチに固まった上半身を見ているとこれでは相当疲れるだろうなと思っていると、案の定、ちょっと歩くだけで「疲れた」と言って休もうとする。
まあ普通の健常者でも相当長い時間歩いた後には「座って休みたい」という気持ちになるものだが、彼女の場合はそれが極端だ。
一分歩くか歩かないかのうちにバテてしまう。
見ていると「それも当然なのかな」と思えるぐらい杖を持つ健康な左手と左足に力が入っているからだ。
しかし、今回の入院リハビリで、確実にそれは改善された。
これが今回の入院の最大の成果だと思う。

人生に意味のないことなって何一つないと信じている私としては、今回の「なんで!ウソだろう!」と思えるような骨折と手術、入院も、結果としてやはり意味があったんだナと納得できたような気がする。
それにしても、メゲないでここまで短期間で頑張った恵子の努力を素直に褒めてあげたいと思う。