だから、少しずつ思い出していきましょう。
通院先のリハビリ室で、療法士は恵子の右足を触りながらこう言った。
そのことばを聞いた恵子の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
骨折後のリハビリで習った新しい歩き方に慣れようと必死に練習するがなかなか自分のものにできないもどかしさからちょっと焦り気味だった彼女にかけられた療法士の何気ないひとことだった。
医者だったら同じことを言うのにきっと「脳の神経がどうのこうの筋肉がどうの」といった医学的な説明から始めるかもしれない。
しかし、この若い男性療法士はそんな専門的な説明など一切せずに、たったひとことで恵子の心を納得させ安心させてしまった。
以前入院したリハビリ病院の担当医師がいきなり彼女の前で跪き問診を始めた時と同じような「安堵感」を恵子は感じたのかもしれない。
医師、看護士、介護士、療法士など、お年寄りや病気などで弱い立場にいる人間に対するケアというのは技術や知識だけでカバーできるものではない。
医師がたとえ高い技術と薬で治療を施したとしても患者本人の心が病気を治そうと努力しない限り絶対に良くなるものでもない。
多くの介護施設では、お年寄りにきちんとした食事を用意し排泄、入浴、そして健康をきちんと管理しようとしている。
しかし、それだけでお年寄りたちが幸せになるわけでもない。
身体や心の弱った人間、お年寄りに一番大切なものは「明日も生きよう」という気力を本人自身が持つことしかない。
相手と同じ目線で相手が本当に望むことばをかけられないようなケアは本当の意味でのケアとは言えない。
施設での介護や病院での看護の現場をたくさん見ていると「心のケア」をできているスタッフが一体どれだけいるのだろうかといつも疑問に思ってしまう。
先日会った介護関係者はこう言い切った。
「私は自分の身内を施設に預けようとは思いません」。
そのことばの裏には、介護の実情をよく知るが上にどうしても拭いきれない現場スタッフへの強い不信感があるような気がしてならなかった。
でも…と私は思う。
でも、たとえ現状がそうであってもそれでただ諦めてしまって良いのだろうかとも思う。
認知症への対策がいろいろなところでいろいろに考えられ実行されているはずなのに、なにか根本的なものが置き去りにされているようでならない。
認知症の原因は、タンパク質の異常、インシュリン分泌の異常、脳血管障害の後遺症などさまざまに言われているが、けっしてそれだけではないような気がする。
絶対に見落としてはいけない引き金は、「うつ」だろう。
多くの人が言うように、認知症の大半は「うつ」状態から始まることがとても多いのだ。
「明日への希望」を持たない、持てない(病気とか、年をとってしまった、とかいう理由で)状態がその進行を加速させることだけは間違いない。
ことばのコミュニケーションでは不可能な「明日への希望を音楽によってもたらそう」と始めた「ミュージックホーププロジェクト」だが、一方で私たちの日常で最も大事なコミュニケーションツールはことばだということも否定しようのない事実。
ほんの些細なことばが人を傷つけもしするし、この上ない喜びも同時にもたらしてくれる。
別にことば巧みに生きていく必要はないけれど、最低限「相手の立場でものを言う」ことは必要なのではないかと思う。
医療、介護の現場で働く人たちならなおさら「ことば」の一つ一つに丁寧な心配りがされるべきだろう。
恵子を治療する若い療法士は、特別ことばが上手なわけではないし、むしろぶっきらぼうな方だろう。
しかし、彼の治療やことばの一つ一つに私は納得する。
だからこそ、最初のことばのような「やさしさ」で相手を包み込むことができるのではないだろうか。
通院先のリハビリ室で、療法士は恵子の右足を触りながらこう言った。
そのことばを聞いた恵子の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
骨折後のリハビリで習った新しい歩き方に慣れようと必死に練習するがなかなか自分のものにできないもどかしさからちょっと焦り気味だった彼女にかけられた療法士の何気ないひとことだった。
医者だったら同じことを言うのにきっと「脳の神経がどうのこうの筋肉がどうの」といった医学的な説明から始めるかもしれない。
しかし、この若い男性療法士はそんな専門的な説明など一切せずに、たったひとことで恵子の心を納得させ安心させてしまった。
以前入院したリハビリ病院の担当医師がいきなり彼女の前で跪き問診を始めた時と同じような「安堵感」を恵子は感じたのかもしれない。
医師、看護士、介護士、療法士など、お年寄りや病気などで弱い立場にいる人間に対するケアというのは技術や知識だけでカバーできるものではない。
医師がたとえ高い技術と薬で治療を施したとしても患者本人の心が病気を治そうと努力しない限り絶対に良くなるものでもない。
多くの介護施設では、お年寄りにきちんとした食事を用意し排泄、入浴、そして健康をきちんと管理しようとしている。
しかし、それだけでお年寄りたちが幸せになるわけでもない。
身体や心の弱った人間、お年寄りに一番大切なものは「明日も生きよう」という気力を本人自身が持つことしかない。
相手と同じ目線で相手が本当に望むことばをかけられないようなケアは本当の意味でのケアとは言えない。
施設での介護や病院での看護の現場をたくさん見ていると「心のケア」をできているスタッフが一体どれだけいるのだろうかといつも疑問に思ってしまう。
先日会った介護関係者はこう言い切った。
「私は自分の身内を施設に預けようとは思いません」。
そのことばの裏には、介護の実情をよく知るが上にどうしても拭いきれない現場スタッフへの強い不信感があるような気がしてならなかった。
でも…と私は思う。
でも、たとえ現状がそうであってもそれでただ諦めてしまって良いのだろうかとも思う。
認知症への対策がいろいろなところでいろいろに考えられ実行されているはずなのに、なにか根本的なものが置き去りにされているようでならない。
認知症の原因は、タンパク質の異常、インシュリン分泌の異常、脳血管障害の後遺症などさまざまに言われているが、けっしてそれだけではないような気がする。
絶対に見落としてはいけない引き金は、「うつ」だろう。
多くの人が言うように、認知症の大半は「うつ」状態から始まることがとても多いのだ。
「明日への希望」を持たない、持てない(病気とか、年をとってしまった、とかいう理由で)状態がその進行を加速させることだけは間違いない。
ことばのコミュニケーションでは不可能な「明日への希望を音楽によってもたらそう」と始めた「ミュージックホーププロジェクト」だが、一方で私たちの日常で最も大事なコミュニケーションツールはことばだということも否定しようのない事実。
ほんの些細なことばが人を傷つけもしするし、この上ない喜びも同時にもたらしてくれる。
別にことば巧みに生きていく必要はないけれど、最低限「相手の立場でものを言う」ことは必要なのではないかと思う。
医療、介護の現場で働く人たちならなおさら「ことば」の一つ一つに丁寧な心配りがされるべきだろう。
恵子を治療する若い療法士は、特別ことばが上手なわけではないし、むしろぶっきらぼうな方だろう。
しかし、彼の治療やことばの一つ一つに私は納得する。
だからこそ、最初のことばのような「やさしさ」で相手を包み込むことができるのではないだろうか。