午後はある場所でコンサートを主催している企業のオーナーを紹介してもらうために六本木の会場に行く。
紹介していただくということは、私自身がここで演奏するか、あるいは私が誰かのコンサートをここでプロデュースするということなのだが、私は正直言ってこの場所自体にあまり興味は感じなかった。
特別響きが良いというわけでもないので、ここを使う最大のメリットは会場費がいらないということと、チラシなどの宣伝もこの企業がやってくださるということだ(まあ、ロケーションも悪くない)。
要はこうしたことに私がどれだけの魅力を感じるかということだろう。
今日この場所でコンサートをやられていた方は芸大出のテナーと桐朋ご出身のピアノの方のデュオで、イタリアの歌やショパンなどを演奏されるコンサートだったのだが、テナーの方の演奏がちょっと堪え難く、本当は最後まで聞いて音響を実際に試させていただく予定だったのを途中の休憩で切り上げて失礼してしまった。
ピアノの方は可もなく不可もなくという印象だったのだが、テナーの方はちょっといただけない。
私はこれまで芸大出身の声楽の方で素晴らしいと思った方に一人も出会ったことがない。
弦やピアノにあれだけ素晴らしい人材を輩出している芸大がなぜ声楽にはまったく優秀な人材を作れないのはナゼなのだろうといつも思う。
ひょっとしたらこれって別に芸大という一つの大学の問題ではなく日本の音楽界全体の問題なのかもな?と時々思う。
本当にこれだけたくさんの素晴らしい音楽家をいろんな分野で作り出してきた日本なのにこと「うた」となるとどうもいただけない。
おそらく、能の謡い、歌舞伎のお囃子、小唄、端唄、長唄などの伝統から西洋音楽の「うた」に完全に DNAが移行しきれていないのでは?とも思ってしまう。
器楽と違って、歌というのは音楽というコミュニケーションの基本中の基本スタイルなので、その基本の中にある「ことば」や「表現」というものが完全に日本人のものになるにはまだ時間が浅いのかもしれない。
クラシック以外にはsuperflyなどけっこうイケてる若い人材もたくさんいるのにクラシックの日本人の歌い手にはいつも疑問符がつく。
特にテナー、というのは何か一番日本人には向いていない分野なのかもしれないと思う。
「私のお墓の前で...」と歌う人のえぐさにはテナー歌手独特の「表現のエグさ」があって私は正直好きになれない。
テナーというのは元来控えめな分野ではなく「どこまで派手でどこまで羞恥心なくミエを切れる」かが勝負の分野だ。
大向こうを唸らせるほどの「ミエ」が切れなければテナーではないと言ってもいいだろう。
これって日本人に一番向いてないんじゃないのかナ?と思ってしまう。
バリトンやバスの渋さには共感できても、あのテナーの派手さと表現のエグさにピッタリの日本人はなかなか存在しない。
早々とコンサート会場を抜け出してそのままの足で恵子のいる病院に行く。
もう夕暮れ時に近かったが、こういう時間に恵子と二人で過ごす時間は何ものにも代え難い(夕陽がとてもきれいだった)。
柿生の駅のそばには昔ながらの和菓子屋さんがありそこで道明寺(桜餅)を2つ買う。
なにしろこのお店は何でも超安い。
田舎っぽいと言ってしまえば身もふたもないのだが、ここはこの田舎っぽい味と値段が売りな店だ。
道明寺一つ70円というのは今どきない値段だ。
病院のロビーでコーヒーを飲みながら(この病院には日本茶のサービスはない)道明寺を恵子と食べる。
二人でお茶をする時は必ずスケッチブックとクレパスを持ってくるので、彼女に「私を描いて」と注文して描いてもらう。
描いてもらうと手が不自由なことなど忘れ「あんま似てないじゃん。口が小さいよ。もう一回描き直して」などとおよそ手の不自由な病人に言うことばとは思えないように無理難題を注文する。
私としては、恵子が最も得意な絵という作業をリハビリに役に立てて欲しいという願いからそう言っているのだが、もちろんそんなことは恵子も百も承知。
「ほら口をちょっと大きくしたら少し似てきたよ」と私にタテついてくる。
「なんか昨日のドヤ顔の猫といい今日の私の顔といい、もうちょっとうまく描きなよ」などとなんクセをつける私だが内心はけっこう嬉しかったりしている(似ていようがいまいがたった16色のクレパスでこれだけの絵がどんどん描けてきている彼女の右手には本当に感謝だ)。
紹介していただくということは、私自身がここで演奏するか、あるいは私が誰かのコンサートをここでプロデュースするということなのだが、私は正直言ってこの場所自体にあまり興味は感じなかった。
特別響きが良いというわけでもないので、ここを使う最大のメリットは会場費がいらないということと、チラシなどの宣伝もこの企業がやってくださるということだ(まあ、ロケーションも悪くない)。
要はこうしたことに私がどれだけの魅力を感じるかということだろう。
今日この場所でコンサートをやられていた方は芸大出のテナーと桐朋ご出身のピアノの方のデュオで、イタリアの歌やショパンなどを演奏されるコンサートだったのだが、テナーの方の演奏がちょっと堪え難く、本当は最後まで聞いて音響を実際に試させていただく予定だったのを途中の休憩で切り上げて失礼してしまった。
ピアノの方は可もなく不可もなくという印象だったのだが、テナーの方はちょっといただけない。
私はこれまで芸大出身の声楽の方で素晴らしいと思った方に一人も出会ったことがない。
弦やピアノにあれだけ素晴らしい人材を輩出している芸大がなぜ声楽にはまったく優秀な人材を作れないのはナゼなのだろうといつも思う。
ひょっとしたらこれって別に芸大という一つの大学の問題ではなく日本の音楽界全体の問題なのかもな?と時々思う。
本当にこれだけたくさんの素晴らしい音楽家をいろんな分野で作り出してきた日本なのにこと「うた」となるとどうもいただけない。
おそらく、能の謡い、歌舞伎のお囃子、小唄、端唄、長唄などの伝統から西洋音楽の「うた」に完全に DNAが移行しきれていないのでは?とも思ってしまう。
器楽と違って、歌というのは音楽というコミュニケーションの基本中の基本スタイルなので、その基本の中にある「ことば」や「表現」というものが完全に日本人のものになるにはまだ時間が浅いのかもしれない。
クラシック以外にはsuperflyなどけっこうイケてる若い人材もたくさんいるのにクラシックの日本人の歌い手にはいつも疑問符がつく。
特にテナー、というのは何か一番日本人には向いていない分野なのかもしれないと思う。
「私のお墓の前で...」と歌う人のえぐさにはテナー歌手独特の「表現のエグさ」があって私は正直好きになれない。
テナーというのは元来控えめな分野ではなく「どこまで派手でどこまで羞恥心なくミエを切れる」かが勝負の分野だ。
大向こうを唸らせるほどの「ミエ」が切れなければテナーではないと言ってもいいだろう。
これって日本人に一番向いてないんじゃないのかナ?と思ってしまう。
バリトンやバスの渋さには共感できても、あのテナーの派手さと表現のエグさにピッタリの日本人はなかなか存在しない。
早々とコンサート会場を抜け出してそのままの足で恵子のいる病院に行く。
もう夕暮れ時に近かったが、こういう時間に恵子と二人で過ごす時間は何ものにも代え難い(夕陽がとてもきれいだった)。
柿生の駅のそばには昔ながらの和菓子屋さんがありそこで道明寺(桜餅)を2つ買う。
なにしろこのお店は何でも超安い。
田舎っぽいと言ってしまえば身もふたもないのだが、ここはこの田舎っぽい味と値段が売りな店だ。
道明寺一つ70円というのは今どきない値段だ。
病院のロビーでコーヒーを飲みながら(この病院には日本茶のサービスはない)道明寺を恵子と食べる。
二人でお茶をする時は必ずスケッチブックとクレパスを持ってくるので、彼女に「私を描いて」と注文して描いてもらう。
描いてもらうと手が不自由なことなど忘れ「あんま似てないじゃん。口が小さいよ。もう一回描き直して」などとおよそ手の不自由な病人に言うことばとは思えないように無理難題を注文する。
私としては、恵子が最も得意な絵という作業をリハビリに役に立てて欲しいという願いからそう言っているのだが、もちろんそんなことは恵子も百も承知。
「ほら口をちょっと大きくしたら少し似てきたよ」と私にタテついてくる。
「なんか昨日のドヤ顔の猫といい今日の私の顔といい、もうちょっとうまく描きなよ」などとなんクセをつける私だが内心はけっこう嬉しかったりしている(似ていようがいまいがたった16色のクレパスでこれだけの絵がどんどん描けてきている彼女の右手には本当に感謝だ)。