みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

毎日がミュージカル

2016-10-29 11:25:17 | Weblog

といったって、別に毎日ミュージカルを見ているとかそういった話しではない。

これは、多分私の個人的なクセで(と言っても、これは妻と二人だけの状況でしか起こらないことだけど)、私は自分の会話をすぐ「うた」にしてしまうクセがある。

ほとんど99%、その場で創作する「アドリブ」だけど、話すことばに忠実にフレーズやリズムを乗せて歌う(当たり前だ。そうじゃなきゃ歌になるわけない)。

だから、当然子供のうたのように「シンプルで繰り返しの多い」フレーズばかり。

気がつくとこれをやっているから、きっと二人(夫婦)の間の符丁のようなものに近いのかもしれない。

別に恵子を明るくしようとか元気づけようとかいう意図ではない(だって、彼女が病気になるはるか前からコレだから)。

ただ単に気がつくと「あっ、歌ってる」という感じ。

どれぐらいの頻度かというと、多分会話の1/3ぐらいはコレ。

他人から見るとけっこうな頻度だろうと思う。

ということは、それを毎日聞かされている恵子にとってもかなりの頻度に違いない。

それに気づくと「ウルサイだろうな」と思い彼女に聞く。

「ウルサイ?」。

すかさず「うるさい」という返事が返ってくるからきっとそうなのだ(ハハハ)。

1/3は歌ってると言ったが、じゃあ、歌ってない時はごく普通の会話かというと、これもそうでもない。

たしかに「歌ってこそ」いないが、その代わり身体のどこかが動いている(ことに気づく)。

動いているというは、つまり身体のどこかがリズムをとっている、ということ。

これだってそばにいる人間にとってはかなり「ウルサイ」はずだ。

朝一番、起き抜けにやる私の仕事は、彼女と私の血圧を計ること。

この時も(無意識に)「血圧はかろう、血圧はかろう〜」と歌っている(ははは、マジかよ? 朝っぱらからよく歌えるナ)。

かと思えば、玄関の呼び鈴がなると「誰か来た、誰か来た〜」と歌いながら玄関へ向う(もちろん来訪者の目の前ではビタリとやめるが)。

一日の最後に温泉で「足湯」を作ってベッド脇で恵子の足のマッサージをする。

この時だって、歌いはしないが、何かリズムを取っている。

つまり、私って「多動症かナ?」と時々思う。

私が今小学校にあがるかあがらないかぐらいの年令だったらまず間違いなく教師から親が呼び出されて「病院に行かれた方がよろしいのでは?」と言われるはずだ(つまり、 ADHDではないの?と)。

小学生の時の通知表の評価欄の脇にも担任のことばで「落ち着きがありません」と書かれていたぐらいだからきっとそうだったのだろう。

うわ〜、これってヤバイじゃん。

今だったら、完全に「問題児」の仲間入りだ。

でも、幸い私が子供だった頃はめちゃくちゃ社会がおおらかで「何でも許容していた」時代だから「こんな子もいて、あんな子もいて…」といろんな生徒を学校が認めていたのだと思う。

つまりは、今よりも日本の社会そのものに「多様性」があったのだ。

そう考えると現代の子供というのは、どれだけ生きにくいのかと思う。

社会や世界がこれだけ「広がり発展した」ように見えても、その実人々の心は逆にどんどん「狭く」なっているのかもしれないと思う。

多分、本当の「天才」はこの時代現れにくいのかもしれないとも思う。

他と「違う」ことを許さない社会は、「天才の出現を拒む」からだ(だから、ほんのちょっと違うだけで「この子は天才だ」と騒ぐ...「その程度で...!」アホらしい!)。

音楽でもアートでも、さまざまな分野で「技術」はものすごくレベルアップしたような気がするけど、みんな同じで「ツマラナイ」。

なんでみんな同じなのかナ?

私が小さい時、「演奏」や「音楽」に感じていたこと。

それは、ノーミスでの演奏ほどつまらないものはない、ということ。

「完璧に演奏する」ことを目指す人が多ければ多いほど音楽の質が下がっていくような気さえする。

だって、音楽の表現って「ミスをしない」ことが目的ではないはず(たとえクラシックのような再現芸術であっても)。

私は、音楽とはその人の「こころ」を音を通じて相手に伝えることだと思っているので、ミスをするかしないかなんてことはどうでも良いことだと思う。

よく終演後のコンサートの楽屋でステージから戻って来るなり「ああ、あそこ間違っちゃった」と叫ぶご仁がいる。

完全なバカ野郎だと思う(女性でも)。

お前さん、お客さんのこと考えてなかったの?

アナタ、一体誰に向って演奏していたの?

自分のことしか考えてないから「ミスしたかどうか」にこだわっているのだと思う(きっとこのご仁にはそこしか見えていなかったのだろう)。

なので、そういうことをおっしゃる方とは二度と一緒に音楽を分かち合いたくない。

音楽ってもっと自由でもっとハッピーなものでしょう。

同じように人生も、もっと自由でハッピーなものでしょう。

今、この瞬間がハッピーと思えなかったらいつハッピーになるの?

私はそう信じているんだけどナ…。

 


ボブ・ディランがノーベル文学賞を取ったことで

2016-10-15 07:51:43 | Weblog

作曲家アイヴスのことを考えた。

今回のディランの受賞で、ディランがピューリッツァ賞やその他たくさんの賞も取っていたことを初めて知ったけれど、作曲家アイヴスだってピューリッツァ賞を取っている。

自称「アイヴス研究家」の私にとってチャールズ・アイヴス(1874~1954)というアメリカの作曲家のどこが魅力かと言えば、正直言って彼の作品自体というよりも、彼のアイデアやその生き方。

ディランとアイヴスではその音楽は「天と地」ほども違うけれども、両者に共通しているところもある。

強いて言えば、両者共完全に「我が道を行く」(ぶれない)生き方かもしれない。

私は、ボブ・ディランがノーベル文学賞を取れるのだったら、それよりも先にアイヴスにこそ「ノーベル文学賞」をあげるべきだったのではとさえ思う(でも、亡くなった人は対象ではないのでこれは詮ない願い)。

アイヴスのピアノソナタ第二番<コンコード>には、「ソナタの前にEssays before a sonata」という文章がついている。

別に研究論文ではなく単なるエッセーと(自分では)言っているけれども、これが超難解な文章(しかもけっこうな量)。

このソナタが長い間「演奏不能」と言われたのは、その技術的な難しさだけでなく、この「エッセー」の難解さも影響したのかもしれない(4楽章の終わりにフルートのオブリガートがついているのでこの曲の演奏には何度か立ち会ったが、さすがにどのピアニストもその演奏に苦労していた)。

4楽章のそれぞれにアメリカの超越主義文学者の名前のついたエッセーが用意されている。

1楽章、エマーソン(アメリカの思想家、哲学者、宗教家)、2楽章、ホーソン(小説『緋文字』で有名な19世紀米文学者)、3楽章、アルコット「自分の無知に無知なことは、無知な人間の慢性病である」ということばで有名な19世紀アメリカの教育者、4楽章、ソロー(小説『森の生活』で有名な19世紀米文学者)。

これら4人の米文学者と対峙したアイヴスのこの『ソナタの前に』という文章は、現在でもアメリカの大学文学部のテキストとしてよく使われている(アメリカの「超越主義」文学というのは、「神秘主義」とほぼ同義語のように扱われている)。

こうなると、ディラン同様、「音楽家と文学者」が一人の人間の中に同居していても何の違和感もない。

しかも、アイヴスには、音楽家、文学者という「顔」以外にも実業家とスポーツ評論家という顔もあったのだ。

彼は、エール大学で音楽を学んだ後プロの音楽家にはならずに生命保険会社を起業してそれを定年まで勤めあげた人物(この会社は今もアメリカのメジャー保険会社の一つとして残っている)。

生命保険は人々の命を守るために必要なモノという彼の信念が会社を起こさせたのだ。

彼の「人物像」をひとことで言うならば、筋金入りの「平和主義者」。

彼がルーズベルト大統領に直訴した手紙が彼の著作の中に残されている。

現在の国連とまったく同じコンセプトの組織(peoples’ world nationとアイヴスは呼んでいいた)を世界平和のために作るべきだと大統領に訴えているのだ(もちろん国連が作られるはるか前に)。

それに、彼の日常生活も、作家ソローの『森の生活』そのもの。

会社はボストンにあったが、ふだんの生活はボストン郊外の森(その場所の名前がコンコード)の中のログハウス。

都会と自然の中を行ったり来たりしながら、ウィークエンドだけ作曲を続けるという生活を続けていた(この辺り、最初はサラリーマン作曲家だった小椋佳さんに近いかナ)。

私がアイヴスにのめりこむキッカケになったのが彼の書いた『114の歌曲集』。

アメリカで音楽を勉強していた時、「楽曲分析(アナリーゼ)」の時間に初めて聞いたこの「歌曲集」の詞の深さに圧倒された。

「え?ウソ!?こんな曲をこれだけたくさん作った人が世の中にいたんダ!」という衝撃。

ジョン・ケージがやった数々の実験も山下洋輔がやったアヴァンギャルドもすべてアイヴスが先にやっていた。

そうした彼が成し遂げた数々の現代音楽の実験にも圧倒されたが、私はその詞の内容に打ちのめされ、以来今日まで彼の楽譜と著作を集めまくってきた(レナード・バーンスタインはハーバード大学でアイヴスの講義を続けていて、その一部はyoutubeでも見ることができる)。

私も、もちろんアイヴスに関する著作の出版を試みたけれど「そんなもの売れないよ」とすべての出版社から断られた(日本じゃ当たり前かもネ、ハハハ)。

もし彼が今も生きていたらピューリッツァ賞だけでなく、ボブ・ディランと同様にノーベル賞を取っていたことは間違いないだろう(彼には、平和賞の方がふさわしいかもしれないが)。

案の定、今回のボブ・ディランの文学賞にクレームをつける人たちもいたようだ。

「文学はこうでなければいけない」とか「音楽がこうでなければいけない」といった考え方そのものが時代遅れだし、多様性という人間にとって一番大切な基本に逆らうことになるのでは思う。

人は皆違うし、考え方も違う、だから面白いし、だからこそ人はみんなハッピーになれると思うのだが、そう考えない人も世の中には多い(らしい)。

違いを認めない(きっと「違うこと」が怖いんだろうネ)。

だから争う(ヒトラーの考えの根底にはきっと「恐怖心」があったのでは?)。

結果、戦争や紛争が絶えない。

別に音楽だろうと文学だろうと同じじゃないの?と思う。

だって、人が頭の中で想像すること、問題にすることって結局「人生のこと、愛情のこと、神のこと、死のこと、…」じゃない。

それをことばで表現しようが音で表現しようがだろうとそんなこと関係ないじゃない。

ことばだって音だって、そんなの所詮人が神から借りた道具を使っているだけなんだから、もっと謙虚にその道具を「使わせてもらえばよい」だけの話し。

別にノーベル賞がえらいとはちっとも思わないけれど、「文学」ということばの多様性を気づかせてくれただけでも今回の文学賞は価値があるような気がしてならない。


便利さが認知症を作る?

2016-10-04 10:55:54 | Weblog

この時期の伊豆急の電車は観光客が多い。

昨日も昼ちょっと前の電車に乗るとたくさんのグループがいきなり駅弁を広げ始めた。

別に嫌いな光景ではない。

そんな光景がひと段落した後、向いの4人がけに座る家族連れの中の一人の少年の行動が目についた。

小学校にあがるかあがらないかぐらいのその少年の両手にはまったく異なる二つの玩具のパーツが握られていた。

右手に小さな電車の模型(Oゲージっぽい)。

左手にロボットの頭のようなもの。

彼はその2つを一生懸命くっつけようとしている(まるでそれらが合体ロボのパーツの一部であるかのように)。

どうやってもくっつかない(当たり前だ)。

でも、彼は、あきらめずに何度も試みる。

横の母親らしき女性は、そんな彼には目もくれず連れの女性との話しに夢中だ。

絶対にはまるはずのない二つのパーツは、ひょっとしたら彼の頭の中ではそれが見事に「合体」しているのかもしれない。

「どうしてくっかないんだろう?変だな?なぜかな?」

きっと彼の頭の中にはたくさんの「?」が渦巻いていたはずだ。

と同時に思ったのは、この時の彼の脳の中のシナプスの発火のスピードと回数はハンパないだろうナということ。

「なぜ?」「どうして?」という頭の回路は、本来結びつくべき神経細胞と細胞の繋ぎ(つまりシナプス)がどこにあるのかを探しまくる。

そうやって確実に子供のシナプスの回路は増え脳は成長していく。

だからこそ、高齢者を対象にしたシナプソロジーというエクササイズが開発されたのだろう。

このエクササイズでは、右手、右足なら簡単にできる作業をわざわざ左手、左足にやらせたりする。

逆もしかり(最近ではさまざまな高齢者向けセラピーがこの方法論で開発されている)。

少年の左手に握られたロボットの頭が、いとも簡単に右手のロボットと合体してしまったら彼の脳には何の変化も起こらないかもしれない。

電車とロボットが「違う」ものだということに気づくのか、あるいはそれでも「合体させる方法」を必死で見つけようとするのか(「不可能」だということに気づくのか、あるいは「不可能ではない」ということに気づくのか)。

いずれにしても、彼が行っている「理不尽な」作業が彼の脳の成長に果たす役割はけっして少なくないはずだ。

物事があまりにも簡単に成し遂げられてしまうことが果たして人間にとって良いことなのだろうか、と思う。

今、世の中は、先ほどのシナプソロジーのように認知症を予防するために人の脳細胞を活性化するさまざまな方法を躍起になって開発し紹介している。

でも、そんな努力をせせら笑うようにまったく逆のベクトルにも世の中は進んでいる。

何かわからないことがあったらスマホで検索すればすぐ答えにたどり着ける。

それって「きちんと順を追って物事の答えや真理にたどり着こう」という努力を放棄しているだけじゃなくって、自分の脳細胞をわざわざ死滅させていることにはならないのだろうか。

今日私が電車で見た少年のような試行錯誤や「何やってんだよ」という(いっけん無駄のようにも見える)努力を放棄した瞬間、人は老化し始めるのでは?

近年認知症人口が急激に増えているのは、必ずしも高齢者の人口が増えているからという理由だけではないような気がする。

なぜ人は「世の中が便利になる=人が頭を使わずに生活できるようになるのだから、結果、脳細胞はどんどん衰えていく」という風には考えないのだろうか?

本を読まなければ人は本当の知識を得られない。

本を読むという能動的な学習方法と教室の授業を聞くという受け身の学習方法ではその知識の身に付き方は天と地ほども違う。

一体どんな学習方法で人は知識を脳に定着させるのか、を図式化した「ラーニングピラミッド」で一番知識の定着率が悪いのは教室で単に授業を聞く事だ。

先生や学者の意見を聞いたところで、そこで得た知識が頭に残るはたった5%。

95%はすっかり脳から抜けてしまう(なんというムダ!)。

ネットで得た知識だって翌日には忘れてしまう。

学んだことを本当の知識にしたかったら「体験」するしかない。

体験学習による定着率は70〜80%。

教室の授業が、人生においていかに「時間の無駄」かがよくわかる。

年寄りになったら「脳が老化するから活性化させなきゃダメ」とわざわざメンドくさいことを年寄りにやらせる。

見ていてすごくアホくさい。

だって、それやるなら本当は若い人でしょう?

若い人が楽な生き方していたら人間としての成長が止まるだけでなく、確実に認知症予備軍になってしまう。

どうも、日本の政治や行政のやることってチグハグで本当に行き当たりバッタリにしか見えない。

もし本気で「認知症を予防しよう」と思うのだったら、なんで年寄りにばかり「脳の活性化」を押し付けるのだろう。

若い人は元気で働いているから生活の中に刺激もあって脳は日々活性化されているからその必要はない、と本気で言えますか?

すべての知識をネット(スマホも含めて)に頼っていたら確実に老化のスピードは早くなるんじゃないのかナ。

もっと本読みなさいよ。

もっと現場で体験しなさいよ。

まったく違うパーツを何とか合体させようとしていた昨日の電車の少年の努力は将来絶対に無駄にはならないはず。

ひょっとしたら、彼、何十年か先のノーベル賞候補になっている逸材なのかもしれない。