みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

里心

2012-01-31 20:06:54 | Weblog
もうそろそろ昨年9月2日の恵子の脳卒中の発症から数えて丸5ヶ月になる。
半年近い月日が過ぎて退院のタイミングとその後のリハビリのプランニングを病院とも相談し始めている。
現在の日本の医療システムでは回復期の病院にはマックスで半年しか入院していられないことになっている(本当はもっと早く出なければならない人たちもいる)。
今のリハビリ病院に転院したのが10月半ばだからその最終期限は4月の半ばということになる。
その日が来れば自動的に病院から追い出されてしまう。
ということは、そろそろ「退院」という二文字を真剣に考えないといけない状況にあるということだ(その時点で患者や家族の満足の行く結果があるにせよないにせよダ)。
当初は退院後、東京でしばらくリハビリを続け、その後に伊東の自宅に二人で戻ろうと計画していたが、退院後東京にはあまり長居はせずすぐに伊東の方に戻るという方向に今は考えを変えている。
リハビリ環境にどちらが良いかという天秤なのだが、病院の数や施設、医師、療法士の数といったものは東京の方が多いに決まっている。
伊東市にも伊豆全体的に見てもそれほど多くの施設も専門家の数も揃ってはいない。
しかしながら精神的なストレスを考えると伊豆のノンビリした環境の方が恵子のリハビリには圧倒的に良いのでは?と思えてきたからだ(やたら階段の多い東京の環境は身体の不自由な人間にはとても暮らしにくい環境だ)
それに、東京での暮らしには老人(恵子の叔母)との同居というストレスもある。
これは生半可なストレスではない。
ある意味、これは私は人生で初めてのストレス体験なのでは?と思えるほどのものだ(恵子もそうだったが、私もこれまで何度キレそうになったことか)。
音楽というものを生業にして何十年も過ごしてきた私だが、経済的な不安定さは私には全くストレスではなかった。
最初から「音楽で安定した収入なんて望んでもいなかった」ことなので、ある意味、「お金なんかどうでもよかった」。
むしろ、音楽を職業にできる楽しさ、嬉しさの方が勝っていたからだ。
そして、今回の恵子の病気もいろいろな意味で私のやることは突然増えてしまったわけだけだが、そんなこともどうでもいいと思っている。
恵子という最愛の人間を助けてあげられる喜びの方が勝っているからだ。
しかし、それとはまったく違う義叔母との生活には、私の精神にはちょっと御しがたい負担が大きい。

二人で伊豆の家からいつも眺めていた夕陽の光景を今日彼女は描いてくれたが、まさしくこんな光景が二人には今一番欲しいものの一つなのだ(彼女も「この絵は気合いをいれて描いた」と言っていた)。
それこそ「里心」なのかもしれない。

同病相哀れむ

2012-01-30 20:41:20 | Weblog
とはよく言うけれど、同じ病気で同じ時期に同じ病院で療養する人同士というのはたとえことばをあまり交わさなくてもお互いに「気になる」存在。
同じ頃入院してきた脳卒中の若い男性(漫画家さんだという)は、看護士の奥さんといつも明るくリハビリに励んでいる。
多少肥満気味なことを気にしていつもひたすら車椅子、杖で動き回っている姿は本当に健気で一生懸命だ。
そして、いつも夕食をラウンジで隣り合って食べるご夫婦も年格好から見てほとんど同世代だし患者さんが奥さんというのも共通している。
ただ、この方の場合、同じ脳疾患の後遺症でも手足の麻痺というよりも(それももちろんあるのだが)思考や情緒の面で深刻な後遺症が残ってしまっているようだ。
いつも暗い表情をされているのでこちらから話しかけるのをちょっと憚られるのだが、話しかけても普通の受け答えが返ってきた試しがない。
こちらのことばが単に無視されてしまうか、あるいはとてもトンチンカンな応えしか返ってこないのだ。
でも、ご主人とは至極普通に和やかにいつも話をされている。
要するに、他人には(ご主人が持っているようなコミュニケーション手段がないので)唯一のコミュニケーション手段としてのことばが通じない、ということなのだと思う。
脳卒中で言語機能を失ってしまった人も家族とか親しい人たちとはコミュニケーションが取れている例はいくらでもある。
要するに、コミュニケーションというのは必ずしも言語を介さなくてもできるということなのだと思う。
先日も介護施設での演奏をフルムスと一緒にやってきたばかりだが、演奏後に施設の入居者の方たちといつもメンバーたちが話し合う時間を作っている。
私も7、8人の方と話をしたが、ある意味、ほとんどの方と普通の会話にはなっていなかったような気がする。
まず、相手の言うことがよく理解できないのだから会話の大前提がない。
それでも、こちらは理解しようと一生懸命聞き耳をたてるのだが、わからないことがあまりにも多くていつもヒヤ汗ものだ。
介護士の方たちはふだんこれを毎日続けていらっしゃるのだから大変なことだとは思うけど、おそらく彼ら彼女らにはちゃんとコミュニケーションを取る「コツ」というようなものがあるのだろうと思う。
単に、私はそれ知らないだけなのかもしれない。

その点、恵子は最初からことばを失っていなかったのは本当に幸いだったと思っている。
もちろん、仮に恵子からことばが奪われていたとしてもコミュニケーションは取れたと思う。
その自信はある。
でも、ことばがあった方がどれだけ楽か。
ことばというのはコミュニケーションツールとしては本当に便利なもの。
でも、音楽だってことばに匹敵するぐらい、いやある意味、ことば以上に「雄弁」だ。
恵子が今日も「病気してから何か急に音楽が好きになったような気がする」と言ったので、私がすかさず「それって、言語脳の左の方がやられたから音楽脳の右脳が助けようとしているのかもよ」。
それって、何の科学的根拠もなく言ったのだが(「脳の可塑性」という理屈はあることはあるのだが)、あながちハズれていないこともないのでは?

絶対音感の対極に

2012-01-27 20:40:17 | Weblog
失音楽症という病気がある。
失語症はわりと一般的だが、失音楽症など聞いたことがないという人が大半だろうと思う。
私もある人の本を読むまではこの病気の存在をまったく知らなかった。
その本の著者は、映画『レナードの朝』の原作の著者で脳神経学者兼精神科医師のオリバー・サックス博士だ。
サックス博士の書いた『音楽嗜好症(原題はmusicophiliaという造語だが日本語訳が適切なのかどうなのか?)』の中にこの病気にかかった人の症例やいろいろな話が書かれている。
と思ったら、最近読んだ別の本でもさらにこの失音楽症について詳しく書かれていた。
こちらは日本の脳神経外科のお医者さんで、脳疾患の患者さんのリハビリを音楽療法を中心に行っている奥村歩さんという方だ。
人間の大脳は脳梁で右と左に別れているというのは、最近ではとても常識的なことになっていて、右脳が音楽などの空間、感覚認識などを司って、左脳が論理的な認識や言語などの役目を持っているといったことがよく言われる。
なので、左の脳を脳卒中などの脳疾患で損傷した人はことばに障害が残る人(失語症なども含め)が多いというのも理解されやすいだろう。
幸い、恵子は左の脳の視床という部分(脳の奥の奥の方でけっこう大事な部分)が3センチ出血したにもかかわらず言語中枢は無傷だったのは本当に奇跡的なことだったのかもしれない(と改めて今思う)。
で、失音楽症はというと、右の脳の損傷で起こることが多い(ので、右脳は音楽脳、左脳は言語脳などと呼ばれたりする)。
本の中に一人の失音楽症人の例が書かれている。
二十歳ぐらいの音大生(オーボエが専攻だった人)がある日を境に突然楽器の演奏ができなくなってしまう。
そして、この人はこの日を境に楽器の演奏はおろか音楽を音楽として認識することもできなくなってしまうのだ(長い間この人の失音楽症の原因が不明だったのだが、数年後にとったCTの画像から小さな脳梗塞の跡が彼女の右脳から見つかることになる)。
ここが健常者にはわかりにくいことなのだが、「音楽を音楽として認識できない」という状態を私たちはちょっと想像しにくい。
それってメロディがわからないっていうこと?
それとも、リズムが取れないということ?
まあ、これぐらいなら「ちょっと音痴?」ぐらいで済ませられる範囲で病気とは言えないのだが、どうも失音楽症というのは、失語症の人が相手の言っていることばや文章の意味がわからないのと同様、音楽の音がわからない、音楽というもの自体がわからないという状態であるらしい(もちろん、自分で楽器をやったり歌ったりすることもできない)。
この「音楽というものがこの世に存在すること自体が認識できない病気」をかかえている人(失音楽症の患者さんたち)にとっては、ショパンの『ノクターン』も自動車のクラクションも「同じレベルの音」にしか過ぎない。
きっと「ショパンの音楽のどこが楽しいの?どこがきれいなの?」という感覚なのだろう(私にはその感覚的な部分はあまりよくわからないが)。
逆に、失語症になる人は左脳に障害のある人がなりやすいので、こういう人はことばはしゃべれなくても「歌を歌う」ことができたりする。
映画『英国王のスピーチ』の中の吃音障害の王様も歌は上手に歌っていたし、脳疾患で左脳に問題を抱えた人も音楽的な作業には何の問題も残らない人が多い。
つまり、人間の脳というのは、こういう「音楽する脳」をもともと持っているということで、それが先天的に阻害されている人も稀にいたり(こういう人は先天的失音楽症と言われる)、後天的に脳疾患でその能力を奪われてしまう人もいたりするということなのだ。
ただ、「右脳が音楽、左脳が言語」といった単純な役割分担では割り切れないのも人間の脳の複雑さゆえ。
一酸化炭素中毒で右も左も大脳の全てに酸素が欠乏した状態で脳障害を起こし、言語障害、記憶障害を起こした人でも歌を歌ったり楽器を演奏するまで回復できた人もいるということも奥村先生の本には書かれている。
つまり、「音楽する脳」というか、人間に元々の能力として備わっている「音楽する記憶」というものが脳の中に刻まれているのではないのか?
一部の神経学者の人たちは徐々にそう考え始めているのだ。
そして、だからこそ、音楽療法が脳のリハビリには有効なんだという結論になるのだが、こうした学問的アプローチで音楽療法が研究され議論されることは音楽療法の未来にとっては非常に大事なことだと私は思っている。
単に情緒的な感覚や意見だけで「音楽がリハビリに良い」などという浅薄なアプローチだけは避けて欲しいと思っている。
こうした安易な音楽療法の方法論は、音楽家にとっても、音楽自身にとってもけっして好ましいことではないからだ。

自叙伝?そんなまさか!

2012-01-24 20:57:00 | Weblog
あるプロジェクトの打ち合わせでTV芸能業界の長老とも目される方の自宅に食事に行く。
その席で突然言われたのが「自分のは書かないの?」ということば。
この方、時々意味不明のことを突発的におっしゃるので、「え?何でしょうか?私はもう8冊自分の本は出していますが…」と答えると「そうじゃなくて、自分のことは書かないの?」とさらっとおっしゃる。
「それって、ひょっとして自叙伝とか自伝とかいう意味ですか?」
この方わりと最近、この方の経験した芸能業界のことを含めて自伝のようなものを出版されたのだ。
都知事にもなった青島幸男さん(故人だが)とか作曲家のすぎやまこういちさんなどこの方の親しいお仲間の有名人たちの裏話がたくさん書かれた本だ。
でも、私はこの方ほどの年でもないし、それにそんなに有名な人間でもないので、「いえ、私なんかとんでもないですよ。それに年もまだそんなものを書くような年でもないですし(これって、今年80歳になられたこの方の目の前で言うことばではなかったかな?とすぐ気づいたのだが後の祭り。謙遜とフォローのつもりで言ったことばだがあまりそうはなってなかったかもしれない)、もし私のことを誰かが私が死んだ後に書いてくれるのならとっても嬉しいのですが…」。
まあ、それでも、この方しきりに「みつとみさんのやってきたことは本当にユニークだからきっと面白い話がゴマンとあるでしょうから書けば良いのに」としきりに繰り返されるが、やはり今の私に自叙伝というはあまりに唐突だ。
やはり、「そんなまさか!」である。

打ち合わせを終えた後、銀座の街を歩くとチラホラ雪が舞い始めていた。
先週久しぶりに仕事で伊豆の自宅に帰った折りも折り大雪に見舞われ一日自宅に監禁されてしまった(300Mちょっとの高台の自宅から吹雪のような雪の中をノーマルタイヤで出かけるほど命知らずではないので)。
おかげでただでさえほとんど置いていない食料(恵子の入院以降日常の住まいではないので)の中から食べるものを探しだすのが至難の業だったのだが今度の雪は銀座で見る雪。
雰囲気も風情も伊豆とはまったく違う。
まあ、そんなことを考えている折り恵子からメールがやってきた。
「やっぱり室内着の模様変えは延期になったみたい。賛否両論だったらしいよ」という内容のもの。
彼女がふだん病院で着ている室内着は看護士さんが毎日朝支給する(もちろん服自体は業者が持ってくるのだろうが、この病院では患者さんが全員同じものを着る規則になっている)。
毎日清潔な新しい室内着に取り替えてくれるのは良いのだが、何か作務衣のようなデザインの室内着は患者さんたちの評判はイマイチだ。
なので、イメチェンのためのリフォームへのトライアルだったのだろうが、今度はいかにもジャージのようなデザインでリハビリをする作業衣として問題ないのだが、「このまま寝るのはちょっとネ…?」という感じのものだった。
結局これは採用されないことになるらしいというのが恵子のメールの意味。
まあ、室内着といえども入院費の一部なので、これを選ぶ権利は患者さんの側にあると思うのだが、その辺の協議は一体どうなっているのだろうか?
治療内容に関しても入院生活のことなど諸々とってもオープンな病院なので、その辺も(あの服どうなったの?と)明日あたり聞いてみるかナ。

介助箸

2012-01-19 10:22:21 | Weblog
という便利グッズがいつの間にか恵子のベッドの端に置かれていた。
「 OT(作業療法士)さんが使うといいよと言って食事前に持ってきてくれるようになった」という。
軽い2本の箸と箸の間がこれまた超軽いバネで結ばれているグッズなのだが、確かにモノは簡単につかめるし簡単に挟むことができる代物だ。
「これいつも使ってるの?」
「2回ぐらい使っただけ」
そうだろう、病院に来るのをそんなに日を開けたわけではないからこの目新しいグッズが登場したのはきっと昨日かせいぜい一昨日ぐらいのはずだ。
「それで、これ使ってどんな感じ?」
「うん。すごく掴みやすいし、これだけでゴハン全部食べられる」
「じゃあ、もうこれ使うのやめよう」。

恵子は、この介助箸を使う前にも右手で普通の箸を持つように試みていた。
もちろん、重さの点でも使い勝手の点でも箸を器用に使うというのはそんなに簡単な作業ではない。
でも、それをあえて使おうとする作業自体がリハビリだし脳のそういう部分と機能とを結びつけるための大切な作業だと思っている。
いったん高いレベルの作業に挑戦し始めていた彼女がこのグッズを使うことはそれを逆戻りさせることになる。
私はそう思って、これを使うことに反対した。
「でも、これをずっと使うわけではないし、過渡的に使うだけだからとOTさんも言っていたし…」。
いや、だからこそ私は反対しているんだ。
この箸は車椅子と同じで、ある機能が失われてしまった人にはとても便利で助かるグッズだけれども、その便利さに頼ると人の脳は絶対にそこに甘えてしまうと思う。
その失われた機能を回復させようという意識が脳から後退してしまうと思ったからだ(まあ、そんな大げさなものでもないかもしれないが)。

リハビリというのは、ある意味、人間の重力との戦いではないかと私は思っている。
人間は、四足歩行ではなく二足歩行で生活しようという選択をした時点から「抗重力」の歴史を辿ってきた(それが人の進化の旅なのだが)。
人間というのは二足歩行ではなければ起こらない「腰痛」を宿命にしている動物だし、一日の終わりには「横になって」身体を休めないことには明日への生活につながらない(重力に逆らうのはとても疲れることだ)。
こんな身体を持った生物になったわけだから、手を使う、足を使うこと自体が全て重力に逆らって生きて行くということに他ならない。
恵子は足を前に出すこと、上にあげることもまだ上手ではない。
それは、とりもなおさず、重力に対する逆らい方がまだ上手ではないということ(重力に対する逆らい方が下手だと人は「転ぶ」)。
この「抗重力」のワザを磨くことがすなわちリハビリということになるのだと私は思っている。
人は自分の手をフリーにすることによって「器用な手」を手に入れて文明を発展させてきたが、それはとりもなおさず重力からフリーになろうとする「あがき」でもある。
人が生物として本当に自然に生きていこうと思ったら二足歩行はあまりにも負担が大きい作業なのだ。
だからこそ、いろいろな意味で人の生活には負荷がかかり、年を取るとその負荷が病気を引き起こし、「抗重力」機能が衰えてしまうということになる。
箸を使ってモノを食べるという行為は、東洋人以外にはあまり見られないのかもしれないが、それが私たち日本人としての美学であるならば(私はそう思っているのだが)、けっして簡単にスプーンで食べたりはしたくないし、それまでそうだったように「きれいに箸を使って食べる」という日常を取り戻す工夫と努力をこのリハビリの間にしていきたいと思うのはけっしておかしいことではないと思うのだが…。

「介助箸、ちょっと濡らしておこうよ。せっかくOTさんが持ってきてくれるんだから。ちょこっとだけ箸の先を食べ物につけておこうか」。
そう言って私は、その箸でおかずの一つをつまんだ(その簡単なこと!ほとんど力をいれずにモノを掴むことができる)。
確かに、これで助かる人は大勢いるんだろうな。
でも、今の彼女にこれはいらない。
彼女もそう納得してくれた。

他の患者さんの症状が他人事とは思えない

2012-01-17 20:53:30 | Weblog
のがリハビリ病院での日常。
今日も、恵子のリハビリを見学していると目に入ってきたのがすぐ横で平行棒の前に座っている患者さん(女性)とそのご主人らしき人。
どちらも年輩の方だが、その患者の女性の方の目のうつろな表情とまったく動こうとしない左手と左脚を見て「ああ、この方も恵子と似たような疾患を煩っているのだナ」ということが理解できた。
脳梗塞なのか脳出血なのかはわからないが、おそらく脳卒中の患者さんだろう。
その患者さんを後ろから抱きかかえるようにして平行棒の間に無理矢理立たせた療法士のSさんは、彼女の身体をそれこそ操り人形のように動かしていく。
自力では動かせない足を療法士は後ろから自分の足で前に無理矢理押し出していく。
それに懸命に応えようと麻痺した足と反対側の足を一生懸命に前に自ら運ぼうとする彼女。
そして彼女は少しずつ前に身体を移動させていく。
しかし、それでも彼女の表情はまったく変わらない。
視線も定まらない彼女の目はうつろなまま前をひたすら前をむいている。
目の前で担当の女性療法士とせっせと足や身体を動かしている恵子のリハビリそっちのけで私の視線はこの患者さんの方に釘付けになっていた。
そして、次第に私の目から涙がこぼれてきた。
恵子もちょうどこの患者さんと同じような状況が数ヶ月前にあったことを思い出したからかもしれない。
それと同時に、この患者さんに心の中でエールを送りたい気持ちもあったからだろう。
「頑張ってください。きっと、数ヶ月先には今の恵子のように明るく笑いながら療法士さんとことばを交わしながらリハビリを続けられますよ」。
そう心の中で叫ばずにはいられなかった。

ヤマネコウサギのリハビリ目標

2012-01-13 22:08:18 | Weblog
というのを、発症1週間目ぐらいに私が(勝手に)作り二人でそれぞれ同じものを持ちながら「必ず達成する目標値」として設定した。

第一関門=一人でトイレに行けるようになる!

発症してからしばらく身動き一つできなかった身体ではトイレに行くことなどおよびもつかなかったのだが、お小水をためた袋を下げたままのリハビリというのはいくら何でもミジメなので(でも、この袋を下げたままのリハビリの人は実際にはたくさんいることが後からわかった)無理矢理おむつにしてもらったりといろいろな変遷をへてやっと「車椅子でのトイレ」というところまでこぎつけた。
そして、今の段階はこれが「杖でのトイレ」という状態に変わり、この第一関門はおそらくほとんど突破できたのではと私は思っている。

次の
第二関門=車椅子なしで移動できるようになる!

これはまだ「半分達成半分未達成」という感じだろう。
というのも、病院の中での杖での移動は療法士、看護士や家族(つまり私だが)がいる時に限定されている。
一人で勝手に杖で歩き回って良い、という段階にはまだ来ていない(なので「車椅子よサラバ!」とはまだ言えないのだ)。
毎日一緒に病院の廊下で歩行訓練をやっているのだが、本人もまだ「自分一人だけで歩く自信はない」ようだ(別に誰かいなくてもころぶわけではないと思うのだがやはり何か不安なのだろう)。
一緒に恵子の右側を歩きながら「かかとから!ゆっくりと!遠くを見て!」という呪文を唱え続けている(私には彼女の右側にいることが療法士さんから義務づけられている)。
その3つにまず集中することが今の彼女には最も大事なことだからだ。
かかとから足を降ろすという動作が「歩く」という動作には最も大事なことだという意識は、以前私の中にはまったくなかったのだが、彼女の歩行訓練をするようになって、確かに人間の二足歩行というのは「かかとから先に降ろさなければ上手に歩けない」ということがよく理解できたように思える。
つま先から降りていては本当に「変な歩き方」になってしまうし、第一ものすごく疲れる。
なので、この第二関門も訓練中ゆえ「半ば達成、半ば未達成」という感じだ。

第三関門=右手で箸が持てるようになる!

では、第三関門はどうかというと、これも最初のステップに少し足をかけたところぐらいかナ?というところ。
右手で箸は持てても指や手の筋肉に「力」そのものがないので長い間同じ格好を持続することはできない(今日なんか盛んに「しびれる、しびれる」と言っていた)。
なので、持ちやすい食べ物をつかんで食べることには成功しても、ちょっとつかみにくいものになると途端に箸の運びがおぼつかなくなってしまう(右手で箸を持つ格好は大分サマになってきているのだが)。
というところで、これもまだ中途半端。

第四関門=杖なしで歩けるようになる!

これは、第二関門を突破した後に当然来るべきもの。
ここのハードルをどれだけのスピードで越えられるのかが今後の私の一番の関心事だ。

そして、最後の
第五関門=右手で絵が描けるようになる!

確かに彼女は今も右手で絵を描いていることは描いているのだが、まだほとんど「絵の練習」に近いような絵しか描けていない(クレパスという道具では細かいタッチもニュアンスも表現することはできない)。
今描いている全ての絵は、クレパスという本当に軽い力だけで色や形が作れる道具だからできる絵であって(けっこうマンガチックな絵だと思う)、本来彼女が使っていた筆を持つだけの力はまだ彼女の右手にはないので、彼女にしてみればこれはまだ「絵のお遊び」ぐらいなはず。
ということは、これもまだ中途半端。
つまり、この時点で本当にクリアしたのは第一関門だけで、他の関門は「現在進行中」で鋭意突破しつつあるといったところなのだ。
でも、これらの課題が「北国の春」のように「全ての花がある日突然一斉に咲き誇る」といった状態でクリアされればと願ってはいるのだが…多分、実際にはそれは無理で(あり得ない話ではないのだが)、カメのような遅々とした歩み、薄皮を一枚一枚はいでいくようなトレーニングの日々が続いていき、そして、いつの間にかこれらの関門を全てクリアしていた、というストーリーの方が現実に一番近いのではないだろうか。

出版社のSさんとランチミーティング

2012-01-11 20:58:07 | Weblog
のはずが、Sさんの奥様が急病で病院に付き添われるとのこと。
急遽キャンセルになった。
今日の話で今度の出版物の内容をさらに詰めようと思っていたのだが、奥様の急病というのは致し方ない。
それにしても急病というのが気になる。
私の昨年の9月のことをふと思い出してしまった。

代わりになかなか行けなかった市役所に行き、障害者手帳の交付の手続きをする。
既に担当の医師からは診断書をもらっているのでそれほど面倒な手続きはいらない。
医師も役所の人も言っていたがこの障害者手帳の交付は介護保険の認定と違い、審査役の人がいないので医師の手加減一つで決まってしまう(そこが、ある意味、問題だということだろう)。
以前、この障害者手帳の交付に際して医師の偽りの診断書で障害者手帳を交付されていた人(この人は普通の健常者だった)がいたという一種の詐欺事件があったが、この障害者手帳には詐欺になるぐらいさまざまな特典がある。
障害者なのだから当たり前、では済まされないほど盛りだくさんの特典なので、それに惹かれてこうした詐欺まがいの行為があったりするのも無理からぬことだという気がする。
JR運賃の半額は朝飯前で(介助者も半額になる)、その他細かいのを含めればキリがないぐらいいろいろあって、極めつけは税金までもがかなり優遇されるのだ。
そんなものをこちらが「いただいて良いのですか?」という感じなのだが、ソーシャルワーカーさんによれば、これ(手帳)があった方が今後の(退院後の)リハビリがはるかにやり易くなるとのこと。
介護保険と通常の医療保険は同時には使えないが、この障害者手帳というのはその両方をまたぐことのできる一種の「この紋所が目に入らぬか」的なオールマイティジョーカーとして力を発揮するのだとソーシャルワーカーさんは説明してくれた。
日本の医療制度というのは、フランス、イギリス、ドイツのようにほとんどタダ同然の診療費とまでは整備されていないが、使いようによってはとっても「使える」医療制度なのだということが今回の恵子の病気でよくわかってきた。
何とかとハサミは使いよう、ということなのだろうか。
ただ、私としてはこんなものをいただくよりも、普通の「健常者」になって欲しいのだが。

今年になってから恵子のいるリハビリ病院は超がつくほどの忙しさになっている。
急に入院患者が増え、リハビリ室もそうだが、病室での患者さんの世話に看護士さんたちが毎日テンテコマイしている(寒い時期、人は病気になりやすい)。
一昨日、一人病室で亡くなられた方がいたが、こういうことは異例中の異例。
普通、リハビリ病院は回復の見込みのない患者さんは原則受け入れない。
しかし、どこにも行き場のない患者さんたちもいる。
もうほとんど介護施設代わりに利用している人もいるし(これは本当はいけないことなのだが)、家族がほとんど半分病院に世話を押し付けているような患者さんもいたりする。
そんな具合に今年に入ってやたらと人が増えたように見えるのだが、恵子の部屋には昨年から同室のお年寄りが一人いる。
昨年末にご主人を亡くしたばかりで病院から葬儀に行かれたのだが、今日も息子さん(この息子さんも毎日面会にやってくる)が帰られた後「寂しい、寂しい」と言って泣かれる。
恵子と二人で懸命に慰めるが私は面会時間を過ぎてしまったのでその後を恵子に任せ私はあわてて帰った。
その後少し落ち着かれたと恵子からメールがあった。
200床あるこの病院には200種類のドラマと人生があるということだ。

お見舞い

2012-01-08 23:11:09 | Weblog
をする方もされる方もこの病気はけっこう難しい。
どの程度の症状なのか見舞いに行って本人に会うまでは見当もつかないだろうから、一体いつ頃お見舞いにいったら良いのか相当迷うはずだ。
口がきけるのか(この病気で失語になる人は多い)、手足はどの程度不自由なのだろう(この部分は、私もそうだったが健常者には容易には想像できない部分だ)?
口の聞けない患者さんを見舞うことほど辛いことはない(そういう患者さんも同じ病棟には何人もいらっしゃるのでその大変さはとてもよく伝わってくる)。
こんな気遣いから「気持ちはあってもなかなか病院には行けない」という人も多いはずだ。
発症直後は誰でも気を使ってすぐには見舞いに行けないものだし、実際来てもらっても見舞われる本人自身が何が何だかよくわかっていない。
恵子本人もまったく覚えていないことなのだが、発症翌日の彼女の目はまさしく異常な目をしていた。
目をかっと見開いてはすぐに閉じるを間断なく繰り返すそのさまに、正直私は恐怖を感じた。
「一体この人の目は見えているのだろうか?」というような怖れではなく、「この人の脳の中、あるいは身体の中で一体何が進行しているのだろうか?」という、文字通り、目に見えないモノに対する恐怖だ。
後から聞くと「その時のことはまったく覚えていない」のだという(まあ、そんなものだろうな)。
右半身の麻痺というのは、なにも手や足だけではなく、目にも耳にも口にも及んでいる。
多分、発症直後右の耳はあまりよく聞こえなかっただろうし(今でもちょっと聞こえが悪いらしい)、目だって右の視界は相当狭かったはずだ(発症2週間ぐらいは1メーター以上離れると私の顔が見えなくなっていたらしい)。
流動食になってからも食べ物は必ず右側の方からこぼしていた(本人にこぼした自覚はないのだが)。
こんな状況では見舞われても誰が来たのかすらわからないだろうし(事実、家族の誰が来たのかの記憶もあやふやなようだ)、お見舞いに来てくれた人がわからなくても仕方のないことだろう。
それでも、2週間目ぐらいからボチボチお見舞いの方たちも遠慮がちに来てくれるようになったが、その対応は人さまざま。
何でもないように(きっとわざとだろうが)普通にしゃべりかけようとする人もいれば、不思議とやたらと麻痺した手をさわりたがる人もいる(ナゼだかよくわからないが麻痺の手をさわりたがる人は今でもけっこう多い)。
最初に入院した急性期の病院ではリハビリの時間が午後の一回だけだったので、お見舞いの人が来ても大体ベッドにいることが多かったが、現在の回復期のリハビリ病院に転院してからは毎日リハビリメニューがびっしりとあるので(この病院はなにしろ患者をベッドで寝かせないようにしている)、せっかく見舞いに来てくださっても本人が「ベッドにいない」ということの方が多い。
その代わり、行動そのものが自由にはなってきているので、リハビリメニューの合間に割合ゆっくりとしゃべることはできる。
お見舞いの方も(当然のことだけど)恵子の好みなどをよくわかってくださっていて絵を描くクレパスを持ってきてくださったり、画集や詩集など持ってきてくださる人も多い。
最近は私も一緒になって「今日は誰が来るかナ?」などと自分が患者でもないのに、入院患者のような気分になってしゃべったりする。
でも、最近お見舞いの方が一様に「元気そうね」と言ってくださるのは良いのだが本人にしてみると「見た目だけじゃ麻痺はよくわからないもんね」ということになるらしい(つまり、見た目ほど自分の身体は楽じゃないのよと言いたいのだろう)。
今日も、以前急性期の病院に初期の頃来てくださった人が再びお見舞いに訪れた。
開口一番、「指はよく動くようになったわね」とおっしゃった。
その回復ぶりに驚いたのだろう。
まあ、私にしてみれば「そりゃ、指は動きますよ。最近では右手で箸も使えますからね。でも、本人はけっこう努力しているのだと思いますよ…」とついフォローしてみたりする(けっこう私も患者目線でモノを言うようになってきたのかナ?)。
でも、お見舞いというのは、(患者にとって)ないよりはあった方が絶対嬉しいものだ。


ショック療法だ!

2012-01-06 21:26:17 | Weblog
と恵子は叫んだ。
私が病院の中で「携帯がない」と騒ぎだし、自分の荷物や車の中や外を探しまわっている時(何度探しても見つからないので私は半分諦めかけていた)、恵子は何を思ったか自分が病人であることをすっかり忘れ、「自分も探さなければ」と思ったらしい。
不自由な右手や右足を駆使しても「携帯を探さなければ」と思ったのは、私の物忘れや整理整頓の出来なさを長年サポートしてきた習性のゆえだろうと私は思っている。
結果として私の携帯は車の中のかなり見つかりにくい場所に落ちていたのだが、そこに至るまで私が病室と駐車場を何度も行ったり来たりしている最中に恵子は無意識に右手を動かしていたらしく、最後には「ほら右手こんなにスムースに動くようになったよ。あまりに心配したからショック療法で動くようになったのかも?」と動きのデモンストレーションをして見せてくれる。
確かに手の動きは多少なめらかにはなっているようだが、いわゆる「奇跡物語」のようにまったく動かなかった手が突然動き出したというようなわけではない。
きっと彼女の脳が無意識のうちに右手にどんどん「動かす指令」を与えていたのだろう。
私が読んだ京大の脳神経科学者、久保田競先生の本にも「強制使用法」というのが解説されていた(この先生の書かれた脳関係の本はたくさん読破した)。
それはマウスの実験なのだが、麻痺していない方の手足を縛り、無理矢理麻痺した方の手足でものを取ったりつかんだりさせるとどんどん神経回路が迂回してつながり最終的に自由が効くようになるのだというような説明が本の中ではなされていた。
いわゆる「荒療治」の一種なのだが、これと似たようなことが恵子の身体と心にも一瞬起きていたのかもしれない。
大体において脳卒中のリハビリというのは、いったん壊れてしまった道路(神経回路)を復旧するのではなく、また新たに別の道を作って、脳から手足や末端に神経回路を作り直すことなのだという(どの本を読んでもそういうことが書いてある)。
だとしたら、その迂回路を作るための方法はいくらでもあるはず(道を直すのではなく新たに作るのだからどんな道でも良いはず)。
げんに、リハビリの先生(療法士さん)たちもこれに似たようなことをしょっちゅうやっている。
先日も男の理学療法士さんがいきなり「杖なしで歩きましょう」と言い出した。
杖なしも何も恵子はまだ車椅子から杖に完全に移行したわけではない。
杖自体がまだ初心者に近い状態だ。
なのに、この療法士さんは彼女に杖なしで歩かせようとする。
彼曰く「本当に杖なしで歩けないのなら、身体を支えていることすらできないはず。両足で身体を支えられているということは、杖に頼らなくても身体は倒れることはないし、歩くこともできるはず」。
まあ、理屈はわかるけど…という感じだが、実際にこの療法士さん恵子を無理矢理歩かせた。
もちろん、彼が身体をしっかりと支えてはいたのだが、恵子の中から杖に頼るという感覚がこれで少し消えたことは確かだと思う。
本当に人間の身体というのは心と身体の微妙なバランスで成り立っていることがよくわかる。
この強制的に杖を取り外すというようなやり方の話は『ブラックジャック』の中にも確かあったような気がする(『ブラックジャック』では杖ではなく「人工声帯」だったかナ?)。
もちろん、これで恵子が一気に自由に歩ける、なんてことにはならないのだが、こうした道の付け方は絶対に有効だし、そのことを恵子も良くわかっている。
だから、Pレッスンや絵日記などの代替療法も率先してやっているのだと思う。

そう言えば、いつも病院の廊下の真ん中で車椅子の上でボンヤリと(生気のない表情で)「頭をかかえて考える人」のポーズをしている男の患者さん(かなり年輩の方)が今日は療法士さんと歩行訓練をしていた。
やはり、あの人も少しずつ「前に進んでいる」んだ。


Pレッスン

2012-01-04 21:59:40 | Weblog
と称している(二人で勝手につけた名前で、要するに piano lessonのこと)私と恵子の「音楽療法」の時間は、ほぼ毎日続いている。
例のロール(巻き)ピアノでの簡単な童謡のレッスン(しかも右手のメロディだけ)は、曲を「弾けるようになる」ことを目的にしているわけではなく、不自由な右手の指を一本一本独立させて動かす手助けをするためのもので私なりの「音楽療法」だ。
まあ、こういうものは俗に言う「代替療法」になるのだろうが、別に私は音楽療法士ではないので、これを「音楽療法」と言いきってしまうのにはちょっとためらいがある。
大体において、日本だけでなく世界的に見ても「音楽療法」ということばにユニバーサルな定義やルールがあるわけではない。
ただ、日本人というのは「学会」が大好きらしいので、まだ保険認定の治療法でもないのに「音楽療法学会」なるものがあって(それも一つではない)、それなりのガイドラインやルール、そして、音楽療法士がそれを実践する場合のマニュアルなるものがあってそれに沿うものが「正しい音楽療法」であってそれ以外のものはそうではないらしい(らしいというのは、私は学会員ではないのであまり迂闊なことは言えないが、学会誌を読んだり関係者からの情報ではそういうことになっているらしい)。
ただ、私はそんな学会には微塵も興味はないし、何をどう定義しているかにもまったく興味がない(どうせ、ただの権威好きな人たちの集まりだろうから)。
私は、私なりに長年音楽療法に関心を持って調べてきたつもりだし、それを大学や病院、あるいは施設などで研究し実践している世界中の人たちと長年の間いろいろ連絡を取りあったり、知識や意見を交換してきてきた中で私なりに「音楽」そのものの人間に対する役割とその影響を考えるところから「音楽と医療、介護、看護、リハビリ」との関係を何とか一つの筋道の中で考えていけたらと思っている。
恵子の治療の一環に私が勝手に組み入れたこの「Pレッスン」がどれほどの効果があるのか科学的に検証することはできないけれども、二人で毎日弾いている「ちょうちょ」や「チューリップ」そして「ドレミの歌」などが、絵描きの彼女のリハビリにどれほどの効果をもたらすのか?
これまでの生涯で一度もチャレンジしたことのない「音楽」「楽器」という分野に挑戦することが、複雑きわまりない「人間の手の動きのメカニズム」にどれほどの影響を与えてくれるのか、その効果に少なからず期待をしていることは確かだ。

意外なところで手こずる

2012-01-01 16:21:07 | Weblog
自宅での外泊。
昨日恵子の外泊のため病院から私の運転する車で移動したのだが(この移動自体は何の問題もなかったが)、車を降りて車椅子に乗り自宅の玄関から上に上がろうとする時、最初のつまづきが待っていた。
一般道路というのは水平ではなく意外と傾斜があり、そこから15,6センチほどの段差で自宅の敷居まで乗り移ろうとするが恵子が車椅子から悲鳴をあげる。
「起き上がれないよ」。
実際はそれほどの傾斜ではないのだが、今の恵子にとっては後ろから身体が引っ張られるほどの「かなりの傾斜」なのだろう。
そこで自力で起き上がらせるのを諦め車椅子ごと敷居の上に持ち上げる。
いくら小さい彼女の身体とはいえ車椅子と一緒に持ち上げるのはけっこうつらいので一緒に来てくれた友人の力を借りる。
そして、いよいよ今度は家の中での杖をついての歩行だが、畳の表面がけっこう滑るとか(新しい畳なので余計にそうなのだろう)、床と床の上に敷いてある絨毯とのほんのちょっとの段差(私たちには段差には感じられないが)が歩きにくいという。
あげくは、その段差防止のために打ち付けてあったちょっとした板のスロープも「またぐのが怖い」ということになってしまう(このスロープは亡くなった恵子の母の介護のためにつけたものなのだが人によっては障害になることもあるのだナ)。
実際に恵子が家に帰って暮らしてみると、そうか、それは意外だったな...ということだらけ。
やっぱり健常者目線と身体の不自由な人の目線は完全に違うのだなということを改めて思い知らされることになった。
恵子は杖をついているとはいえ、杖での歩行訓練はまだ始まったばかり。
それほど技術的にも体感的にも上手とは言えない。
なので、自分でも「怖い」部分がたくさんあるのかもしれない。
アップした彼女の絵(かなりマンガちっくだが)は、私が彼女の前に立ちはだかって「通せんぼ」をしているようにしか見えないが、実は私がいつも彼女の前にたって「いつ転んでもいい」ように」バリアーを張っている絵(のつもりだ)。
それを「ウサギ転倒防止バリアー」と二人で勝手に称しているだけのこと。
歯を磨くにも、髪を洗うにも、トイレに行くにも必ず私が介助していかなければ「(転倒してしまう)怖さ」が残るために、私がちょっと買い物などで外に出るたびに「勝手に一人で動くなよ」になってしまう。
もちろん、勝手に一人で自由に動いてもらうのが一番嬉しいのだが(自立するという意味で)、そうなるまでに後どれだけかかるのだろう?