みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

昨日恵子と二人で

2012-03-30 09:08:38 | Weblog
病院のサロンでお茶を飲んでくつろいでいたら何だか急に涙が出てきてとまらなくなってしまった。
別に悲しいわけでもないのだが、これまでの7ヶ月毎日のように病院に来ていた日々が思い出されてしまったのかもしれない。
恵子に涙を見せないように後ろを向いても隠しとおせはしない。
何か言ってくるかなと思ったが彼女も何も言わない。
ただ、黙っているだけだ。
つらい苦しいと思ったことは一度もないのだが、二人の人生の何かが変わったことだけは確かだった。
まだ完全に復活したわけではないが恵子もいずれきちんと復活するはずだ。
彼女の入院生活、二人にとって良いことの方が多かったと私は思っている。
彼女はずっとクレパスで『ヤマネコウサギの絵日記』を描いてきた。
もう既にスケッチブックが8冊目になっている。
彼女曰く「右手でも左手でも描けるようになった」。
それってすごいことだと思う。
病気を発症する前は右手でしか絵を描いたことがないのだから、左手で描けるようになった分得をしたことになる。
私も本当に得をしたと思う。
おかげで音楽と介護、リハビリに対して何をどう貢献していけばよいかの具体的なビジョンができた。
たくさんの本を読んだおかげで知識はそれなりに増えたし、何よりもいろいろな先生や専門家、あるいは理解してくださる人たちとも大勢知り合うことができた。
とにかく「毎日が発見」で、学ぶことの多かったこの7ヶ月だったような気がする。
仮の東京住まいで高齢の義叔母の面倒を見ながらのあわただしい恵子の看護だったが、これからは伊豆の自宅でちょっとゆったりした二人のリハビリ生活が始まる。
今まで病院で医師、看護士、療法士、栄養士さんたちが面倒を見てくれていた部分を私が引き受けなければならないが、それも恵子と二人ならまあ楽しくやれるかなという気もする。
人のために何かをする、できるということが人間にとってこれほど幸せなことだったことを実感できただけでも「得をした」かなと思っている。
あんまりきれいごとだけでまとめたくはないのだが、実際悪いことが何も思い浮かばないぐらいひたすら「感謝」の入院生活だったような気が私にはしてならない。

退院がいよいよ今週土曜に

2012-03-26 20:44:16 | Weblog
迫ってきた。
これまでの7か月が長かったのか短かかったのかはまだ私にもよくわからない。
問題は全てがまだ終わっていないということだ。
この病気は退院イコール完治ではない。
今の医療制度ではこれ以上の入院が許されないので退院するまでのこと。
私にとってはこれからの方がはるかにしんどくなってくる。
しばらく外来でリハビリ治療を受けるにしても「一人で電車で病院に行ってこい」などとはとても言えない(それが言えるぐらいまでに回復してくれたら本当に良いのにと心から願う)。
杖で歩くとは言ってもまだハイハイの赤ん坊がやっと立って歩けるようになった程度のぎこちなさだ。
階段や段差だらけの電車の駅を歩くなどとても不可能だ(エレベーターもエスカレーターもついていないのにトイレにだけ手すりのあるこの国の矛盾。形だけ整えれば良いと政治も行政も考えている証拠だ)。
私が当然車で送り迎えをすることになる。それだけではない。
これまで病院で医師,看護師、療法士,栄養士さんがやっていた仕事をこれからは全て私が引き受けることになる。
在宅介護や看護の問題はこういうことなのだろうと思う。
私はサラリーマンではないだけまだ良い方だ。
サラリーマンが「妻の看護で…」を理由に仕事を休むのは不可能に近いはずだ。
世の中にはきっとこんな人がたくさんいるのだろうナと思う。
そう言えば、私のいとこ(母の長姉の長男)は親の面倒を最後まで見たおかげで結婚を逃してしまった(親の介護で婚期を逃したり逆に離婚してしまったような人も大勢いるのでは)。
今は、母も含め親類で生き残っているのは私のいとこの世代より下だけだ。

4月の2週目まで恵子の実家から今の病院に外来でリハビリに通い、4月3週目から伊豆の自宅に戻り中伊豆リハビリセンター病院での外来に切り替える。
基本的にこれまで恵子と私が面倒を見てきた恵子の叔母を一人実家に残していくことになるが、私としてはこれ以外のチョイスはない。
この東京の実家で妻と義叔母の二人の世話を私がしながら仕事をしていくことなど到底無理な注文だ。
ストレスだらけの東京の実家での生活では恵子のこれ以上の回復は望めないし、第一私が絶対に倒れてしまう。
自然と一緒に暮らすストレスフリーの伊豆の自宅での二人だけのリハビリ生活。
義叔母には悪いが私と恵子にとってこれ以外の選択肢は残っていない。



普通に歩いている夢を見た

2012-03-19 18:16:55 | Weblog
と恵子が言った。
すかさず「じゃあ、もう治るんじゃん。治っている自分をイメージできるということは治るんだよ。脳はイメージするだけでそれをしたと同じ神経細胞が働くんだから」
まあ、これが科学的に正しいことなのかは私にも良くわからないけれども話としてはとても明るいこと。
土台、明るいイメージを持てない人は絶対に明るく生きられない。
人は見かけによらないというけれども、私はむしろ「人は見かけが全て」と思いたい。
生物の外見は意味があってそうなっているわけで、例えば発情期の生物はそういうことを外見で現さなければ意味がない(生物にとって性淘汰は最重要課題だから)。
人の外見もその人がイメージしたものがたまたま外に表現されているだけのこと。
その意味では人は外見で「判断して良い」のだと思う。
恵子の夢が正夢かどうかということではなく、まさしく今はそういう自分がイメージできる段階に来たということかもしれない。

今なにしてる?

2012-03-17 20:21:17 | Weblog
と恵子がいつも携帯で私に問いかけてくる。
病院に入院している人間の行動範囲や行動の種類は限定されている。
なので私の方から彼女の方に同じような問いかけをすることはないが、病院の外であれこれと動き回っている私の行動や場所は彼女にはとても気になるらしい。
こちらが病院に向かっている途中だったりすると「後どのくらい?」と秒読みを求めてくる。
電車で行く時は良いのだが車を運転していたりするとちょっとばかり危険だ。そんな時は数字だけ入力して送り返す。
自分が逆の立場で身体の自由や行動の自由を制限されているとしたら携帯という存在はけっこうありがたいかなとは思う。
単なる通話でももちろん用は足りるのだが手短なことばでコミュニケートするメールは「とても便利」と単純に思う。
ただ、同じように短いやり取りにしてもつぶやきやツイートはちょっと様子が違う(私はつぶやきもツイッターも基本的にはやらない主義なので)。
「つぶやく」にしても「ツイートする」にしても本来は不特定多数に聞かせるものではなく特定された他者に聞かせようと「つぶやく」ものではないのかな?と思ってしまうからだ。
誰かれかまわず「聞いてよ、聞いてよ」的な心情吐露をあちこちで見るたびに、「なんでここまで自分のことを他人にさらけだそうとするのかな?」と思ってしまう。
それじゃ、お前はなんでこんなブログでプライベートなことを不特定多数に読まれることを前提で書いているんだと突っ込まれそうだが、私のブログには一つ目的があるのでそれを果たせばその時点でまたブログの書き方は変えるつもりだ。
きっとこれは私の性格のゆえかもしれないが、私は「目的のない行動」は大嫌い。「ただなんとなく…」という行動をすることはあまりない。
だから恵子もその辺は良く心得ていて「今何してる?」「今どこにいる?」で次の行動や移動のパターンを推量しようとしているのだと思う。
入院以来ほとんど毎日顔はあわせていても片や健常者、片や半身麻痺の入院患者の二人の生活を携帯がけっこう微妙につないでいたりする。

執筆のために

2012-03-14 22:46:06 | Weblog
恵子の入院のからこれまでの過程のさまざまな出来事を思い出しているが、思い出すたびにつくづくラッキーだと思うような出来事がたくさんある。
まずその第一が、視床部という大脳の奥の奥の方の出血にもかかわらず認知障害や言語障害がまったく起こらなかったこと。これはひょっとしたら奇跡的なことかもしれないとさえ思う。
脳卒中患者の多くの場合に、言語障害も認知障害も起きているし、ましてや左脳の視床などという場所での出血が手足の麻痺だけで済んでこと自体が不幸中の幸いだったと最近つくづく思えてならない。
思えば、入院初日に看護士さんたちが入れ替わり立ち代わり(あの病院はやたらと看護士さんの多い病院でしかもそのほとんどが若い看護士さんばかりだった)やってきては「みつとみさん、生年月日を教えてください。今日は何年何月何日ですか?お名前は何といいますか?今日は何曜日ですか?」といった質問を飽きることなく繰り返して聞いていった。
そのほとんどを正確に答える恵子を見て「ああ、これなら大丈夫」とは思わずに、「なんでこんなに同じことばかり繰り返していくんだよ」とちょっとムッとしていた自分がいたことも思い出す。
もちろん私がそんな風に思うのは的外れであって、看護士さんたちがチェックしていたのは患者に「認知障害の徴候がないかどうか」ということ。
これまでの入院生活でそうした認知障害を患う脳疾患患者をたくさん見てきた。
そして、それらの人たちに見られる顕著な症状は「表情に生気がない」ことだ。
単に「暗い」といった表現では現せない何か「生きていない」感じのするうつろな表情が多くの患者さんの顔に現れている。
なのでたとえ同室でも廊下ですれ違って挨拶をしても挨拶が返ってくるどころか表情が変わることもない。
私のことばが聞こえているのか、あるいは私の声が聞こえているのかすらもわからない。
そんな人たちを見るにつけ、恵子のケースがますますラッキーなことに思えてくる。
それこそしゃかりきになっていろいろなリハビリやできることは全てやってきたせいか恵子の経過はとても順調だと思う。
今月終わりの退院も全治での退院ではないとはいえ、ある意味、将来的な見通しはけっして暗くはない。
彼女のリハビリの一つの方法として始めたクレパスとスケッチブックによる「ヤマネコウサギの生活絵本」のようなものも既に7冊もたまってしまった(彼女は現在7冊目のスケッチブックを描いている)。
私が今度出す単行本のように、彼女も絵本かなにかで一冊まとめられると良いと思っている。

2連続歩行か3連続歩行か

2012-03-05 23:38:38 | Weblog
などと言っても普通の人には何のことかサッパリわからないことだろうが、これはリハビリの歩行訓練で杖をどう使うかという問題。
要するに、杖を第三の足としてカウントするか(3連続歩行)、あくまで杖は足の一部としてカウントするか(2連続歩行)の違いをこんな用語で現しているのだが、これはとても微妙でリハビリの基本的な問題なので私としては世の中の全ての療法士さんがこれは統一して欲しいナと思っている(やり方を統一するのではなく、この段階では3連続歩行を、この段階を越えたら2連続歩行に移るといった訓練の指針の統一だ)。
最初、療法士さんが歩行訓練を始めた時に「1,2,3」という掛け声をかけていたのだが、私は「歩くのになんで1,2,3なの?」と単純にそのリズム自体が理解できなかった「三拍子で歩くことは不可能だ)。
きっとまだちゃんと麻痺した足が出ないから(こんな風に数えるのは)仕方がないのかなぐらいに考えていたのだが、実はそうではなかった。
杖が足の動きとは別にカウントされるので3つに数える。
ただそれだけのことだった。
普通の健常者は杖も持たずにただ右足と左足を交互に出すので「1,2」のリズムで歩くのは普通で当たり前(だから行進曲はみんな二拍子)。
でも、リハビリで歩行訓練中の恵子の左手に杖がある。
杖、右足、左足を一連の動作にして止まる(転ばないためにはこの歩き方が安全)。
だから「1,2,3」と数える。
だからといって三拍子ではない(「3」の後ためるので実際は4つ数えることになる=三三七拍子と同じタメだ)
もちろん普通の人はこんな風には歩かない。
リハビリ過程の人が普通の歩き方に近づけるためには左手の杖と右足が同時に出なければならない。
これで初めて二拍子の歩き方に近づくことになる。
この歩き方を昨日病院で二人で練習した。
その時は問題なくできていた(と思った)。
でも、今日病院に行くと「わからない」と言ってかなりパニックっている。
私が「1」で右足と杖を一緒に出してから左足で「2」を出す、と理屈を説明すると「そんなこと言ったって…」と混乱している様子。
「しょうがない、それじゃあ今日の梅田先生に聞いてみよう」。
私も恵子も大好きで理屈好きなこの男性理学療法士の言うことを恵子はちゃんと聞く。
「ほら梅田さんも私と同じこと言っていただろう?」
恵子を納得させるにはこの手が一番良いようだ(笑)。

入院している間に

2012-03-03 11:02:56 | Weblog
いろんなイベントが通り過ぎていったような気がする。
昨年の9月からだから、ハロウィン、クリスマス、お正月、ヴァレンタイン、豆まき、そして桃の節句の今日。
まあ、その間に、お互いの誕生日も通り過ぎていった。
時間というのは本当に「通り過ぎていく」という感覚がピッタリ来る。
いつの間に…という感覚もあるし、あれえ、もう来たんダ..という感覚もある。
いずれにしても時間は常に通り過ぎていくものなのでボヤボヤしていると何もしない間にただ時だけが通り過ぎていくことになる。
その意味では、この半年間、恵子のことも仕事のことも、またそれ以外のもろもろの出来事も全て私の肩にのしかかっていたので「ボヤボヤする暇さえなかった」というのが私の本音だ。

今月3月の終わりに恵子は現在の病院を退院する。
退院とは言っても「退院=完治」でないところが何とも面映い。
それは現行の医療制度のせいでもあるし(回復期病院の入院限度期間は180日までと決められている)、この脳卒中という病気がどこをもって完治とするかがあまり明確ではないというところも関係している。
確かに少しずつノーマルな状況に近づいているという感じはするが、じゃあいつになったら「元通りになる」のかといった部分はあまりはっきりはしていない。
退院してからも当然外来でのリハビリは続ける。
自主的なリハビリを患者はみなそれぞれやっている。
私と恵子もそれを続けなければならない。
なので、その環境と意識が二人にとって最も「やり易い」ものを選択しなければならないとも思っている。
もうその道筋は二人で考えている。
4月半ばには伊豆の家の二人で戻ることになるだろう。
あの家ほどリハビリに適している環境もないように私たちには思えるからだ。
元々バリアフリーで作られている家だ。
玄関を除けばほとんど段差もない。
ただ、300メーター以上の高台にあるために家まで移動は大変だが、健康な私にとっても大変な坂道であることに変わりはない。
まあ、どっちみち車なんだし、何とかなるよ。
これがいつもの二人の結論だ。
それよりも、何よりも「楽しい」ことが一番。
二人でいられるだけでハッピー。
少しずつノーマルライフへの布石作りが始まった。