みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

人を理解することがこれほど難しいことだとは

2014-12-21 11:25:59 | Weblog
私は,コンサートのトークでも講演でもいろいろなところで「介護と音楽に一番大事なのはコミュニケーション」と話してきた。
その考えにもちろん今でも変わりはないしそう信じているのだが,それでは私自身が恵子との生活でそのことをきちんとできているかと毎日問われているような気も一方でする。
恵子は,病気を発症して以来(というか退院して以降かもしれないが),「涙目」という症状に悩まされている。
食事,光,温度差,風などのさまざまな「刺激」で彼女の目に涙が溢れてくる。
食事をするとほとんど毎回と言っていいぐらいこの症状が起こる。
明るい暗いや寒い暑いといった刺激だけではなく,食事の「匂い」「温度」「味」「湯気」なども「刺激」の一つに変わりはないからだ。
ただ,その(涙目の)継続時間は少しずつだが減ってきているような気もする。
涙が出るぐらい何だと思われる人もいるかもしれないが,目に涙が溢れるということはその間「目が見えなくなる」ということだ。
食事をしていても目が見えなければ食べ物を見ることも掴むこともできないし,光が「まぶしい」と彼女が言えば私はすぐにカーテンをひき部屋を暗くする。
いくら家の中とはいえ,目が見えない状態は危険だ。
なので,しばし涙目がおさまるのを待つ。
その待ち時間がだんだん減ってきているとはいえ,しばらくの間何もできない状態が続くのは不便なのでいつも医者に行こうと誘う。
今通っているリハビリ病院には眼科も耳鼻咽喉科もないので,担当医師に紹介状を書いてもらい近くの大きな病院に行く用意は以前から出来ている。
しかし,彼女は,私が行こうと誘っても一向に行こうとはしない。
今朝も朝方ベッドから起きると涙目になりトイレに行きたくても行かれない状態になったので「しばらく休んでからトイレに行きな。もし辛かったら病院行こう」となだめるが,彼女は再びベッドにもぐり涙目ではなく本格的に泣きじゃくり始めた。
そして,盛んに「違うの,違うの」ということばを繰り返す。
私はハッとなる。
そうか,今この瞬間に出ている涙は,眼科でも耳鼻咽喉科の医師でもきっと治せない「心の問題だ」と彼女は訴えているのだ。
簡単に言ってしまえば「悔しさ」。
いや,そんな簡単なことばではくくれない彼女の頭の中を支配している(病気によってもたらされた)鬱屈がきっと「岩」のように重く頭の中にのしかかっているのだろう。

恵子という人間と知り合ってからもう既に45年の月日がたっている(結婚してからは42年ほどだ)。
そのほとんどを「一緒に」過ごしてきた。
にもかかわらず,私はこの人のことをどれだけ理解しているのだろうかと最近思うことが多い。
(病気になる)以前とはまったく違った身体や心の状態を見せる彼女だが,そのことをほんの少しでもことばや態度で私が現すとそれが彼女の心をますます落ち込ませていく。
だから,(私は)極力病気になる前と同じように彼女に接しようとする。
しかし,それでも彼女がそんな私の声のトーンやリズムに以前と同じように素直に反応できるかと言えばけっしてそうではない。
歩くスピードもことばの反応も以前とは比較にならない。
しかし,それでも,この先何年,何十年あるかわからない二人の時間をなるべく「明るい」ものにしようと努力する。
人は,きっと「そんなことに努力したり頑張ったりしちゃいけない」と言うかもしれない。
心や身体に障害のある人に「頑張れ」って言っちゃダメだよと言う人もよくいる。
でも,頑張らないとどうしようもないこともたくさんある。
それに,私は健常者だ。
私の方が頑張ったり努力したりできることはたくさんあるはずだ。

いつも私はコンサートや講演で,『潜水服は蝶の夢を見る』というフランス映画の話をする。
フランスの有名なファッション雑誌エルの編集長だったジャン・ドミニク・ボビー氏は,脳出血がもとで「閉じ込め症候群(植物状態に近いが身体のどこか一部だけが動かせる状態)」になってしまう。
しかし,彼は,かろうじて動く左目の瞼の開閉だけで伝記を書き上げる。
普通の人が見たら「ああ,もうこの人ダメね,終わってるね」というような状態のボビー氏からことばと意思を拾い上げたのは彼の治療にあたった言語聴覚士の女性だった。
瞼の開閉の動きを「イエス,ノー」の意思に翻訳してアルファベットを一つ一つずつ拾いあげた彼女(とボビー氏)の気の遠くなるような努力が「介護する人」と「介護される人」の心をつなぎ,それが結果として本になり映画になったのだ。
人を介護するっていうことが,単に車椅子に乗せてあげるとか,ベッドから降ろしてあげるとか,お風呂に入れてあげるとか,トイレの手助けをしてあげるとかではなく,何よりもその人の心と「対話」することだということを一人でも多くの人にわかって欲しくて私はこの映画の話をする(今の日本の介護現場でそれができているところは本当に少ない)。
ヘレン・ケラー氏が自分の心を開き「ことば」を得ることができたのも,アン・サリバンという女性(教師)がヘレンの心の扉をこじ開ける努力をしたからだ。
私も,恵子の心がどこにあるのかをいつも探している。
彼女の身体を自由に動かすには,彼女の心の扉をふさいでいる「重し」を取り除かなければならないこともよく知っている。
しかし,人の気持ちの奥底に入っていくことは難しい。
そんな当たり前のことに今さらながら思い知らされるのだ。


ゆっくりゆっくり一つずつ

2014-12-16 12:09:35 | Weblog
家の中でふだん聞かないような大きな音がするたびに心臓が止まるほどビクっとする。
恵子がいつまた転倒してしまわないだろうかとふだんそればかり気になっているせいだ。
ほんのちょっとした「異音(というか,ふだんあまり聞かない音)」がしただけで私の心臓は激しく脈うつ。
夜中に彼女が目を覚ましてベッドから起きトイレに行く時も,こちらは寝たフリをしながら彼女の足音に耳をすます。
畳の部屋のまったくない全てがフローリングの私の家の中で,杖を持ち装具と室内履きの靴で歩く彼女の足音は遠くからでもはっきりと聞こえる。
しかも,足音のリズムで彼女の心理状態が手に取るようにわかるのだ。

今年の3月の彼女の転倒は,大腿骨骨折-手術-再入院という予期せぬ展開となった。
恵子の心は,未だにそこから完全に立ち直ったとは言えない。
しかし,本当の意味での「最悪のシナリオ」は,彼女がもう一度転んでしまう事だ。
片側麻痺の身体では,健常者が無意識に行う「受け身」がまったくできない。
だから簡単に骨折してしまうのだが,この次に骨折してしまうと本当に困った事態を招くことになる。
だから,きっと彼女も必死に歩いているはずだ。
だったら車椅子で移動した方が安全じゃないかという人もいるし,夜中のトイレも一緒に付き添っていけば良いじゃないかという人もいる。
もちろん,車椅子で移動する限りにおいては転倒することはあまりないのだが(まったくない訳ではないけれど),彼女は一生懸命杖で「歩く」ことを学ぼうとしている。
だから,私はワザと彼女の「歩き」に付き添わないようにしている。
そばにいることによって彼女の心の中に(生まれるかもしれない)「甘え」を極力避けたいのだ。
介護というのは,単に「助ける」ことだけが介護なのではなく,「自立する」ことを手助けすることこそが介護だと私は思っているからだ。
彼女が一歩一歩足を前に出すことにどれだけの気力と体力を使っているか(24時間彼女のそばにいて),時に痛々しく感じる時もある。
3月の転倒は,そうした彼女の「努力」と「成果」が,ある意味,災いした「結果」だったのかもしれない。
少し上向き加減だった身体の調子に油断したのか(あるいは焦りなのか),それが思わぬ結果を産んだ。
彼女はいっぺんに「あれもこれも」やろうとしていたようだった。
まったく言うことをきかなくなった右手右足が少しずつでも動かせるようになってくれば,「もうちょっと,もうちょっと」と先に行きたくなるのは人としての自然な感情だ。
そんな気持ちがあればこそ人は「回復」できるのだ。
そんな時に「焦るな,ゆっくりやれ」とことばをかけてもきっと心の奥底では納得のできない気持ちが生まれるだけかもしれない。
きっと「魔がさした」のだろう。
ほんの一瞬の心と身体のバランスの崩れが招いた「転倒」だったのかもしれない。

今朝も恵子は,食卓の椅子に座りながら一生懸命椅子の下に落ちたゴミを杖で片付けようとする。
不用意にかがみこむ姿勢は危険なので注意するようにと言ってあるのだが,潔癖性な彼女,食事をしながら自分の目の下に見えるゴミが気になるらしい。
このままでは拾いかねないので「ダメだよ。あれもこれもしようとしちゃ。食べる時は食べるだけ。ゴミを片付けるならゴミだけに集中しないと」と注意する。
彼女も転倒が身にしみているのか「そうだね。いっぺんにしない方が良いネ」と素直に応じる。
つい先日まで整形外科の医師のことばにショックを受け身体がまったく動かなくなっていただけに,彼女の気持ちはそこから少し脱しつつあるようにも見える。
それ自体はとても嬉しいのだが,3月の転倒もそんな(気持ちが上向いた)矢先に起こっただけに私自身にも言い聞かせるように彼女に言う。
「ゆっくりゆっくり一つずつやっていこうね」。

よく「悪意はないんだけど…」という言い方がされるが

2014-12-12 17:52:42 | Weblog
このことばを額面通りに信じて良いのだろうかといつも思う。
そもそも,人の「悪意」と「善意」ってどこで区別されるのだろうか。
ことば通りに受け取れば「善意」は良い心で,「悪意」は悪い心。
きっとそういうことなのだろうが,私はまずここから疑ってみたいと思っている。

数日前,今年3月恵子の大腿骨骨折の手術をしていただいた病院に三ヶ月毎の定期検診に行った。
整形外科なので,レントゲンを取った後も診察までの待ち時間は半端ではなく,午前11時のアポ時間はとうに過ぎ私たちの受付番号が呼び出されたのは午後1時近くだった(前回もそれぐらい待たされた)。
診察室に入るなり担当の医師がいきなり私たちを叱責した。
「呼ばれたらすぐに入ってくれなければ困りますよ」。
え?と私も恵子も目を丸くしたが,私たちの番号が点灯する直前(ほんの二,三分ぐらい前だろうか),まだ私たちの番号は「次の次」という状況だったので安心していたらいつの間にか「ただいまの呼び出し番号は…」と私たちの番号に変わっていた。
何が起こったのかわからずあわてて診察室に入るといきなり先ほどの叱責だ。
まあ,こちらとしても何が原因であれ多少遅れたことは事実なのだろうから,昼ご飯も食べずに頑張っている先生の虫の居所が多少悪くてもひたすら謝るしかない。
まあ,そこまでは実害はなかったのだが,その後の展開が最悪だった。
先生は,レントゲンを見ながら私たちが最も恐れていたことばをアッサリと言い放ち,私たちの気持ちを一瞬のうちに奈落の底に突き落としてしまった(そのことばは,恵子の現在の足にとって「ガン告知」にも等しいことばなのだ)。
骨が弱っている,なかなか歩行がうまく行かない,….。
いろいろな心配事を恵子の頭はたくさんかかえここ数日暗くなっていた彼女の顔色がどんどん青くなっていくのがわかった。
「では,もしそうだとしたら,私たちはふだんの生活はどういう風に送れば良いのですか? 何を気をつければ良いのですか?」等々,普通の患者だったら当然聞きたくなるような事柄を医師に尋ねるが先生の答えはあまり要領を得ない。
むしろ,後がつかえているので…と(はさすがに言わなかったが)私たちを早く診察室から追い出したいような雰囲気さえ感じた。
おまけに,言うに事欠いて「痛む時は予約なしでもすぐに来るように」とおっしゃる。
そりゃそうでしょう。
普通,人が痛みに苦しんでいたらアポがあろうがなかろうがすぐさま病院に駆けつけるはずです。
別に,先生にそう言われなくても…。
結局,この日私たちが得たものは単なる「不安」だけで,「じゃあ,どうすれば良いのか」という答えは何も得られないままだった。
この病院は,私たちがふだんリハビリに通っている病院とは別の病院だ。
設備の整った,ある意味,大きな総合病院。
通院しているリハビリ病院にも整形外科はあるが,手術をできるほどの設備はなかったので私たちは仕方なくこの総合病院に行き手術を受け二ヶ月ほど入院したのだった。

今日は,週一回のリハビリ通院の日。
私は,リハビリ病院の整形外科の医師にセカンドオピニオンを求めた。
改めてレントゲンを撮った後,リハビリ病院の医師曰く「ううん,私はまだそんな最悪の状況にはなっていないと思いますよ。大丈夫ですよ。このままリハビリを続けてください」と笑顔で言ってくれた。
私が聞きたかったのはこういうことばだ。
病気のレベルがどうであれ,大事なのは私たちがふだん「どういう生活を送るのか,送れるのか,何をすべきで何をすべきではないか」ということ。
別に,レントゲン写真を患者に見せながら「ここの骨がこうなってああなって」という医学的説明はもちろん大事だろうが,もっと大事なのは「それでは私たちはどう生活すれば良いのですか?」ということ。
そこを言ってくれないことには,本当の意味での「診療」にはならないのではないだろうか。
それとも医師の役目は,ただ単に病状の説明と治療だけで,生活面のことは「自分たちで勝手に判断しろ」とでも言いたいのだろうか。
この話をこの(総合病院の)医師をよく知っている人にしたところ「いやあ,あの先生も悪気はなかったんだと思いますよ。ただ忙し過ぎてことばが多少足りなかっただけなんじゃないですか」と弁護した。
つまり,先生に「悪意はなかった」と言いたいらしい。
しかし,私たち夫婦はその先生から「不安」だけをもらい,本来医師が患者に与えなければいけない「安心」は何もいただいてはいない。
最近の医師は患者からクレームが来るのを恐れて,病気の見通しや状況を実際の予測よりも少し「悲観的」に伝えることが多い。
少しでも「ぬか喜び」をさせて現実にそうならなかった時にクレームが来るのを恐れるためだろう。
でも,そうしたリスクも含めて医師は患者に適切な処置と「心の平安」を与えるのが医療従事者としての最低限のラインなのではと思ってしまう。

「先生は悪意なくそう言っただけだろう…」。
では,逆に,悪意がないということが善意なのかナとも思ってしまう。
三年前,東日本大震災が起こった直後福島のある高校の避難所に演奏に行った時そこで働いていた若いボランティアの人たちから聞いたことばがとても気になった。
「いろいろなモノを支援物資として日本中から送ってこられるんですが,中には何でこんなモノを送ってくるのだろうと首をかしげるものがたくさんあるんです」と彼ら彼女らが説明してくれたのは,「被災者に衣類を」と言ってボロボロの古着を送ってくる人がいるのだということだった。
別に新品を送れとは言わないけれど,どう考えても(捨てようと考えていたとしか考えられない)古着を被災地に送ってくる人がいるのは,「これも善意なのだろうか?」とボランティアの人たちならずとも首をかしげたくなってくる。
きっと世の中には,「悪い善意」と「良い善意」の二種類が存在しているのかもしれない。
私が好きな『鬼平犯科帳』の中の鬼平のセリフに,「人間は良いことをしようとして悪いことをしてしまい,悪いことをしたつもりが結果として良いことをしてしまうものだ」という件がある。
もちろん,作者の池波正太郎さんのことばなのだろうが,人間が一番考えなければいけないのはやはりこのことなのかナと思う。
自分の考えが「善意」であっても,それがなかなか思う通りに「善意」としては通用しない。
それは,「相手の立場」にたっていないからだ。
人と人。人と自然。人と動物であっても,コミュニケーションというのは相手の立場をどれだけ思いやれるかにかかっている。
まず「相手」,それから「自分」。
だから,私は介護現場に音楽家が(善意のつもりで)ボランティアで演奏に行くことをあまり歓迎しない。
「音楽もコミュニケーション」。
「介護もコミュニケーション」。
「自己満足」にならずに相手のことを先に考える「コミュニケーション」が取れなければ,音楽も介護もその目的を十分に果たすことはできない。
私はそう思っている。

ユニバーサルデザイン

2014-12-02 19:21:43 | Weblog
渋谷の紀伊国屋書店で来年の手帳だけ買うつもりでレジに行ってお金を払った。
一歩レジを離れ帰りかけた時,レジ横に陳列された、いわゆるイチ押しの新刊本たちの表紙が目に飛び込んできた。
その中の一冊のタイトルに目を引かれ立ち止まった。
私は,その本を手に取るとまたそのままレジへ逆戻り。
スーパーマーケットのレジ前にある物をつい買ってしまいたくなるのと同じだ。
ただ,今日の私の場合はちゃんと理由があったようだ。
本のタイトルは『奇跡は起こらない、脊髄梗塞・それでも私は生きてゆく』。
藤原あや子さんというまだ若い女性が書いた本で、ある日突然突如身体の胸から下の機能を全て失ってしまう脊髄梗塞という難病の発病から現在までの闘病の過程を丁寧に書き綴った本だ。
この方,発病直前までは国家公務員として官公庁関係の専門誌の編集をされていた。
編集の仕事をなさっていただけあって文章はとても読みやすいし,特に感情的になることもなくこの難病と闘う姿(書き方は淡々としているがその内容は壮絶だ)を書かれている。
品川から伊豆高原までの帰りの車中で読み終えた。

『奇跡は起こらない』というタイトルに私の目が行ったのは至極当然のことだろうと思う。
私が今年2月に出した著書『奇跡のはじまり』とまるで反対にもとれるタイトルなのだが,この方が意図しているところも私が意図しているところも全く同じ。
藤原さんは最初に医師から「奇跡は絶対に起こりません。諦めてください」と言われたところから彼女の闘いが出発しそれは今も続いている。
人間諦めてしまったら結論は「死」しかない。
その結論は彼女にとっても私たち夫婦にとっても全く同じ。
きっとそういう状況(いっそ死んだ方がマシと思えるような辛い状況)に追い込まれている人ようなたちが日本中、いや世界中にたくさんいることだろうと思う。
それでも頑張って生きていかれるのは「今生きていることは必ず何かの意味があるから」。
だから,「今を信じて明日を信じて生きていくことができる」。
人を生かしていく原動力というのはきっとこれしかないのではないのだろうかとも思う。
恵子がいつも通うリハビリ病院で本当にいろんな障害を持った人たちに出会うが、そういう人たちを見ていると「あ、あの人,前より歩き方が上手くなってる」と気づかされることがある。
その瞬間、その人の身体に起こった外見的な変化よりもその方の心の中の変化や日々のリハビリの努力のことを思わずにはいられない。

藤原さんは八年前の2006年に発症して一度地獄の底に突き落とされ,そこから頑張って這い上がり車椅子で生活できるまでになったにも関わらず(医者からはそこが最終ゴールだと言われていたし,絶対に再発はしないとまで言われていたにも関わらず),再発しまたゼロに戻されそこからまた這い上がってきた不屈の人でもある。
しかも,再発してからは下半身だけでなく手の筋肉の一部まで使えなくなってしまったのだ。
ところがこの方、私と同じで生来の楽観主義者なのか(自分でもそう書いてらっしゃるが)そう簡単に人生諦めるような人ではない。
現在,彼女は「ユニバーサルデザイン」の事務所を起こし,自分の病気とだけでなく社会の無理解とも闘っている。
ユニバーサルデザインとは、つまりバリアフリーデザインのこと。
日本のバリアフリーがいかに世界の水準から遅れているかは私の本の中でも書いたが、藤原さんも全く同じことを主張している。
日本社会のグランドデザインは,身障者のことなどまったく無視したところから出発している。
日本の日常社会に転がっているモノは,障害者のことなどわからない(というか頭の中でしか考えないし,考えているフリをしている)人がデザインしているとしか思えないものだらけなのだ。
今日も用事で東京に行き品川駅のトイレを利用した(私の本の中でも改良工事以前の品川駅のトイレのことをバリアフリーの最悪例として槍玉にあげた)。
今の品川駅は再開発でとても奇麗で立派だ。
エキナカの店も充実しているし,元々一流ホテルがたくさんあって奇麗だった高輪側だけでなく昔はサビれていた港側もオフィスビルがたくさん出来て立派な駅舎になっている。
その新しい品川駅のトイレにも障害者用らしきトイレが存在する(きっとそのつもりで作ったはずだ)。
でも,障害者の人が使おうと思ってもきっと使えないだろうなと思うシロモノだ。
ナゼ使えないかの理由はあげればキリがないのだが,要するに,自分の身体には何の障害もない人がデザインし施工しているからそうなるだけのことだと私は思っている。
以前私のブログでも紹介したし,ミュージックホープ関連のイベントでも常に紹介している『目を開けてもっと私を見て』と題するイギリスの施設で亡くなった認知症患者の女性の感動的な詩を最初に自著で紹介したのはアメリカのデザイナーのパット・ムーアさんだった。
その詩が紹介されている彼女の本のタイトルは『変装』。
彼女がこの本を書いたのは1980年のこと。
ムーアさん自身はまだ23歳の若さだった。
その二十歳そこそこの彼女が八十代の老女に変装して三年間ニューヨークで暮らした時の手記がこの本の内容だ。
彼女がなぜそんなことをしたかというと,彼女の勤めていたデザイン事務所のメインのデザインがユニバーサルデザインだったからに他ならない。
まだデザインを始めたばかりの彼女にしてみれば,バリアフリーのデザインをどうしたら良いかを実体験を通して理解するための「変装」だったのだ。
ムーアさんは現在62歳。自身が起こしたユニバーサルデザインの会社でバリアフリーデザインの仕事をしながらバリアフリーについての講演を世界中で行っている。

今日たまたま手に取った藤原さんの本を読んで私自身の心に残ったことばが幾つかある。
「人生は神様からの贈り物」
「奇跡は起こるものではなく,起こすもの」
「『かわいそう』ということばほど残酷なことばはない」

これらのことばに改めて解説を加える必要はないだろう。
「同情は軽蔑である」というニーチェのことばが若い時からずっと私の心につきささってきた。
健常者が身障者に「かわいそう」という感情を起こした瞬間そこには上から見下ろす視線があるということを忘れてしまったら永遠にバリアフリーの社会は作れない。
私はそう思っている。