みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

追悼オリヴァー・サックス博士

2015-08-31 18:17:00 | Weblog
誰にも、自分にとっての「ヒーロー」と言えるような人がいると思うが、私にとってのヒーローとはオリヴァー・サックス博士のこと。
そのヒーローが今朝亡くなった。
数ヶ月前からガン治療をしていたというニュースをニューヨークタイムズの記事でも読んでいたし、博士の近況はメルマガでも送られてきていた(もちろん、博士ご本人が書いていたわけではなく、彼を支援するスタッフやサポーターの人たちから定期的に送られてくるニュースレターだ)ので、ショックではあったけど、驚きではなかった。
もうちょっと頑張って欲しかったというのが、正直な気持。
でも,人間いつかは力尽きる時が来るので、82歳で博士自身はご自分の仕事を「やり終えた」感を持って旅立たれたのかナと思う。
サックス博士の存在を初めて知ったのは、映画『レナードの朝』だった。
ロバート・デニーロ主演のこの映画の中で一生懸命治療に取り組む(ロビン・ウィリアムズ演じる)若きインターン、セイヤー医師が彼自身の若き日の姿だ。
彼自身の実体験の映画化だった。
この映画の後日談を、ある時、何かの記事で読んだ。
パーキンソン病のような症状を持つ患者たち数十人をLドーパというクスリで奇跡的に治したはずのこの「奇跡の映画」は、実はそんな単純な奇跡物語ではなかったとサックス博士自身が語っていた。
クスリの効果は絶大だったがゆえに、その反動(つまり副作用)もハンパではなかったらしい。
この Lドーパというクスリは今でもパーキンソン病患者の治療薬として使われている。
しかし、その効果があまりにも強いため、今では他のクスリと併用して使われることが多いそうだ。
つまり、特効薬として最後の最後まで使わない「保険」としてキープされるようなクスリなのだろう。
そして、この記事の最後には、サックス博士が「この映画の中では描かれていないが、私は、音楽の効果をもっとこの病気に試そうと思っていたのです」といった意味のことを言っていた。
つまり、自発動作を行なうことのできない患者たち(意思の「閉じ込められた患者」たちであり、その意味では認知症患者も同じ状態にある)に、その「キッカケ(英語で言えばtrigger=引き金)を与えるものとして音楽が有効ではないのかと博士は考えていたのだ。
しかしながら、そういった場面は映画にはあまり登場してこなかったし、そういうコンセプトの映画でもなかった。
映画製作者たちは、何十年も動きを「封じ込められた」患者たちが突然動き出すというセンセーショナルな「奇跡物語」として描きたかったのだろう。
音楽などという「地味な素材」は、完全に後ろに追いやられてしまっていた。
しかし、その後サックス博士は、数々の音楽療法士やセラピストたちとさまざまな症状の患者たちの治療にあたり、脳の障害で神経作用にダメージを受けた患者たちに音楽の効果を試し、実際のさまざまな治験例をたくさんの著書の中で報告している。
その幾つかを私も読み、「こんなすごい活動をしているお医者さんがこの世の中にいるんダ」と驚愕した。
そして、「私も、せめてサックス博士の何十分の一で良いから、音楽を通じて世の中に役に立つ働きをしてみたい」という気持から始めたのが「ミュージックホープ」というプロジェクトだった。
そんなこんなでいろいろな音楽活動や介護活動を続けていたら、昨年『パーソナルソング』という映画を見つけて狂喜した。
オリジナルの題は『Alive,inside』(つまり、認知症患者でも「私の中身はまだ生きてるヨ!」という意味のタイトルだ)。
アメリカのソーシャルワーカーの男性が、 ipodを認知症患者に聞かせて「奇跡的」とも言える効果をあげていくドキュメンタリー映画。
これを見た途端私は「わお~、私と同じようなことをしている人がいる。しかも、こんなスゴイ映画まで作っちゃったんダ!」と思い、すぐさまこの映画の日本での上映を一日でも早く実現するために調べ、そして、今現実にいろいろな場所でこの映画の自主上映会を行なっている。
私の中のジレンマ。それは、私が音楽を仕事にし始めた40年以上前からずっと感じている疑問でもありジレンマだ。
音楽って、なんで「これが好き、あれが好き」といった「趣味」のレベルで語られなきゃいけないのかナ…?
それって、ものすごく音楽を矮小化してない?
音楽って、そんな程度の存在なの?
クラシックが好きだろうが演歌が好きだろうが、それは人それぞれでかまわない。
でも、それじゃあ、人類が「なぜ音楽を作ったのか」の理由はまったく説明できない(まあ、誰もそんなこと説明しようと思って音楽聞いちゃいないか...)。
だって、クラシック音楽だって演歌だって、まだたかだか数百年の間に人類が作ったものでしょう。
そんな「新参者」に、人類の普遍的な財産である音楽を語る資格があるのかナ?
別にどんな音楽が良いとか悪いとか言う気は毛頭ないし、そもそも音楽ってそんな価値観を「超越」してるからこそ「音楽」なんじゃないのだろうか。
サックス博士は、脳腫瘍の患者さん、パーキンソン病の患者さんなどありとあらゆる病気に犯されて脳神経に異常を持っている人たちを治療し音楽やリズム、身体の動きなどの相関関係を調べていった人。
その結果、「身体の不思議」と「音楽の不思議」が同時に見えてくる。
人間の身体というのは、他人の身体の動きに自然に「同調」しようとしてしまうこと(この性質を利用して人は多くのワークソングや行進曲を作ってきたのだろう)、左脳の言語中枢を犯されことばを失った失語症の人でも「うたを歌う」ことが(当たり前のように)できること(この方法でことばを取り戻した人は世界中にたくさんいるし昔から吃音障害の有効な治療法の一つだ)、などなどたくさんあり過ぎてサックス博士の本を読むことは「エンドレス」のように楽しい。
その中で私がとっても面白いと感じた記述がある。
それは、「絶対音感」を獲得し易い人種とそうでない人種がいるというところ。
中国語、ヴェトナム語などのように、「高さ」の違いで意味を伝える「声調言語」を話す人種の方がそうでない人種よりもはるかに簡単に絶対音感を習得できるということ。
まあ、そうだろうなと納得。
しかも、赤ん坊というのは、人種の区別なくもともと「音の高さ」で意味を判断しているのだが(その意味では絶対音感を持っている)、ことばを覚えるにつれてその能力を失っていくのだという。
これも、また「そうなんだ」と納得してしまう。
ということは、「ことば」も「音楽」もそもそも人間にとって「同じ意味」を持っていたに違いないのだ(と私は思うし、サックス博士もそう考えていたようだ)。
私は、小さい頃から「音楽はコミュニケーション」だと思っていたし、今もそう思って音楽活動をやっている。
私は、別に、クラシックが好きでもジャズが好きでもない。
その時々で自分の感情に合う音楽が必要なだけ、だと私は思っている。
だって、もともと何万年も前からこんなにたくさんの種類の音楽があったわけじゃないでしょう。
音楽は、そこに「必要だからあった」だけの話じゃないのかナ。
そんなことを至極明快に理解させてくれた人がオリヴァー・サックス博士だった。
その人が、今日地球上から姿を消した。


久しぶりに88歳の義叔母の声を聞こうと電話した

2015-08-22 18:34:15 | Weblog
オバとは東京の恵子の実家で恵子の入院中の数ヶ月間同居していた。
しかし、今は大阪の義弟宅に引き取られそちらで生活をしているので時々心配になって電話する。
メールが使いこなせない人だが(この年代の人なら当たり前だ)、携帯は持っているのでいつでも気兼ねなく連絡できる。
ただ、連絡するたびに返ってくることばは同じ。
「物忘れがひどくてネ。私、もうボケちゃってダメかも」と力なく話す。
私は、そのたびに笑いながらこう応える。
「何言ってんの!88にもなって物忘れしない方がおかしいよ。ハハハ。別にボケたってイイじゃん。デイケアとか楽しいことたくさんやって毎日明るく生きていけばイイの。家の中でも回りに遠慮しないで言いたいこと言わなきゃダメだよ。ハハハハ(義弟の家で毎日遠慮がちに生活しているだろう叔母の姿が見えるので、私は力いっぱい彼女を元気づける)」。
年寄りがボケるのは当たり前なのに、それのどこがイケナイのだろうといつも思う。
今の社会、ボケすら許されないのだろうか。
毎日にようにメディアは「認知症」の恐怖を煽る(認知症の何を恐れているのか?)。
もうほとんど集団ヒステリー状態で「ターメリックが良いとかココナツオイルが良いとかいった食べ物情報から、このエクササイズをすると脳が活性化して云々…」と、その喧噪ぶりはダイエット情報並かそれ以上だ。
先日も、軽度認知症(MCI)になっているかどうかが90%の確立ででわかる検査があるとニュースで言っていた。
私は、それを聞いて「?」。
この検査の根拠にもなっているアミロイドβ(英語では、ベータアミロイド)がアルツハイマーの元凶かどうか学説としてまだ定着しているわけではないのに「90%の確立ってなによ?」(健常者のアミロイドベータの値を計っても認知症の診断基準にはならないと反証する学説もある)。
認知症に対する最近のメディアの煽り方は異常だ。
近い将来日本だけでなく世界中で四人に一人が認知症に罹患する時代が来る。
そら大変ダ。みんなで予防しましょう….。
いやいや、私は別に大変だとは思ってはいないんですけど…。
高齢者の人口がそれだけ増えるのだから、それに伴ってボケる人が増えたって当たり前の話じゃない。
アルツハイマー型?レビ小体型?前頭側頭型?脳血管性?…いろんな理由で認知症になることはわかってきたし、脳が萎縮してどんどん老化が進んでいく…とかを医療関係者や科学者は問題にしていろんなクスリを作ってきたけれども(今のところ抗認知症薬は3、4種類しかない)、認知症を完治させるクスリはないし、土台完治するはずもない代物なのでは?と私は思っている(人間がバイオニック何とかといった人造人間になってしまえば話は別だろうが..)。
人生50年だろうが、百年だろうが、生あるものは必ず死を迎える。
だとしたら、問題は認知症にならないことなの?
それとも…?
私は、別に認知症になったって、ボケたっていいと思っている。
問題は、その後でしょう。
ずっとクスリづけにして、一日中下を向いて過ごさせるのか?
それとも、認知症なんか何も気にせずにそれまでとまったく同じように暮らしていくのか?
そんなの無理…と最初から思わないことだ。
人間は「無理」と思った時点で、全てが「無理」になってくる。
「自然に生きて自然に死ぬ」
人のボケも認知症も、あるいはガンだって、人の細胞が老化して、内臓に老廃物が溜まってくれば認知症になるのもガンになるのも「自然現象」の一つなのでは?
西洋の歴史の中では「大宇宙(マクロコスモス)」と「小宇宙(ミクロコスモス)」の違いと相克が生き方の根底にあったと私は阿部謹也先生の著書で教わった。
人間が自分の手の届く範囲でコントロールできるものが「小宇宙(ミクロコスモス)」。
逆に、人間の手の届かないもの、火、水、土、風といった「自然」がすなわち「大宇宙(マクロコスモス)」だと先生は説明する。
面白いのが、人間の内臓は「小宇宙」ではなく「大宇宙」の一部に属すること。
つまり、内臓は人間の身体の一部ではあるけれども、自分ではコントロールできない部分だから、人間の内臓も大宇宙、つまり、「自然」の一部ということになる。
ある学者さんは、内臓は「内部」ではなく、口から肛門に至るまでの入り口から出口までの部分が大気に触れている人間の「外側」だと説明する(つまり、人間の身体を口から肛門で逆向きにひっぺがすと内臓が「外」にさらけ出されることになる)。
西洋の歴史では、こうした「大宇宙」はいつも「恐れ」の対象だった(だから、西洋では「森」はいつも怖さの象徴として登場する)。
病気を起こすのも、この内臓という「大宇宙」。
だから、西洋医学では、早い段階から平気で身体にメスを入れて、この「大宇宙」の正体を覗こうとしていたのだろう。
日本の学者の中でも、三木成夫先生とか養老孟子先生といった「解剖学」の専門家は、この人間の身体の中の「大宇宙」を普段から覗き込んでいるからこそ人間の生き方や社会を大きな視点でとらえられている人が多いような気がする。
その養老先生が認知症について触れた文章の中で「<気違い>ということばを差別用語にしてしまって日常語から省いてしまったのは大きな間違いだ。彼ら彼女らは、自分たちの<気>とは違う<気>の中で生活している人たちなのだから、<気違い>と言う方が本来はマトを得たことばなのだ」というような意味のことを言っていた。
私もそう思う。
「ことば狩り」をする人たちは、何が差別かの意味もわからずに、ただ表面的な意味だけでことば狩りをして逆に差別を助長していることが多い。
差別というのは、本来「違いを認めない」こと自体が差別なのであって(人種差別ってそういうことでしょ)、単にことば上の問題ではない。
違いを認めない結果が何をもたらすかは明らかだ。
ケンカ、戦争、いじめ、..すべて「違い」を認めない人間の心が起こすもの。
認知症ということばだって、今は一般的な用語として定着しているが、それを「あのジイさんすっかりボケちゃったネ」と言った途端、「差別だ」とクレームをつける人がいる。
「ボケる」って言い方、すごくカワイイじゃない。
ボケたらツッコメばいいだけ。
認知症患者でよくある例の一つ。
「私のサイフ取っただろ」認知症患者からこう言われて介護者が「取るわけないだろう」と返すから悲劇が起こる。
これは、在宅介護でも施設の中の介護でも同じ。
私たちには「妄想」に思えることでも、患者さんの中では「真実」は確かにあるのだ。
違う「気」の世界にいる人に、こちらの「気」で反発してもツッコんだことにはならない。
まず「違う世界のボケ」をこちら側の世界のボケに翻訳することから始めなければならない。
「サイフを取った」ということばの裏には必ず意味がある。
ここが出発点だ。
認知症の人のことばは一見荒唐無稽に見えても、それはこちら側の「気の世界」での話。患者さんの脳の中ではちゃんと「理」があるのだ。
ひょっとしたら、小さい時にクラスメートの子(あるいは先生)にサイフを預けてまだ返してもらってないと今でもずっと思っているのかもしれない。
誰かに貸したお金がまだ返ってきていないのかもしれない….。
いずれにせよ、「違う気」の中に隠されている患者さんの「真実」を見つけていかないことには家族だろうが、介護スタッフだろうがコミュニケーションの「出口」は見えてこない。
きっと、その「人」に通じる「ツッコミ」をこちら側が用意しておけば良いのかもしれない。
そしたら、お笑い風に明るくコミュニケーションできるのかも…。
でも、介護(人間関係)は、ケースバイケース。
一般論で割り切るのは危険、なのだ。

TED出演でわかったこと

2015-08-06 15:03:28 | Weblog
先日TEDxHanedaという世界的なイベントに出演した。
https://youtu.be/QtMoRkvfB88
前から出たいと思っていたイベントに出演できたこと自体はもちろん「ヨカッタ」のだが、今回の出演でいろいろ見えてきたものがたくさんあり、私としてはそちらの感慨の方が大きい。

今このTEDというイベントは、日本でも若い人を中心に人気が高まっている。
一方、古い世代の人たちの間での認知度はけっして高くない。
もちろん、まだ新しいイベントだからということもあるだろうけれども、根本的にこのイベントの持つ性格が若い人たちにより共感を得易いということを、私自身が出演して明確に理解できたのも一つの収穫だった。
このイベントにはたくさんのスピーカーが出演する。
しかも、その一人一人の専門分野はありとあらゆるジャンルに渡っている。
今回も、私のような音楽家がいると思えば、紙ヒコーキのギネス記録を持つ人物とか(この方は、宇宙から紙ヒコーキを本気で飛ばそうと現在NASAと交渉しているそうだ)、ウェアラブルコンピューターを14年前から「絶対にこの時代が来る」と信じ眼鏡から時計からアクセサリーまで全身ウェアラブルコンピューターで暮らしてきた大学の先生(もちろんコンピューターの専門家)だとか、世界初の女性ルマン・レーサー、女性宇宙飛行士で有名な山崎直子さんとか、さまざまな分野のフロントランナーたちが、本当に短い時間で(6~12分ぐらいが時間の目安とされていた)個々の「主張」や「活動」をプレゼンした。
しかも、講演会やコンサートのように出演者のプロフィールはおろかスピーチ内容が記されたものすらないイベントだ。
だから、お客さんは「どんな人がどんな話をするのか」といった情報をほとんど持っていない。
こういうイベントは、これまでの日本にはまったくなかったものだ。

プロフィールといえば、私がクラシックコンサートに行くたびに不思議に思うことがある。
それは「クラシックのコンサートって、何で演奏者のプロフィールをあれだけ詳細に書くのかナ?」ということ。
だって、クラシック以外のコンサートで出演者の「プロフィール」などお目にかかったことがない(ポップスやロックのライブで演奏者のプロフィールを配るなんて聞いたことも見たこともない)。
しかも、そのプロフィール中にある「◯◯大学主席卒業とか◯◯コンクール優勝」だとかいう履歴がいかに「アテにならない」ものであるかということもイヤというほど体験してきた。
TEDでは「この人は一体どんな人で、どんな話をしてくれるのか」わからないところから出発する。
だからこそ、よりシンプルに、よりわかりやすく、説得力のあるプレゼンをしなければお客さんは「共感」してくれない。
しかも、自分の「自慢」や「上から目線」を受け付けないのもTEDのコンセプトの一つだ。
クラシック演奏家のプロフィールは、まさしくこの「自慢」に近いのでは、と思う。
演奏前に「さあどうだ。オレってすごいだろ」とミエを切っている(人もいる)。
だから、演奏を聴いて「なんだ、こんなもんかヨ」と失望することも多い(もちろん、逆の場合もあるが)。
今の若い世代が一番「うっとうしく思っていること」は、きっと日本社会のDNAの根本にある「上下意識」なのではないのだろうかと私は思っている。
全てを黙って了解し「上に従い、アウンの呼吸で生きていく」ことこそが最大の美徳とされる日本の社会そのものがきっと「うざったい」のだと思う。
ある意味、これこそが「ブラック」の正体なのではと私は思っている。
企業のバリューやトップのカリスマ性があればあるほど、この「ブラック度」は大きいのかもしれない。
黄門様の印籠ではないければ「これが目に入らぬか」では、まさしく「上下関係が絶対」の価値観を押し付けているようなもの。
ある意味「民主主義の否定」そのものではないのか(あれは江戸時代の話じゃないかと言うなかれ。ドラマ「水戸黄門」は、現代に作られ、現代の人間が拍手する、現代人のためのドラマだ)。

今回の TEDのテーマは「ボーダレス」。
これを「国際性」と理解してもいいし、「差別のない社会」と理解してもいいし、文字通り、「国境のない社会」と理解してもいいが、私は、日本のような「上下のタテ割社会ではないこと」と理解した(タテで仕切られればまわりはボーダーだらけになってしまう)。
私は、今の日本が一番真剣に取り組まなければいけないのは「多様性」だと思っている。
国連がテーマに取り上げている「生物多様性」がなぜ自然界に必要かと言えば、生物は「同じモノ(種)」だけでは絶滅してしまうからだ。
何か違うものが出現(突然変異もその一つ)してこないと、その種は滅びてしまうのだ。
人間社会だって同じこと。
「近親相姦」がヤバイことは猿だって知っている。
春先に猿山を追われた新しい猿の集団(赤ちゃん猿を背中に乗せた母猿もいる20匹ほどの集団)が私の自宅近くをうろついているのを毎年よく目撃する。
近親相姦を意図的に避けるためにどんどん集団を分派していくのだ。
ところが、日本人というのは多分これが一番苦手。
日本が抱えている「少子高齢化」問題の根本がここにあることに気づいている人は案外少ない。
日本は、ここ数年「人口減少問題」に悩まされているとメディアが煽っているけれども、アメリカ、フランス、イギリスなどの欧米先進国などで人口は逆に増えている。
なぜなのか。
その理由は簡単だ。
欧米諸国は、みんな「移民」を受け入れているからだ。
日本は移民を受け入れない国。
いつまでも「日本民族」の純潔性にこだわる国なので日本の人口はどんどん減るばかり。
「生物多様性」に追いついていないのだ。
このままでは日本人自体が「絶滅危惧種」になるのは目に見えている。
もちろん、この「移民制度」は日本人の意見を二分するぐらい微妙な問題だ。
けれども、国の成り立ちがそもそも「移民」で成り立っているアメリカやオーストラリアみたいな国は、最初から「多様性」が当たり前であり、人間には能力にも資力にも「差」があることが当然という前提で社会は成り立っている。
日本人は、不思議なことに、人間は一人一人「違う」ということをあまり認めようとしない。
「みんな同じ」だと思いたがる不思議な国なのだ。
少し前からこの国のリーダーは、「女性の力を」とか「地方の時代を」とか言っているけれど、「そう言わざるを得ない」からそう言っているだけのこと(だと私は思っている)。
なぜなら、女性の方が男性よりも「状況判断能力」に優れているし(男性は否定したがるかもしれないが)、地方が活性化しない限り日本は絶対に「沈没」してしまうからだ。
最近言われ始めた「遠距離介護」も同じこと。
こんなことは昔から皆さんやってきたわけで「今さら」なのだけれども、この「遠距離介護」は、高度成長期ぐらいから始まった「核家族」現象に根本原因がある。
田舎で、みんなが同じ家で何世代も仲良く暮らしていた昔であればこんな問題は絶対に起こらなかっただろうし、「少子化」も、あるいは「介護問題」だって、ひょっとしてこれほど深刻ではなかったかもしれない。
ただ、歴史の歯車はけっして逆回転しない。
将来を考えれば、一番のキーワードは、やはり「多様性」なのじゃないかと思う。

TEDの私のプレゼンに話を戻す。
TEDのお客さんは私が何者か?何を話しだすのかもまったくわかっていない。
ただ後ろのスクリーンに私の名前が大きく出るだけ。
だから、私は「見ておわかりのように私は音楽家です」というセリフからスピーチを始めた。
フルートを手に持っているんだから「わかるでしょ?」という訳だ。
ただ、みんなは音楽家が認知症の話をしだすとは思っていない。
だから、それを自然に理解させるように、まず私のオリジナル曲を演奏してその演奏の方法が認知症患者の人にとって大切なことだということを少しずつわからせていこうと思った(本当は『虹の彼方に』を演奏しようと思ったのだが、著作権がメンドくさいから「ヤメテくれ」とスタッフから言われた)。
例えば、これが私の講演会だったら、きっと私の長ったらしいプロフィールが印刷された資料があって、演目にも仰々しく「音楽と認知症」みたいなタイトルが掲げられているはずだ。
でも、TEDはそれをしない。
つまり、最初っからスピーカー一人一人は「裸」にされているのだ。
「裸」の自分がどれだけのことを主張できてどれだけ人を納得させられるのか。
それが TEDの醍醐味なのであって、けっして「上から目線ではない」というのはこのことを言っている。
どんなプレゼンでもプレゼンターは、よく文字情報や写真、図などを大きなスライドにして見せる。
写真、表、文字情報を見せた方が人々を理解させ易いからだ。
TEDでも、私以外の人は皆それをやっていた。
しかし、私はあえてスライドは何も用意しなかった。
私の武器は、「しゃべり」と「演奏」のみ。
それには二つの計算があった。
ステージにスピーカーが立ち、その背後のスクリーンに写真や文字が映る。
お客さんの目線はスクリーンに向う。
私はそれをさせたくなかったのだ。
絶えず「私だけを見て!」「私の話だけを聞いて!」「私の演奏を聴いて!」が一つ目の私の狙いだ。
二つ目は物理的な理由。
スピーカーは、スライドを調整する小さなリモコンを持たなければならない。
片手にフルート、片手にリモコンでは身動きが取れない。

今回のTEDのプレゼンポイントで大事なことだと思ったのは「その人にしか話せないことを話す」ということ。
紙ヒコーキを宇宙から飛ばす人。こんな人きっと世界に一人しかいないと思う。
14年前からウェアラブルコンピュータ人生を送っていた大学の先生。こんな人も滅多にいない。
今回同じステージに乗ったスピーカーの中で一番印象に残ったのは、世界初の女性ルマンレーサーの井原慶子さん。
ルマンはスピードレースではなく耐久レースなので、毎日いろんな人が交代で入れ替わりにチームとしてレースを行なう。
彼女自身が体験した「日本人だけのチーム」と「フランス人だけのチーム」の比較が印象的だった。
日本人だけのチームでは、女性ドライバーだからと彼女は最も難しいコースから外された。
つまり、「女性にこんな難しいコースは荷が重いだろう」という配慮から日本人チームは彼女を難コースから外したのだ。
しかし、フランス人チームの決断は真逆だった。
「慶子は女性だから適確なコース判断ができるはずだから、このコースは慶子にやってもらおう」と彼女をあえて最難関コースの担当に据えたのだ。
日本チームとフランスチームの対応の違いを見れば、日本人がいかに女性を差別しているかがよくわかる。
フランスチームは、まず男女の差別がないところからスタートする。
その上でどちらの能力が上かを客観的に判断して「慶子にやってもらう」という結論になる。
日本チームの「配慮」は見せかけのやさしさだ。
けっして女性を信用していないのは明らかだ。

今日本がしなければならないことは、このフランス人のやり方を真似ることではなく、まず「男女差別をなくす」ゼロベースに立つこと。
そこからどっちが優れているか、誰が優れているかを判断すれば良いだけのこと。
日本はまだスタートラインにすら立っていない。
遠距離介護もどうすれば良いのか。
子供も孫も両親と地方に住めば良いだけの話。
地方で何代もの家族が一緒に暮らしてお互いに介護したりされたりすれば良いだけの話だ。
そちらの方が絶対に今より「マシな介護生活」が送れるはずだ。
でも、それが許されないのは、今地方が「もぬけの殻」になってしまっているからだ。
日本の全ての地方都市から「シャッター通り」をなくし「仕事がたくさんある街」を作り出さない限り日本はやはりいずれ「沈没」してしまう(多様性のない社会は絶滅の途を辿るだけ)。
「女性の社会進出」も「地方再生」も「少子高齢化の解決」も、すべて「多様性」の問題だと私は思っている。
果たして日本は多様性国家になれるのだろうか。