みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

今年は大晦日だからといって

2009-12-31 11:33:50 | Weblog
今年は特別なイベントがあるわけではないので(昨年はお台場のホテルでレディースオーケストラ<フルムス>のカウントダウンコンサートをやっていたのでけっこう忙しかった)、わりとゆったりとした気分で過ごしている。
毎年、煮しめや煮豆、ナマスなど基本的なお正月料理は作っておく。今年も一通り作ったので今晩やってくる友人もそれらを食べられるはずだ(笑)。
スーパーやデパートに並ぶお正月料理は値段はけっこうするが中身の味はどうなのかナ?といつも思ってしまう。
食べることというのは人間にとって必要不可欠な作業(というのはプロテスタント的な考えですネ)であると同時に最大の快楽(これがカソリック国の考えです)だと私はいつも思っている。
だから、よく言われることだけれども、イギリスやドイツ、北欧といったプロテスタント系の国々の食にはあまり「快楽」という要素が見られない。要するに、ちゃんと生きていかれるだけの最低限の栄養を取ればいいというのがプロテスタントの食に対する姿勢だから基本的にオイシサにとだわる理由がないわけだ(まあ、これも全ヨーロッパということではなく、ルターの宗教改革以降に始まった思想なのだけれど)。
それに対して、カソリック系の国々、例えば、フランス、イタリア、ラテンアメリカの国々は「食こそ人間の最大の快楽」という基本姿勢があるからこそ、これだけ食にこだわって「オイシイもの」を追求した「食文化」が発展してきたのだろうと思う。アメリカという国はそれらの要素がみんな混ざっているのだけれども、建国の基本姿勢が「ピューリタニズム」にあるので、やはりプロテスタント的な考えが濃いはずだ。だから、あまり食にはこだわってこなかった(西部開拓の最中に料理にそんなにこだわれるはずもないのだけど)。結果、まずい。
とそこまで言い切ってしまうといろいろなところからクレームが来るのは必至なのだが、私の経験上、アメリカ人の舌や料理が信用ならないことだけは確かだと思っている。なにしろ、缶詰文化やファーストフード文化を作ってきた国なのだから。
じゃあ、日本を含めた東洋の食は?ということになるのだけど、それは、仏教的な思想であってもアニミズム的な思想であっても基本的に食も生物も大きな「生物の輪(つまり生きとし生けるものの生の連鎖の輪)」の中にいるという考えは浸透している。なので、植物や動物の死を自分の生にするという哲学的な思想から食文化を作るのが東洋の基本姿勢。
キリスト教的なプロテスタントかカソリックか?みたいな発想(生をストイックにとらえるか「快楽と許し」みたいな発想でとらえるかといった二元論)にはならない。つまり、東洋は、「おいしさ」も大事、「生を尊重する」考えも大事ということになり、私はそれの方が「自然と生を大事にする」わけで、それが地球全体に徹底していれば今のような環境破壊のような問題は起こらなかったのでは?と思うのだけれども。

まあ、なんだかんだ言っても、また来年が来てしまうのだが、つい先日から新しいことを始めたせいか、このブログも更新の機会がまた前にも増して減ってしまった。
前回も言ったが12月の頭から podcastという私の配信するインターネットラジオをスタートさせている。
私は、以前にも、FMの番組のパーソナリティをやった経験はあるのだが( FM東京系列で「カフェポートアズール」というヨーロッパの音楽情報番組の台本、構成、DJをやっていた)、今回はそのインディーズ版といったところだ。
まだお聞きになっていない人は、下にある URLをパソコンでクリックしてみてください。かなりクリアな音で( FMの音よりもいいはず)私の番組が聞けるはずです。

http://www.voiceblog.jp/mitsutomi/

ちょっと間があいてしまったかナ?

2009-12-07 13:14:26 | Weblog
前回のブログから少し時間がたってしまったような気がしないでもない。
相変わらずの伊豆と東京の行ったり来たりなのだが、その間の大きな出来事と言えば、podcastの準備であれこれやっていたことかもしれない。
自分自身が配信するpodcastの番組は、今日から始まった(以下に URLがあるので、ご興味のある方はぜひ覗いてみてください)。
http://www.voiceblog.jp/mitsutomi/1006074.html

これ以外にも、私が主宰するレディースオーケストラ<フルムス>の podcast番組も、来週かさ来週ぐらいから配信を開始する予定だ。

podcastというものをご存知ない方もいらっしゃると思うので、若干の説明(検索すればすぐにわかることだが)。
podcastとは、要するにインターネットラジオのこと。
ただ、普通のラジオは、テレビと同じように、最初から大勢の人たちに情報を流すマスメディアだが、このインターネットラジオは、対象が限定されたミニコミのようなもの。音のブログ、という言い方をする人もいる。
とはいっても、現在、ブログも当初のインディーズ的なノリからどんどんマス的な要素が加わってきていて、そこにクライアントなりが広告出稿するような現場も増えている。当然、その分、マスメディアから広告主が撤退し、こうしたインターネットメディアに宣伝媒体を移しているわけだ(世界最大の広告代理店のDの経営がアブナイという噂はいろんなところで聴く)。
まだまだ出稿量は少ないのかもしれないが、広告主が、マスで「誰でも見てください」「聞いてください」という形の宣伝の仕方から、最初からターゲットや場所、モノを絞った宣伝に方法論を変えてきているところなので、これからのメディアとしては、この podcast、私は多いに注目している。なので、いち早く(早くもないが)ここでいろんな実験をしていこうかナ?と思って始めた次第だ。
まあ、私自身、以前、 FM番組のDJのようなこと(企画、台本、ナビゲーター)をある番組でやっていたこともあり、番組作りのノウハウはとりあえずわかっているし、今は、パソコンで番組の編集作業は完全にできてしまう時代。だから、自宅で番組の完パケができるわけで、実際、この自分の番組(「こんな音楽あったんだ」というタイトル)もフルムスの番組(「アースコンシャスミュージック Earth Conscious Music)も、私がタイトル、ロゴ、ジングル、BGM、しゃべり、編集、などすべてやっている。そして、それを友人の事務所から配信してもらっているので、ある意味、自宅がミニステーションでもある。
とはいっても、内容がつまらなければリスナーは集まらないので、どんどん中身の充実は計っていこうと思っている。

先日、渋谷で出版社の人と打ち合わせをしていて、私の著作の一つがもうすぐ増刷になるだろうということで、現在の本の修正部分をいただいた。
読者の方からの指摘とか編集者の法で気づいた訂正事項などをいただいたのだが、それを見て、若干愕然とした。数が多いというかそういうことではなく(数は予想の範囲内だった)、そのあまりの初歩的なミスに自分自身愕然としたのだった。
自分が読者として客観的に読んでいれば「絶対わかる」間違いがあまりにも多いことにも驚いた。
もちろん、本を出版する前に何度も校正はしている。
しかし、しかしである。
何度も校正はしていてもこれだけの初歩的なミスをおかしているということは、人間の思考には常に「客観性」が大事だということがよくわかる。
この出版社ではなく、私が最初の本を出した時、最初のゲラをいただいた時も、これと同じような愕然とした体験があった。
その出版社は、日本でも一、二を争う出版社。当然、そこに働いている人たちも出版者としての誇りを持っている。最初のゲラを見た時は卒倒しそうになったぐらいだ。
まるで、試験の赤点のついた答案用紙を見るように、「これじゃ、落第でしょう?」というぐらいの赤でつけられた訂正箇所の多さだったからだ。
それを驚いて見ている私に、当時の編集者がこう声をかけてくれた。「みつとみさん、心配することないよ。これよりたくさん赤つけられている人はいくらでもいるから。有名な作家の◯◯さんなんか、いつもこれより赤が多いよ」と。
要するに、それだけ大きな伝統のある出版社の校正(校閲部と普通は言う)の人たちは、自分たちの仕事に誇りを持っていて「相手が誰でろうと、間違いはまちがい。それをただすのが我々の仕事」というプライドを持って仕事をしている人たちなのである。単に「これ間違ってる」といって赤をつけるだけでなく、必ず「間違っている」根拠となる資料も一緒に添付してくれる。それだけ、ちゃんと「ウラを取っている」ということなのだ。
普通は、校閲の人たちは表には出ないどころか、その存在すら軽んじられる人たちだが、こうした人たちの存在は本当に貴重だ。この人たちがいるおかげで、私がこれまで出した本もそこそこの評価を受け、毎年、必ず大学入試の国語の問題にも使われ続けているということなのだから。
しかしながら、普通の出版社は、こうした大手のような強力な校閲を持っていない(というか、持つ余裕がないのだろう)。
だから、今回のような訂正文書になってしまったということなのだろうか?(でも、この出版社も大手の一つなのだがな...)。
でも、結論は、著者である私が不注意だったということ(これに尽きる)。
本を出版するということは、社会に対して責任を持つことなのだナといつもながら反省させられる(当たり前のことだが)。