みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

自分が親になったこともないのに

2007-01-25 00:02:00 | Weblog
親子の関係がどうのこうのと口はばったいことは言えないのだが、最近の事件を見ていると視点をどこに置いて生活するかで人の生活というのはこうも違ってくるのかと思ってしまう。
親がいるから子は産まれる。当たり前の話だが、問題はきっとその後のことなのではないかと思う。ここで言う親とは夫婦だ。夫婦というのは社会の最小の単位だが(個人だけでは社会にならない)、この社会関係は子供ができた瞬間に一気に別ものに変質してしまうことが多い。というか、子供の出現と共に一気に希薄になる夫婦関係というのは世の中に本当に多い。
 ある意味、「夫婦は他人だけど親子は血続き、つまり血縁」という考え方が強いのだろうけど、私はむしろ反対に考えた方がいいのではないだろうかと思っている。日本の社会はずっと血縁主義で来たので、社会の単位も血縁で(だから不二家のような血族経営の会社には問題が起きやすくなってしまう)社会の基本単位である家庭も、その基本を夫婦にはおかずに親子関係においてしまう傾向が強い。本来は、夫婦も親子の関係も愛情が基本になっていなければならないのに、最近の家庭にはこれがとっても希薄な感じがする。ナゼかと言えば、きっと愛情を所有と勘違いしている人が多いからだ。夫婦も、どちらかがどちらかを所有するような関係は愛情とは無縁だし、子供だって親の所有物ではない。
私の大学時代の友人に当時の最高裁の長官の息子がいた。最高裁の長官と言えば、総理大臣と同じぐらいの地位の人だ。彼はそういう人物の息子であることに多少のプレッシャーは感じていたと思う。この友人の兄も東大の法学部、親戚には有名な学者や評論家がゴロゴロいるその環境の中で私の友人だけが私立大学の仏文学部。おそらく、親類中からは異端扱いされていたのだろう(というか、そうとう落ちこぼれに見られていたはずだ)。しかし、彼は明るく大学を卒業し、明るくどこかの大学院に行って明るくどこかの大学の教授におさまった。ある意味、プレッシャーをハネのけたのだろう。彼は、間違っても、妹さんを殺害してしまった歯科医の息子のような状況にはならなかったということだ(まあ、そんなこと誰も考えはしなかったが)。
 親が子供の人生を心配するのは当然のことだが、親が子供の人生をしばることはできない。そんな権利もない。子供は親の所有物ではないのだから。愛情とこの所有欲とを勘違いしない方がいいと思う。
 ペットの飼い主にもそれは言える。ペットの飼い主のほとんどはペットを所有している意識だから、愛情と勘違いして時々トンデモない行為をする。犬の身体に寒いだろうからと服やそれと同じようなモノを巻き付けて飼ったり、散歩させたりしている人がよくいる。これってトンデモない勘違いだと私は思っている。あんなモノ、犬やネコにとったらはなはだ迷惑この上ないことだ。地球上のあらゆる生物が、生きていく上で最も大切な機能は体温維持機能だ。あらゆる生物にとって最も生の脅威となるのは「寒さや飢え」だ。だから、寒さをしのぐためにたくさんの体毛をはやしている生物が存在したりする。人間も北に暮らす人と熱帯に暮らす人では体毛の量や汗腺の量も違う。生物の身体というのはそうした環境に対応していくようにできている。そうでなければ生きていかれないからだ(お年寄りが寒い冬によく亡くなるのは、この体温維持機能がうまく働かなくなるからだ)。生物はそうやってこの地球上をサバイバルしてきたはずなのに、人間は犬やネコに余計なことをして、自らの体温調節機能を狂わせようとしている。これって本当の愛情なのだろうかと思う。
 人間でも、子供に異常な愛情をそそぐ人ほど問題を起こしやすい。それは、本人が愛情だと思い込んでいるものが、本当は単に自分勝手な所有欲に過ぎなかったりするからだ。
私は、単純に、夫婦というか、男女の愛情をもっと素直に表現できる関係から家族や家庭を育てていって欲しいなと思う。子供は勝手に育っていくもんだと私は思っている。親はなくても子は育つというけれど、私はこれは本当だと思う。子供というものは、ある意味、社会が育てていくものなんじゃないのかナ?
社会が健全じゃないから、不健全な子供、不健全な親子、不健全な夫婦が生まれてくるのだろうか?

久しぶりにブルーノートに行く

2007-01-19 02:21:00 | Weblog
ホリー・コールを生で聞くのも初めて。レコード会社の人に招待されたので、ホリー・コール本人ともいろいろ話しができて面白かった。カナダの東海岸の小さな町の出身と言っていたので、フランス語もできるかと聞くと若干なまったフランス語がすぐに返ってきた。まあ、フランス語をしゃべれるカナダ人はけっこういるということだナ。
 それよりも、ブルーノートに行くたびに思うのは、やはりこの店は、アーティストを見るよりも来ているお客を見る方がはるかに面白い。本当にいろんな人種がいる。こんな高い入場料の店に来るお客さんは、ある意味、それなりの人たちのはずなのだが、もともとこの店は、オジさんが若い女の子を誘うか、不倫のカップルか、あるいは同伴のお水の子とお客さんのような雰囲気のカップル、はたまた似非セレブのような人たちが多いので、見ているだけでも本当に飽きない(和服姿の女性が今日は多かった。多分お水かナ?)。ブルーノートで演奏するアーティストはみんなトップクラスのアーティストたちばかりなのだが、こういうお客の前だと、彼ら一流のアーティストでさえ何かサシミのツマのような扱いに見えてくる。まあ、音楽は基本的にエンタテインメントだしサービス業なので、お客さまのためなら何なりとという感じだ。
 昔、ショパン弾きで有名なアルトゥール・ルービンシュタインの伝記を読んだ時に、面白い話が書いてあった。ルービンシュタインがあるお金持ちの家で演奏するように頼まれた時、彼は大きな部屋のピアノに案内されそこでショパンを弾くように頼まれた。そうやってピアノを弾いていると、ピアノの少し先にあるついたての向こうで人の妙な声が聞こえてきた。その声は明らかに男女の営みの声だった。という話しなのだが、これが本当だとすれば、あの有名なルービンシュタインでさえ、お金持ちの前では、情事のバックグラウンドミュージックを演奏させられていたということになる。もちろん、それを彼が望んだとは思えないが、そういうことも音楽家にはあり得るということだろう。私がもしそれと同じシチュエーションで演奏を頼まれれば私はきっと断らないと思う。人々に喜びを幸せを与えるのが音楽家の役目だとすれば、それこそ、そういうシチュエーション以上に喜びを与えられるシチュエーションもないと思うからだ(まあ、そんな仕事はこれからもきっと来ないだろうが)。
 久しぶりのブルーノートでそんなことを考えながらホリー・コールを聞いていたのだが、さすがに楽屋でそんなことを彼女に言う勇気はなかったけれど(ハハハ)。

昨日は

2007-01-18 01:45:11 | Weblog
私が経営する事務所のちょっと遅めの新年会。私がプロデュースしているアーティストたち3組と作曲家、アレンジャー、ミュージシャン、レコード会社の人間、代理店の人など業界関係者ばかりのパーティだが、その前日の15日が私の誕生日だったのでそれを祝って、みんなでサープライズを用意してくれていた(要するに、みんなでケーキを用意してくれていていたということ)。本当にこのサプライズは何も聞かされていなかったのでちょっとビックリ、ちょっと嬉し恥ずかしという感じ。アメリカでもサプライズ・パーティは何度かあったのでだけれども、それらは友達や仲間だったので、今回のように自分が育てているアーティストやミュージシャンたちやスタッフが自分のために祝ってくれるというようなシチュエーションはけっこう気恥ずかしいナと思ってしまった(何でかナ?)。人前に出ることは大好きな人間のくせに(自分もアーティストなので)、そういう状況に照れる自分がちょっとおかしかったりする。
 昨年の新年会の時には、プロデュースしているアーティストが、女性フルーティストたちのユニット「フルフル」だけだったのが、今年は一挙に4組に膨れ上がっている。他に、中国の歌手ヤン・チェンを中心とした中国琴、ギター、フルートのユニットCSNY、ピアニスト森野亜古、そして、フランスの女性歌手ロレーヌらがいる。ロレーヌはパリにいるので、新年会にはもちろんいなかったが、この4組のアーティストたちはいずれもブレークする可能性を十分に秘めている(もちろん、そうでなければプロデュースなんかしないけれども)。でも、誰がブレークするのかしないのかはそれこそ時の運。運の強さも実力のうち。別に運まかせにするわけではないけれど、プロデューサーとアーティストは、そうした運を引き寄せる努力もしなければならない。今年は、私自身が上昇運にあるので、きっと彼女らも(私がプロデュースするのはほとんど女性ばかり)それにひっぱられていくのではないだろうか?(ナ?)

以前、自分の著書が

2007-01-13 23:42:00 | Weblog
大学入試の国語の問題に初めて使われた時驚いたのは、入試のとっくに終わった5月頃に問題が大学から突然送られてきたこと。入試問題とたった1枚の紙きれだけ入った手紙には、入試問題なので事後承諾ですみません。印税や使用料はありませんというたったそれだけの内容だった。あまりにもそっけない文面にけっこう驚いたものの、自分の文章が大学の入試問題に使われたことに対する多少の栄誉のような感情がその時おこったことも正直否定できなかった。しかし、その後、私の著作が次々に大学で使われるようになり、そのたびに大学側のこうした横柄な態度に接し、ひどい時には何にも通知してこなかったり(ある国立大学の入試問題に使われていたことが友人からのチクリでわかったのだが)ということが続くと、大学という組織に対してかなりの不信感を抱くようになっていった。
 「入試は営利事業ではないので、著作権法の特例で、使用料を払う必要がない」という説明で納得できる人間が世の中に一体何人いるだろうか?「入試は営利事業ではない」。このことばを聞いて「ふざけんなよ」と叫びたくなる人もたくさんいるのではないだろうか?あれだけ高額な受験料や入学金を受験者たちから取っておいて、「入試は営利事業ではない」という特例を許しているのは、国が作った法律自体に欠陥があるとしか言いようがない。模擬試験などでもこれまでたくさん使われてきたけれど、こちらは大体きちんと事前に連絡してくる場合が多いが、こちらも入試問題同様、勝手に使われていいるケースもたくさんあるかもしれない。そして、その使用料にしても「ホント?」というぐらい安い。これをバラしていいものかどうか判断に迷うが、昨年ある出版社の模擬試験に私の文章が使われた時の使用料はたったの9千円。これで受験料の何人分?と思わず聞き返したくなったが、これも法律での規定があるのだという。要するに、この国はまだまだ著作権者を大事にしていない国なのだということがこれだけでもよくわかる。
そんな折に、そういった著作権者の代わりに、こうした無許可での使用や使用料の不払いなどを代行して調査してクレームをつけてくれたり、裁判などを代わりに起こしてくれる団体から入会の誘いがあった(音楽家ユニオンにもこんな団体があるが)。いろいろ話しを聞きたいと思って、連絡をすると、その会から説明をしにやってきてくれた。しかも、ゾロゾロと3人ぐらいが一緒に(一人で来るのかと思ったら、そんな人数で来られてちょっとビックリだったが)。これからも大学入試などでは使用され続けていくのだろうと思い入会することにした。とはいえ、作曲した音楽も無断で使用されていることは多々あるので、基本的にはこの国の人たちの著作権に対する意識が変わっていかなければどうしようもないと思う。楽譜をコピーですませたり、本の一部をコピーしたりすることに何の罪の意識を感じないこと自体が問題なのだと思う。一冊の本を書きあげるのに、一つの音楽作品を作り上げるのに、一つの映画を作りあげるのに、一体どれだけの時間とお金、そしてエネルギーと才能、技術が使われているかを考えたら、そうおいそれとコピーなんかはできなくなるだろうと思うのだが。

正月早々始まった

2007-01-11 00:39:17 | Weblog
レコーディングも8日でやっと決着がついた(決着がつくというのもオカシイけど、かなりハードスケジュールだったことは確かだ=身体の疲れ具合でそれがよくわかる)。でも、仕上がりは、けっこういいモノができたのではないだろうか。これから育てていくのが楽しみなピアニストだ。
 2月に来るフランス人アーティスト、ロレーヌのプロモーション戦略のミーティングを開く。フォトセッション、デモ録音、ショーケース・ライブなどの準備をこの少ない準備期間でどうするかという対策を話し合う。時間とお金のない状況で、このシビアなプロモーションスケジュールを切り抜けるには、頭とコネをフルに使うしかない。でも、彼女は絶対に日本でブレイクさせたいアーティストなので、頑張ってやるしかないだろう。
 フルフルのライブは明後日だが、こちらはわりと安心している。演奏に余裕が出て来た彼女たちのステージは、ある意味、楽しみだし、彼女たちもここら辺で次ぎのステップに移るための準備的なライブになるのではないだろうか。彼女たちの今年のブレイクの準備も少しずつ整ってきている。
 
 電車のつり広告に3月に封切られる洋画のタイトルに『パフューム』というのがあった。10年以上前に単行本で発売されたドイツ文学の『香水』のことだろうとピンと来たら、案の定、それが原作の映画だ。この『香水』という本を読んだ瞬間、これはいつか絶対に映画になるなと思ったけれども、それからけっこう時間がたってしまった。おそらく、原作者が映画の許諾を出さなかったのではないだろうか。
 パトリック・ジュースキントというジャーナリストが書いたこの小説は、私がこれまでに読んだどの小説よりも面白かった。けっこう分厚い本だが、読み始めたら一気に読んでしまわなければ気がすまないほど魅力的な話しだ。もちろん、タイトルの通り、匂いに関する話だ(というよりも、匂いの感覚に超能力ほどの力を持つある男の話し)。私は、自他共に許す「匂いフェチ」なのだが、この話しは究極の香りを求めるある男の話しで、本当にひきこまれてしまった。ストーリーを説明するのは簡単なのだが、この本の面白さは実際に読んでみなければわからないだろう。ただ、心配なのは、映画では、小説の面白さが本当に出せるだろうかということ。映画というのは、映像で具体的なモノを見せてしまうので、えてしてストーリーの理解だけに終わってしまって、ことばの後ろにある本質や意味が理解されにくいことが多い(人は、イマジネーションを使わなければ、物事の本質はつかめない)。
 人間にとって、匂いというのは一体何なのか?どういう意味があるのか?といった部分にまで映画がどれだけ迫っているのだろうか?ちょっと気になる部分ではある。でも、これは本当に面白い小説なので、まだ読んでいない人には絶対に読まれるようお勧めする。

もうすっかり

2007-01-04 11:00:52 | Weblog
仕事モードに頭が切り替わってしまっている。
昨日の夜に伊豆から車で帰宅したが、思ったより、というか、まったく渋滞もなく(向こうを出発したのが、夜の9時過ぎだからだろうが)、アッという間に東京に戻ってきてしまった。途中、FMを聞きながらも、頭の中はすっかり仕事モードに切り替わり、知らないアーティストの歌が聞こえてきたりすると、頭の中で「誰だ、誰だ?アレンジ、ちょっと面白いゾ」といった具合になっている自分を発見する。あんまりいいことではないような気もするが、これも職業病の一種なのかもしれない(長い間にこういう習慣が身についてしまったんだろうナ)。

今日は、これから銀行(年末に払い忘れたものがけっこうある)に行き、ちょっと調子の悪い楽器の調整に秋山フルートに出かける。明日からレコーディングなので、今日中に調整しておかなければと思って、あわてて秋山くんに電話した。まあ、今回のレコーディングはプロデューサーなので、あまり演奏する楽曲は多くないけれど、それでも3曲ぐらいは吹かなければならないので、調整が必須だ。楽器というのは、身体と一体みたいなものだから、ちょっとでもひっかかる所があると思い通りの演奏ができなくなってしまう(というか、呼吸ができなくなると言った方が正しいだろう。演奏というのは呼吸そのものだから)。まあ、これも因果なものとつきあっているナという気がする(楽器の演奏を仕事にしている人はみなそうだろうが)。

伊豆で作っているバラたちもそろそろ10種類ぐらいになるだろうか。季節はずれに咲いたクリムゾン・グローリー(赤)とマダム・シャルル・ソバージュ(黄)。どちらもとろけるような芳香を持ったバラだ。花屋さんで売られているバラは、ほとんどハイブリッド系だけれども、私の作っているバラはすべてオールドローズ系。オールドローズ系の方が匂いが強いものが多い。その中でも特に香りのいいものばかりを育てている。この赤いクリムゾン・グローリーの香りは、ちょっと奥深過ぎて、形容することばが見つからない。数百種類はある赤いバラの中でも一、二を争うバラかもしれない。