みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

音楽の勝利

2012-04-29 20:08:19 | Weblog
などというとちょっと大げさな話に聞こえるが、今回書いている著作でもそのことは一番のテーマになっている。
ちょっとわかりにくいかもしれないが、音楽とリハビリという二つの要素がどういうふうに結びついていてどういうふうに音楽が人の身体の回復に役に立つかということ。
入院中にあった音楽とリハビリに関するエピソードは当然幾つも出て来るのだが、退院後の恵子と二人のリハビリトレーニング中の「泣き笑い」にも音楽的な場面はたくさん登場する。
今日も、家の中で歩行の訓練をしている時のこと。
私が「ちゃんと1、2で歩いて!」と言うと「家の中はいろんなものがあってちゃんと1、2で歩けない」と言い訳を言う。
「そんな言い訳ばかりしてるとこれからもずっとそんな変な歩き方が直らないよ。ヘタな練習だったらしない方がマシ。もうやめるか?楽器だって、必ずしも5時間練習する人の方が1時間しか練習しない人よりうまくなるとは限らないんだから、常に正しいイメージを持って歩きなさい」
私のことばがちょっときつかったのか恵子は泣き出してしまった。
「私だって一生懸命やってるんだよ。でも、なかなかうまくイカないんだよ」と泣きじゃくる。
私は「その一所懸命がいけないの。一生懸命間違った練習していたら二重の意味で無駄な時間を過ごすことになるよ。正しくない歩き方で一生懸命歩いたら何のためにリハビリをやっているのかわからなくなっちゃうでしょ」。
ひとしきり泣き終わったので、私が歩き方を実演つきで説明する。
両手を揃えて「気をつけ」をして、右足と左の杖を一緒に出す。その後、逆の足を出す。それだけだよ。ケイのは杖だけがいつも先に出ちゃうの。まず杖を出して自分の身体を支えないと安心できないからだよ。梅田さん(麻生リハビリ病院の療法士の一人)も言っていいたでしょ。ケイはもう歩けるの。歩ける能力はもう既に足にはあるの。でも、歩けないのは、リズムを忘れてるから。足が歩くリズムを忘れてるから動かないの。それだけのこと。足に歩くリズムを覚えさせなきゃ。リハビリが難しいのは、身体に筋力がつくだけでは脳はちゃんとした指令を出せないの。人間の身体はいつも音楽的なリズムに支配されてるの。だから無意識に身体は動いていくの。でも、いったんそのリズムを忘れちゃってるケイみたいな患者はもう一度そのリズムを覚え直すところから始めないといけないの。はい、やってごらん」。
そうやって恵子に気をつけをさせ、ゆっくりと右足、左足と出す練習を始めた。
「1、2、1、2。そうだよ、できるじゃん。そんな感じで歩けば足がだんだんリズムを覚えていくよ」。
先日新潮社の編集者S氏からもらった赤原稿には、文中に「これは、まさしく音楽の勝利だ」という文を挿入しろという注意書きがあった。

新潮社のSさんとの打ち合わせは

2012-04-28 00:17:44 | Weblog
いつも新宿の京王プラザホテルのレストランで行われる。
別にどちらがそうと決めたわけではないけれどこの何年間はいつもここでミーティングを行っている。
音楽関係の人との打ち合わせは青山、渋谷の辺りで行うのが普通だと思ってきたが、出版関係の人との打ち合わせは新宿だとか神田だとかどうもそういう場所になってしまう。
これがナゼなのかは私自身もそれほどよくわかっているわけではない。
ただ、何となく…としか言いようがない。
ともかく、昨日も、現在進行中の妻の恵子の病気と音楽とかリハビリとか介護とかそういったことがテーマの本の打ち合わせだ。
S氏は最初の私の原稿に手を入れてくれて持ってきてくれた。
私が予想していたほど赤は入っていなかったけれども、彼曰く「冒頭にパンチがいまいちないね。もっとドラマチックに書いた方が良いと思いますよ。裏切られたとか、悔しいとか、悲しいとかの叫びがもっとあった方が読者はひきつけられるわけで、みつとみさんは、けっこうクールに表現し過ぎているんじゃないかな?」。
まあ、同じことを恵子にも言われた。
二人でいる時に病院のあるシーンを思い出し多少感情的になった私を見て、すかさず彼女は「そうそう、その感情をそのまま文章にすればいいじゃない。それ書いた?」
いや、実は書いていないのだ。
自分の中ではけっこうそういう感情がサラっと通り過ぎてしまう。
感情的にはいつも「熱い」はずなのだが、文章にするとちょっと冷めてしまう。これが私の欠点なのかも?
最近ちょっとこのことを少し意識するようにしている。
S氏が聞く。「奥さん、その後具合どうですか?伊豆の方の病院通っているんでしょう?」
「ええ、もちろん通ってますよ。そう、それで発見したんですが、今通院している伊豆のリハビリ病院のレベルは意外なことにけっこう高いんですよ。最初は田舎の病院かナ?と思っていたんだけど、これがけっこうバカにはできないんですよ」と言うと彼は「で、具体的にどういうところが違うんですか?」とすかさず突っ込んでくる(編集者は「あ、そう」みたいにいい加減に人のことばを鵜呑みにしたりはしない)。
「ええ、別に難しいリハビリをやるとかそういうことではなくって、それとは全く逆で、これまでやってきたさまざまなリハビリの意味を基礎の部分から全てきちんとまとめ直してくれるというか、そう、そういう意味では、けっこう全てが腑に落ちるんですよ。例えば、今はどんどん回復してきて最初はできなかった動きなんかとやろうとしているわけですが、それを無理にやろうとすると、結果、身体の筋肉を無理に使って麻痺を固めてしまうようなことにもなってしまうので、それを避けるために、力を抜いて無理のない合理的な訓練方法を教えてくれるんですよ」とここまで言うとS氏は、初めて「ふうん、それはいいネ。」とあいづちを打ってくれた。
「ここは、今度の本の一番深いところでのテーマでもあると私は思うんですけど、キーワードは<頑張らずに頑張る>ということ。これをいかにわかりやすう表現していけるかどうかが鍵のような気がしてます。伊豆の療法士さんもいつも言っているのは、無理に早く歩こうとすると早く歩くことはできてもハタで見ていてけっしてきれいな動きにはならないということ。いかにも脳卒中患者の歩き、みたいになるので絶対に無理に早く歩こうとしない方が良いと彼は言います。多分、これが一番のポイントなんじゃないかナ…。楽器でも、無理に演奏しようとするとけっしてきれいな身体の形にはならないし、音や演奏も美しいものにはならない。それと一緒のような気がするんだけど…」。
恵子が今一番力点を置いているのは「脱力」の方法。
いかに肩や上半身から力を抜いて身体を自然な動きに戻すかということ。
ムクミやシビレ(痛みがないというのは幸いだが)に常に悩まされている麻痺した右半身から脱力して自然な動きを取り戻すかという課題に毎日二人で取り組んでいるがなかなかこれがそう一筋縄でいく相手ではない。


39回目のアニバーサリー

2012-04-22 19:03:53 | Weblog
今日4/22は、私と恵子の39回目のアニバーサリー。
来年が40回目。
この40回目をルビー婚って言うらしいけど、まだルビーか…っていう感じ(笑)。
ということは、今日はプレ・ルビー婚になるわけだ。
婚姻届けを出したのは一週後だったけど、39年前の今日は二人の結婚パーティを開催した日だ。
台風のような春の嵐の過ぎ去った後の妙に生暖かいムッとするような天気の日だったことを覚えている。
全員会費制のパーティにしたのはその当時としてはかなり画期的な結婚パーティだったと思うけれどこれは友人たちのことを考えてのこと。
というのも、私は学生結婚だったので(当時私はまだ4年生だった)他の学生の友達にお金の負担をかけたくなかったからだ。
司会を先輩にやってもらい、私も演奏したり友達や先生たちがいろいろ演奏したり歌を歌ったりの本当に立食の「パーティ」のノリだったので経済的と言えばかなり経済的な結婚パーティ。
中には「ビールがぬるいぞ」と文句を言うヤツもいたけど(誰だったかは今でもよく覚えている)、両方の家族も友人も先輩も入り乱れていたのでけっこう面白いパーティだった。
恵子の父親が大学教授と牧師を兼ねている人だったのに「結婚式やめましょうよ」と私は申し入れた。
そして、その私の提案にまったく反対せずにむしろ「それでいいんじゃない。でも、みんなにはちゃんと披露しないとネ」と笑顔で頷く義父だった。
それで、私と彼とで二人で決めたのがこのパーティ形式だった(義父もリコーダーを演奏して上機嫌だったのをよく覚えているが、彼はきっとこれがやりたかったのかもしれない)。
以来39年がたったことになる。
彼女と付き合い始めた時点から数えると43年目だ(彼女との最初の出会いは大学の最初の授業。ちょうど前と後ろに座っていたことから私が話しかけたのだ)。
その間に私の留学にもつきあわせ一緒にアメリカで住んだこともあったし、それこそ数え消えないほどのいろいろなことがあったのだけれども今年はそれまではまったく違う記念日を迎えることになった。
今日の朝起きた時に私がちょっと不機嫌そうな顔をしていたのを見とがめて、彼女はベッドから起き上がり(今の彼女にとってこれはけっこう大変な作業だ)「もうヤになっちゃった?」と私に泣きながら話しかけてきた。
退院して以来ほとんど四六時中彼女の行動の面倒を見ていることや今回の引っ越しの片付けも家事も全てやっている私にきっと負い目を感じていたのかもしれない。
そんな感じのする涙だった。
「そんなことはないよ。私が一番愛しているのはウサギなんだから、ウサギが困っているのを助けるのは当たり前じゃないか。でも…」。
私はそう言って彼女の顔を見るが彼女の顔はけっして納得していない。
彼女は、「私だって一生懸命やろうとしているの。でも、新しいところに来てやることが多過ぎて身体がついていってないの。だから、歩き方も病院の時よりちょっとヘタになっちゃってる…」。
そうか、この家は今の彼女にとって「新しい環境」なのか(このことを私は見落としていたかもしれない)。
けっして以前ずっと住んでいた「住み慣れた環境」ではないのだ。
トイレに行くことやベッドに行くことはできても自由にベランダから海を眺めることもできないし、それこそ自由に外に出歩けるような身体にはまだなっていない。
彼女の動き回れる環境は本当に限られている。
「でも、全部をいっぺんにやろうとしないで順番をちゃんと考えた方が良いよ。家事なんかは全部後回しでいいからまずしっかり歩けるようにしよう。それができれば他のものも全部できているはずだから」。
これまでの二人の人生の「泣き笑い」とは比べ物にならないぐらいの「泣き笑い」のアニバーサリーだ。

まるで引っ越しのような

2012-04-21 21:03:42 | Weblog
自宅への移動だ。
たった7ヶ月の仮暮らしだったとはいえほとんど重要な仕事の道具や洋服、本などを移動させていたのでそれをまた元の場所へ移動させるとなると本当に「引っ越し」になってしまった。
となるとその片付け作業も大変なのだが、それよりもやはり気を使うのは恵子の具合。
日によって調子の波はあるし、これまでの経過の流れのまま順調に「右肩上がり」に回復が進むかと思えばそう単純なものでもない。
引き戻しのような状態になることもあり「一進一退」といった感じの方が正確かもしれない。
脳卒中とはつくづくやっかいな病気だと思うのだが、東京で電車に乗っているとついつり革広告というものに目が行って週刊新潮の「有名人が語る脳卒中の前兆と初期症状の研究」という見出しにひかれてつい買って読んでしまった。
で、読んだ感想はと言えば、この病気の家族を持っている人にとっては「何も書かれていない」に等しいぐらいの内容だったのだが、一つだけきちんとわかったこともあった。
それは、脳卒中にかかった人たちにほぼ共通の前兆とは「疲れ過ぎ」ということだ。
それこそ尋常ではない「疲れ方」をしている時にみんなこの病気に襲われている。
恵子も場合もそうだった。
結果論としてそう思うのかもしれないが、恵子が倒れる直前にふと思ったことがあった。
「こんなに忙しくしていて倒れなきゃ良いのだが…」。
東京と伊豆の往復生活。そして、自宅やカルチュアスクールをはじめいろいろな所でトールペインティングやデコパージュを教える日々。そして、東京の実家で84歳の叔母の面倒を見る日々。
そんな彼女の生活を見ていてふと思ったのが先ほどの感想だ。
それが見事に的中してしまった。
そして、彼女が倒れてから7ヶ月間その彼女の仕事を私が全部引き受けてきた(まあ、さすがに私にはトールペインティングは教えられないのだけれど)。
そんな東京での生活もほぼ卒業して今度は恵子のリハビリの手伝いをしながら日常生活の全ての面倒を見る日々が始まったのだが、先日も彼女のケアマネージャーさんが「施設のショートステイを利用したり、ヘルパーさん、食事のサービスなどを利用してなるべく介護の手を抜いた方が良いですよ」と言われた。
まあ、そうだろうとは思っている。
今は、泊まりで東京に仕事に行く時は一緒に車で移動している(そのための移動途中で利用できるバリアフリーのトイレマップも足で丹念に調べて作った)。
東京での仕事はなるべく日帰りにしたいと思っているが全てそううまくいくとは限らない。
でも、私は元々家事がけっして嫌いではなかったのであれこれやるのはけっして苦ではない。
ただ、きっとどっかで手を抜かないとへばってくるのかナ?とは思っている。
理想は、「頑張らずに頑張る」。
一昨日も脳卒中から復帰した友人と喫茶店でおしゃべりをして彼からも同じことを言われた。
彼曰く「頑張ると絶対に身体が固まってしまう。そうするとできることもできなくなってしまう。それがリハビリには一番悪い結果をもたらしてしまう」。
要は力の抜き方なのだろうと思う。
楽器も同じこと。一生懸命やればやるほど指も身体も固くなって本来の演奏ができなくなってしまう。
最近の私は楽器の練習をしながら何度も柔軟体操をやっている。そうしないと身体が固過ぎて楽器が思うように演奏できないからだ。
身体と精神を最もほぐすのは「笑い」だとも言われている。
きっとすべて笑いながらやれば良いのかもしれない。

明日からやっと伊豆の家に戻り

2012-04-13 15:39:08 | Weblog
元通りの生活が始まる。
というわけでもないところが痛し痒しなのだが、それでも7ヶ月以上の東京医療センター、麻生リハビリ病院での入院、通院生活を終えて伊豆の自宅に戻ることだけは確かなこと。
先日、これから通う中伊豆リハビリテーションセンター病院での問診で自宅に二人で一日だけ戻った時にも感じたのは「自宅の方がはるかに暮らしやすい」ということ。
環境が良いというだけではなく、基本的にバリアフリーの家だし何よりも二人だけの生活がまったくの「ストレスフリー」の環境を作ってくれる。
これまでの年寄りとの同居という何かとストレスの多い環境とはえらい違いだ(これからの老人社会での一番の問題はこの老人と一緒の環境での「ストレス」だ)。
これだけでも「より一層の回復」への道筋が開けてくるような気になってくる。
とはいっても、これからも仕事で私が東京と伊豆との往復生活をすることに変わりはない。
来週も早速東京渋谷で営業演奏の仕事がある(営業演奏は最近の私には珍しいことなのだが)。
渋谷の東急プラザの一階のエントランス付近で(きっとステージか何か作ってあるのだろう?)ギターの智詠さんと私で2ステージ演奏を行う。
来週木曜19日の13:30と15:30の2回それぞれ30分ずつのステージなので、お暇な人はぜひ(通りすがりに聞くコンサートなのでタダです。ハハハハ)。
でも、あんな人の出入りが頻繁なところで音楽なんか聞けるのだろうか!?

そんな仕事の時も移動は恵子と一緒だ。
本当は家に一人で置いてこれれば一番良いのだが、恵子の身体はまだそれができる段階ではない。
転んでしまう心配はないとは思うのだが(まだ一度も転んだことはないので)、食事を一人で作れるわけでもないし、一人で出歩ける身体でもないので、こうした泊まりの移動仕事の時は一緒に行動するしかない。
まあ、おそらく後数ヶ月でこの形も変わってくるとは思うけれども、しばらくは用心に越したことはない。
転ばぬ先の「杖」は本当に必要なのだから。

少しずつ右手が

2012-04-11 11:18:31 | Weblog
上に上がるようになってきている。
「ホラほら見て」と恵子は自分がいかに右手を使えるようになってきたかを私に見せびらかそうとする。
これまで、ごはんを食べる時に右手にお箸を持ってはいてもまだそれが自由に使えるわけではないし、第一、右の肩甲骨の動きが麻痺によって固まっていて右腕そのものを上に上げられないのでいつも顔の方がごはんを迎えに行っていた。
それが少しずつ顔をそれほど動かさなくても右手の方を顔に近づけられるようになってきたのだ。
今朝も朝ごはんのヨーグルトを食べている時のこと。
「リンゴの一切れとバナナの一切れの重さが違うよ。リンゴの方が重いのでちょっと大変」。
ヨーグルトなので持っているのは、当然お箸ではなくスプーン。
生のリンゴとバナナをかなり小さめに切って(それぞれ1cm~2cm角程度)ヨーグルトの中に入れていたのだが、そんな小さな塊でも重さが微妙に違うのがいつもより繊細に右手には感じられるのだという。
「それって、麻痺して筋力がないからほんの少しの重さが負担になるから重さの違いがわかるんだよね。だったら、いずれちゃんと麻痺が消えたらその微妙な感覚ってなくなっちゃうかもね」と私。
「そうかも。今だけの貴重な感覚かも」と言って恵子はまたスプーンでヨーグルトをすくい始めた。

家に戻ってからもリハビリプログラムはきっちりと作って毎日「マッサージ-エクササイズ-歩行訓練」などを行っている。
この訓練、ほとんど毎日の楽器の練習と同じような感覚だ。
毎日きちんと機械的にこなさなければいけない練習と創造的な練習の組み合わせを楽器ではやるけれどもリハビリもまったく同じ。
私が楽器を練習する時最も気をつけているのは、力を抜いてリラックスしながら重力に逆らって楽器の上で指を動かすこと。
地球上で生物が身体を動かすことはすべて「重力に逆らう」行為。
なので、リハビリ練習でもこの「力を抜く」というのはけっこう大事なポイントだ。
恵子の歩き方を見ているとすぐに肩に力が入っているのがわかる。特に右手は麻痺した状態なので真っすぐ下にダランとおろすことが難しい。
結果、右足と左足のバランスが崩れて「きれいな歩き方」にはなっていかない。
まだ退院したばかりなのだからそこまで…という人もいるけれど、何事も基礎の部分でしっかりした動きを覚えないとその動きから抜け出すことは先に行けば行くほど難しくなってくる。
こんなことを楽器でイヤというほど体験しているので、恵子のリハビリもできるだけ正しいやり方で行っていった方が最終的な「結果」に大きな差が出て来ると思って恵子にもそう言ってダメを出している。
どうせ治すならキレイに治そうがこれまでの入院生活の二人の合い言葉だったのだからこれからもその方向はブレないで行きたいと思っている。

お風呂に入ることがこれほど大変なことだとは

2012-04-04 22:34:38 | Weblog
トイレのドアを開けてトイレに入り用を足して戻ってくるという動作はそれほど簡単なことではない。
退院前の最初の外泊時、私がトイレの前に立ち転倒を防止するために前を支えなければならなかったのが現在は私が手を貸さなくてもトイレに入って戻ってくることができるようになった。
大変な進歩だと思う。
その恵子と私が、今日自宅に戻ってきて初めてのお風呂に挑戦した。
そして、お風呂に入るという作業がトイレの比ではないぐらい大変な作業だということが身にしみてよくわかった。
歩行の介助にしてもトイレの介助にしても洋服のどこかをつかめば倒れないように守ることができるし、不自由な足を支える器具が足にはまっているので本人も安心感があるのだが、お風呂ではなにしろ裸なので本当に身体を支えるのが容易ではない。
小さな恵子の身体だからまだ良いのだが、「これが身体のすごく大きい重たい人だったら大変だね」と恵子と二人で笑ったが、いつもお風呂の介助をするヘルパーさんや看護士さんたちは本当に大変な作業だと思う。
でも、今日はそのお風呂が初めてできてかなり嬉しい。
一つまた新たなステップを越えたという感じがする。
何でも初めてできる喜びというのは何か楽器を小さい頃からやってきた私としては、音階を一つ一つクリアしていく喜び、曲を一つ一つマスターしていく喜びにも似ていると思った。
寝たきりの恵子の指がほんの少し動いた時の感動から始まって、トイレに一人で行けた時、車椅子を卒業して杖で歩行できるようになった時、など少しずつ一つ一つの山を越えていくのは何とも言えないぐらいの幸福感がある。
「今日はお風呂記念日にしようか?」と二人で言い合った。
それにしても、健康な左足の2/3ぐらいに痩せてしまった彼女の麻痺の残る右足を見るのがちょっと痛々しかった。
「最低もう2、3キロは太らないとね」という私の声に恵子はこっくり頷いた。

退院した当日から

2012-04-02 22:18:42 | Weblog
恵子は「皿洗いをやるから少し簡単なもの残しておいて。リハビリになるから」と私に言った。
試しに少しやらせてみた。
でも、翌日から彼女に「やるな」と言った。
理由は簡単だ。それをやることは今の彼女のリハビリにはマイナスだと思ったからだ。
彼女が「皿洗い」をやりたい理由ははっきりしている。
早く元に戻りたいこと。
なぜ戻りたいかと言えば、「自分が何もできない存在」であることに我慢がならないからだ。
食事を作ることも、掃除をすることも、洗濯をすることも、仕事をすることも(つまりお金を稼ぐことも)できない、買い物もできない、何もできない存在になっている自分を早く克服したいとアセっているのだ。
そして、それら全てを引き受けている私に「何かできる」自分を見せて私を喜ばせたいとも思っているのだ。
だから「食器を洗うことのできる自分」を私に見せたいのだと思う。
でも、ちゃんと洗えているわけではない。
今の彼女の手の力でちゃんと食器が洗えるとは思えない。
結局、私がまた洗い直さなければならない。
ピアノを習っている生徒が先生を喜ばせようとまだバイエルしか弾けないのにいきなりベートーベンの曲に挑戦して先生を喜ばせようとするのに似ている。
そんなことで先生は喜びはしない。
生徒がまだバイエルしか弾けないことを十分知っているからだ。
先生が本当に喜ぶのはその子がバイエルを完璧に弾けるようになること。
そして次の段階に進むこと。
私も恵子にそうして欲しいと思う。
今彼女がきっちりやらなければいけないのは「皿洗い」の真似事ではなく、今学んでいる歩き方のレベルを上げること、手の力をしっかりとつけていくこと、そしてそれを「きれいに」行えるようにすることだ。
これしかないと思っている。
これができさえすれば私は嬉しいし今よりもっと幸せになれると彼女に言った。
彼女は「うん、そうする」と頷いた。