みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

キッチンライブ

2016-01-31 13:29:38 | Weblog

と私が名付けたライブスタイルを、都内のある場所で10年以上続けていた。

どういうライブか簡単に言うと、その日だけ私がお店のシェフになり、私が考えたオリジナルレシピでフルコースのディナーを提供し、同時に私のライブも楽しんでもらうというもの。

人に説明する時、「一人ディナーショーみたいなもんですよ」と言っている(笑)。

一人でシェフもやり、アーティストにもなるのだから、一人ディナーショーと言ってもオカシクないだろう。

しかし、私は、これをここ6年ほどお休みしている。

復活してくれという声もないわけではないが、恵子が病気になって以来、そういう手間ひまかかる仕事はなるべく避けている。

なにせ、本番数日前に、コース料理の試作品(オードブルからデザートまで全て)を作って、お店のシェフの方やスタッフの人たちに食べて批評してもらわなければならないので(これがけっこう『美味しんぼ』の世界だったりする、ハハハ)、準備はけっこう大変ダ。

なので、このスタイルのライブはここ6年ほど「開店休業」状態になっている。

それに、5年前に恵子が病気になってから、私自身の「食」に対する取組み方がガラっと変わった。

それまでのこうした「趣味的」ともいえる食へのこだわりはすっかりどこかに行ってしまい、毎日毎食恵子のために(もちろん、自分のためにも)食事を作らなければならないので、あまり酔狂なことは言っていられない。

オーバーに言えば、一回一回の食事が、生きるための真剣勝負だ。

栄養、味、食べ易さ(彼女は片手しか使えない)、値段(これが一番大事だったりもする)、そして、何よりもスピードを考えながら作るので、この5年ほど「名前のある料理(例えば、カレーとかトンカツとか、すき焼きとかいったいわゆる一般的な料理メニュー)を作った試しがない。

そこにある材料で、いかに早く、いかに栄養価が高くて、身体のためになって、しかも美味しいものを作り上げるかを頭の中で素早く考える(多分、これも一種の「主婦料理」だし「賄い料理」なのかナ)。

こんな日々がもう5年以上続いている。

世の中には、マニアックに餃子に凝る人も、ラーメンに凝る人もいるし、それはそれで(味を極めるという意味で)楽しいことだろうが、「ブロッコリーとダイコンと豚肉で何できるかナ?」なんて工夫しながら料理を作っていくのも「うん、うん、これイケる」と意外な発見があったりして楽しい(ブロッコリーもダイコンもウチの家庭菜園で作ってる食材だし)。

うちの台所には20種類以上のスパイスがあってそれらは絶えず工夫しながら使っているのだが、塩や砂糖はほとんど減らない(砂糖は黒砂糖、塩もアラジオしかないが)。

極力濃い味を避けているからだろう。

恵子は、病気の後遺症のせいで食事をするたびに「涙目」になる(食事の匂いが鼻腔を刺激して涙腺にまで及ぶのダ)。

これが彼女にとってはけっこう厄介な代物で、自然と私は、なるべく刺激のある料理(辛めの料理は一切タブーだ)は作らないようにしている。

それに、彼女、食べる時片手しか使えないので(しかも左手のみ)、麺類はとても食べにくい。

なので、彼女だけパン主体のカフェメニューで(「これ、カフェで出したら幾ら取れるかナ?」なんていつもふざけているが)私は日本蕎麦、みたいな変則的なランチもよくある。

血圧が原因で病気になってしまった恵子に、もう一度「死の恐怖」を味あわせるわけにはいかない(もちろん自分にもそのリスクはあるわけだし)。

食品成分表の第1群から第6群までの食材をバランス良く配置する食事は、まさに栄養士さんになった気分。

「医食同源」ということばがよく言われるが、このことばを聞くたびに「何を今更ご大層に、そんなこと当たり前じゃん」といつも思う。

さも人生の大事な真理でも発見したかのようにさわぎたてるほどのことばでもない。

生物は「食べて生きている」んだから、食べるものが「毒」なら病いになったり死ぬだけだし、食べるものに「滋養」がなければ成長しないだけの話。

そうでなければ、人間の鼻も目も舌も何のためについているのだと思う。

毒は匂いでかぎわけねばならないし(賞味期限なんか信用せずに自分の鼻を信用しよう)、目だってそれが人間にとって有益か有害かを判断するためにあるもの。

ましてや舌の感覚が鈍っていたら食事の美味しさがわからないどころか、命だってあぶない。

こんな当たり前の話が通用しないほど現在の「食」はヤバいのだろうか。

いつも買い物をするたびに思うのは、「この食べ物ってアブナクないのかナ」ということ。

ここ数十年グローバル企業が世界中のマーケットや経済を独占し始めてからこのかた、「貧乏人は(栄養が足りないから)やせ細っている」という過去の常識はものの見事に覆されてしまった。

現代の常識は、「貧乏人ほど太る」のダ(アメリカではそれが極端に現れている)。

なぜなら、安いジャンクフードやファーストフードほどカロリーが高く、何だかよくわからないものがたくさん入っているからに他ならない。

ヘルシーな食べ物はみな高い。

だから、リッチな人でないと常にスマートな体型は保っていられない(フィットネストレーニングだってけっこうお金がかかるしネ)。

なので、安い食品は本当に要注意,なのダ。

ということは、こちらはいつも「食」に対して賢くなければならないし、いかにお金をかけずに安全で美味しいものを食べていくかということに最善の努力を払っていなければならない。

その点、田舎暮らしは都会より圧倒的に有利だ。

数年前から伊豆の田舎暮らしを始めて、確かにこちらの方が生活費は安く済む。

多少野菜も自給している(けっこう手間はかかるけどネ)。

回りにある自然からもいろんな「恵み」を受けている(野草や木の実など、知識さえあれば安全で美味しい食べものはそこら中にあるし、たまに釣りにも行く)。

敵は、シカやイノシシ、虫や鳥たちや自然そのもの(こんな「敵」、都会にいる時は考えもしなかったけど)。

そんなこんなでしばらくキッチンライブをやる予定もないが、4/5には、「その場所」でのライブを6年ぶりに行う(これは、キッチンライブではなく、揚琴の金亜軍さんと行う普通のライブコンサート)。

赤坂のノベンバーイレブンスというお店。

宇崎竜童さんと阿木燿子さんご夫妻の経営するライブレストランだ。

キッチンライブは、その阿木さんとの何気ない世間話から始まった。

阿木さんは、ご自身でもレシピ本を出されるほどの料理好き。

彼女と料理話で盛り上がっているうちに「そんなに料理好きだったら、ウチの厨房使っていいわよ」という10年以上前の阿木さんのトンデモないひとことから出発したライブだ。

これ、いつか復活するのかナ?

…しないのかナ?

自分でもよくわからないナ(笑)。


奥さんの具合、いかがですか?

2016-01-20 12:35:31 | Weblog

当たり前のようにこういう質問を人から受ける(知り合いからも、そうでない人からも)。

でも、正直言って私はこの質問が一番苦手だ。

苦手というより、実際、答えられない。

相手の方は、(もちろん何の悪意もなく)単純に「どういう風に生活されているんだろう?」あるいは「どのぐらい回復しているんだろう?」という意味で聞いていることはよくわかるのだが、私はこの質問にどう答えてよいのかいつもわからない。

「ええ、良いです」と答えるか、「いえ、あまり良くありません」と答えるかが一番簡単なのだが、どちらに答えても多分誤解を与えるだろうナと思ってつい口ごもってしまう。

実際(恵子の具合は)そのどちらでもないからダ。

ただ、その「グレー」な状態を説明しようとすると、きっとものすごく長い答えになってしまうので、相手の方も「いえ、そこまで詳しく説明なさらなくても…」ということになると思うので、できるだけ簡単に答えようとすると、結局、曖昧にするしかなくなってしまう。

具合はいかがと聞かれて「はい、良いです」と答えるときっと人は、「ああ、そうなんだ。悪くないんだ、ヨカッタ」と思うと同時に、もうほとんど健常者と変わらないような以前の恵子の姿を想像するかもしれない。

いいえそれは違うんです、とあまりくどくどと弁解はしたくない。

と同時に、まったく逆に「いえ、あんまり良くないです」と答えようものなら、きっと相手は、(極端な場合は)寝たきりに近いような状態まで想像してしまうかもしれない。

それこそ余計な心配をかけてしまうことになる。

だから、結局適当なことばが見つからず、「ううン...」とことばに詰まってしまうのだ。

きっと、同じような思いをしている人たちも世の中にはたくさんいるのではないかと思う。

「心配してくださるのはありがたいのだが…」。

そうやって他人(特に病気とか障害とかで傷ついている人)を思いやるという気持はとても大切だし、人間生活には絶対に必要なことだと思うのだが、「どうですか?」と聞く前にちょっと想像してみることも一方で大事かナと思っている。

人を思いやるということは、人が「今どんな風に暮らしているのだろう」かを想像してみることだ。

ソレがわからないから聞くんじゃないのと突っ込まれそうだが、「いや、だから、聞く前にほんのちょっとでも想像してみた方が良いのでは」と思うのだ。

その上で、じゃあどんなことばでどんな風に尋ねてみるのが良いのか、あるいは、結論として「聞かない方が良い」ということになるのかを考えるべきなのではといつも思っている。

人と人とのつきあいで一番頻繁に使われしかも一番有効だと思われているのが「ことばのコミュニケーション」だけれども、これも時と場合だ。

特に、SNSというツールが当たり前のようになってから余計にこのことに気をつける必要があるのではと思っている。

SNSで多くの人が日常的に使う方法論は「短いことばで伝える」ということ。

長い文章は嫌われるし、大体みんな(長い文章は)読まない(同じように、長い映像も見ない)。

でも、よく考えて欲しいのは、相手に何かを伝えることばというのは、「短ければ短いほど難しい」のダ。

よく国語の問題で、「傍線をひいた部分で作者が言いたいことを200字以内で述べよ」といったものがある。

この字数が短いほど答えをまとめるのは難しくなってくる。だから、問題になる。

これが50字以内とか言われたらそのハードルは相当高い。

ツイッターを始めとしたSNSの短い文章に慣れることは、ある意味、文章力を養うことにもなるのだろうが、同時に、相手にとんでもない誤解のタネを蒔くことにもなる。

だから、それが実際に(いろんなところで)起こっている。

小津安二郎監督の映画のセリフによくある「そうだろ?」「うん、そうだよ」「そうか、そうなのか…」という、それだけ聞くと意味不明な代名詞だけで成り立っているような会話は、当人同士が同じ目線で同じ理解度に立っているからこそ成立する。

SNSのような「誰が読んでいるかもわからない」、しかも「どれだけの理解度の人かわからない」不特定多数の人たちを相手に短いことばを発するのはとても危険だ。

冒頭の質問に戻る。

「奥さんの具合、いかがですか?」

(私の心の中)「う~ん?よくわからないナ。良い時もあるし、悪い時もあるから、どう答えたものか…?」

(実際の私の答え)「ちょっと、何とも言えませんネ。でも、二人とも明るく前向きに生きてますよ」


誕生日プレゼント

2016-01-15 19:52:02 | Weblog

今日は私の誕生日。

けっこう年を食ってしまったような気もするけど、まあそれだけ生き延びられたんだから、とりあえずはデメタシ、デメタシ。

私たち夫婦の間では、結婚する前からお互いの誕生日にはかなり入れこんでお祝いしあってきた。

私は学生結婚だったので、最初はそうたいしたこともできなかったけど、いつの頃からか、彼女に毎年年の数だけバラを送るようになった。

彼女はとりわけバラが好きだからというのがその理由だが、私がケーキを焼いて「誕生日ケーキ!」といって渡す時もあった。

彼女は、私にセーターを編んでくれたり、いろいろなモノを買ってきてはプレゼントしてもらった。

しかし、彼女が病気になってからはそれもママならない。

身体が動かないということに加えて、彼女自身仕事ができなくなり、結果として無収入になってしまったからだ。

彼女にはそれが悔しくてたまらない。

それでも、私の誕生日というビッグイベントに「何か」をせずにはいられない彼女の気持がある。

昨年もそうだったが、時たま彼女が作ったクラフトなどが売れたりして入る臨時の収入(本当に微々たる収入なのだが)を自分のサイフに溜めている中から私に「何も買ってあげられないから、これで何か買いな」と言って少しばかりの現金を私にくれる。

今年も彼女は私に誕生日プレゼントとしてわずかばかりの現金をくれた。

本当はもったいなくて使えないし、私が本当に望む誕生日プレゼントは彼女の明るい笑顔と健康しかないのだが、彼女としてはそれでは気持がおさまらない。

なので私が「じゃあ、このお金でケーキの材料買ってきて、自分で誕生日ケーキ焼くわ」というと途端に彼女の顔がほころぶ。

小さい頃からパティシエ少年だったワザが役に立つ。

「何作るの?」

「サバラン!」と即答。

私は、スイーツは全て好きだが、このラム酒に浸ったお菓子が小さい頃から大好きだ(特に、お酒にたくさん浸ってビチャビチャになったのが大好物)。

でも、スイーツというのは時代によってかなり流行りすたりがあって、ここ最近このサバランというスイーツをお菓子屋さんで見かけることはめっきり減った(代わりにロールケーキなどがのさばっているが)。

きっと「サバラン?それ何?」という人もいるのかもしれない。

お店で買えないのなら自分で作るしかない。

というわけで、今回の誕生日プレゼントは、自分で作ったサバラン!

彼女もひとくち食べるなり「あ、サバランだ!」(それぐらい滅多に食べないスイーツになってしまった)。

完璧の出来映え。

美味しい誕生日でした。

 


『典子は、今』

2016-01-13 11:40:05 | Weblog

ここ数ヶ月、戦前、戦中、戦後すぐの日本映画ばかりを恵子と一緒にネットサーフィンしている(彼女がこの時代の映画が大好きなのだ)。

かなりの数のyoutube動画がアップされていることに驚く。

その流れの中で出会ったのが『典子は、今』という映画だ。

サリドマイド障害児として両腕を持たずに生まれた白井典子さん本人が19歳の時に出演した映画。

81年に公開の映画だ。

ドキュメンタリー映画として広く紹介されているが、本人以外は全員役者さんなので(しかもお母さん役に渡辺美佐子さんとかお父さん役に長門裕之さんといった名優ばかりがキャスティングされている)これをドキュメンタリー映画と呼んで良いものなのかどうなのかは疑問だが、さしずめ、本人が演じる「再現ドラマ」という言い方が一番正確なのかもしれない(それにしては豪華過ぎる「再現」だが)。

大戦前後の日本映画は、極端に社会派的なものか、あるいはまったく逆にノー天気なほどに明るいドラマが多い(多分、時代がそうした両極を選ばせているのだろうが)。

そんな映画の中でも比較的明るい役柄の多いのが高峰秀子さん。

『二十四の瞳』の主演で有名な彼女の映画を探していると、当然のように木下恵介監督の映画に行き着く。

そしてこの木下監督の愛弟子で高峰秀子さんのご主人でもある映画監督の松山善三氏が作ったこの『典子は、今』という映画にまでストレートに辿り着いたのダ。

それがネットと言ってしまえば身も蓋もないが、ネットにはこうした「クモの糸」が至るところに張り巡らされていて私たちはその糸に簡単に絡めとられてしまう。

この映画、障害や社会問題をテーマにした映画にしてはあまりウェットなところがなく、むしろご本人の典子さんの明るさと、そして彼女を女手一つで育てたお母さんの生き様の見事さに圧倒される(これはお母さん役を演じた渡辺美佐子さんの演技力のせいもあるだろう)。

サリドマイド薬害とか障害のことについて触れ出したらキリがないので、とりあえずこの映画で印象に残ったことを一つだけ。

この映画は公開当時日本中でかなり話題になったようだ(私は、公開当時ちょうどアメリカに住んでいたのでリアルタイムでは観ていない)。

その中でもとりわけ話題になったシーンが、彼女が故郷の熊本から友人を訪ねて広島まで一人で旅行するシーンとその広島の海で泳ぐシーンだったという(これは、ネットから得た情報)。

私は、別に両腕がないからといって泳げないなどとはこれっぽっちも思わないし、完全に視力を失っても毎日台所で料理を作っている女性も知っている。

なので、腕がないのにどうやって泳ぐの?という興味は、それ自体が大変失礼な話だと思う。

そんなこと言ったらパラリンピックなんかできるわけがない。

それよりも、私が気になったのは熊本から広島までの旅行シーン。

典子さんのお母さんはこの旅行に猛烈に反対する。

「私がいなくてどうやってキップ買うの?」「どうやって外でご飯食べるの?みんなにジロジロ見られるよ」

お母さんは本気で娘さんのことを心配しているのだ。

でも、典子さんは気丈に答える。

「大丈夫、なんとかなる。見られたってかまわない。だって、お母さんがいなくなってしまったら私一人で何とか生きなくちゃいけないんだから」。

そうやって出発した典子さんは、なんとか広島まで辿り着くことはできたものの、旅の途中の光景がやはり気になった。

キップを買おうとしてもおサイフからお金を取り出せず、近くの人に買ってもらったり、改札を出る時に駅員さんに「手が不自由なんですけど、ここからキップを出してください」と頼む。

これは80年代初頭の話だ。

これが今だったらどうだろうとこの場面を見ながら思った。

ほとんどの券売機が自動だし、ほとんどの改札が自動化されている今の鉄道でこの方法はひょっとしたらハードルが高いかもしれない。

典子さんは、手の代わりに足でほとんどの作業をやりとげる。

食事だろうが、字を書くことだって、料理だって足で器用にこなし、最近まで故郷の熊本市の職員をされていたはずだ。

でも、世の中が「自動化」されることは、ある意味、障害のある人や高齢者を「置き去り」にすることにもつながらないだろうか。

随分前に見た光景だ。

私の前でキップを買おうとしていた高齢の女性がいた。

その方、自動券売機にお金をちゃんと入れたには入れたのだが、その後ジッと券売機を睨んだまま動かない。

キップが出て来るのをひたすら待っているのだ。

私が見た限り、この方、200円入れただけで200円のボタンを押してはいない(これでは、いつまでたってもキップは出てくるはずがない)。

しかし、しかしである。

この時私が妄想したのは、「200円のキップを買うためには200円ボタンを押さなきゃならないということをわかっていないんだろうナ、教えてあげなきゃ」という気持と同時に、このご婦人の方がはるかに時代の先を行っているのではないかということだった。

だって、200円入れたら何も言わずにそのまま200円のキップが出て来るとしたら、券売機が購買者の心まで読んでいるという未来の人工知能の世界をこの老人の行為は体現しているのではと思ったのだ(「そんなバカな」というSFの世界が実際に起こり得るのかどうかは私にもわからないが)。

「自動化」という世の中の流れは、時として「バリアフリー(ユニバーサルデザイン)」というもう一つの世の中の流れに逆行する場合がある。

介護ロボットとか、車の自動運転という世の中の流れは、必ずしも「効率」だけを目的にしているのではないのだろうが、それでも置き去りにされるものは必ず出てくる。

果たして介護ロボットとか自動運転が、これから先「人の心」まで読んでくれるというのだろうか。

人間の社会はどこまで自動化という「人間のエゴ」を追求していきながらユニバーサルデザインという「宇宙や自然、社会との調和」をも同時に追求していくことができるのか。

サリドマイドの問題だけでなく全ての「薬害」は、「病い」を治す「クスリ=作用」というモグラ叩きがもう一方の極にある「副作用」というモグラの頭をもたげさせてしまった現象だ。

だとしたら、これは誰のせいでもなく、宇宙と人間のバランスを保てない人間の「業」のようなモノなのかもしれないとも思う。

『典子は、今』という映画を観ながらそんなことまで考えてしまった。