人間は「考える葦」だと言った哲学者がいたが、ある意味、人間は「勘違いする葦」とも言える。人間それぞれ考えも生き方も違うので、お互いの意志が確実に通じあうということはマレだ。ただ、それでも、人間は一生懸命コミュニケーションを取ろうと努力する。
勘違いが生まれる原因の大半は、自分自身を客観視できないことにある。自分がどういう人間で、今どういう状況にいて、どういう行動を取らなければならないかを客観的に判断できなくなった時、「勘違い」は起こる。つまり、自分自身の「読み違い」だ。
そして、この読み違いも、その人がいる状況によってもだいぶ変わってくる。大きな会社にいる人、たくさんお金を持っている人、有名な人のそばにいる人、そして、大きな影響力を持つマスメディア関係にいる人たちは、えてして、自分が大きな人間だという勘違いを起こしやすい。家庭の中にいて、日常的な作業をくり返しているだけでは自分を過大評価することはないだろうが、社会に対して大きな影響力を持つような仕事や場所にいるとこうした「勘違い」は起こりやすい。
私自身も、若い時からマスメディアの近くで仕事をしてきたけれども、こうした業種には本当にこういう勘違いをする人たちが大勢いる。大きなクライアントの代わりに大きなお金を動かし、自分までもが大きな権力を持ったように錯覚してしまう広告代理店の人、活字や映像で多くの人に情報を送るメディア関連の人たちも、何か自分が「すごい」ことをしているような錯覚を持つものだ。
先日、こんなことがあった。私がCD紹介を毎月担当している雑誌に原稿を送った。すると、編集部を通じて、そこで紹介したレコード会社の一つから、私の文章の一部を書き換えてくれという注文がきた。私の文章に問題があったわけではない。ただ、レコード会社の宣伝部が明らかにプロモーション用と見られる文章に一部差し換えてくれという注文だった。これを聞いて、腹がたつというよりもそういう注文をしてくるレコード会社の人間の勘違いにあきれた(「何を勘違いしているんだ、この人は?」)。しかし、同時に、そういう勘違いをしやすい環境に、この注文をつけた人はいるんだろうなとも思った。
CD紹介で雑誌に文章を載せるぐらいのアーティストなのだから有名な人である(当然、レコード会社も大きい)。そういう有名なアーティストの宣伝を担当する人は、自分までもが有名な人たちの仲間なんだという錯覚に陥り、自分自身の力を勘違いする。まあ、しょうがないと言えば、しょうがないことなのだろう。ある意味、人間として当たり前のことなのかもしれない。今の地球だって、大国の勘違いに翻弄されているのだから、私たちの日常生活の中にこんな問題の一つや二つあって当然なのだろうと思う。
でも、私は、こういう勘違いはしたくないなと思う。自分もたまにヴォランティアの真似事みたいなことをするが、そういう行為も「いいことをした」という思いが少しでもあると、鼻持ちならない偽善と勘違いに自分自身が陥る。単に、「やりたいからやっている」、あるいは、「できるんだからやっている」という位置づけをキッチリしておかないとズルズルとこの錯覚の罠にハマっていく。
どんな仕事もそうだろう。できる人ができることをやる。人間すべてのことにオールマイティの人はいないのだから、自分の能力と他人の能力をきちんとわきまえていればそれほど問題も起こらないはずなのだ。
人間も国も、「勘違い」は回りを傷つける。
勘違いが生まれる原因の大半は、自分自身を客観視できないことにある。自分がどういう人間で、今どういう状況にいて、どういう行動を取らなければならないかを客観的に判断できなくなった時、「勘違い」は起こる。つまり、自分自身の「読み違い」だ。
そして、この読み違いも、その人がいる状況によってもだいぶ変わってくる。大きな会社にいる人、たくさんお金を持っている人、有名な人のそばにいる人、そして、大きな影響力を持つマスメディア関係にいる人たちは、えてして、自分が大きな人間だという勘違いを起こしやすい。家庭の中にいて、日常的な作業をくり返しているだけでは自分を過大評価することはないだろうが、社会に対して大きな影響力を持つような仕事や場所にいるとこうした「勘違い」は起こりやすい。
私自身も、若い時からマスメディアの近くで仕事をしてきたけれども、こうした業種には本当にこういう勘違いをする人たちが大勢いる。大きなクライアントの代わりに大きなお金を動かし、自分までもが大きな権力を持ったように錯覚してしまう広告代理店の人、活字や映像で多くの人に情報を送るメディア関連の人たちも、何か自分が「すごい」ことをしているような錯覚を持つものだ。
先日、こんなことがあった。私がCD紹介を毎月担当している雑誌に原稿を送った。すると、編集部を通じて、そこで紹介したレコード会社の一つから、私の文章の一部を書き換えてくれという注文がきた。私の文章に問題があったわけではない。ただ、レコード会社の宣伝部が明らかにプロモーション用と見られる文章に一部差し換えてくれという注文だった。これを聞いて、腹がたつというよりもそういう注文をしてくるレコード会社の人間の勘違いにあきれた(「何を勘違いしているんだ、この人は?」)。しかし、同時に、そういう勘違いをしやすい環境に、この注文をつけた人はいるんだろうなとも思った。
CD紹介で雑誌に文章を載せるぐらいのアーティストなのだから有名な人である(当然、レコード会社も大きい)。そういう有名なアーティストの宣伝を担当する人は、自分までもが有名な人たちの仲間なんだという錯覚に陥り、自分自身の力を勘違いする。まあ、しょうがないと言えば、しょうがないことなのだろう。ある意味、人間として当たり前のことなのかもしれない。今の地球だって、大国の勘違いに翻弄されているのだから、私たちの日常生活の中にこんな問題の一つや二つあって当然なのだろうと思う。
でも、私は、こういう勘違いはしたくないなと思う。自分もたまにヴォランティアの真似事みたいなことをするが、そういう行為も「いいことをした」という思いが少しでもあると、鼻持ちならない偽善と勘違いに自分自身が陥る。単に、「やりたいからやっている」、あるいは、「できるんだからやっている」という位置づけをキッチリしておかないとズルズルとこの錯覚の罠にハマっていく。
どんな仕事もそうだろう。できる人ができることをやる。人間すべてのことにオールマイティの人はいないのだから、自分の能力と他人の能力をきちんとわきまえていればそれほど問題も起こらないはずなのだ。
人間も国も、「勘違い」は回りを傷つける。