みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

HMV渋谷店が閉店

2010-08-23 10:05:59 | Weblog
というニュースを聞いて、「だから何?」という感想が先にわくのだけれども、同時に「これも当然」という気もしてくる。
1990年オープンだということだが、それ以前からタワーレコードは渋谷で営業していたし、渋谷にはレゲエ専門のレコードショップやそれこそ映画音楽専門のショップもあったりしてこういう大規模店舗の(音楽ソフトの販売店)が音楽文化を担ってきた云々のメディアのコメントにはまじで「アホかい?」と思ってしまう。
音楽産業が「無策」のまま商売をしてきたことのシッペ返しの一つがこういう大規模販売店の閉店につながっただけの話で、これと「音楽文化」とはまったく無関係。
逆に言うと、メジャーレコードレーベルとこうした大規模な外資が日本の音楽産業を牛耳ってきたからこそ今の音楽文化の衰退があるわけで、こうしたCDショップの閉店を嘆くというよりも、「ここからまた本来の音楽文化が復活してくれれば」という楽観論の方が先に芽生えてくる。
別にこれは音楽だけの話ではなく、「大きいことはいいことだ」的なマヤカシの哲学(かナ?)が高度成長期に日本にもたらされたおかげで日本人のモノの考え方が根本から覆されてしまったのではないかと思ってしまう。
それに私たちのような団塊の世代という「わけのわからないノー天気集団」が加担していたことは確かで、そのことに団塊の世代の人たちが未だに気がついていないのが私には不思議でならない。
もはや、団塊の世代ピープルは、自分たちの老後をいかに楽に楽しく暮らせるか?といったことにしか関心がないようでちょっと見苦しい(と私には思える)。
私は、世代で人間を区別するありがちな社会論は大嫌いなのだが、この自分の同世代の人たちの自分勝手さは時々見ていて腹のたつことも多い。

最近you tubeなどに書かれている若い人たちのコメントがやけに右よりで愛国主義的なのが気にならなくもないが、それはきっとそれよりも上の世代の作ってきたあまりにも外国の言いなりになった「無策社会」への苛立ちと反発がそうさせているのでは?と思えなくもない。
私自身が若い頃にも自分より上の世代の人間たちの身勝手さに妙に腹をたてたものだけれども、きっと今の若い世代の人たちも「何やらワケのわからない年寄りたちがやけに多いな」ぐらいに思っているのかもしれない。
たかがレコード店がつぶれたぐらいの話というよりも、これからの「音楽文化」を真剣に作っていきたいと思うのであれば、年に関係なく前向きな「哲学」と「方法論」が今こそ必要なのでは?と思ってしまう。
そうでないと、音楽そのものの価値が「この程度」という形でどんどん隅っこに追いやられてしまうのではないのか? そんな危機感が私には先に来る。

ホトトギスとルリビタキの鳴き声の代わりに

2010-08-20 23:27:34 | Weblog
最近よく聞くのはヒヨドリの鳴き声。
ホトトギスものべつまくなしに鳴く鳥なのでかなりウルサイと感じるのだが、ヒヨドリの鳴き声はさらにけたたましい。
先日そのヒヨドリが数匹も私の家の窓際で騒いでいたので何事かと覗いてみるとラズベリーの木やアカメの木の枝に留まってピーヨピーヨ鳴いている。
しかも時折ホバリング(羽をバタバタさせて空中停止すること)までしている。
ヒヨドリのホバリングなんて滅多に見れるものではない。

せっかく実のついているブルーベリーを食べられては大変とヒヨドリたちを追い払おうとするが全く逃げる気配がない。
なので、彼らのそばまで行ってみると、彼らヒヨドリたちが騒いでいる理由がようやくわかった。
アカメの木のてっぺんに作った彼らの巣を蛇が襲っていたのだ。
それほど大型の蛇ではないがかなり長い。1メーター以上はあるだろう。
木の幹をゆったりと巻きつきながら動く蛇の口元を見ると鳥の羽らしき物が飛び出している。しかも喉元の方も異様に膨れている。これは今飲み込まれたばかりなのか?

蛇はネズミだろうが何だろうが丸飲みにしてゆっくりと消化されるのを待つ生き物なのできっとこのまま静かにしているはずだ。
まあ、この光景だけ見ると蛇に食べられてしまった鳥がカワイソウ、といった感じにも見えるのだが蛇だって生きるのに必死だし、何よりも蛇というのはネズミやモグラなど人間にとって害のある生物を食べてくれる人間にとっては益のある生き物だ。
アダムとイブの昔から蛇はどうも悪者にされることが多いけれども(マムシやハブのような毒蛇というのはごくわずかしかいないし)、大半の蛇は昔から人間とは友達づきあいをしてきている。
昔、私の実家の縁の下(こういうものを持つ家も最近はほとんどない)にはヘビが住んでいた。
私の家だけでなくよその家でも家のどこかに蛇が住み、人間と空間を共有していた。
「ヘビは家の守り神」とさえ言われていた。
でも、蛇というのはその姿形のせいか、「キライ」という人が圧倒的に多い。
別に蛇にしてみれば「嫌われようが何しようが関係ない」ということなのだろうし、人間に敵対心など微塵もないはずだ。
動物の美的基準もあまり人間の尺度で考えない方がいいかもしれない。
日本列島の至るところで増えすぎてしまった、姿形のかわいい鹿の方が人間の生活や生態系にもたらす害は蛇よりもはるかに大きいのだから(蛇は人間には害はほとんどもたらさないのだ)。

同伴者に自動的についていく車いす

2010-08-13 00:29:24 | Weblog
を開発中だというニュースを見て「?」という感情がまたぞろ起こってきた。
もちろん、この電動車いすを開発している人は世の中のため社会のためという目的でこれを作っているのだろうから、このことについて異議を差し挟むつもりはまったくないのだけれど、私が思う疑問点というのは、この日本の社会そのものに対する『?』マークだ。
単純に思うこと。それは、なぜ同伴者を前提に車いすを開発するのかということ。
車いすって一人で使うことはないの?
とある人に尋ねたら、「日本の社会は非健常者が一人で出歩くようにはできていない」という答えが返ってきた。
いつも電車に乗る時にも、ショッピングをする時にも感じるのは、みせかけだけのバリアフリーがこの社会にはあまりにも多いことだ。
電車に乗るとよく聴くアナウンス。「ただいまお客様をご案内中です」。
それって要するに、身体の不自由な人が乗っているのでそれの介添えを駅員さんがしているということなのだろうが、このアナウンスを聴くたびに腹がたってしょうがない。
日本の電車は、車椅子の人が一人では絶対に乗れないようにできているということをこのアナウンスはわざわざ宣言しているようなものだから。
駅や建物の車いす用のトイレもそう。
トイレ自体は身体が不自由な人が使いやすいように設計されているのかもしれないが、「このトイレを必要な人が一体このトイレにどうやってたどり着くのだろう?」といつも思ってしまう。おそらく、階段だらけの日本の街中で自分一人でこのトイレを利用できる人はあまりいないのではないだろうか?
つまり、日本の社会は基本的にバリアフリーのところはどこにもないわけで、非健常者は健常者に面倒を見てもらわなければ何もできないような構造になっている、のではないだろうか?
私は車いすを使っているわけでも身体が特に不自由なわけではないので、ひょっとしたら的はずれなことを言っているかもしれないが、「同伴者に自動的についていく車いすを開発」というニュースを聞いて、「何か変だな?」と感じてしまった次第だ。
目が不自由だろうが、足が不自由だろうが、障害のある人が毎日生きていく上で一番大事なことは「自立して生きる」ということなのではないだろうかと思う。
お互いに助け合う社会というのはメチャクチャ大事な構図だけれども(今の日本では特に)、その助け合いの大前提になるのは、人間一人一人の自立と尊厳を守ることなのでは?という気がしてならない。
どうもこの国は、人の自立ということをあまりにも無視している国なのではと思ってしまう。

3D映像で頭痛被害

2010-08-08 22:00:30 | Weblog
とかいうニュースを聞いて「私もなるかも?」と思った。
というのも、私はディズニーランドのジェットコースターのシミュレーターや免許の講習で課せられる運転シミュレーターで何度も頭痛や気持ち悪さを体験をしているからだ。
おそらく、シミュレーターの擬似的な動きや圧力の変化が私の三半規管に何らかの影響を及ぼしているせいなのかもしれない。
それと同じような意味で3D映像が私の身体に何らかの「不快感」をもたらすかも?と思ったのだが、ひょっとしたらもたらさないかもしれない。
ただ、3D映像がこれから将来の標準映像になるかもしれないということに関してはいささか「?」だと思っている。
もちろん世の中の動きは私の思いなんかとは全く関係なく動いていくのだが「なぜにそんなものを求めるの?」という気がしてならない。
3D映像の方がよりリアルで迫力があるから。
という理由なのかもしれないが私は「3D映像って本当にリアルなの?」と思う。

絵画にしろ読書にしろ映像にしろ音楽にしろもともとが人間の五感の一部分に擬似的な感覚を呼び起こしてそれ以外の感覚を脳の中で総動員して(=イメージして)「何か」を作り上げ感じていくものだ。
だから、人間は、そうした五感による「空想力」をどんどん研ぎ澄ましアーティスティックな感覚というもので人の文化を育ててきたのだけれども、例えば「飛び出す絵本」だったり「匂いのでる映画」だったり、この「3D映像」だったりというものは、ある意味、人間から「想像力」というものを奪い取る役目をしているだけなのでは?と思ってしまう。
人は想像力からいろいろなモノを創造してきた歴史を持っているはずなのに、一方で人間はどんどん人間から想像力を奪い取ることも同時にしている。
そんな気がしてならない。
極端言えば、掛け軸に描かれた虎の絵を見てその虎の動きや色、鳴き声などを想像するところがアートなのであって、3D映像で虎の動きを「リアルに(?)」見せる作業は人間の感覚をただ単に堕落させているだけなのでは?と思ってしまうのは私だけだろうか。

ゆるゆるの駅

2010-08-01 20:42:19 | Weblog
私の住んでいる伊豆高原は観光地。
今日から8月、ということで(夏本番ということだ)観光客がふだんよりもはるかに多く訪れる。
ふだんがスケールの1だとすれば、8月は10ぐらいに増えている感じ(見た感じはもっと多い気もするけれど)。それに、ただ人が多いだけではなく、この駅独特の「ゆるゆる感」があるので余計に夏っぽく感じる。
自動改札なんてものはなく、駅員さんが直接キップを切ってくれるんだけど(この表現も懐かしい)、この季節、駅員さんのユニフォームは全員アロハシャツ。男性はアロハの下はパンツだが、女性駅員(若い女性がいる)はアロハにスカートで、とってもほのぼのしている。
出迎えの人たちや見送りの人、そして観光に来る人去る人でこの時期はとってもごったがえす駅だが、駅前には足湯もあってかなりのどかな雰囲気。足湯の反対側の広場にはみやげもの、おそばやさん、ひもの屋さんなどがたくさん並び、ひものを焼く匂いが駅舎の中まで漂ってくる。これもまた「観光駅」ならでは雰囲気なのだろう。伊豆高原の駅はどこまでもゆるい。

でも、このゆるさは、駅の中だけではない。駅のそばの国道135号線沿いにコンビニがたくさん並ぶのはそれだけコンビの需要があるからだろう。しかも、この季節、コンビニの中には、浮き輪や水着、そしてサーフボードが所狭しと並ぶ。東京のコンビニではまず見られない光景だ(きっと湘南のコンビニなんかも同じようなんだろうな)。
たまに時間を間違えるとコンビニの中は満員電車のようにごった返す。
こういうのを「ゆるい」とは言わないのだろうけど、伊豆のコンビは駅同様けっこう長閑(のどか)だ。

のどかついでに、家の中での最近の私のマイブーム。
夜、お風呂に入る時は風呂場も脱衣場も家中の電気を全部消して真っ暗にして入る。
都会と違い、家の灯りを消すとまわりにあまり灯りはない。
それでも、月明かりというのは大地をとても美しく見せてくれる。全てを白日の下にさらけだす太陽の明るさのようなエゲツなさはない。
「月の光」とはよく言ったもので、古今東西「月の光」に魅せられてできた芸術は数知れないが、太陽にひかれてできた芸術はそれほど多くはないかもしれない(中南米アートとかスペインのアートにはけっこう太陽系のアートは多いけれど)。
その月と星を眺め、そして海に浮かぶ漁船の灯り、遠くの島灯り(伊豆大島や伊豆七島、房総半島の灯りがよく見える)を眺めながら温泉(家のお風呂は温泉)にゆったりつかるのはけっこう至福の時。これもある種「ゆるゆる感」なのだろうが、まるで野天風呂のようで「マイ温泉」もけっこう「素敵」だ。