みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

幸せの脳

2017-01-23 17:53:41 | Weblog

というコンセプトで知られるようになったのが(多分日本だけかもしれないが)、アメリカ・ハーバード大学の脳科学者(厳密には脳解剖学者)ジル・テイラー博士の唱える「右脳と左脳」に関する説(でも、テイラー博士自身がそんな「幸せの脳」なんていうコピーを考えたとは思えないが)。

私がここ数年行っている「音楽と認知症」についてのセミナー/講演会でも彼女の説はよく引用する。

曰く「左脳で論理的に思考していくと人間はとことん<自分と他人を区別しようと自己を主張して>エゴイスティックに行動するから結果として争いを引き起こしてしまう(どこかの国の大統領もそうだし世界中がこの傾向に向っていてけっこうヤバい)」。

だから、「自分も他人も自然も宇宙もありとあらゆるものすべてが渾然一体となっている右脳で思考した方がより「幸福」になれる」(この考えはけっこう宗教的だが合点はいく)。

つまり、この彼女の説を拡大解釈して「右脳思考こそが人を幸福に導いてくれる=右脳は幸せの脳」として信奉する人が世界中にたくさんいるのだ。

私も彼女の考えを基本的には支持するのだけれども、かといってそう短絡的に「右脳で思考していれば幸せになる」とは思わないし、思えない。

だって、人々がみんな科学的な論理的思考をやめて(というより、自己主張をやめて)みんな右脳思考で「芸術家」になれば全員ハッピーになるかと言えばそう簡単なものでもないだろう。

人間の脳を半分にカッポリ割って「右か左か」でどっちかを選ぶような器用なマネなどできるわけないし、人の幸せが「左右のどちらか」で左右されるというものでもないはずだ(だったら、みんな左脳を切り取って右脳だけで暮らすサイボーグのようになってしまう)。

私が恵子の介護を始めてからより鮮明に思うようになったのは、「日常の維持」ほどシンドイものはないけれども、逆にこれ以上楽しいこともないナということ。

「日常を維持する」ということは、すなわち「生きていく」ということ。

だから、恵子と二人で生きていくことこそが「介護」だし、ことばを変えれば「幸福」ということかナとも思っている。

私はTVを持たない人間。

その理由は「TVがある生活がカッコ悪いから」とかいろいろあるのだけれども、多分自分の中で一番強い理由はこれなんじゃないかナと思っている。

「不幸になりたくないから」。

もちろん、TVを見ると不幸になると言っているわけではない。

もっと単純なこと。

TVというメディアの情報でストレスを溜めたくないからだ(だって、 TVってウソばっかりなんだもの)。

それだけのこと。

私の「幸福論」は、テイラー博士とは違ってもっとシンプル。

幸福になるには「不幸にならなければいい」。

別に禅問答をやっているわけではなく、人が幸福になるために一番しなければならないことはたった一つだろうと思っている。

「自分を不幸だとは思わない」こと。

だって、人間ってみんな不幸にはなりたくないくせに、自ら「不幸になりに行っている」ような気がしてならないのだ。

人は、自分を他人と比較した瞬間不幸になる。

経済的な格差、容姿の比較、社会的地位の格差….ありとあらゆる「差」が人を不幸にしてしまう。

おっと、これは(「格差をなくそう」とか「競争社会をなくそう」とかいう)社会批判ではなく人間の思考に対する私なりの考えなので誤解のないように。

格差があることを認めるとか認めないといった(政治的/社会的主張)ではなく、格差を意識しなければ良いだけのこと。

あの人は私よりお金を持っている。

だから何?

あの人の方が私より社会的地位が高い。

だから何?

あの人の方が私よりルックスが良い。スタイルが良い。

だから何?

あの人は普通に歩けるのに私は歩けない。

だから何?

あの人の方が私より有名だ。

だから何?

つまり、「今ある自分」を(正しく)受け入れない限り人は永遠に不幸から抜け出せない。

だから、恵子が脳卒中になって半身麻痺している彼女を世話することで自分が「不幸」だと思ったことは一度もないし(彼女自身もそう思いこまないように常日頃努力している)、むしろ「こんな貴重な体験できて幸せかもネ」と思っている。

もちろん、毎日彼女の世話をしながら気を使い、食事を三度三度作り、掃除をして洗濯をしてアイロンかけて(私はこれがけっこう好き)、買い物をしてという家事をこなしながら仕事もやっていくのはそれほど簡単ではないけれど、別にそれが「イヤだ」と思ったこともない。

むしろ、そういう「キツイ」生活をやりくりしていくことの方がかえって楽しかったりする(オレってけっこうMかナ?ハハハ)。

つまり、自分の生活の中から「不幸の種」を極力排除していけば「けっこうこれはこれで幸せになれるジャン」という感覚だ。

認知症の人に対するケアにしても、妻のような身体の不自由な人へのお世話にしても、「イヤ」だから誰か代わりの人にやってもらおう、という考えも当然成り立つけれども(そこに介護保険制度が存在するんだけれども)、人の世話って究極「愛情」がベースにないと絶対に成り立たない。

しかも、その関係(介護する人とされる人の心のすき間)に「不幸」という感情は絶対に入れない方が良い。

それが(介護スタッフのような)仕事であれ家族に対するものであれ、何らかの「不幸」な感覚がそこに入るだけで全ては「負のスパイラル」に陥ってしまう(介護の現場で起きるすべての不幸な事象はここから始まっているはずだ)。

結局介護とか看護って家族がやるのが一番ベストだし、それの方が介護する人もされる人も幸せになれるのにナと思う(ホントそう思う)。

でも、実際の世の中そうはなっていないのは、どこかに根本的な間違いがあるに違いないとも思っている。

だからこそ、そこを変えていくために「自分に何ができるのか」を模索し続けている(考えるだけではなく行動しない限り何も変わらない)。

別に「無理している」つもりはまったくないし、明日に希望がある限り人間というのは生きていかれる動物だ(これがなくなった瞬間がヤバい)。

テイラー博士の言うように「右脳で思考してニルヴァーナ(=涅槃)を感じることができればきっとこれ以上ない幸福感は味わえるのだろうけど、私にとっての幸福なんてそんな崇高なものではない。

単に、不幸だと思わなきゃいいんだよ。

それだけですべてのストレスが抜けていく。

 

 


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1 コメント

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幸せの脳 (上野美紀子)
2017-01-24 12:11:36
そうか、「不幸」という単語を消せばいいんだ。
簡単ではないだろうけど、
遅まきながら、今からやろうと思います。
「ネクラ」な私は目の前の「幸せ」を無視していたようです。
目が覚めました。
ありがとうございます。
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