みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

コンサートデビュー

2012-05-31 21:32:16 | Weblog
5/29に渋谷のJZBratで行われた揚琴の金亜軍さんとの私のライブコンサートに来ることが恵子にとっては、退院後初めての「大冒険」となった。
外出そのものの体験がまだあまりないし、杖でやっと歩ける状態のリハビリ途中の脳疾患患者が無謀にもまったくバリアフリーではない環境に飛び込もうというのだからこちらもかなりヒヤヒヤものだったことは確かだった。
現在の恵子は長時間同じ姿勢で座っていること自体が苦痛なので、なるべく会場にいる時間は短くしたいと思い送り迎えは私ではなく別の人にお願いした。
20センチぐらいの段差が至るところにあるし手すりは全くないし、健常者には何でもない環境でも恵子のような身体の人間には「試練」以外の何ものでもない。
ライブの数日前、トイレや段差などを確かめに会場に下見に行った時は正直メゲ、「これは無理だな。こんな場所で歩くことはまだ彼女には不可能だ」。
本当にそう思えた。
だから、私の心は「恵子を連れていかない」というチョイスに傾きかけていた。
しかし、一方で「恵子に会うのを楽しみしていてお客様をがっかりさせてしまう」という思いと、「今ここで試練から逃げていては病気、リハビリそのものから逃げてしまうことになる」と思い、その夜彼女をじっくり話し合って、私が本番前にちゃんと彼女をトイレに行かせ席につけて見守り、休憩時間もずっと彼女の面倒を見るということで彼女も客席に座ることに決めた。
結果、今は「本当にコンサートに行ってヨカッタ」と二人で心から思っている。
なぜなら、このコンサートデビューの「ビフォー」「アフター」で、恵子の中で何かが決定的に変わったからだ。
今日は一週間ぶりに伊豆の自宅に帰り病院でのリハビリに行ったのだが、療法士さんたちもビックリするほど彼女は回復していた。
彼女にしてみれば、「一晩コンサートと普通の人たちとじっくり楽しめた」ことが自信になったようだし、試練だと思えた環境そのものが彼女のリハビリの助けになっていたのかもしれない。
彼女曰く「音楽の力だよ」。
音楽家にとってはウソでも嬉しいことばだが40年夫婦として連れ添った相手に今さらお世辞を言ってもしょうがないだろうから、きっと彼女の本心なのだろう。
「音楽の力」。本当にこのことばを今日ほど信じたいと思った時はない。

悔し涙

2012-05-22 17:12:23 | Weblog
いつも自宅で歩行と階段の上がり下りの練習をする。
どちらも原理は同じ。右に重心をかけて左足を出す(右に重心がかかっている間に自由になった左足を出す)。
次は、当然のことながら、前に出した左足に重心を移して今度はフリーになった右足を出す。
まあ、こんなことは説明されなくても当たり前だし、しかも、普通こんなことを日常意識している人はいない。
自然にそうなっているのだから。
でも、恵子の場合は、そうはならない。
だから練習する。
ただ、この練習がクセモノ。
病院で療法士さんが指示をして練習するのは、医者と患者のようなものだから基本的には言われた通りにやる。
しかし、自宅で私と恵子がやるリハビリトレーニングは、そこに夫婦の感情というものが入ってくるのでちょっと厄介だ。
お互いに、お互いを思いやる気持ちが逆に災いとなる場合もあるからだ。
恵子は、必死で「治そう」とする。
その気持ちとひたむきさは見るだけで涙が出て来るほどだ。
私も、必死で「治してあげよう」とあらゆる努力をする。
時にその二つの気持ちがぶつかる。
お互いの気持ちが空回りして負の作用を及ぼすことがあるのだ。
恵子は、私に「ヤマネコにばかり負担かけて私は何にもできない。そんな自分が悔しい。ごめんね」と言って泣きながら練習をする。
私は、「そんなことはないよ。私に負担がかかるのは一時的で今だけなんだから、頑張って治してよ。だから、ちゃんと正しい方法で練習しよう」と呼びかける。
すると、この私に対する「すまない」という気持ちと「早く治さなきゃ」という気持ちが彼女にものすごいプレッシャーをかけてしまうのだ。
階段の上り下りの練習で、右足に重心をかけて左足を先に上にあげ、その上った左足に重心を移して右足を上に上げる。
この練習がどうしてもうまくいかない。
左足を上に上げ、今度はイザ右足(麻痺した足)を上げようとすると右足が「金縛り」にあったようにまったく動かなくなってしまうのだ。
実際の上り下りではなく、単に準備運動として右足を上げる時には20センチ以上も上がっているにもかかわらずだ(これだけ上がれば階段は十分上っていかれるはずなのだ)。
要するに、精神的なプレッシャーが彼女の足を硬直させ、本来動くはずの足を動かなくさせているのだ。
それも十分わかっている恵子は、椅子に座り込み「なんで動かないの、動かないとヤマネコに迷惑がかかっちゃう」と言って、またひとしきり泣きじゃくる。
どれだけ悔しいことか。
療法士さんに聞いても、「ちゃんと動くはずです」。にもかかわらず彼女の足は動かない。
いっそ催眠療法でも使おうか。そう何度思ったことか。
楽器の難しいパッセージで一度間違えると、その間違えたトラウマが指を緊張させ、そのフレーズに来るたびに「間違えてしまう」という意識がまた指を動かなくさせてしまう。
それと全く同じだ。
これを繰り返している永遠に「動かないスパイラル」から抜け出すことができない。
二人がもう少し「気を楽にする」しかないのかもしれない。
やはり、二人とも少し「焦っている」のだろう。

理解

2012-05-19 11:03:28 | Weblog
人の理解というのは、その人の知識だけでなく体験や経験、環境というのがものすごく大事な役割をしているのだなということがよくわかる。
恵子の退院以来、いろいろな方からお祝いのメールやら電話やらお手紙をいいただくが、中には現状をよく理解なさっていない方もいらっしゃる。
普通、退院イコール全治と思うが、そうでもない病気も世の中にはたくさんあるということを理解するのは案外難しい。
特に、この脳疾患系の病気というのは完治する方が珍しいので、この病気の症状とどうつきあっていくのか、どうリハビリしていくのか自体が、患者本人、家族にとっては「試練」でもある。
恵子の麻痺は相変わらず続いている。
もちろん、全体として見れば良い方に行っていることは確かなのだが、「劇的」に良くなる病気ではない。
この病気の発症から10年ぐらい経過した人でも、シビレやくみが取れない人もいる。ことばや認知に障害が残る人もいる。
そんな状況は、おそらく身近に(家族に)そういう病気の人を持ったことのある人でないとわかりにくいかもしれない。
なので、それが「理解できない」ことを責める気は毛頭ない。
しかしながら、もう既に6人に一人ぐらいの割合で発症する可能性のある脳疾患系の病気は、全ての人たちにとって「人ごと」ではない。
致死率だけの問題ではなく、リハビリをどうやっていけば良いのか、患者本人だけでなく家族はこの病気とどうつきあっていけば良いのか、体験者が多くを語る必要があると思うのだが、その発言は意外なほど少ない。
先日、通院している病院の中に「脳卒中患者の手記」のような小冊子が置いてあったのでそれをひと通り読んだのだが、本当にこれだけの「声」で良いのだろうかと思ってしまった。
脳卒中協会という社団法人がまとめた応募手記で、手記の応募総数自体が百通あまりだという。そして、掲載されていたのは10人ほどの手記。
しかも、それぞれの体験が2ページほどの短い文章にまとめられている。
それぞれの家族の「葛藤」「悲しみ」「喜び」怒り」といったドラマがたった2ページに収めきれるはずもないし、応募がたったの百とはあまりに少な過ぎる。
患者の総数は知らないが、実際に患者や家族のことばはもっともっと多いし、実にさまざまなケースがあることを私たちは知っておく必要があるのではないのか。
この手記を読んでそんな気がしてならなかった。
「うちの親がそうでした」という話もよく聞く。
そして、音楽仲間にもこの病気を患った人がいる。
みんなケースバイケースなのだが、この病気の発症は、多くの場合「失職」を意味する。
プロの音楽家が、それまでできていた楽器が出来なくなる苦痛は本人にしかわからないだろうし、それぞれその職業の人にしか理解できないだろう。
そんなさまざまなケースにある「声」がもっと世の中に出て来ていいのでは?と思う。
いつも行く病院で目にする光景がある。
患者さんが奥さんの老夫婦だ。
病院からご主人が車椅子に乗せ、そして奥さんを車椅子から背中にしょい、そのまま後ろ向きに軽自動車の座席に載せる。
それだけの光景なのだが、このご夫婦には一体どんなドラマがあるのだろうかー想像するだけで胸が締め付けられる思いがする。
でも、きっとこのご主人も奥さんも何も言わないだろうし、何も世の中には何も発言しないだろうと思う。
そんな人たちの本当の声を聞いてみたいと思うのは私だけではないはずだ。

2週間後にはライブ

2012-05-15 20:11:50 | Weblog
恵子が倒れてからもたびたび演奏の仕事はしているものの、自分のライブは久しぶりだ。
自分の気のあった仲間とやりたい音楽をやる機会は、プロの音楽家にとっても「ありそうでなかなかない機会」だ。
今回は、特に渋谷のJZBratでの初めてのライブ。
しかも、ヤンチンの金亜軍さんとの共演も楽しみだ。
昨年の6月に東京文化会館でフルムスの演奏会のゲストで一緒に演奏してもらって以来だが、今回はレパートリーが大分違う。
今回は『リベルタンゴ』を一緒にやったり、『天城越え』まで一緒に演奏することになっている。
一度リハーサルをやったが、思っていた通りの「面白さ」がヤンチンによって作り出されてくる。
どう面白いかを口で説明するのは不可能なので、ぜひ当日渋谷で確かめてもらいたい。
そして、今回のライブの一つの目標は、恵子が客席に座ることだ。
このライブ、本当は今年の1月に「ブッキングしないか?」と言われていたのだが「それは無理」と一度お断りしている。
無理だったのは自分の準備ではなく、まだその時期では恵子が見に来ることができなかったからだ。
今度の5/29日をライブの日に設定したのも、「この頃ならきっと恵子も少しは回復してライブ会場に来ることができるのではないのか」という判断からだ。
なので、彼女は、当日ライブに来ることを一つの目標にリハビリを頑張っている。
普通の人にとってはコンサートに行くことなど「たいしたこと」ではないかもしれないが、今の彼女にとって「渋谷という場所に行き、段差のある会場の中で移動し、座り、トイレに行く」こと自体がとてつもない大仕事なのだ。
そのために今、懸命にトレーニングしているのだ。
私の練習の比ではない。私は、自分の練習よりも彼女のトレーニングのために、はるかに多くの時間を使っている。

『みつとみ俊郎&金亜軍スペシャルライブ』
日時:5月29日(火)17:30開場
1stステージ19:30~  2nd ステージ 21:00~(入れ替えなし)
場所:JZBrat Sound of Tokyo(渋谷セルリアンタワー2F)
http://www.jzbrat.com/
出演:
みつとみ俊郎: フルート/リコーダー
金亜軍: 揚琴(ヤンチン)
武井浩之: ピアノ
智詠: ギター
田村直也: ベース
入場料 4500円(前売り4000円)

トイレマップ

2012-05-13 21:21:08 | Weblog
東京と自宅の車での往復のためのトイレマップを、恵子が退院する前に作った。
伊豆高原から国道135を通って、小田原厚木道路、そして、東名川崎から狛江までの間でトイレを利用できる場所を探し、そのトイレの状況をマップにしたものだ。
なぜこんなものが必要かと言えば、私が東京に仕事に来る時は必ず恵子を同伴しなければならないからだ。
日本で、身体障害者がノープロブレムで利用できるトイレはあまり多くない。
段差、階段、手すり、角度、そしてトイレの清潔さなどを考えると、合格するトイレの方が少ない。
まずダメなのがファミレス。ファミレスのほとんどは2階にあり、そこまでエレベーターやエスカレーターがあるものは皆無に近い。
階段でしか到達できない場所は、車椅子の人にも杖の人にも到達不可能だ。
つまり、身障者の人たちはファミレスでは食事できないのだ。
その点、コンビニは合格するところが多い。コンビニは基本的にバリアフリーで作られているからだ。
しかしながら、肝心のトイレの中身はいろいろだ。
手すりがあるところはセブンイレブンに多いが、全ての店舗がそうだとも限らない。
トイレが清潔かどうかもかなり重要なポイントだが、手すりがあるトイレは大体最近整備された所が多いので清潔なところが多い。
昔建てられた建物は、つぎはぎで作られているところも多いので、段差が問題になる所が目立つ。
なので、私と恵子は、いつも小田厚木道路を降りてすぐの小田原のセブンイレブンを利用している。
店員さんの対応も良いし、何しろトイレが清潔で手すりがちゃんとしているのが嬉しい。
日本のバリアフリーに関する設備は、おそらく欧米から比べたら天と地ほども差があるのではないかと思う。
特に、鉄道関係は絶望的というか、「基本的に身障者は乗るな」という状況に近い(なのに、 身障者手帳を持っているとJRが半額で利用できる。なんたる矛盾!)。
だから、駅のトイレに手すりがついていたり、車椅子でも利用できるようなトイレがあるのを発見すると逆にバカバカしくなって腹が立ってくる。
トイレがいくら完備されていても、トイレまで一体どうやって到達したらよいのですか?と聞きたくなってしまう。
鉄道会社の人たちが何も考えていない証拠だ。
同時に、私たちがしょっちゅう耳にする「お客様ご案内中」の車内アナウンスにも腹が立つ。
本当は、案内なんかしなくても自由に行き来できるように設計しなくてはいけないはずなのだが、あんな風にわざわざ一般の人にアナウンスしなくてはならない状況を身障者の人たちは一体どういう気持ちで聞いているのか鉄道の人たちは考えているのだろうか。
私のアメリカ時代の指揮の恩師で、十数年前に武蔵野音大で指揮を教えていたロバート・バート先生が日本に数年滞在していた時も(先生は、先天性の病気で足が不自由な方だった)、「日本で電車に乗るのは不可能だから」と自家用車を足を使わなくても運転できるように改造して移動していた。
そうでもしないとこの国は、身障者の人たちが移動の手段をまったく持てない国なのだ。
恵子もバート先生と同じ境遇になってしまって、日本の社会保障がいかに不備で遅れているかを先生と話をしようと思ったけれども、先生は昨年他界されてしまって、もうそれもかなわなくなってしまっていた。

ヤマネコウサギのリハビリ絵日記you tube映像

2012-05-08 20:32:13 | Weblog
をアップした。
http//youtu.be/SxlZSvUM1BI

脳卒中で入院した恵子に初めてクレパスとスケッチブックを買っていった日のことを今でもはっきり覚えている。
まだ入院3週目ぐらいの時だったからきっと昨年の9月の20日前後だったと思う。
病院に行く前に新宿の世界堂に立ち寄った。
何か絵を描く道具を買うためだ。
恵子は、大学卒業後すぐにJAL関係のデザイン事務所に勤めデザイン画を描いたり、帯の下絵を描く会社で絵を描いたりする仕事をしていた。
そして発症直前までトールペインティングやデコパージュをいろいろな所で教えていた彼女にとって、「何か描くこと」がリハビリに役に立つはずと私は思ったからだ。
世界堂の店員さんにこう聞いた。
「病気で右手が麻痺している人のために何か力を入れなくても絵を描けるような道具はないですか?」
それならと勧めてくれたのがクレパスだった。
確かに、クレパスはあらゆる描く道具の中では最も力が必要のないものだった。
もちろん右手は使えない。だから、利き手ではない左手で字を書くことから始めた。
最初、絵らしきものも少し描かれてはいたが、それは「イタズラ書き」程度にしか見えなかった。
それでも、たった24色しかないクレパスからの色の選び方は「さすがプロ」と思わせるものがあった(色彩感覚というのは持って生まれたものだ)。
そこに、だんだんデッサン力が加わり始めた。
外に出ることはできないので、当然題材は限られて来る。彼女は、頭の中で覚えていた光景を再現する。住んでいた伊豆高原の自宅付近の自然をよくモチーフにした。時には、若い頃住んでいたアメリカでの光景も描かれるようになった。
最初の頃「似顔絵」のように描かれていた私の姿がだんだんヤマネコの姿に変わっていった。
ふだん私たち夫婦の間では、私は彼女のことを「ウサギ!」と呼び、彼女は私のことを「ヤマネコ!」と呼んでいたからだ。
なぜそう呼び合うようになったかの理由はもう既に二人とも覚えていない。
それぐらい長い間のお互いの呼称だ。
この絵日記には絵だけでなく、彼女の病院での食事のメニューから、彼女がトイレに行った時間までが克明に書かれている。
スケッチブックは、既に9冊目に突入している。
4月に退院してからは、それまでのクレパスではなく、鉛筆の下絵に色鉛筆で色をつける手法に変わっていった。
彼女にしてみれば、それの方が「細かい絵が描ける」からだという。
個人的にはクレパスの絵の方がより素朴で好きなのだけれども、彼女自身がそちらの方が描き易いのであれば今後はそのスタイルで描き続けていくことになるだろう。
私の現在書いている著作ともある程度連動するストーリーでこの「絵日記」は描かれていくようになるかもしれない。
二人でリハビリを頑張る姿をこんな形で世の中の人たちに見てもらえれば、同じ病気と闘っている多くの人たちの励みになるかもしれない、と思っ

運が悪かった

2012-05-01 22:11:28 | Weblog
ということばを4月から通院している中伊豆リハビリテーションセンターのS医師の口から今日聞き、ちょっとした違和感を覚えた。
私も恵子もこのS医師のことは大好きで尊敬もしているので,別に彼のことばに文句があるわけではない。
ただ、私も恵子も今回の病気の件に関しては「運が良かった」と思ってきたので、今日医師の口から「運が悪かった」ということばにちょっとだけ違和感を覚えたのだ。
先日この病院へ転院してきて初めてCTスキャンを撮った。
その画像をS医師が解析してくれた中で彼の口から出たのが先のことばだ。
発症直後や急性期病院を退院直前に撮ったCT画像には出血の跡が3cmほどくっきりと写っていた。
しかし、今回の画像ではその跡が1cmほどに縮小していた。
急性期病院のK医師が言っていた「そのうち体内に吸収されて無くなってしまいますよ」ということばが正しいのかと思いきや、S医師は「小さくはなっていくけど、完全に無くなってしまうことはないでしょう」。
でも、そんなことが問題なのではなく、その出血が「脳の運動野で起こった」ことだとS医師は言う。
「これが運動野ではなく、もうちょっと前か後ろにずれていれば手足の麻痺は残らなかった可能性もあります」。
そういう意味での「運が悪かった」ということだ。
つまり、「運が良ければ、麻痺なんか残らなかったかもしれないよ」とS医師は言ってくれているのだ。
確かにそうかもしれないが、私と恵子は恵子の出血が「認知機能」や「言語機能」「記憶機能」を麻痺させなかったことを「運が良かった」と、とらえていた。
もし、恵子にことばの障害があったとしたら…。
考えるだに恐ろしい。
ひょっとして、今のように「明るいリハビリ」などと言っていられたかどうか。
手足の麻痺とつきあっていくのだけでも相当にしんどいことなのに、ましてやことばにも障害があり認知機能までが犯されていたとしたら、私は今のような「冷静な自分」を保っていられたかどうか自信はない。
もちろん、先生の言うように、出血場所が運動野でなかったならば「カメのようにのろい回復」のスピードにイライラすることもなかったのだろうが、ものは考えようで、同じ状況でもそれを「不幸」と考えるか「幸福」と考えるかで人の心の状況は百八十度違ってくる。
生来が「楽天的」な自分ではあるのだが、もし今よりもヒドい後遺症とつきあっていかなければならなかった時のことを考えれば、やはり「運が良かった」と認識する方がはるかに当っているような気がする。