みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

練習の邪魔をするウサギ

2014-07-28 11:58:32 | Weblog
退院後少しずつ体力を回復してきたのか、恵子は、杖の音や靴音を響かせながら家の中を歩き回るようになってきた(装具をつけた足に部屋履きの靴を履いているので全室フローリングの私の家では足音がよく響く)。
こんな暑い夏には、装具や靴なしに裸足で歩きたいと本当は思っているのだろうが、なかなか装具を手放すのは難しい。
それに、体力とか気力は回復しているとはいっても半身の麻痺が克服されたわけではない。
実際にやれることは限られている。
だから、逆にフラストレーションもたまるのだろう。
最近、彼女は私の練習の邪魔をすることが多くなってきた。
もちろん、この四十年以上の結婚生活の中で彼女が私の練習の邪魔をすることなど全くなかった。
練習も仕事のうちであるという音楽家の日常をよく理解していたので、どんなことがあっても私の練習の邪魔をするようなことはなかったのだが、最近はそうでもない。
まだ練習を始めて1時間もたっていないというのに、「そっち行ってもいい?」とドア越しに聞いてくる。
一人でいることに飽きたのだ。
私は、すぐさま楽器を置き、「なに?何か飲みたいの?抹茶オーレ?ココア?それとも冷たいのにする?何でもあるよ」と喫茶店のウェイターよろしく彼女のオーダーを聞く。
ただ、彼女はコーヒーは嫌いなので、コーヒーは最初からはずす。
もちろん彼女が何かを飲みたくて私のそばに来たのではなく、単に一人で放っておかれるのが耐えられなくなったことはわかっている。
まるで猫みたいだなとも思う。
それでも、彼女のお気に入りの抹茶オーレを作り始める。
抹茶の入った缶から粉を鍋に入れ、ミルクをそそぎ少量の黒砂糖を混ぜて泡立器でカシャカシャとやる。
泡のあまり好きではない彼女のためになるべく泡を作らないように…。

楽器の練習というのは、音楽家にとってそれこそ楽器を始めた時から絶え間なく続けなければならない日課の一つ。
しかし、その時々の生活の変化で練習の仕方も変化し続けている。
留学時代は、一日に10時間以上練習した。
寝る時や食事の時、授業に出ている時以外はすべて練習漬けの生活だ。
それでも、時間が全然足りない気がした。
でも、一方(心の中では)こう考えていたことも確かだった。
「一生のうちでこんなに練習できる時なんて今しかないよナ」。
本気でそう思っていたし、実際問題そうなのだ。
上げ膳据え膳で好きな音楽にばかりのめり込んでいられることがどれだけ「贅沢」なことなのかは人生そのものが教えてくれる(生活とはそんな甘いものではない)。
一日に1時間か2時間練習できればマシという現実の生活と、10時間も練習していた学生時代とどちらが良いか悪いかなんて比較をしても始まらない。
人生はリセットもリターンもできないのだから、その時その時でベストな選択をしていくしかない。
いろんなことをしたくてもできないもどかしさでどうにかなりそうな恵子の気持ちを考えると、自分だけが練習に打ち込んでもいられない。
彼女のリハビリを手伝ったり、食事の世話をしたりしながらも彼女の気持ちとも対話していかなければと思い、何とか練習時間を確保する。
十年以上も前から両親の介護をしている親しい音楽家がいる。
彼がいつも言っていた。
「ウチの親なんか、俺が練習始めると見透かしたように俺の名前を呼ぶんだよ。それこそ、さっきご飯食べたばっかりなのにまたご飯作れって。どう?こんな生活、かなりシビレない?」と笑いながら言う。
彼の話を初めて聞いた時「うわ、よくそんな生活できるナ」と正直思った。
彼は、今でもそんな生活を愚痴一つ言わずに淡々とこなしている。
よくそういう生活に耐えられるねと私が言うと、彼曰く「あんまり深く考えちゃダメ。やれることをやらなきゃいけない時にやるだけ。考えていたら何もできなくなっちゃうよ」。
彼は、サバサバとそう言いながらまた笑う。
そりゃ、まあそうだけど…。
正論には違いない彼のことばの重さにたじろぎながらも、彼と似たような状況になってしまった私は、彼の気持ちがよくわかるような気がする。
きっと、彼にとって(両親が)本当に大事なんだろうナ、と。
年をとって何もできなくなってしまったもどかしさが(息子である)彼をかまうことでいくらか解消される。
そんなことが彼にもよくわかっていたのだろう。
怒ったり苛々したりしながらも、淡々と毎日を暮らしていくことの大事さがよくわかる。
きっとウサギさんも、私の楽器の音を聞きながら声をかけるタイミングを見計らっているに違いない。
ウサギさんだって、本当は私の練習の邪魔はしたくないのだから。

ボランティアは「上から目線」

2014-07-18 12:05:54 | Weblog
という言い方をすると、異論を唱える方もきっといらっしゃるのではないかと思う。
しかしながら、私は、それでもあえて「ボランティアは上から目線である」と言いたいのは、私自身が今やっている仕事も、私が進めているプロジェクトもその問題を抜きには語れないからだ。

ボランティアというのは「自発性」や「善意」がベースにあるので、一見「へりくだった目線」に見えるけれどもけっしてそうではないと私は思っている。
もともとのボランティアということばの意味は、兵役として軍隊に行くのではなく自らの意思で「自発的に志願する」ことを言っていたはずなのだが、現在は、「困っている人」を「困っていない人」が自発的に助けることぐらいの意味あいでよく使われる。
なので、ことば自体に含まれる「上から目線」的な要素に案外気づきにくくなってしまっているのかもしれない。
大事なポイントは、「困っていない人」と「困っている人」という優劣関係、上下関係が前提になっている行為、行動である以上、ボランティアをする人は常に「優位な」立場にたっていることを忘れてはいけないことだ。
同時に、「困っている人を助けたい」と人が思った時、そこに「同情」とか「憐憫」とかいった感情は芽生えていないだろうかとも思う。
ここは、案外大事なポイントだ。
なぜなら、人の感情の中で「同情」ほど「上から目線」の(思い上がった)感情もないからだ。
「同情は軽蔑だ」と明確に言い切ったのは哲学者ニーチェだが、私たちがもし介護される人たちの気持ちと希望というものを真剣に考えるのであれば彼ら彼女ら(お年寄りたち)が何を望んでいるかを真剣に考えなければならない。
そして、それはけっして「同情される」ことではないはずだ。
健常者と身障者との関係も、この「困っている」「困っていない」という関係そのもの。
身障者はけっして「同情」は望んでいないのに、多くの健常者は身障者をそういう目で見がちだ。
私は、妻が身障者になってから、彼女に対して「同情」という気持ちをつとめて持たないようにしている。
彼女が着替える時も私が手伝えばアッと言う間に着替えは済むのだが、私はあえて彼女の衣類の着脱を一切手伝わない。
たとえどんなに時間がかかろうが、彼女が「自立」してできることは絶対に手伝わないし、またそうすべきではないと思っている。
トイレもそうだし、食事も一切手は貸さない(ただし、入浴はかなり危険を伴うのでこれだけは付きっきりで介助する)。
彼女と私の共通した目的は、彼女ができるだけ早く「自立」して生活できるようになること。
その目的のために一番邪魔になるものは、ヘタな同情。
そのことは、私も彼女もよくわかっている。
おそらく、世の中の何らかの障害を持っている人たちは皆そう考えているのではないだろうか。
ヘタな同情なんかして欲しくない。
それこそ「同情するなら金をくれ」ではないが、「同情するなら本当のバリアフリーの社会を作ってくれ」だ。
本当のバリアフリーとは、「健常者と障害者が同じ目線で対等に暮らせる社会」のこと。
そこに同情や憐憫といった「上から目線」の感情があればあるほど本当のバリアフリー社会は遠ざかる。
電車でよく耳にする「お客様をご案内中です」というアナウンス。
あのアナウンスを、人は一体どういう気持ちで聞いているのだろうか。
好意的に聞いているのか、「なんで?」という思いで聞いているのか、あるいは全く関心を持たないかは人によってさまざまだろうが、私は、あのアナウンスで一番不快な思いをするのは、案内されている当の本人なのではないだろうかといつも思っている。
あんなこれ見よがしのアナウンスをされたのでは、電車の中で「いづらく」なるだけなのではないだろうか。
車椅子や身体的障害のある人にとって理想的な公共交通機関の利用の仕方は、健常者とまったく同じように「自立した」形で利用すること。
表通りから段差もなくスイスイとプラットホームまで辿り着き電車にも難なく乗ることができれば理想なのだが、そんな形で利用できる駅が(日本中探しても)一体どこにあるというのだろうか。
階段しかない駅(しかも、都会の駅の階段はどんどん深くどんどん複雑になっていく)、エスカレーターばかりがやたらと多い都会の駅(エスカレーターが身障者にとってどれほど危険な乗り物かを健常者は考えようともしない)、エレベーターがあっても、駅員さんが「お客様をご案内」しなければ乗れない電車。
この現状で「積極的に外出したくなる」身障者がどれだけいるというのだろうか。
この現状を数年後のオリンピックが一体どう解決してくれると言うのだろうか(今のままでは、「福祉後進国」というレッテルを間違いなく貼られる)。

私がこれまで多くの介護企業に「介護現場での音楽は絶対に有料でサービスしなければならない」と主張してきたのは、介護される人たちをけっして同情したくはなかったからだし、「介護される人たち」と同じ目線で音楽を共有したかったからだ。
しかしながら、不幸なことに、これまで介護現場では、「音楽はタダ、ボランティアが当たり前」だと思われてきている(病院は、意外とそうでもないところもある)。
これほど、お年寄りや介護される人たちをバカにした話もないと思う。
「お年寄りなんかにどんな音楽聞かせたって同じ。ましてや認知症の患者なんて何もわからないんだから別にアマチュアのボランティアで十分」みたいな態度がこの国の介護現場には蔓延していたし今でもそれは変わらない(だから、「お前たち年寄りの世話をしてやってるんダ、ありがたく思え」的なスタッフが介護施設には未だに多いのではないだろうか)。
とても一流とは言えない音楽や踊り、演芸を無理矢理押し付けられているお年寄りたちは、きっと「バカにすんじゃないよ」と叫びたいはず(事実そんな声はよく聞くし、私が介護される側だったら本当に「バカにすんじゃないよ!」と叫びたくなるだろう)。
「困っている人たちを助けた(と思い込んでいるだけの)」自己満足に陥っている人があまりにも多いこの国の介護現場を何とか「希望に満ちた」ものにするためには、きちんと責任を持った仕事をするプロを育て雇う体制を作るしかない。
いくら「ウチはお金なんか出せません」とか「ウチはアマチュアのボランティアで十分です」と言われてもそれですぐに諦めて引き下がっていてはいつまでたってもこの国の介護は変わらない(だから、私は諦めない)。
「食事の世話」「排泄の助け」「入浴の世話」「健康管理」だけが介護だと思い込んでいる人たちが多ければ多いほどこの国の認知症患者の数はどんどん増えていく。
ただ食べて、ただ寝て、ただ息をしているだけの生活のどこに「希望」があると言うのだろうか。
医学的な理由はともかく、認知症を作る最も大きな原因はこの「明日への希望のなさ」なのだと私は思っている。
なぜなら、ほとんどの認知症の初期は「うつ」状態から始まるのだから。
ただでさえ「明日への希望の少ない」生活を強いられているお年寄りたちにハンパな芸を押し付けるボランティアの「害」を今こそ深く認識していかなければと思っている。
介護現場にこそ、「介護される人」たちの本当の声を聞き彼ら彼女らと同じ目線で対話のできる本当のプロが必要なのだ。
先日の新宿のコンサートのトークでも引用したアメリカの脳科学者で医師のオリバー・サックス博士のことばを聞けば、いかに介護現場に本物の音楽が必要なのかがわかるはずだ。
サックス博士は、ご自分のある著書でこう説いている。
「音楽への反応は認知症がかなり進んでも失われない。なぜなら、音楽は患者に残っている「自己」に直接働きかけ、認知症の患者をこの世につなぎ止めておくことのできる数少ないものの一つだから。認知症というのは記憶をなくしたり、行動のパターンを忘れたりすることはあるけれども、人間の本来持っている深い感情を妨げたりはしない。そこにはまだ呼びかけを待っている自己がある。そして、この呼びかけを行えるのは音楽だけなのだ」と。

このサックス博士ほど、脳疾患、認知症、パーキンソン病、トゥレット症候群、などさまざまな疾患の患者さんたちと音楽の関係を科学的に捉え治療してきた人を私は知らない(といっても、彼は音楽療法の専門家ではなく、あくまで脳科学者/医師としての立場から音楽と病気との関係を長い間考察し続けてきた人だ)。
彼のさまざまな著書を読んできた私は、彼のことばの意味を一人でも多くの人たちに伝え、そして「責任ある音楽のプロ」としての仕事をするにはどうしたらいいのだろうとアレコレいつも考えてい

柳原白蓮

2014-07-13 10:26:11 | Weblog
の名前がそう頻繁にメディアに登場することはないと思っていたけれど、つい最近たまたま買った週刊誌でこの人の名前を目にした。
私はTVを持たない人間なので、現在オンエアされている朝の連ドラ『花子とアン』が翻訳家の村岡花子さんのことを題材にしていることぐらいは知っていたが、実際にドラマを見たことはない。
なので、ドラマの中に柳原白蓮が登場していることは、この週刊誌を読むまではまったく知らなかった(もっとも、ドラマの中では葉山蓮子という役名になっているらしいが)。
実は、この柳原白蓮という人、私の妻・恵子にとってまんざら他人とはいえない人物なのだ。

妻の旧姓は「新見(しんみ)」という。
幕末の歴史に興味がある人なら、この新見という姓を聞けばすぐに「ある人物」のことを思い浮かべるはずだ。
その「人物」とは「新見正興(しんみまさおき)」という人。
黒船が来航して江戸幕府はあわててアメリカへ幕府の使者を送ったが、その時の正式な特使としてポーハタン号に乗った幕府の役人のうちの代表格がこの新見正興なる人物だ。
勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎などが乗船してアメリカに渡った有名な咸臨丸はポーハタン号の護衛艦で、正式な外交特使はあくまでポータハン号に乗った3人の役人たちだった。
当時の新見正興の役職はたしか外国奉行(外国奉行とはいっても神奈川奉行なので、けっして外務大臣クラスではなくせいぜい県知事クラスだろう)。
柳原白蓮は、この新見正興の孫娘にあたる人。
で、妻の恵子は、新見正興や柳原白蓮の血筋に連なる人間(つまり、子孫)の一人、ということになる。

新見正興はアメリカから帰国後埼玉で農業を始めその後没落してしまったような人間なので(きっと真面目過ぎる役人だったのだろう)、彼の三人娘は、いずれも養女に出され芸妓をしていたそうだ。
ただ、この三姉妹は並はずれた美貌の持ち主だったようで(現在残っている白蓮の写真を見ればそれは一目瞭然だ)街行く人が全て振り返るほどのルックスだったと言われている。
それもそのはず、父親の正興も「陰間侍(かげまざむらい)」と言われたほどのルックスの持ち主で(陰間とは美少年という意味)、そのことが理由でアメリカ行きの特使代表に抜擢されたという説もあるぐらいだ(この徳川末期の頃の幕府の政策はまったく支離滅裂で理解不能なところもあるので、あながちその説も間違いとは言えないかもしれない)。
正興の三人娘の一番下の娘のりょうさんを見受けするために福沢諭吉と柳原前光伯爵(前光の妹は大正天皇の生母)とが取り合いになり、結果としてりょうさんは柳原伯爵のお妾さんとして柳原家に入り白蓮を産むことになる(その後の白蓮の波瀾万丈の生涯は、多くの人の知るところだろう)。
「佳人薄命」とはよく言われるが、人の容貌で人生が大きく変わることも、ある意味、致し方のないことかもしれない(私の実母も、りょうさんや白蓮ほどではないにせよ、その美貌で人生が大きく変わった人間の一人なのかもしれない)。
そんな個人的な事情もあり、私は以前から新見正興という人物のことをいろいろ調べている。
幕末のこの2隻の船に乗り込んだ日本人たちのアメリカでのふるまいや見聞、そして、その後の日本がどうなっていき白蓮につながっていったかというような(いわゆる大河ドラマ的な)展開の方に興味があるからで、無論、できたらこれを一冊の書物にまとめようとも考えてはいる。
新見正興という人自体は、他の幕末の志士や江戸幕府、明治の政治家たちとは違いあまり重要な人物とは言えない(薩摩や長州、ましてや徳川の血筋でもないのだから致し方ないが)。
それでも彼のまわりには幾多の重要人物がいたし、何よりも彼ら日本の使者たち(咸臨丸の乗組員も含めて)がアメリカでどんなことをしていたのかが気になっている。
幕府の役人のうちの一人が、初めてみるアメリカの風習(特に女性のパーティドレスにかなり衝撃を受けたらしい)のあまりの違いに冷静さを失い、パーティ中に「無礼者!」と言ってあやうく刀を抜いて切り掛かりそうになったという話も伝わっている(『ラストサムライ』の逆バージョンのような話だが、本当に切りかからなくてヨカッタな)。

歴史を調べていく面白さというのは、「自分がもしその時代に生まれていたらどんな運命が待ち受けていたのだろう」と想像できるような(妄想には違いないのだが)ワクワク感かもしれない。



再放送

2014-07-08 08:14:17 | Weblog
昨日、某公共放送局の方から電話があり(別に、受信料払えという話じゃないですよ)、今週末の12日に私が以前スタッフとして関わっていた『まちかどドレミ』という子供番組の再放送(二回分だそうだ)があるのでご了承をという丁寧な口上をいただいた。
瞬間、私は「え?一体どの回の放送分が放送されるんだろう?」と思った(この番組は毎週一回の放送だったので私が関わった4年分だけでも相当な数に上るはずだからだ)。
すると、96年放送の分と98年の放送分だとの返事。
とはいっても、それだけではどの回かはまったくわからない(やはり見なきゃいけないのかナ)。
この番組を見ていたのは小学校低学年の子供たちのはずなので(子供たちの多くは学校の授業の一環として見ていたはずだ)、彼ら彼女らは既に皆二十歳を越した立派な大人のはず。
きっと、こういう人たちが懐かしがって再放送をリクエストしたのだろう。

この某放送局に私がスタッフとして関わった番組は他にもたくさんあるのだが、この番組は、私にとってもとりわけ思い出は深い。
番組のテーマ曲はもちろんのこと、この番組の中で作ったオリジナル曲は数知れない。
その中でも一番のヒット曲は『伝説のコンビニ』という曲(このタイトルを聞いただけで「懐かしい!」と思う人も多いはずだ)。
もちろんヒット曲と言ったって世間的にヒットしたわけではなく、当時の子供たちにとっての大ヒット曲だっただけの話(その証拠に、この曲がオンエアされていた時の小学校の運動会でこの曲を演奏した子供たちは全国に数えきれないほどいたそうだ)。
当時、知り合いのレコード会社のディレクターとお茶を飲んでいた時いきなり「うちの子供に(お父さんは)ビーズと仕事をしてるんだよと言ってもフ~ンと軽く聞き流されてしまうけど、『伝説のコンビニ』作った人知ってるよと言うといきなり「え~!」と言って目を輝かせてくるんですよ。みつとみさん、子供に人気あるネ」と言われて嬉しくなったことを今もよく覚えている。
この曲の作詞は番組の台本作家の方が書いたものだが、打ち合わせで初めてその詞を見せられ、打ち合わせが終わるまでに曲は出来上がっていた。
その詞を拝見して「こりゃあ、合体ロボ風のアニメ系お元気フレーズしかないナ」と心の中で思った瞬間フレーズが頭の中で鳴ったのだ。
番組の中では他にもたくさんオリジナル曲は作ったし、アレンジなど何曲やったのかそれこそ本当に数えきれない(番組のCDも3枚作った記憶がある)。
ディレクター氏から「有名なドレミの歌を越えるような番組オリジナルのドレミの曲を書いてくれ」なんて無理難題を押し付けられることもしばしば(あの『ドレミの歌』を越える曲なんかそんな簡単に書ける訳がないじゃないかと心の中で叫びながらも「これは仕事なんだから」と懸命に曲を仕上げた)。
まあ、それ以外にもちょっとした「始末書」騒ぎもあり(番組スタッフとしいてはかなり異端児だった私は、訳あって私がチーフプロデューサーに始末書を書かなければならないハメになったのだ)、とてもひとことでは言い尽くせないような番組だったことは確かだ。
ただ、私は自宅にTVを持っていないので(私は、テレビという物体が家の中にある風景がたまらなく嫌いなのダ)、自分自身でこの再放送を見ることはできない。
ということは、誰かに録画を頼まなければならない…のかナ?
私は、いちおう番組の著作権者の一人なので丁寧な知らせが来たが、そうではない番組出演者の方々も大勢いたはずなので、もしこの私のブログを読んでいただいている中に「ひょっとしたら私も出演していたやつかナ?」と思われたら番組をチェックされることをお勧めする(私は、4年間でたくさんの音楽家の方に番組への出演をお願いしたのできっと思い当たる人もいるのでは…)。
『お願い、編集長』という検索ワードをググればヒットするはずだ。

料理を作る夢

2014-07-05 12:38:38 | Weblog
夢の中のシチュエーションというのは、けっこう突飛だ。
場所は日本ではなくアメリカの日本食レストラン。
私がアメリカに住んでいたのは学生時代とその後の数年間だったので、多分夢の中の「私」はきっと若かったはずだが、不思議なことに、夢の中の自分の年齢がまったく自覚できない。
(夢の中で)本当は皿洗いのアルバイトをしているはずの私が(アメリカではこのバイトを何度もしていた)いきなり客の目の前で料理をする場面に飛ぶ。
この辺の展開の突飛さがいかにも「夢」なのだが、私が、客にカウンター越しにオーダーを尋ねると(どうもそういう類いの店らしい)、一人の中年女性が「カリフォルニアロール」と答える。
え?カリフォルニアロール?
夢の中の私がかなり戸惑っている。
「え~と、カリフォルニアロールにはアボカドがたしか入っていたような気もするけど、作り方がよくわからない…。」
本気で困惑している私は厨房に行きシェフに作り方を尋ね、やっと客の前に料理を出す…といった内容の夢だった。

この夢を見た直後私はナゼこんな夢を見たのだろうとしばらく考え込んでしまった。
料理が趣味で本職になろうかと思った時期さえあった私が、なぜカリフォルニアロールごときで困惑するのかといったことが理由ではない。
通常人間はたくさんの夢を見ているはずなのにほとんどそれらをよく覚えていないのは、ある程度熟睡の度合いが深いからなのだろうと思う。
なのに、これほど鮮明に夢の内容を覚えているということは、「これは心配ごと?」「ストレスが溜まってる?」と思ったからだ。
なにしろ、この夢の後の気分はサイテーだった。
夢の中の私が本気で「アセっていた」からだ。
ふだん滅多に見ることのない「料理の夢」を見るというのは、きっと現実で毎日のように料理に追われているからに違いない。
私は、自分でそう結論づけた。
まだ家事をするまでに回復していない恵子の代わりに、全ての家事をやらなければならない私としては、他のところは手を抜けても料理だけは手を抜けない。
365日、毎日、毎食全てを作る私は、自分の健康と彼女の健康のことを考えながらメニューを考える。
冷蔵庫のドアは、「カルシウムの多い食品」「ビタミンDの多い食品」など、いろいろな食品成分表のコピーで完全に覆い尽くされている。
今の私に、料理の名前などはどうでもよい存在だ。
おそらくここ数年名前のある料理(例えば、カレーとかシチューとかいった名前のある料理だ)などはあまり作っていないかもしれない。
全てが「賄い料理」に近いもので、恵子と二人で「これ、なんていう料理って言えばいいのかネ?」と首をかしげることも多い。
材料を先に決め、そこから調理の方法などを考えていく(普通は料理の名前を決めて、素材は何?と考えるものだが)。
しかも、塩も醤油も砂糖、油、スパイス類も恵子には「刺激」となって涙目を誘うのであまり使えない(50種以上揃えた自慢のスパイスコレクションも今や開店休業状態だ)。
必然的に、素材の味をどうやって生かせば美味しくなるのかナと頭をヒネることになる。

栄養素だけではない。食べ易さも重要な要素だ。
不自由な右手では食べられないので彼女はいつも左手をメインに食事をする。
しかも、使えるのは、介助箸かスプーン(これも金属製ではなく軽いプラスチック製だ)なので、基本的にあらゆる麺類がメニューから外される(なのに、お中元で蕎麦や素麺をいただいたりする…ああ!)。
食べ易さと栄養を同居させたメニューを、手を替え品を替え毎食考える。
これは、ある意味、「闘い」のようなものだ。
ヘタをしたら、一日中食べ物のことを考えていたりする自分に気づきハっとする(人間、食べなくても生きていかれたらホントに楽なのに…)。
そんなわけなので、私が仕事で東京などへ遠出する時は、朝食を一緒に食べ終わった後、片付けをしながら彼女用の昼食、夕食を作ってテーブルの上にセットしておかなければ出られない。
先日の新宿でのコンサート本番当日も、朝5時に起きて一緒に朝食を食べ、片付けをしながら炊きあがったご飯でおにぎりやおかずを作り夕食用の弁当を作る。
傍らで、パンを切って昼食用のサンドイッチを作ると、その両方をアイスボックスに入れて置き、急いで伊豆高原の駅まで車を走らせ7時30分の列車に飛び乗り一路新宿まで向った(そんな具合なので、本番用の衣裳や楽譜、その他必要なものは前夜全てバッグに詰め込んでおくが、それでも時折大事なモノを忘れたりする…汗)。

外食をしたり出来合いのお弁当を買ってきて食べればよいのにとか、ヘルパーさんに頼めばいいのにと言ってくれる人もいるしケアマネさんもそう勧めるが(ケアマネージャーはそれが仕事だから当然のことだろうが)、ヘルパーさんというのは、別に住み込みのお手伝いさんではないし、せいぜい、1時間、2時間の間の「ヘルプ」にしか過ぎないのでこれまで頼んだことは一度もない。
しかも、ヘルパーさんとはいってもプロのシェフでもなければ調理師や栄養士さんでもないのだから(大抵は普通の主婦だ)、そのレベルの「ヘルプ」をお願いできるわけでもない。
外食だって出来合いの弁当だって、おそらく私が作った方がよっぽど栄養豊富で彼女の好みの料理を仕上げることができる(と思い込んでいるからイケナイのかナ?)。
ショートステイに泊まってもらったこともあるが、これは彼女が嫌がるのであまり利用はしていない。
おそらく、これもショーステイの施設で出る食事があまり美味しくないせいかもしれない(そういう「緊急避難場所」に美味しい食事を求めること自体間違っているのかもしれない)。
しかし、食事というのは人間生活の基本なので、彼女が食事にストレスを感じることだけはいつも避けたいと思っている。
もちろん、私も、現在の介護保険制度の中で利用できるものは最大限利用しているつもりだが、ことヘルパーさんには関しては(私たちにとっては)あまり都合の良い制度とは言えない(現実的にヘルパーさんに助けられているご家庭はたくさんあるのだろうが)。
とにかく、私の生活の中で、食事というのは一番大きな存在であり、ここからほんのちょっとでも逃げられたらと思っている「潜在意識」がそんな夢を私に見せたのかかも…と、私は自分の夢を分析した。

(きっと本来の意味は違うのだろうが)マザー・テレサのあることばを思い出した。
「百人に食べ物を与えることができなくても一人にならできるでしょう」。
私にとっての「一人」とは、私の目の前で一緒に生活している人に他ならない。