ということばは個人的にあまり好きではないのだが、男性が育児や家事に参加したり関心を持つことは大歓迎だ。
ただ、けっこう勘違いしやすいのが、男性は、もともとこの方面(育児や家事といった環境を守っていく作業)に脳が順応しやすいわけではないので、ヘタをすると赤ちゃんをあやしたり入浴させたりしただけで「(育児を)やった、やった」と勘違いしてしまいがちになることだ。
ゴミ出しや家事にしても、例えば玄関先にあるゴミ袋を出勤途中の道ばたまで運んでいくことがゴミ出しだと勘違いしている男性は今でもけっこういる(こんなことぐらいで「ゴミ出しした」とは到底言えない)。
ゴミ出しというのは、部屋の掃除の結果出たゴミや風呂場の隅にある髪の毛などを集積したり、(ゴミ箱に捨てる時も)総菜やお弁当などの容器の汚れを落として捨てたり、ゴミを分別し、台所の流しの三角コーナーにたまった生ゴミの水気をきっちり絞ってゴミ袋に入れゴミ置き場まで運ぶまでの全ての行程を行うことを言う(はずだ)。
にもかかわらず、この認識を最初から持たない(あるいは持てない)男性は案外多い(ひょっとしたら男性に限らないかもしれないが)。
玄関先のゴミ袋をゴミ集積所まで持って行くのは、ただの「ゴミ運び」に過ぎない。
ある程度技術的に習得していくことも可能な家事全般と違って、育児や介護は生身の「人間」が相手だ。
まずこのことをスタートにしないと絶対に失敗するだろうし、最後にトンデモないことが起こる可能性もないとは言えない。
今世の中でファッションにさえなっている「イクメン」だとか「女性の社会進出を後押しする」みたいなことを言う男性のことばがイマイチ信用ならないナ..と思うのはきっと私だけではないだろう。
家事にしろ、育児にしろ、介護にしろ、何かと女性にばかり押しつけられてきた世の中の仕事に男性が参加するのはとても良いことなのだけれども、まずこうした仕事の本質を理解するところから始めないといつまでたっても口先だけで終わってしまう。
単純に、まず「家事を尊敬し」、「子供を尊敬し」、「お年寄りを尊敬」するところから始めるべきだと思う。
私がいつも介護施設に行くと思うのは、「このお年寄りの人たち一人一人に波瀾万丈の人生のドラマがあるんだよな」ということ。
今の施設入居者の人たちの世代は、戦争中や戦後すぐに青春時代を過ごした人たちが圧倒的に多い。
だから、今の若い人たちには到底考えられないような体験や経験をしているわけで、そうしたこと(人生ドラマ)を聞かせていただけるんだったら逆にこちらがお金を払っても聞かせていただきたいぐらいだ(人間、戦争体験などそう滅多にできるものではない)。
きっとすごい話が聞けるんだろうな。素敵な話が聞けるんだろうな。そう考えただけで心がワクワクしてくる。
自分とはまったく違った環境で自分より長く生きてきた人の目に写った風景や情景、そして人々の姿を全部スナップ写真のように切り取ることができないものだろうか。
もしそれができたらこんな素敵な「写真集」はないだろうと思う。
ただの「わけのわからないことばかり言う年寄り」「汚らしい年寄り」と思ってしまうと、「尊敬」の気持ちなどどうやっても起こらない。
最近自治体とか学校など、「お年寄り体験」と言って、身体の自由をいろいろな形で制御して「これだけお年寄りの視界は狭くて、歩きにくくて、声も出しづらいんですよ」という体験をさせようとするところが多いが、なんで日本の社会というのは、こういうテクニカルな面から入っていこうとするのかナといつも疑問に思う。
もちろん、「年を取る」ということで身体の自由や心のゆとりがなくなってしまう側面は確かにあるけれども、「年を取る」ということはけっしてそれだけではないはずだ。
そういう「疑似年寄り体験」を通して、こんなに身体がシンドイんだからお年寄りをいたわりましょうは確かに正論そのものだけれども、単純に「お年寄り」vs「お年寄りじゃない人」という二元論で回答を得ようとしても本当の答えは得られないような気がする(この二元論では、年寄りの方が必ず「善悪」の「悪」の方に振り分けられてしまう)。
それよりも、もっと一人一人の内面に入っていくような「介護」というものができないものなのだろうか。
「すごいよね、この人、(これまでの長い人生)こんなこともあんなこともしてきたんでしょ」と思うだけで人に対する尊敬の念というのは自然に湧いて来るものだ。
すべてを「尊敬」から出発させること。それが素直に「愛情」に変わっていくのでは…。
そう思わない限り、育児も家事も介護もやりきることはできないのではないだろうか。
ただ、けっこう勘違いしやすいのが、男性は、もともとこの方面(育児や家事といった環境を守っていく作業)に脳が順応しやすいわけではないので、ヘタをすると赤ちゃんをあやしたり入浴させたりしただけで「(育児を)やった、やった」と勘違いしてしまいがちになることだ。
ゴミ出しや家事にしても、例えば玄関先にあるゴミ袋を出勤途中の道ばたまで運んでいくことがゴミ出しだと勘違いしている男性は今でもけっこういる(こんなことぐらいで「ゴミ出しした」とは到底言えない)。
ゴミ出しというのは、部屋の掃除の結果出たゴミや風呂場の隅にある髪の毛などを集積したり、(ゴミ箱に捨てる時も)総菜やお弁当などの容器の汚れを落として捨てたり、ゴミを分別し、台所の流しの三角コーナーにたまった生ゴミの水気をきっちり絞ってゴミ袋に入れゴミ置き場まで運ぶまでの全ての行程を行うことを言う(はずだ)。
にもかかわらず、この認識を最初から持たない(あるいは持てない)男性は案外多い(ひょっとしたら男性に限らないかもしれないが)。
玄関先のゴミ袋をゴミ集積所まで持って行くのは、ただの「ゴミ運び」に過ぎない。
ある程度技術的に習得していくことも可能な家事全般と違って、育児や介護は生身の「人間」が相手だ。
まずこのことをスタートにしないと絶対に失敗するだろうし、最後にトンデモないことが起こる可能性もないとは言えない。
今世の中でファッションにさえなっている「イクメン」だとか「女性の社会進出を後押しする」みたいなことを言う男性のことばがイマイチ信用ならないナ..と思うのはきっと私だけではないだろう。
家事にしろ、育児にしろ、介護にしろ、何かと女性にばかり押しつけられてきた世の中の仕事に男性が参加するのはとても良いことなのだけれども、まずこうした仕事の本質を理解するところから始めないといつまでたっても口先だけで終わってしまう。
単純に、まず「家事を尊敬し」、「子供を尊敬し」、「お年寄りを尊敬」するところから始めるべきだと思う。
私がいつも介護施設に行くと思うのは、「このお年寄りの人たち一人一人に波瀾万丈の人生のドラマがあるんだよな」ということ。
今の施設入居者の人たちの世代は、戦争中や戦後すぐに青春時代を過ごした人たちが圧倒的に多い。
だから、今の若い人たちには到底考えられないような体験や経験をしているわけで、そうしたこと(人生ドラマ)を聞かせていただけるんだったら逆にこちらがお金を払っても聞かせていただきたいぐらいだ(人間、戦争体験などそう滅多にできるものではない)。
きっとすごい話が聞けるんだろうな。素敵な話が聞けるんだろうな。そう考えただけで心がワクワクしてくる。
自分とはまったく違った環境で自分より長く生きてきた人の目に写った風景や情景、そして人々の姿を全部スナップ写真のように切り取ることができないものだろうか。
もしそれができたらこんな素敵な「写真集」はないだろうと思う。
ただの「わけのわからないことばかり言う年寄り」「汚らしい年寄り」と思ってしまうと、「尊敬」の気持ちなどどうやっても起こらない。
最近自治体とか学校など、「お年寄り体験」と言って、身体の自由をいろいろな形で制御して「これだけお年寄りの視界は狭くて、歩きにくくて、声も出しづらいんですよ」という体験をさせようとするところが多いが、なんで日本の社会というのは、こういうテクニカルな面から入っていこうとするのかナといつも疑問に思う。
もちろん、「年を取る」ということで身体の自由や心のゆとりがなくなってしまう側面は確かにあるけれども、「年を取る」ということはけっしてそれだけではないはずだ。
そういう「疑似年寄り体験」を通して、こんなに身体がシンドイんだからお年寄りをいたわりましょうは確かに正論そのものだけれども、単純に「お年寄り」vs「お年寄りじゃない人」という二元論で回答を得ようとしても本当の答えは得られないような気がする(この二元論では、年寄りの方が必ず「善悪」の「悪」の方に振り分けられてしまう)。
それよりも、もっと一人一人の内面に入っていくような「介護」というものができないものなのだろうか。
「すごいよね、この人、(これまでの長い人生)こんなこともあんなこともしてきたんでしょ」と思うだけで人に対する尊敬の念というのは自然に湧いて来るものだ。
すべてを「尊敬」から出発させること。それが素直に「愛情」に変わっていくのでは…。
そう思わない限り、育児も家事も介護もやりきることはできないのではないだろうか。