みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

子供のいない私としては

2012-02-27 21:36:13 | Weblog
子供に面倒を見てもらうということに対する感覚が本当の意味で実感はできないのだが、病院でいつも見る光景がある。
年老いた母親を毎日病院に訪ねあれこれと話をしたり世話したり食事の世話をする子供たちの姿を毎日のように目にする。
子供たちと言っても私と同じぐらいの年代から少し下ぐらいの人たちだ。
たまに見かける10代や20代の人たちは孫の人たちだろう。
そうした子供や孫から食事の世話をしてもらったり(身体が不自由な人たちのリハビリ病院なので)する光景を見るにつけ「こうした看護を受ける身内を持っている人はまだ幸せな方なのだろうな」ということをよく考える。
病気ではないにせよ、多くの年老いた人たちが介護されなければならない現在の日本の社会には何かもっと「大きな明るさ」が必要なのでは?といつも思う。
もちろん、同じ年寄りでも裕福な人たちはそれなりの看護、介護を受けているのだろが、やはり人間とはよくしたものでお金のある人が必ずしも幸福にはならないところが人間社会の条理でもあり不条理でもある。
まあ、幸福か不幸かはその人の感じ方次第なので何とも言えないが、人の一生の価値判断は死ぬ瞬間までわからないと私は思っている(人の一生は「生まれてから死ぬまでがワンセット」なのだから)。
子供がいないという人生の選択をした私と恵子がこれから送る人生は「どこまで二人で向き合っていられるか?」だろう。
今日も、そんな他の家族の光景を見ながら二人で話したのは「一緒に死ねればいいんだけど、そうはならないしね、難しいネ」ということ。
本当にどちらが先に死ぬかわからない。
近松モノのように心中でもしない限り「一緒に死ぬ」ことはできない(心中も本当の意味では一緒に死んでるわけではない)。
問題は「時間の共有」の仕方なのかもしれない。
私は、今回の恵子の病気のおかげでこれまでの人生で最も密度の濃い「時間」を共有させてもらったような気がしている。
恵子にしても一度離れてしまった肉体の一部と脳がどれだけ密接な関係を持てば「身体が復活するのか」を身を持って体験できたわけだし(まだ体験途中なのだが)、私にしても「五体満足」と「五体不満足」がどういう形で時間と生活と心を共有していかなければいけないかを改めて理解できたような気もする。
その意味では「濃い時間」は共有できていると思う。
問題はここから先の人生のことなのだろう。


ここまで半年

2012-02-22 20:54:10 | Weblog
恵子の介護にしゃにむに突っ走ってきたけれど そろそろ疲れがピークに達したのかナ?という感じでこの2週間ほど完全にバテてしまった。
具体的には風邪をひいたということなのだけれども、世の中に「風邪なんて病気はない」と私は信じているので、要するに「風邪とおぼしき症状」でダウンしたというだけのこと。
そして、この「風邪とおぼしき症状」はこちら側の体調不良の時を狙ってタイミングよくやってくる(ものだ)。
いろんな菌に無抵抗な状態、あるいはこちらの心にスキができた時を狙ってやってくると言った方が正確かもしれない。
私は学生時代、試験が終わるとよく風邪をひいていた(特にアメリカでの学生時代の4年間、私の場合試験と風邪の因果関係は明確に存在した)。
要するに、心と身体が「もう今なら風邪をひいても大丈夫」と安心するからなのだろうと思う。
なので、今でも演奏がしばらくないナとわかるとけっこう身体がなまけて風邪をひいてしまったりする時がある(演奏のタイミングで風邪をひいたりすると「プロたるものが...」と非難されてしまうので)。
まあ、風邪は一種の(心と身体の両方が)健康かどうかのバロメーターといったところなのだが、この体調不良によって恵子の病院からしばらく足が遠退いてしまった(風邪の人間が病院でうろちょろしたらかなり迷惑だ)。
ただ、ありがたいことに今はメールというものの存在で物理的に離れていてもお互いの気持ちは確かめられる。
ただ、恵子はじかに会えないフラストレーションからかやたらに絵を描いて写メで送ってくるようになった。
最近は私と彼女のアメリカ生活が題材のことが多い。
日に4枚も5枚も描いてくることがある。
「こいつらは2匹とも生きてるから私が描かなくても勝手にこいつらが表情作ったりするの」と絵の中にいるヤマネコとうさぎのことを恵子はそう評する。
まあね、そう言われりゃそうだけど…と絵をよく見るとヤマネコの表情などには明らかに彼女の願望が入っているような気がする。
音楽も絵も基本的にはその人の感情がそのまま現れるわけなので、その人が作家であれ、絵描きで、あれ音楽家であれ、基本的に「ない袖はふれない」ということになる。
ということは、こういう行為(絵を描いたり、楽器をやったり、文章を書いたり、料理を作ったりするような行為)は、リハビリや認知症の治療などさまざまに治療法の一つとして絶対に役立つはず。
と私なんかはマジに思っているのだが、ごく一部のお医者さんや療法士さんを除いてこうした取り組みに可能性を感じている人は意外と少ない。
それは、多分「これをやったからこうなった」という原因と結果の因果関係を証明しにくい分野でもあるし、「そんなの気のせいだよ」と一蹴されてしまいかねないぐらい効果の分かりにくい分野だからだろう。
モーツァルトを聞くと頭が良くなるとでも簡単に言えればこんな楽なことはないのだが(よくそんなことを学者や医者が軽々しく言えるなという気もするが)、うつ病が長い間「気のせい」で片付けられてきたように人間の思考と認知の大元が脳であるにも関わらず脳と人間の行動の結びつきに対するアートやパーフォマンスの役割の意味を本気で解明しようとしている人は案外少ないのだ(オリバー・サックス博士はその研究をしている人だが)。

恵子の「描きたい」という気持ちとそれを命令する脳の認知行動がリハビリにどれだけ役立つのかを数値で計りそれと身体の機能回復の因果関係が示せればきっとどんな人も納得できる答えが示せるだろうに、残念ながら現状ではその方法は何もない。

音楽とリハビリ

2012-02-08 22:22:17 | Weblog
の密接な関連についてはいくら言っても言い足りないものがある。
ただ不思議なのはこの2つの分野の専門家たちのどちらもがあまりそのこと(音楽とリハビリが結びついているということ)に気づいていないことだ。
きっと私のように音楽の専門家の家族がリハビリをしなければならなくなるような状況で初めてその事実に気づくのかもしれない。
恵子のリハビリの過程で音楽という要素をどれだけ生かしてきているかは、いろいろな具体的な例を示せばよくわかるかもしれない。
例えば、ベッドからの起き上がり。
身体の不自由な人間、あるいは老齢で介護が必要な人にとってベッドから「起き上がる」ことはそれほど簡単なことではない。
普通、健常者でも寝ている状態から身体を起こして起き上がるためにかなりの筋力とタイミングが必要だ。
あおむけの状態から真っすぐ身体を起こすには「腹筋」の力が必要。
こんなことは誰にでもわかること。
もし、この腹筋の力がなかったとすれば、身体を横向きにして腕の肘などの力で起き上がるしかない(あるいは、介助ベッドの手すりなどを利用して)。
しかしながら、恵子のように身体の半分が麻痺してしまったような患者は、基本的に筋力ゼロの状態から起き上がらなければならない。
その時何が必要になるのか?
これはもうタイミングしかない。
顔を足の方に向け覗き込むようにして(つまりエビのように身体を曲げ)、腕の肘をベッドに押し付けて「1、2、3」で一気に力を下にかけて上体を持ち上げるしか方法はない。
しかしながら、このタイミングが狂うと身体はまったく動かない。
恵子は最初のこの起き上がりにとても苦労していて手すりばかり利用していたのだが、私が「1、2、3~の<3>のところに思いっきりアクセントをつけて<サ~ン>と伸ばしておき上がれば絶対にうまくいくから」と教えその通りやってすぐに成功した。
その時、私はこうも付け加えた。
「これは絶対に声を出してタイミングを取ること。それじゃないと成功しないよ。声に出せば集中力が増すんだから」。
この発声をしながらタイミングを取るというのは、音楽にとっては基本的なことだと私は思っている。
2拍子にしろ3拍子にしろ声に出して音に出してリズムを作らなければグルーブは絶対に生まれない。
リハビリにグルーブもないもんだと思うかもしれないが、グルーブというのはすなわち「身体の動き」なのだから、グルーブを作ること自体がリハビリだと私は思っている。

先日の自宅への一時帰宅の時、恵子が台所で一瞬倒れかかった。
足から崩れかかったのだが私が横から抱きかかえて事なきを得た。
この時、彼女が倒れかかった原因ははっきりしている。
彼女が歩いている時、目の前のドアが急に開いたからだ。
予期せぬものを見た瞬間に足がすくみそれまできちんと交互に足が出ていたのがリズムを崩され足が崩れてしまったのだ。
要するに、歩くことの集中力を乱されてしまった結果が転倒につながってしまうということなのだ(幸いこの時転倒はしなかったが、もし私がすぐそばにいなかったら確実に彼女は転倒していただろう)。
私たち健常者も時々転ぶ。
そして、その転ぶ原因は前にモノがあったり、つまづいたり、横からふいに押されたりというさまざまな原因で転ぶのだが、そのいずれも、予期せぬモノに邪魔された結果だ。
足が順調に前に交互にテンポ良く出ていれば人間は普通転ばない。
でも、こうした不意の出来事で身体の集中が切れたり、邪魔されたりすることによって人は転倒する。
子供がよく転ぶのは上半身の方が重くバランスが取れていないことと、この足のリズムがいい加減だからだ(子供は好き勝手に足を出そうとするから)。
このリズムや集中を作るのが「音楽」そのものなのだけれども(これを教えるのがリトミック)、普通の人はそんな風には考えない。
ただ、前に交互に足が出る。だから、歩く。
そういう風にしか考えない。
でも、その足が常に一定のテンポでリズミックに交互に前に出るという行為を可能にしているのは人の持っている「音楽性」と「音楽脳」の仕業に他ならない。
脳卒中で左脳にダメージを受ける人は言語に麻痺を持つ人が多い。
幸い、恵子は左脳にダメージがあったにもかかわらず言語機能に障害は残らなかった。
そうした言語に麻痺のある人でも「歌は歌える」人が多い。
つまり、「歌を歌う脳」は右脳だから左脳のダメージの影響を受けにくいのだ。
ということは、人間にはもともとこの「音楽脳」というものが備わっているということになる。
これまでの研究によれば(そういうことを研究されている学者さんたちの本を幾つか読むと)、この音楽脳というのはとても「タフ」なのだそうだ。
左脳の言語脳のようにすぐにダメージを受けることなく、けっこうタフに活動を続ける「強い脳」なのだという。
だからこそ、この「音楽脳」を利用したリハビリというのは絶対に効果があるし、これからも真剣に考えなければならないことなのだと私は思っている。
先日も、療法士さんが恵子に杖をついて歩く時「1、2、3、…」「1、2、3、…」とタイミングを取りながら歩きなさいと教えていた。
人間の歩行に3拍子というのはあり得ないのだけれども、この療法士さんが言うのは、「杖、右足、左足、タメる(留まるという意味)」のタイミングの取り方を教えていたのだと思う(結果的に4拍子の歩行を教えていたことになる)。
しかしながら、このタイミングの取り方で恵子はバランスを崩してしまったのだ。
あまりにも1拍目の「杖」の部分を意識し過ぎたからだ。
やってみるとわかるが、杖と足の交互の動きをこうやって数字でリズミカルに動かして行くのは素人がタップダンスを踊るぐらい難しい。
なので、私は恵子にまったく違うタイミングの取り方を教えた。
「1、2(右)、3、4(左)」でタイミングを取って歩いてごらん。杖はあってもなくてもいいの。実際の人間は杖なしでタイミングを取るんだから、杖の分を勘定に入れるとかえって頭と足が混乱するから、杖はどこで出してもよいからなにしろ、1、2、3.4でタイミングを取るように」
恵子の頭はこれでスッキリしたようだ(杖は単に『転ばぬ先の杖』なのだから)。
本来の足の動きは2拍子なので本当は「1、2」のタイミングで足を出せと教えるべきなのだが、まだゆっくりしか歩けない恵子は「遅い2拍子」よりも「早い4拍子」の方が的確にタイミングを取れる。
そう思っただけのことだ。
音楽療法などと大上段に構えなくても、理学療法とか作業療法の人たちがもうちょっと音楽的な頭でリハビリを行えばそれで済むことなのにナと考えることしきりだ。



2回目の外泊

2012-02-05 19:41:34 | Weblog
で、恵子が昨日と今日狛江の彼女の実家に泊まっている。
前回の大晦日から正月への外泊と違い、今回は車椅子なしでの移動だ。
まあ、その限りにおいてかなりのステップアップだし嬉しいことは確かなのだが、まだまだ不安な面もたくさんある。
本当に退院した後のリハビリのことを考えると,かなりの不安がつきまとう。
後2ヶ月でどれぐらい彼女が回復していてくれるかにもよるのだが、もし仮に今のままの状態で家に帰ってくるとなると、私の身体が持つかナ?というのが第一の不安だ。
家に(私なしで)彼女を一日中一人でほうっておくわけにはいかないので、おそらく仕事そのもののペースがかなり制限されるような気もしている。
食事の世話を含め毎日の生活の全てをどうやって過ごし、リハビリもどういう形でやっていくかといったもろもろをどうやっていこう?みたいなところでこのところ思いをめぐらすことが多い。
在宅介護をしている人はきっと仕事どころではなくなるのだろうなということもよくわかる。
現在の医療制度では、なにしろ長い入院生活ができないような仕組みになっている。
回復期の病院の入院日数のマックスが半年というのもその一つ。
そして、退院してからのリハビリにしても、通院リハビリ(つまり、病院の外来で医療保険を使っての治療)はできるだけ避けて通所リハビリ(つまり、デイケアなどの介護保険で利用できる場所でのリハビリ)にして欲しいというのが国の施策だ。
要するに、医療保険はなるべく使わずに介護保険をできるだけ使いなさいという意図なのだが、医療保険でできるリハビリと介護保険でできるリハビリでは実際「天と地」ほどの違いがある。
さまざまなリハビリ器具と療法士の揃う病院でのリハビリに比べ、介護保険で利用できるリハビリは、デイケアなど介護施設の貧弱な設備でのリハビリが中心で療法士さんさえいない所がほとんどだ。
そんな場所にリハビリに通って一体何の意味があると言うのだろうか?

こういう現状は十分理解した上で彼女に一体どれだけの満足の行くリハビリが施してあげられるかナ?と最近あれこれ考える。
まあ、なるようにしかならないし、頑張るのは私と彼女の二人なので、その二人が何とかベストのチョイスでベストの回復に持っていくしかないとは思っている。
まあ、ハタで見ている人は退院が近いというと「良かったですね」と単純に喜んでくれるのだが、この病気、退院=完治ではないので、ある意味、家に帰ってからの方が性根をすえてかからないと大変なことになってしまう(私自身が心配しているのはその部分だ)。
誰かが言っていたけれど、病院に預けている間は本当に安心なのだ。
今や6人に1人という確率で起こるこの脳卒中という病気、そして、癌やさまざまな病気、そして老齢によるさまざまな介護の問題など、日本の医療と介護はトンデモナク深刻な状況だと思う。
消費税を上げる上げないだけで簡単に解決する問題でもないような気がするのだが。