このことばは、ある英国の「アルツハイマー患者の叫び」という風に伝えられていることばだ。
おそらく本当は誰が言ったのか、あるいは本当にこのように言われたのかも定かではないだろうが、この叫び、英語だろうが日本語だろうがどんなことばであったとしても、身体と心を病んだ人たちの叫びとして普遍的に通用することばだと私は思っている。
認知症の人たちや自閉症などの人たちをまともな会話もまともな認識もできない人たちと誤解している人たちは世の中にたくさんいる。
つまり、彼らをまともに相手しても無駄ぐらいに思っている人も多いのだ。
おそらく、この認識(もちろん、間違った認識だが)そのものが認知症対策を遅らせてしまっている原因の一つなのかもしれない。
「こっちの言ってることなんかわからないんだから、何言っても無駄だよ」というような意識は、ある意味、さまざまな理由でベッドに寝たきりになっている「植物状態」の人たちに対しても抱きがちだ。
そんな意識をほんのちょっとでも持っている人たちは、映画『ジョニーは戦場に行った』や『潜水服は蝶の夢を見る』を観ると良いかもしれない。
戦争で両手両足をもがれことばも失ってしまったジョニーは、病院のベッドで医師たちの実験台として生きながらえさせられている状態を嘆き「私を見せ物にして世の中の人に戦争の悲惨さを伝えて、でなければ、すぐに殺して」とモールス信号で訴えるが、その「叫び」は結局無視され永遠の暗闇の中に閉じ込められてしまう。
「私はまだ生きているよ。私を早く見つけて」と叫んでいるはずのジョニーだが、結局彼は「生きることも死ぬこともできないまま」、誰からも見つけられることがない。
一方、フランス映画の『潜水服は蝶の夢を見る』の主人公(雑誌『ELLE』の編集長)は脳卒中で植物状態になるが、幸い彼を治療する言語聴覚士が「閉じ込められた」彼の意思を見つける方法を発見する。
患者のまばたきでアルファベットを拾う方法を考えついたセラピストの必死の努力で患者は最終的に自伝を出版するまでになる(これも『ジョニー』同様に実話を元にした映画だ)。
妻の恵子も時々この意識の「閉じ込められた」状態になっていることがよくわかる。
彼女の中にあった「過去」や「意識」は、彼女の左脳の出血によってその全てではないかもしれないが一部確実に閉じ込められている。
彼女自身それを引きずり出そうともがくことで逆に、彼女は、自分自身の身体や心のバランスを損なってしまう。
それがわかっているからこそ、彼女の左脳は右脳に助けを求めるがまだ右脳はそれをしっかりと助けるだけの能力をまだ回復していない。
そんな「もがき」を、私は常に彼女の中に感じている。
おそらく、大多数の認知症患者の人たちもそんな「もがき」を多かれ少なかれ持っているのではないだろうか。
自らの脳卒中体験を語って世界中に影響を与えている脳科学者ジル・ボルト・テイラー女史の言うように、左脳が人間の「エゴ=自我」を作り出している場所だとすれば、人類の歴史はこの左脳の「エゴ」が作りだしてきたもの。
だからこそ、人類の歴史は争いの歴史だったのかもしれない。
あまりにも言語によるコミュニケーションにばかり頼り過ぎた私たちは、「言語で理解できないこと」は全て排除し、認知症患者とのコミュニケーションを最初から「不能」にしてしまう。
これは、私たちがあまりにも言語によるコミュニケーションに頼り過ぎてきたせいだろう。
たとえ言語の受け答えがトンチンカンでもやはり人は「そこにいる」のだ。
だからこそ、彼や彼女の「心」を探し出す役割は私たちの側にあるのだと思う。
65歳以上の高齢者の七人に一人が認知症になるなどとメディアは盛んに私たちに脅しをかけるが、これはことばを換えれば、七人に一人が「言語でコミュニケーションが取れなくなる可能性のある人」ということだし、どこかに私たちの意思がそれだけ多く「閉じ込められてしまう」可能性があるということを示唆している。
だとしたら、この「閉じ込められてしまった」人の意思を、誰がどうやって解放してあげれば良いのだろうか。
認知症患者はバカじゃないし、自閉症患者だってバカじゃない。
でも、そうは思ってない人も世の中には多い。
認知症というのは、単に脳が縮んでしまっただけの結果ではないだろうし(脳の画像ではそう見えるが)、ある意味、左脳による言語化ができないだけの状態かもしれないし、ことばも記号も認識できにくくなっているだけで、さまざまな事象も人間もことばも右脳で体感しているのかもしれない。
晩年のラベルは、ピアノの演奏も普通にできたし作曲もできたけれど、新しい曲の楽譜を読んだり音の名前を言ったりする言語化(=記号化)はできなくなっていたという。
きっと、晩年のラベルの脳でもことばや音符という記号が「閉じ込められて」しまっていたのだろう。
しかし、それでもラベルの意識はちゃんとそこにあって「私はちゃんとここにいるよ」と言っていたはずなのだ。
だからこそ、彼は、晩年にあんな名曲『ボレロ』を私たちに残すことができたのではないだろうか。
おそらく本当は誰が言ったのか、あるいは本当にこのように言われたのかも定かではないだろうが、この叫び、英語だろうが日本語だろうがどんなことばであったとしても、身体と心を病んだ人たちの叫びとして普遍的に通用することばだと私は思っている。
認知症の人たちや自閉症などの人たちをまともな会話もまともな認識もできない人たちと誤解している人たちは世の中にたくさんいる。
つまり、彼らをまともに相手しても無駄ぐらいに思っている人も多いのだ。
おそらく、この認識(もちろん、間違った認識だが)そのものが認知症対策を遅らせてしまっている原因の一つなのかもしれない。
「こっちの言ってることなんかわからないんだから、何言っても無駄だよ」というような意識は、ある意味、さまざまな理由でベッドに寝たきりになっている「植物状態」の人たちに対しても抱きがちだ。
そんな意識をほんのちょっとでも持っている人たちは、映画『ジョニーは戦場に行った』や『潜水服は蝶の夢を見る』を観ると良いかもしれない。
戦争で両手両足をもがれことばも失ってしまったジョニーは、病院のベッドで医師たちの実験台として生きながらえさせられている状態を嘆き「私を見せ物にして世の中の人に戦争の悲惨さを伝えて、でなければ、すぐに殺して」とモールス信号で訴えるが、その「叫び」は結局無視され永遠の暗闇の中に閉じ込められてしまう。
「私はまだ生きているよ。私を早く見つけて」と叫んでいるはずのジョニーだが、結局彼は「生きることも死ぬこともできないまま」、誰からも見つけられることがない。
一方、フランス映画の『潜水服は蝶の夢を見る』の主人公(雑誌『ELLE』の編集長)は脳卒中で植物状態になるが、幸い彼を治療する言語聴覚士が「閉じ込められた」彼の意思を見つける方法を発見する。
患者のまばたきでアルファベットを拾う方法を考えついたセラピストの必死の努力で患者は最終的に自伝を出版するまでになる(これも『ジョニー』同様に実話を元にした映画だ)。
妻の恵子も時々この意識の「閉じ込められた」状態になっていることがよくわかる。
彼女の中にあった「過去」や「意識」は、彼女の左脳の出血によってその全てではないかもしれないが一部確実に閉じ込められている。
彼女自身それを引きずり出そうともがくことで逆に、彼女は、自分自身の身体や心のバランスを損なってしまう。
それがわかっているからこそ、彼女の左脳は右脳に助けを求めるがまだ右脳はそれをしっかりと助けるだけの能力をまだ回復していない。
そんな「もがき」を、私は常に彼女の中に感じている。
おそらく、大多数の認知症患者の人たちもそんな「もがき」を多かれ少なかれ持っているのではないだろうか。
自らの脳卒中体験を語って世界中に影響を与えている脳科学者ジル・ボルト・テイラー女史の言うように、左脳が人間の「エゴ=自我」を作り出している場所だとすれば、人類の歴史はこの左脳の「エゴ」が作りだしてきたもの。
だからこそ、人類の歴史は争いの歴史だったのかもしれない。
あまりにも言語によるコミュニケーションにばかり頼り過ぎた私たちは、「言語で理解できないこと」は全て排除し、認知症患者とのコミュニケーションを最初から「不能」にしてしまう。
これは、私たちがあまりにも言語によるコミュニケーションに頼り過ぎてきたせいだろう。
たとえ言語の受け答えがトンチンカンでもやはり人は「そこにいる」のだ。
だからこそ、彼や彼女の「心」を探し出す役割は私たちの側にあるのだと思う。
65歳以上の高齢者の七人に一人が認知症になるなどとメディアは盛んに私たちに脅しをかけるが、これはことばを換えれば、七人に一人が「言語でコミュニケーションが取れなくなる可能性のある人」ということだし、どこかに私たちの意思がそれだけ多く「閉じ込められてしまう」可能性があるということを示唆している。
だとしたら、この「閉じ込められてしまった」人の意思を、誰がどうやって解放してあげれば良いのだろうか。
認知症患者はバカじゃないし、自閉症患者だってバカじゃない。
でも、そうは思ってない人も世の中には多い。
認知症というのは、単に脳が縮んでしまっただけの結果ではないだろうし(脳の画像ではそう見えるが)、ある意味、左脳による言語化ができないだけの状態かもしれないし、ことばも記号も認識できにくくなっているだけで、さまざまな事象も人間もことばも右脳で体感しているのかもしれない。
晩年のラベルは、ピアノの演奏も普通にできたし作曲もできたけれど、新しい曲の楽譜を読んだり音の名前を言ったりする言語化(=記号化)はできなくなっていたという。
きっと、晩年のラベルの脳でもことばや音符という記号が「閉じ込められて」しまっていたのだろう。
しかし、それでもラベルの意識はちゃんとそこにあって「私はちゃんとここにいるよ」と言っていたはずなのだ。
だからこそ、彼は、晩年にあんな名曲『ボレロ』を私たちに残すことができたのではないだろうか。