センチュリー交響楽団への補助金カットのことで新聞へのコメントを出したこともあり、今日のニュースで知った知事と担当部局とのやり取りがとても興味深かった。
ニュースではもちろん議論の内容がすべて報道されたわけではないので詳細についてはわからないけれども、知事の言い分はオーケストラが文化だと言うのだったら大阪の文化である「お笑い」ぐらいお客さんを引き付け、生活の中に根付かせる努力をしなさいよということなのだろう。
この主張は主張である意味正しいけれども、一方でクラシック音楽とお笑いを同じ「文化」というまな板の上に乗せるのはいささか乱暴だとも思う。それ言い出したら、明治維新から始まった西洋文化全体が日本の生活の中にどれだけ根付いているかといった根本的な議論にまで発展させないと結論は出ないことになってしまう。多分そこまで議論を発展させるつもりもそんな視点も知事は持っていないだろう。単純に、お笑いはお客さんを引き付けることに努力して何も補助金もなく自立しているじゃないか、それに比べてクラシックなんて甘えているだけじゃないかという論法でモノを言っているのだと思う。その部分だけ見れば私も同感で、運営全体に必要な予算の半分を補助金に頼っている団体が健全な経営をしているとはとても思えない(その意味では、東京都交響楽団の方が問題はもっと深刻だ)。本来は、オケを作る前にその辺の問題をすべてクリアにした状態でオケを作るべき問題なのだ。
文化的に人口百万あたり一つぐらいはオーケストラがあってもいいのじゃないかという考え方や東京や大阪は文化都市なのだからオーケストラの3つや4つあって当たり前という意見もとても乱暴だ。ヨーロッパでは数十万規模の町でもプロのオケはあると主張する人もいるが、それはヨーロッパだからできることであって、もともと異文化だったクラシック音楽が百万の人間のうちどれだけの人に受け入れられているいかどうかという議論をまず考えなければならない。
演歌だって、それを支持する人がいなければ当然のごとく滅んでいく。げんに演歌人口はどんどん減っていき新宿コマ劇場も閉鎖されることになったのもこの演歌支持層の減少が最大の理由だろう。
要するに、芸や文化というのは、橋下知事ではないけれど、大衆に支持されなければ生き残っていくことはできない。十七世紀、十八世紀ぐらいまでは、大衆の支持がなくても、クラシック音楽は教会や貴族層に支持されて生き残ってきた。大衆が何を聞き何を見ようが教会と貴族の権威があった時代にはクラシック音楽は「文化として生き残る」ことができたわけだ。しかし、フランス革命を境に貴族の権威が落ち、啓蒙主義の台頭で大衆が支持しないものは文化として生き残っていかれなくなってしまう。ここから音楽も「自立」の道の方向転換を強いられる。モーツァルトあたりから音楽の質も音楽家の生き方も変わってくるのはそのためだ(モーツァルトが最初のフリーランス音楽家になったのにはそれなりの理由があったわけだ)。
知事の言うように、「大阪にはお笑いしか必要ない」のだったら、多分大阪には一つもオーケストラは必要なにのだろうと思う。でも、きっと違うと思う。人間には多様な嗜好や思考があるのだから、クラシック音楽だって立派に大阪にも日本にも根付いていけるはずだと思う。ただ、その方法論を日本のクラシック音楽家はあまりにも安易に考え過ぎてきたのだと思う(というか、考えなしだったのだろうナ)。音楽の技術を西洋に学ぶのはしょうがない。それしか方法がないのだから。しかし、音楽のニーズを本当に私達の生活の中に作るには、ヨーロッパとはまったく違う方法論が必要になってくる(環境も歴史も文化もことばもすべてが違うのだから)。そこをどれだけ真剣に考えてきたのか?それが今問われている。そんな気がしてならない。
橋下知事の言っていることに全面的に賛成はしないものの、彼の言い分にも一理はある。
ニュースではもちろん議論の内容がすべて報道されたわけではないので詳細についてはわからないけれども、知事の言い分はオーケストラが文化だと言うのだったら大阪の文化である「お笑い」ぐらいお客さんを引き付け、生活の中に根付かせる努力をしなさいよということなのだろう。
この主張は主張である意味正しいけれども、一方でクラシック音楽とお笑いを同じ「文化」というまな板の上に乗せるのはいささか乱暴だとも思う。それ言い出したら、明治維新から始まった西洋文化全体が日本の生活の中にどれだけ根付いているかといった根本的な議論にまで発展させないと結論は出ないことになってしまう。多分そこまで議論を発展させるつもりもそんな視点も知事は持っていないだろう。単純に、お笑いはお客さんを引き付けることに努力して何も補助金もなく自立しているじゃないか、それに比べてクラシックなんて甘えているだけじゃないかという論法でモノを言っているのだと思う。その部分だけ見れば私も同感で、運営全体に必要な予算の半分を補助金に頼っている団体が健全な経営をしているとはとても思えない(その意味では、東京都交響楽団の方が問題はもっと深刻だ)。本来は、オケを作る前にその辺の問題をすべてクリアにした状態でオケを作るべき問題なのだ。
文化的に人口百万あたり一つぐらいはオーケストラがあってもいいのじゃないかという考え方や東京や大阪は文化都市なのだからオーケストラの3つや4つあって当たり前という意見もとても乱暴だ。ヨーロッパでは数十万規模の町でもプロのオケはあると主張する人もいるが、それはヨーロッパだからできることであって、もともと異文化だったクラシック音楽が百万の人間のうちどれだけの人に受け入れられているいかどうかという議論をまず考えなければならない。
演歌だって、それを支持する人がいなければ当然のごとく滅んでいく。げんに演歌人口はどんどん減っていき新宿コマ劇場も閉鎖されることになったのもこの演歌支持層の減少が最大の理由だろう。
要するに、芸や文化というのは、橋下知事ではないけれど、大衆に支持されなければ生き残っていくことはできない。十七世紀、十八世紀ぐらいまでは、大衆の支持がなくても、クラシック音楽は教会や貴族層に支持されて生き残ってきた。大衆が何を聞き何を見ようが教会と貴族の権威があった時代にはクラシック音楽は「文化として生き残る」ことができたわけだ。しかし、フランス革命を境に貴族の権威が落ち、啓蒙主義の台頭で大衆が支持しないものは文化として生き残っていかれなくなってしまう。ここから音楽も「自立」の道の方向転換を強いられる。モーツァルトあたりから音楽の質も音楽家の生き方も変わってくるのはそのためだ(モーツァルトが最初のフリーランス音楽家になったのにはそれなりの理由があったわけだ)。
知事の言うように、「大阪にはお笑いしか必要ない」のだったら、多分大阪には一つもオーケストラは必要なにのだろうと思う。でも、きっと違うと思う。人間には多様な嗜好や思考があるのだから、クラシック音楽だって立派に大阪にも日本にも根付いていけるはずだと思う。ただ、その方法論を日本のクラシック音楽家はあまりにも安易に考え過ぎてきたのだと思う(というか、考えなしだったのだろうナ)。音楽の技術を西洋に学ぶのはしょうがない。それしか方法がないのだから。しかし、音楽のニーズを本当に私達の生活の中に作るには、ヨーロッパとはまったく違う方法論が必要になってくる(環境も歴史も文化もことばもすべてが違うのだから)。そこをどれだけ真剣に考えてきたのか?それが今問われている。そんな気がしてならない。
橋下知事の言っていることに全面的に賛成はしないものの、彼の言い分にも一理はある。