みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

大阪の橋下知事が打ち出した

2008-05-30 18:37:00 | Weblog
センチュリー交響楽団への補助金カットのことで新聞へのコメントを出したこともあり、今日のニュースで知った知事と担当部局とのやり取りがとても興味深かった。
 ニュースではもちろん議論の内容がすべて報道されたわけではないので詳細についてはわからないけれども、知事の言い分はオーケストラが文化だと言うのだったら大阪の文化である「お笑い」ぐらいお客さんを引き付け、生活の中に根付かせる努力をしなさいよということなのだろう。
この主張は主張である意味正しいけれども、一方でクラシック音楽とお笑いを同じ「文化」というまな板の上に乗せるのはいささか乱暴だとも思う。それ言い出したら、明治維新から始まった西洋文化全体が日本の生活の中にどれだけ根付いているかといった根本的な議論にまで発展させないと結論は出ないことになってしまう。多分そこまで議論を発展させるつもりもそんな視点も知事は持っていないだろう。単純に、お笑いはお客さんを引き付けることに努力して何も補助金もなく自立しているじゃないか、それに比べてクラシックなんて甘えているだけじゃないかという論法でモノを言っているのだと思う。その部分だけ見れば私も同感で、運営全体に必要な予算の半分を補助金に頼っている団体が健全な経営をしているとはとても思えない(その意味では、東京都交響楽団の方が問題はもっと深刻だ)。本来は、オケを作る前にその辺の問題をすべてクリアにした状態でオケを作るべき問題なのだ。
 文化的に人口百万あたり一つぐらいはオーケストラがあってもいいのじゃないかという考え方や東京や大阪は文化都市なのだからオーケストラの3つや4つあって当たり前という意見もとても乱暴だ。ヨーロッパでは数十万規模の町でもプロのオケはあると主張する人もいるが、それはヨーロッパだからできることであって、もともと異文化だったクラシック音楽が百万の人間のうちどれだけの人に受け入れられているいかどうかという議論をまず考えなければならない。
演歌だって、それを支持する人がいなければ当然のごとく滅んでいく。げんに演歌人口はどんどん減っていき新宿コマ劇場も閉鎖されることになったのもこの演歌支持層の減少が最大の理由だろう。
 要するに、芸や文化というのは、橋下知事ではないけれど、大衆に支持されなければ生き残っていくことはできない。十七世紀、十八世紀ぐらいまでは、大衆の支持がなくても、クラシック音楽は教会や貴族層に支持されて生き残ってきた。大衆が何を聞き何を見ようが教会と貴族の権威があった時代にはクラシック音楽は「文化として生き残る」ことができたわけだ。しかし、フランス革命を境に貴族の権威が落ち、啓蒙主義の台頭で大衆が支持しないものは文化として生き残っていかれなくなってしまう。ここから音楽も「自立」の道の方向転換を強いられる。モーツァルトあたりから音楽の質も音楽家の生き方も変わってくるのはそのためだ(モーツァルトが最初のフリーランス音楽家になったのにはそれなりの理由があったわけだ)。
 知事の言うように、「大阪にはお笑いしか必要ない」のだったら、多分大阪には一つもオーケストラは必要なにのだろうと思う。でも、きっと違うと思う。人間には多様な嗜好や思考があるのだから、クラシック音楽だって立派に大阪にも日本にも根付いていけるはずだと思う。ただ、その方法論を日本のクラシック音楽家はあまりにも安易に考え過ぎてきたのだと思う(というか、考えなしだったのだろうナ)。音楽の技術を西洋に学ぶのはしょうがない。それしか方法がないのだから。しかし、音楽のニーズを本当に私達の生活の中に作るには、ヨーロッパとはまったく違う方法論が必要になってくる(環境も歴史も文化もことばもすべてが違うのだから)。そこをどれだけ真剣に考えてきたのか?それが今問われている。そんな気がしてならない。
 橋下知事の言っていることに全面的に賛成はしないものの、彼の言い分にも一理はある。

自分の身近に

2008-05-25 00:36:38 | Weblog
発達障害を煩っている子供がいるという話しをよく聞く。
私はこの障害にはまったく詳しくないので無用なコメントは避けるが、世の中にコミュニケーションが不得手な人が増えていることだけは確かだろう。
それに別に子供だけの話しではないだろう。いい大人がなんで?というようなことに何度も出くわしたりニュースで聞いたりもする。
アインシュタインも一種の発達障害だったとか、岡本太郎もそうだったとかいった話しも読んだりするが、そういう話しを聞いても「だから何?」という感じがしてしょうがない。
世の中の偉人や名をなした人たちはある意味みんなオカシイとでも言いたいのだろうか?
発達障害だったからいろんな偉大なことを成し遂げられたとでも言いたいのだろうか?
あまり、そんなことは事の本質とは無関係のような気がする。
私が単純に思うのは、今の世の中に急にそういった類いの障害がクローズアップされてきたのは、世の中にコミュニティがなくなったことと関係があるのじゃないのかナ?ということだ。
つまり、「近所」というコミュニティが世の中のあらゆるところから消えていっているような気がする。「近所」と「地域社会」はちょっと違う気がする。もっと手近な、いわゆる「近所づきあい」というコミュニティがなくなってきているのだ。
都会にはそういうものはもともと少ないのだけど、今では田舎でもそんなものないのではないだろうか?
向こうの家の誰々さんの家で子犬が生まれたんだって。
裏の何何さんの息子さんが今度大学に入ったそうだ。
みたいな話題で盛り上がる近所づきあいが昔は至るところであったのだが、今はそんなことには関心はあってもみんな「見て見ぬふりをする」。
もう近所自体がコミュニケーションを放棄しているのだから、家庭の中でも、友だち同士でもそういったコミュニケーションなど最初から存在しないのだろう。だから、みんなパソコンやゲームに一人向かい合うだけ。それがコミュニティの「代わり」をしている。
ヴァーチャルがどうのこうのではなく、近所には商店街もないのだから、コミュニティなど「一体どこにあるの?」という感じなのだろう。
私は、どちらかというと、コミュニティ大好き、コミュニケーション大好きで、人と話しをするのが仕事をするより大好きなので、近所の商店街のオヤジさんやオバさんたちとみんな仲良しだ。
買い物に行って立ち話をすることもしばしば。別にヒマなわけはないのだが、そうやって時間を過ごすことがけっこう楽しい。
私はどんな人ともどんな時間も楽しく過ごすことが当たり前だと思っているので、ストレスなどあまり感じたことがない。
イヤなことは山ほどあるし、問題も山ほどあるけど、世の中に解決できない問題などないし(私は本気でそう思っている)、イヤなことでも楽しめるんだったら楽しんだ方が楽じゃない!と思っているのでストレスということばの意味すら知らない(「私の辞書」にストレスという単語はないのかもしれない)。
なので、人とのコミュニケーションで悩むなどということもあまりない(イヤなやつはたくさんいるけれどネ)。
来週の月曜にお台場のホテルでフルムスの仕事があるのだけれども、この仕事の途中でクライアントからとんでもないことを注文されあやうくキレそうになった。5人編成で頼まれた楽器編成のうち二人を途中で代えてくれと言われたのだ。しかも、本番の10日前になって。
途中までやっていたアレンジを全部やり直す上にメンバーも急に探しなおさなくてはならなくなった(最初にメンバーに決まっていた二人にはゴメンナサイをしなければならないのは私の仕事だ。クライアントが代わりにあやまってくれるわけじゃない)。
この話しを聞いて最初「マジかよ」と頭の中では思ったものの「やるっきゃない」と思い直しひたすらアレンジに取り組んだ結果、何とか間に合ったけれども内心はけっこう楽しんでいた。
アレンジが変わったおかげで、また違った音楽を作る楽しみみたいなものを味わうことができたからだ。「ホントか?」言われそうだが、実際やってて楽しかったことは事実だ。
これが打ち込みだけのアレンジ変更なら作業的にははるかに楽なのだろうけど、生楽器のアレンジは楽器の特性から音域、奏法までまったく違うので、実際の奏者の演奏を想像しながらアレンジをするのでこれが大変だからこそけっこう楽しい作業なのだ。
「こう音を書いたら彼女はちゃんと弾いてくれるかナ」とか、「こう書くときっと難しいとか言われそうだからもうちょっと易しい音にするか」とか考えながらの作業が楽しいのだ(単純に頭の中で遊んでいるのかナ?)。
実際の奏者を頭の中で想像しながら、頭の中で奏者に問いかけていけるからだ。
「ねえ、これって演奏できる?」という風に一音一音奏者に尋ねるイメージがきっと私にはコミュニケーションになってるのではないだろうか?

キッチンライブも

2008-05-13 01:17:44 | Weblog
また満席状態で無事終えた。いつも料理の準備が先で肝心の演奏の準備はどちらかというと後回しになってしまう。それでも、今回は久しぶりにベースの田村くんとも共演できたし、ギターの小林くんとスパニッシュ風「サクラサクラ」なる何とも怪し気な即興演奏にも挑戦できたことがとても嬉しかった(というより、こんな風にやろうと提案したのは私の方なのだけれども)。
そう、あともう一つ。前々から歌いたかったチャプリンの名曲「スマイル」を歌うことができたのも収穫の一つだ。でも、ライブで私があの曲を歌い出すとはきっと誰も思わなかったに違いない。私が以前TVコマーシャル(木田建設という会社のCMだ)で歌ったことがあることを知っている人はそれほどいないだろうからネ(ハハハ)。
まあ、それはいいとして、昨日東京国際フォーラムで見たマリアパヘス舞踊団のフラメンコはかなり面白かった。けっこう見なれているはずなのに、フラメンコは見るたびに新鮮な発見がある。この舞踊団の振り付けでは扇子が楽器代わりに使われていた(しかも、かなりカッコよく)。これがごく普通のことなのかどうかはわからないけれども、やはりフラメンコそのものがジプシーの踊りが原形だということは容易に理解できる場面でもあった。
そして、ショスタコビッチの「ジャズワルツ第二番」が使われていたのももう一つの発見だ。考えてみればかなりジンタっぽい響きのあの曲(つまり演歌っぽいということ)がフラメンコにあうのはある意味当然かもしれない。なにせ、フラメンコそのものが、ファドなどと同様演歌にかなり近い存在だからだ。
人間の肉体が「美しく極限に動く」ということは、スポーツ同様、人に「生きている」ことの喜びを素直に与えてくれる。そこが踊りの素晴らしさだ。

マリパヘスを見た後、家に戻り大河ドラマの「篤姫」を見る。TVはあまり見ないし、ましてやドラマとなると全くと言っていいほど見ないのだが、今回は篤姫が題材なので、好んで見ている。
この天璋院篤姫という存在はとてもユニークな存在で、幕末の日本の運命を影で操っていた人の一人と言ってもいい女性だ。幕末の日本で、女性という立場から歴史を動かしていた人なのに皇女和宮ほど名前は出てこないが、13代将軍家定の妃として世継ぎを残さなかったにもかかわらずその後の家茂、慶喜らが京都の宮廷や幕末の志士たちの動乱をさも冷静に見つめて日本をあるべき方向に導いていったかなり存在感のある女性だ。
そんな偉大な女性が題材なのだが、やはりそこは日本のTVドラマの限界で、ほとんどの役がミスキャスト(知名度だけでキャスティングする日本のTV界にはありがちなことだが、これが日本のTVドラマの質を向上させない根本的な理由)。 中でも一番いただけないのがこの篤姫を演じる宮崎あおい。演技がヘタとかうまいのレベルではない。よくまああれで大河ドラマの主役がつとまるものだと思うが、そこがまあ大河ドラマだからなのだろう。彼女の表情を見ていても、この人は一体今は「悲しんでいるのだろうか?」「嬉しいのだろうか?」がサッパリわからない。篤姫という歴史上の人物の実際の流れをいちおう把握しているから、「ここでは悲しいはず」とか「ここでは嬉しいはずだ」とこっちが勝手に理解できるのだが、宮崎あおいの顔を見ていても主人公の心の動きはほとんどわからない。
「じゃあ、何で見るんだよ」と突っ込まれそうだが、まあ、それでもそれなりに面白い場面や役者はきちんといるのでドラマとしての興味はそこそこあるからだ。でも、時代考証は「いいのかナ?」という場面にかなり出くわす。この前も婚礼の場面があり、花嫁が白無垢の衣裳を着ていたけれど、「江戸時代はまだ白無垢の花嫁衣裳はなかったのでは?」とつい思ってしまう。私だって歴史学者でも何でもないので、自分の智識がどれだけ正しいかはわからないが、どれだけしっかりと時代考証がされているのかはけっこう気になってしまう。まあ、要するにこれだけ突っ込みどころのあるドラマだからこそつい見てしまうのかナ?(あまり誉められた理由ではないけれども)。

ゴールデンウィーイクの間は

2008-05-07 00:06:38 | Weblog
毎年絶対に外出しないことに決めている。
なんて、エラそうなことを言っているが、ゴールデンウィークの外出で渋滞その他で痛い目に何度もあっているので、その時期に外に出るのを避けているだけの話し。
別に勤め人ではないので、世の中のカレンダー通りに行動する必要もまったくないわけだから、こういう時こそ仕事に精を出していようと思い、実際そんな感じのゴールデンウィークを過ごした。
昨年9月に演奏活動を開始して以来ほぼ毎月フルムスの仕事が入っているので、それらのアレンジ仕事にいつも追われている(同じ楽譜は二度と使わないなんてことを歌い文句にしているので、そのおかげで楽譜作りに追われることになってしまった)。
今月もクインテットでお台場のホテルの仕事があるのでそれらの楽譜作りをしている間に、リコーダー・カルテットを私一人でダビング・レコーディングするという話しが舞い込んで来た。アニメものらしいが(最近アニメでリコーダー使うのが流行りなのかナ?)、リコーダー・カルテットを一人で吹くのは初めてだ(ちなみにリコーダー・カルテットというのは、ソプラノ、アルト、テナー、バスのそれぞれ一本ずつ使うアンサンブルのことだ)。
だが、問題は楽器だ。私はソプラノとアルトしか持っていないし(普通はそういうものなのだが)親しいリコーダー愛好家の知り合いもあまりいないので(アマチュアの人はけっこう楽器を持っているのでそういう方たちを知っていると便利なのだが)、いろいろ知り合いの楽器屋とかプレーヤーに聞いても意外と手にいれるのが難しいことが判明。それでも、やっと借りる算段をつけられこれでやっとレコーディングができるとひと安心。レコーディングは今月半ばだというがアレンジまではさすがに時間がないのでお断りして演奏だけをすることにした(本当はアレンジも込みで頼まれたのだが)。
それに、今週はもう一つ大事な仕事が残っている。もちろんキッチンライブだが、こちらの方はとりあえずレシピはもう作ってあるし、リハーサルの方もひと通り終わっているので、後はMCのネタでも仕入れるかナ?(笑)というところ。
いつもいろいろなウンチク話しをして楽曲の話しはあんまりしないのが私のMCの特徴なのだけれども、今度は楽曲の話しでもしてみようか?なんてアレコレ考えている。






このブログに入るIDさえ

2008-05-04 00:59:08 | Weblog
忘れてしまっているぐらい長い間ほったらかしてにしていた日記だ。
前回書いたのが半年も前の話しだ。放っておくというよりも完全に存在を無視していたといった方がいいかもしれない。
別に書くことがなかったわけでもないし、書こうと思えばほんのちょっとした時間ぐらい作れないわけでもなかった。ただ、意図的に日記を書くことを避けていたという方があたっているだろう。
でもそれはナゼ?とかいうことの説明はあまりしない方が懸命かもしれない。
かといって、ナゼ今頃急に書き出したのかと言われてもさしたる理由も見当たらない。
半年ぶりに使っていなかった部屋を「こわいもの見たさ」に開けてみたというような感じだろうか?
ひょっとしてネズミでも住みついているかもしれないとおそるおそる部屋を開けても結局何にも発見できなかったのだが、私のまわりの環境はこの半年で大分変わった。
去る人、来る人、いろいろだが、私のまわりに人がいつもごったがえしている状況だけは変わらない。それは、十代の時も二十代の時も、五十代になった今でもまったく変わらない。
自分にしかできない仕事を常にやってきたつもりで生きてきたし、それはこれからもまったく変わらないだろうと思う。
自分の生き方がブレたことは一度もない(と思っている)。
自分の美学、哲学もブレたつもりはない。
音楽の仕事をプロとして長い間やってきたけれども、一度も事務所に属したことはないし、勤めた経験も一度もない。常にフリーでやってこれたのはある意味奇蹟的なことだと思うし、人からもそう言われる。
つい先日、ある新聞社から電話がかかってきて「大阪センチュリー交響楽団に対する補助金カットについてどう思うか?」とコメントを求められた。そのコメントは4/30の記事に載ったけれども、大意としては「音楽家だからといって、オーケストラだからといって、人のお金に頼って自立できないのは<甘え>なのでは?」というような意味あいのことを言った。記事中の私のコメントはきちんとその通りにまとめられていて「さすが新聞記者の方はまとめ方がうまい」と感心したけれども、問題はそんなことではなくって、私が本当に言いたかったのは基本的にどの社会でも「甘える」人が多すぎるということ。
人間は持ちつ持たれつなのだけれども「オンブにダッコ」は良くない。そういう体質や考え方が官僚の天下りを生むのだし、人は基本的にみんな自立していなければ絶対にいい仕事なんかできっこない。そういう意味では、件のオーケストラだけでなくすべてのオーケストラが自分たちを自立させてくれるファンを作る努力をどれだけしてきたのかナ?と思わずにはいられない。
たかが4億円ぐらいオーケストラにあげてもいいじゃないという人もいるけれども、その4億円がオーケストラの自立を阻んでいるとすれば、それはまさしくこれまでの日本の農業が助成金づけでまったく自給できなくなり日本の食料そのものが末期的な危機状態に陥っている構図とまったく同じになってしまう。
要するに、今こそ日本の音楽界(オーケストラもアーティストもバンドもすべて含んだ音楽産業の総体)は本当の意味での自立の道を真剣に探すべき時なのだと私は思っている。そうでなければ、今に音楽のプロなんて一人もいなくなってしまうかもしれない(ipodで音楽を聞く人たちの何人が本気で音楽にお金を払おうとしているだろうか?)。音楽はタダだという意識を若い人たちに一体誰が植え付けてきたのか?その責任を自覚して未来にどうやって音楽文化を残していくのかの設計図を作らずに音楽の未来を語る資格なんて誰にもないと私は思っている。
きっと誰かが助けてくれるだろう。
そんな甘い考えを持った音楽家があまりにも多すぎる。
新しい大阪の知事の補助金カット発言はそんな私たち日本の甘い考えに警鐘を鳴らしていると受け取ればいいだけの話し。それ以上でもそれ以下でもない。