みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

音楽はコミュニケーション

2013-12-27 14:11:48 | Weblog
だと信じ続けてこれまで音楽活動を続けてきたけれど、もちろんこのことばは私が言い始めたわけではない。
ダーウィンの進化論の元になった『種の起源』の中にもこんな文章が出て来る。
「音楽は、生き残りと性淘汰のために発達した言語とそのコミュニケーション機能の補完である」という表現が出てくる。
でも、この表現はちょっとわかりづらい。
最初に、私がこのことばを見た時、「あれ?ダーウィンって、音楽のことをあまり評価していないのかな」と思ったことをよく覚えている(「ことばは一義的で、音楽は二義的なものか」と思ったからだ)。
しかし、ここ数年、『バカの壁』の著者で有名な脳解剖学者の養老孟子さんや脳卒中から復活したアメリカの脳解剖学者のジル・ボルッチ・テイラー女史の本などから左脳と右脳の働きの違いを考えるたびに、「ああ、そうだったんだ」とダーウィンのことばの本当の意味が少しだけ理解できるようになってきた。
まだ定説が定まってはいないとはいえ、左脳が言語機能を司って、右脳が音楽などの空間的な機能を司るといった機能分担に関してはほとんどの学者が同じような意見を述べている。
しかし、ハーバード大学のテイラー女史の説はそれまでの学者の説とはかなり視点が違っている。
おそらく、自分自身が脳卒中に罹患して普通の人が体験できないモノ(彼女の本を読むと、彼女のソレはほとんど臨死体験にも近い)を体験したせいなのかもしれない。
テイラー女史によれば、左脳の主な働きは、言語によって個々人のアイデンティティを作ることだ、という。
つまり、「自分が自分である」ことを確認するために、自分の過去(遠い先祖からの時間的流れ)から自分の現在(自分が現在まで成し遂げた仕事や業績などのプロフィール)、そして自分の未来への時間的流れを論理的に確認(説明)するために必要なモノとして「言語」を人間は作ってきたのだという。
しかし、右脳は、そんな人としての「エゴ」とはまったく関係なく、自分という存在と宇宙が一体化し、時間も空間も超越していると感じる部分だという。
だから、音楽は人と人との心を結びつけ、音楽を通じて人は宇宙と一体化している実感(あるいは、錯覚かもしれないが)を得ることができるのだとも言っている。
とても興味深い考え方だし、ある意味、科学者らしからぬ考え方でもあるけれど、この考え方をダーウィンのことばに置き換えると「人は言語によって子孫を繁栄させ人間社会の歴史を作ってきた。しかし、人は、言語では説明のできない(つまり、補完として)人と人、人や自然との絆のために音楽を発明した」とも解釈できる。
つまり、ダーウィンがどれほど脳についての見識があったかはわからないけれど、人間の脳の作用が、「言語と音楽」に携わって、その役割は両方必要なのではと直感的に感じていたためにあのような文章を残したのかもしれない。

一方、二十世紀の科学者の中には、「細胞の音楽」というものを考えている人たちもいる。
よく「植物に音楽を聞かせると成長が早くなる」とか「米麹を発酵させる過程で音楽を聞かせると発酵のスピードが早くなる」といったニュースを聞くことがあると思うが、こうした事例や研究のもとになっているのが、この「細胞の音楽」というコンセプトの研究だ(こうした事例は、研究レベルだけでなく商業ベースで世界中にたくさん存在する)。
音楽の元になる「音」は、誰でもが知っているように「空気の振動」だ。
つまり、「波」なのだが、この視点で見ると、世の中の全ての現象やモノは何らかの「波」だということができる。
例えば、音が波であるだけでなく当然「光」も波だし、携帯電話も電子レンジもCTスキャナーも、ETCも宇宙を飛ぶ衛星も波を利用した数多くの器械の一つに過ぎない。
地震も当然波なので、地震学を「波の研究」という風に考えることもできる(ノーベル物理学賞を取った南部陽一郎博士の研究している「ひも理論」というのは、この波の性質を分子、電子レベルで考える量子力学の一つの学説だ)。
なので、人間の身体も「細胞の集合体」であると考えると、その一つ一つには違った「波」があって、その細胞の一つ一つの波の振動数を計測できれば、極端な話、ガン細胞の波形とまったく正反対の波形を送ればそのガン細胞を殺すことができるというのが、ガンの放射線治療のコンセプトにもなっている(波の位相が同じになると共鳴して音も大きくなるし、まったく位相が逆になると逆相になって干渉しあって音と音は打ち消し合う)。
とうことは、極端に考えると「音は人の気持ちを和ませ癒しにもなる」代わりに「音で人と殺すこともできる」ということになってくる(古代中国の宮廷にはそうした事例の話も存在するという)。
「細胞のミトコンドリアは常に動いている。だからこそ、動くものは全て波長を持っているので、この細胞の波長と同じ波長の音をそこで作り出すことによって、共鳴と干渉の両方を作っていこう」とするのが「細胞の音楽」という考え方の基本だ。

とはいえ、量子力学も生物学も私の専門ではないし、そこまで立ち入ろうという気はないけれど、「波長が合う」とか合わないといった人間同志のつきあいの中から生まれた古い言い回しの中に「音楽がコミュニケーション」ということばの根本的な思想が含まれているのではないかという気はいつもしている。
そんな「非科学的な」説明で一体どれだけの人が納得してくれるのかは私にもわからないが、「波長が合う」だけではなく「気が合う」時の「気」もきっと「波」に関係があるのではないかと思うと、全ての人がそれぞれの細胞の一つ一つから数多くの「波」を発し、その「波」同志がどこか別次元で触れ合うことが「コミュニケーション」の基本なのかナと、また「まったく非科学的な妄想」にふけってみたりする。

介護施設ツアーを

2013-12-16 19:21:40 | Weblog
昨年同様続けている。
同じ企業の経営する九十カ所近くに及ぶ施設を5ヶ月かけて回っているのだが、施設で演奏しながらいつも思うことがある。
「私の演奏する音は、一体この人たちの心にどこまで届いているのだろう」ということだ。
介護施設のお年寄りといっても十把一絡げにすることはできない。
年齢も違えば(それこそ七十代ぐらいから百歳越えのお年寄りも最近ではけっして珍しくない)、それまでの人生そのものが違うわけだから、全員が同じように感じてくれているとは思えない。
中には認知症やパーキンソン病などさまざまな症状を患っている人もいる。
そんな人たちに自分の演奏がどういう風に受け取られているのだろうかという思いはどこの施設で演奏していてもいつも思うことだ。
こちらが目の前に行って音を出すとニコニコしながら微笑み返してくださる人もいれば視線をあわせても全く無視されることもある。
時には明らかな拒絶のポーズを受けることもある。
そして、中には、まったく目を開けることも身体を動かすこともできないような介護レベルの高い人たちもいる。
そんな人たちと私はいつも「音で対話」しようとする。
私がすぐそばで演奏すると目を開けない人も手や足の不自由な方も必ず身体をゆすったり唸り声をあげて「何らかの反応」を示してくださる。
もちろん、それが「喜び」の表現なのか「拒絶」の表現なのかは私にもわからない。
しかし、そこで何らかの「対話」が私の音を通じて行われたことだけは実感できることだ。

単に「慰問」で演奏に行くのであれば別に私でなくてもどなたが行っても良いことだろうと思う。
しかし、私はそんな「誰でも良い」ようなことをしているつもりは毛頭ないし、「私にしかできないこと」「私だったらこうやれる」ことをできなければ私が行く価値はまったくないだろうとも思う。
ましてや、それでお金をいただく価値などあろうはずがない。

私は、介護施設で演奏する音楽もコンサートホールで演奏する音楽も、音楽そのものに違いがあるとは思っていない。
ただ違うのは「何が求められている」かの違いだけだ。
私は、コンサートホールで『上を向いて歩こう』を演奏するつもりはないし、それが私に求められていることだとも思わない。
しかし、施設で『上を向いて歩こう』を演奏するたびに涙を流すお年寄りを見ると、この曲の中にある「何か」を感じないわけにはいかないし、きっとその「何か」を通じて気持ちを通い合わせることが少しはできたのかなと思わずにはいられない。

「音楽はコミュニケーション」。
私はいつもそう思っている。
「伝わらなければ意味がない」。
これは、コミュニケーションの基本だ。
多くの「慰問」が陥り易いのがこの部分だ。
一方的に演奏して帰って来る。
きっとお年寄りたちは喜んでいるに違いないという勘違いを犯して自己満足に陥る。
そんな音楽家にはなりたくないし、ましてやそれが「介護」の現場で求められている音楽ではけっしてないはずだ。

昔、私がアメリカでマルセル・モイーズというフルートの神様と呼ばれる人のレッスンを受けた時、彼がずっと私に言い続けた「heart」ということばの意味がわからずずっと悩んでいた時期があった。
私はまだ三十歳の若造。
モイーズ先生は、既に九十歳を過ぎていた。
そんな若造の私にいきなり投げつけられたのが「heart」ということばだった。
「きっと私の演奏には心がこもっていないからもっと心を込めて演奏しろ」そう言われているに違いない。
私はその時そう思い込んだ。
しかし、それが大間違いだということに気づくのにその後一体何年かかっただろうか。
音に心を乗せて演奏することなどできるわけがない。
大事なのは、気持ちを音に乗せること。
私は、このことに気づくべきだったのだ。
何よりもまず「気持ち」ありき。
「心がそこになくて何で音楽なんかできるのか」。
あの時のモイーズ先生に言われたことばの意味を理解した演奏が今施設でお年寄りの人たちにできているのかいないのか。
私に問われているのはそのことなのかナといつも思いながら施設ツアーを続けている。


想像力

2013-12-06 15:34:42 | Weblog
人間の能力の中でこの「想像力」ほど優れたものもないし、これほどさまざまな分野で有効なものもないと思う。
ただ、この能力を使いきれている人はそれほど多くはないし、私自身もこの想像力でつまづくことが多々あり、いつも考えさせられてしまう。
特に、恵子のこれまでの回復の過程で何度これで失敗したことだろうと思う。
よく「人を思いやる」とか「人の身になって考える」とかいうことが言われるけれども、このフレーズを本気で実践するために一番重要なのも「想像力」だ。
つまり、相手の身になって考えるということは相手がどんな状況でどんな風に考えているかを本当に「想像」できるかどうかにかかっている。

恵子が発症から二年を経過していろいろな紆余曲折はあったものの、少しずつ「回復」しているなと思えた矢先の出来事だった。
夜中、彼女が声を出しながらベッドで苦しそうにしている。
気持ちでも悪いのかと聞くとそうだと答える。
吐き気がするのと聞くと、そうではないと言う。
じゃあどんな風に気持ち悪いのと改めて聞くと、ああそうなんだと初めて私は「あること」に気づかされたのだった。
麻痺している右手を、彼女は療法士からも言われたようにできるだけ楽にして下に下げようとする。
つまり、力を抜いてダランとした状態にすることだ。
健常者なら何でもなくできるこの動作は、彼女のような麻痺で手や手指の筋肉、そして腕全体が緊張している状態の身体ではそれほど簡単なことではない。
医学用語で「痙縮(けいしゅく)」という筋肉のこわばった状態からまだ完全に抜けきれていいない彼女の右半身は自然と「緊張」状態へと導かれてしまう。
それでも、彼女は何とか右手の緊張を解こうと寝たままの状態で腕を身体の右脇に置こうとする。
しかし、時間がたつとだんだんその腕が自然と自分の胸の上に乗っかってきてしまい胸を圧迫するのだという。
これが、彼女の言う「気持ち悪さ」の正体だった。
そうやって自分の右手の重みで起こされてしまった彼女は、また改めて肩と腕の力を抜き元のだらんとした状態を作り寝ようと試みる。
これが毎夜繰り返されているのだという。
知らなかった。
そうだったのか。
なんて迂闊だったのだろう。
自分はぐっすり眠っている横でこれほど彼女が苦しんでいることをなんで今まで考えられなかったのだろうか…。
去年も同じようなことがあった。
その時は彼女の身体の「痺れ」や「痛み」に関してだった。
昨年の今頃は発症から一年以上を経過して身体の方も落ち着き始めていた頃だった。
なので、私の意識から彼女の「痺れ」や「痛み」ということばが消えかかっていた。
彼女自身が「痛い」とも「痺れている」ともまったく訴えなかったからだ。
ところが、彼女の中では常に痺れも痛みもあることが「当たり前」だったのでわざわざ「痛い」とも「痺れている」とも言わなかった。ただそれだけのことだったのだ。
それを良いことに私は彼女の身体からしびれや痛みが消えていると思い込んでしまっていた。
ある意味、迂闊というよりも「なんでそれぐらいのこと想像できなかったんだろう」という自分自身の想像力のなさを恥じた。
他人の痛みというのは、想像力で補うしか方法はない。
少し回復してきた彼女の身体を見る嬉しさにそんな簡単な原理すら忘れてしまうほど舞い上がっていたのかもしれなかった。

昨年も今年も介護施設ツアーを続けているが、いつも思うのは、自分は「本当にこの人たちの気持ちを汲み取っているのだろうか」という疑問だ。
ただ単に楽器を演奏したり一緒に歌を歌うだけでは気持ちの交流、心の交流などできはしない。
もっとお互いに気持ちを通じ合い、音楽が人の生きる「希望」になるには一体何をどういう風にすれば良いのか、それだけを探しながらいつも演奏している。
だからこそ、時々目にする施設のスタッフのお年寄りに対するぞんざいな態度や「上から目線」のふるまいには我慢がならなくなってしまう。
恵子がリハビリ病院で入院していた時にも感じたことだが、介護とかリハビリとかいう分野はとても新しい分野で、それこそまだ歴史の蓄積があまりない分野だ。
だからこそ、そこに携わる人たちはひたすら「謙虚に」何でも勉強してやろうぐらいの気持ちで仕事に携わらなければいけないと思う。
しかしながら、けっこうその辺に現在の介護、医療問題の盲点が潜んでいるような気がしてならない。
つまり、介護に携わる人たちに「プロ意識」が欠如しているような気がしてならないのだ。
それを単に「歴史が浅い」からとか「まだノウハウが確立していないから」というようなことばで誤摩化してはいけないと思う。
音楽のプロも楽器が上手い人がプロなのではないし、単にお金をもらうからプロなのでもない。
この相手の気持ちがわかる人。自分が何を望まれ何をやるべきかを適確にわかってそれをできる人がプロなのではないかと思う。
その結果一万円いただこうが百万いただこうかはあまり関係がない。
要は、自分がやるべき仕事をきちんと「想像」できる人がプロなのだと思う。
別に、「音楽のプロは何何をしなければならない」と書かれたマニュアルがあるわけではない。
その「こと」を自分の想像力で補える人。
それがプロなのではないかと思う。
だとすれば、介護のプロとは一体何をすれば良いのだろうか。
単純に考えればわかることかもしれない。
自分が相手の立場だったら何をどうして欲しいと思うだろうか。
そのことが想像できない限り介護はできないのでは…?
しかしながら、現場の若い介護士さん、看護士さん、療法士さんたちを見ていると果たしてそこまでの想像力を駆使して仕事をしているのかなと思うこともしばしばだ。
介護も音楽もけっして「技術」だけで行えるものではない。
技術にどれだけの「想像力」を付加していくことができるのか。
自分も「プロ」である以上、それをけっして忘れないようにしていたいと思う。