だと信じ続けてこれまで音楽活動を続けてきたけれど、もちろんこのことばは私が言い始めたわけではない。
ダーウィンの進化論の元になった『種の起源』の中にもこんな文章が出て来る。
「音楽は、生き残りと性淘汰のために発達した言語とそのコミュニケーション機能の補完である」という表現が出てくる。
でも、この表現はちょっとわかりづらい。
最初に、私がこのことばを見た時、「あれ?ダーウィンって、音楽のことをあまり評価していないのかな」と思ったことをよく覚えている(「ことばは一義的で、音楽は二義的なものか」と思ったからだ)。
しかし、ここ数年、『バカの壁』の著者で有名な脳解剖学者の養老孟子さんや脳卒中から復活したアメリカの脳解剖学者のジル・ボルッチ・テイラー女史の本などから左脳と右脳の働きの違いを考えるたびに、「ああ、そうだったんだ」とダーウィンのことばの本当の意味が少しだけ理解できるようになってきた。
まだ定説が定まってはいないとはいえ、左脳が言語機能を司って、右脳が音楽などの空間的な機能を司るといった機能分担に関してはほとんどの学者が同じような意見を述べている。
しかし、ハーバード大学のテイラー女史の説はそれまでの学者の説とはかなり視点が違っている。
おそらく、自分自身が脳卒中に罹患して普通の人が体験できないモノ(彼女の本を読むと、彼女のソレはほとんど臨死体験にも近い)を体験したせいなのかもしれない。
テイラー女史によれば、左脳の主な働きは、言語によって個々人のアイデンティティを作ることだ、という。
つまり、「自分が自分である」ことを確認するために、自分の過去(遠い先祖からの時間的流れ)から自分の現在(自分が現在まで成し遂げた仕事や業績などのプロフィール)、そして自分の未来への時間的流れを論理的に確認(説明)するために必要なモノとして「言語」を人間は作ってきたのだという。
しかし、右脳は、そんな人としての「エゴ」とはまったく関係なく、自分という存在と宇宙が一体化し、時間も空間も超越していると感じる部分だという。
だから、音楽は人と人との心を結びつけ、音楽を通じて人は宇宙と一体化している実感(あるいは、錯覚かもしれないが)を得ることができるのだとも言っている。
とても興味深い考え方だし、ある意味、科学者らしからぬ考え方でもあるけれど、この考え方をダーウィンのことばに置き換えると「人は言語によって子孫を繁栄させ人間社会の歴史を作ってきた。しかし、人は、言語では説明のできない(つまり、補完として)人と人、人や自然との絆のために音楽を発明した」とも解釈できる。
つまり、ダーウィンがどれほど脳についての見識があったかはわからないけれど、人間の脳の作用が、「言語と音楽」に携わって、その役割は両方必要なのではと直感的に感じていたためにあのような文章を残したのかもしれない。
一方、二十世紀の科学者の中には、「細胞の音楽」というものを考えている人たちもいる。
よく「植物に音楽を聞かせると成長が早くなる」とか「米麹を発酵させる過程で音楽を聞かせると発酵のスピードが早くなる」といったニュースを聞くことがあると思うが、こうした事例や研究のもとになっているのが、この「細胞の音楽」というコンセプトの研究だ(こうした事例は、研究レベルだけでなく商業ベースで世界中にたくさん存在する)。
音楽の元になる「音」は、誰でもが知っているように「空気の振動」だ。
つまり、「波」なのだが、この視点で見ると、世の中の全ての現象やモノは何らかの「波」だということができる。
例えば、音が波であるだけでなく当然「光」も波だし、携帯電話も電子レンジもCTスキャナーも、ETCも宇宙を飛ぶ衛星も波を利用した数多くの器械の一つに過ぎない。
地震も当然波なので、地震学を「波の研究」という風に考えることもできる(ノーベル物理学賞を取った南部陽一郎博士の研究している「ひも理論」というのは、この波の性質を分子、電子レベルで考える量子力学の一つの学説だ)。
なので、人間の身体も「細胞の集合体」であると考えると、その一つ一つには違った「波」があって、その細胞の一つ一つの波の振動数を計測できれば、極端な話、ガン細胞の波形とまったく正反対の波形を送ればそのガン細胞を殺すことができるというのが、ガンの放射線治療のコンセプトにもなっている(波の位相が同じになると共鳴して音も大きくなるし、まったく位相が逆になると逆相になって干渉しあって音と音は打ち消し合う)。
とうことは、極端に考えると「音は人の気持ちを和ませ癒しにもなる」代わりに「音で人と殺すこともできる」ということになってくる(古代中国の宮廷にはそうした事例の話も存在するという)。
「細胞のミトコンドリアは常に動いている。だからこそ、動くものは全て波長を持っているので、この細胞の波長と同じ波長の音をそこで作り出すことによって、共鳴と干渉の両方を作っていこう」とするのが「細胞の音楽」という考え方の基本だ。
とはいえ、量子力学も生物学も私の専門ではないし、そこまで立ち入ろうという気はないけれど、「波長が合う」とか合わないといった人間同志のつきあいの中から生まれた古い言い回しの中に「音楽がコミュニケーション」ということばの根本的な思想が含まれているのではないかという気はいつもしている。
そんな「非科学的な」説明で一体どれだけの人が納得してくれるのかは私にもわからないが、「波長が合う」だけではなく「気が合う」時の「気」もきっと「波」に関係があるのではないかと思うと、全ての人がそれぞれの細胞の一つ一つから数多くの「波」を発し、その「波」同志がどこか別次元で触れ合うことが「コミュニケーション」の基本なのかナと、また「まったく非科学的な妄想」にふけってみたりする。
ダーウィンの進化論の元になった『種の起源』の中にもこんな文章が出て来る。
「音楽は、生き残りと性淘汰のために発達した言語とそのコミュニケーション機能の補完である」という表現が出てくる。
でも、この表現はちょっとわかりづらい。
最初に、私がこのことばを見た時、「あれ?ダーウィンって、音楽のことをあまり評価していないのかな」と思ったことをよく覚えている(「ことばは一義的で、音楽は二義的なものか」と思ったからだ)。
しかし、ここ数年、『バカの壁』の著者で有名な脳解剖学者の養老孟子さんや脳卒中から復活したアメリカの脳解剖学者のジル・ボルッチ・テイラー女史の本などから左脳と右脳の働きの違いを考えるたびに、「ああ、そうだったんだ」とダーウィンのことばの本当の意味が少しだけ理解できるようになってきた。
まだ定説が定まってはいないとはいえ、左脳が言語機能を司って、右脳が音楽などの空間的な機能を司るといった機能分担に関してはほとんどの学者が同じような意見を述べている。
しかし、ハーバード大学のテイラー女史の説はそれまでの学者の説とはかなり視点が違っている。
おそらく、自分自身が脳卒中に罹患して普通の人が体験できないモノ(彼女の本を読むと、彼女のソレはほとんど臨死体験にも近い)を体験したせいなのかもしれない。
テイラー女史によれば、左脳の主な働きは、言語によって個々人のアイデンティティを作ることだ、という。
つまり、「自分が自分である」ことを確認するために、自分の過去(遠い先祖からの時間的流れ)から自分の現在(自分が現在まで成し遂げた仕事や業績などのプロフィール)、そして自分の未来への時間的流れを論理的に確認(説明)するために必要なモノとして「言語」を人間は作ってきたのだという。
しかし、右脳は、そんな人としての「エゴ」とはまったく関係なく、自分という存在と宇宙が一体化し、時間も空間も超越していると感じる部分だという。
だから、音楽は人と人との心を結びつけ、音楽を通じて人は宇宙と一体化している実感(あるいは、錯覚かもしれないが)を得ることができるのだとも言っている。
とても興味深い考え方だし、ある意味、科学者らしからぬ考え方でもあるけれど、この考え方をダーウィンのことばに置き換えると「人は言語によって子孫を繁栄させ人間社会の歴史を作ってきた。しかし、人は、言語では説明のできない(つまり、補完として)人と人、人や自然との絆のために音楽を発明した」とも解釈できる。
つまり、ダーウィンがどれほど脳についての見識があったかはわからないけれど、人間の脳の作用が、「言語と音楽」に携わって、その役割は両方必要なのではと直感的に感じていたためにあのような文章を残したのかもしれない。
一方、二十世紀の科学者の中には、「細胞の音楽」というものを考えている人たちもいる。
よく「植物に音楽を聞かせると成長が早くなる」とか「米麹を発酵させる過程で音楽を聞かせると発酵のスピードが早くなる」といったニュースを聞くことがあると思うが、こうした事例や研究のもとになっているのが、この「細胞の音楽」というコンセプトの研究だ(こうした事例は、研究レベルだけでなく商業ベースで世界中にたくさん存在する)。
音楽の元になる「音」は、誰でもが知っているように「空気の振動」だ。
つまり、「波」なのだが、この視点で見ると、世の中の全ての現象やモノは何らかの「波」だということができる。
例えば、音が波であるだけでなく当然「光」も波だし、携帯電話も電子レンジもCTスキャナーも、ETCも宇宙を飛ぶ衛星も波を利用した数多くの器械の一つに過ぎない。
地震も当然波なので、地震学を「波の研究」という風に考えることもできる(ノーベル物理学賞を取った南部陽一郎博士の研究している「ひも理論」というのは、この波の性質を分子、電子レベルで考える量子力学の一つの学説だ)。
なので、人間の身体も「細胞の集合体」であると考えると、その一つ一つには違った「波」があって、その細胞の一つ一つの波の振動数を計測できれば、極端な話、ガン細胞の波形とまったく正反対の波形を送ればそのガン細胞を殺すことができるというのが、ガンの放射線治療のコンセプトにもなっている(波の位相が同じになると共鳴して音も大きくなるし、まったく位相が逆になると逆相になって干渉しあって音と音は打ち消し合う)。
とうことは、極端に考えると「音は人の気持ちを和ませ癒しにもなる」代わりに「音で人と殺すこともできる」ということになってくる(古代中国の宮廷にはそうした事例の話も存在するという)。
「細胞のミトコンドリアは常に動いている。だからこそ、動くものは全て波長を持っているので、この細胞の波長と同じ波長の音をそこで作り出すことによって、共鳴と干渉の両方を作っていこう」とするのが「細胞の音楽」という考え方の基本だ。
とはいえ、量子力学も生物学も私の専門ではないし、そこまで立ち入ろうという気はないけれど、「波長が合う」とか合わないといった人間同志のつきあいの中から生まれた古い言い回しの中に「音楽がコミュニケーション」ということばの根本的な思想が含まれているのではないかという気はいつもしている。
そんな「非科学的な」説明で一体どれだけの人が納得してくれるのかは私にもわからないが、「波長が合う」だけではなく「気が合う」時の「気」もきっと「波」に関係があるのではないかと思うと、全ての人がそれぞれの細胞の一つ一つから数多くの「波」を発し、その「波」同志がどこか別次元で触れ合うことが「コミュニケーション」の基本なのかナと、また「まったく非科学的な妄想」にふけってみたりする。