みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

リハビリ離れ

2014-10-27 21:24:47 | Weblog
「親離れ」「子離れ」ということばはあるけれども,「リハビリ離れ」なんていうことばはきっとどこにも存在しないだろう。
でも,私自身は,このことばの必要性を今日痛感した。
いつものように週一回の恵子のリハビリに行った。
すると、作業療法士のOさんがいつものように訓練を始めるのかと思いきや,恵子に話しかけるのではなく私に話しかけて来た。
「先日もカンフェランスでみんなで話したんですけど,恵子さんの調子は本当に上向いてきていて,骨折前の状態にほぼ戻ってきていると思います。
ですので,ここから課題である精神的な部分にも十分ケアしながらトレーニングしていきたいと思っています」とここまでは良いのだが,その後に「ですので,ご主人もこれからはゆったりと遠くで見守っていただいて恵子さんの自主性を大事にしていきたいなと思っています」。
え~?それって,私が側で見ていちゃ邪魔ってこと?
そうか…きっとそうなんだろう。
「わかりました。じゃあ、ロビーの方で待ってます」と言って私はリハビリ室を出て受付前の待合室に向った。
私は、恵子が病気で倒れた後すぐに病室で始まったリハビリから今日までの三年以上,ただの一回も欠かさず恵子の側で療法士さんのリハビリを見てきた。
それは、恵子の容態が心配だからというよりも,結局自宅に戻れば24時間じっと彼女を見ていなければならないのは私なのだから,その私がしっかりとリハビリの手伝いをできなければならないだろうということで療法士たちが施すリハビリをずっと観察し続けてきたのだ。
でも,それがナゼ迷惑なのだろうか?
療法士さんにとって?
それとも恵子にとって?
答えはすぐにわかった。
リハビリが終わった後,恵子に聞いた。
「今日、どうだった?ヤマネコがいなくてやり易かった?」
私がいないことで,療法士さんとたくさんいろんなことが話せたという。
しかも、リハビリ自体もいつもより念入りだったそうだ。
そうか,やはり私はけっこう「邪魔」だったのだ。
というよりも、きっと恵子にはかなりのプレッシャーだったのかもしれない。
私は自分が「学びたい」という自己満足のために恵子の気持ちを少しないがしろにしていたのかもしれない。
恵子が「介護される人」だとすれば,私も療法士さんも「介護する側の人間」。
いっぺんに二人も「介護する人間」がそばにいたのでは,きっと恵子には」かなりウザかったに違いない(これが彼女にはかなりのプレッシャーだったかもしれない)。
やはりそろそろ私は「リハビリ」から卒業しなければならない時期なのかもしれないと思った。
親も子供も、お互いに「愛情」が深ければ深いほど、なかなか「親離れ」「子離れ」はしにくいものだろう。
でも、どこかでお互いを遠くから優しく見守る状態に変化させなければ本当の意味での「親子関係」にはならないのだろう。
誰かが言っていた。
「進歩とは変わることだ」と。
お互いの進歩のために「変わる」勇気を持とう。
私の「リハビリ離れ」で恵子のリハビリが本当に進歩するのであれば、私は本当に遠くから見守るべきなのだろうと思う。

言わなきゃよかった

2014-10-25 11:47:43 | Weblog
最近,恵子は夜になると調子が悪くなる。
多分,体力が夜までもたないのだろう。
昼間一生懸命リハビリに頑張り一生懸命食べているせいか、だんだん寝る時間が早くなっていくようだ。
夕食が終わるともうすぐに休むような体勢になり,大体8時前にはベッドに入ってしまう。
だんだん寒くなると筋肉が緊張し手や足が曲がって縮こまってしまう「けい縮」の度合いが強くなるせいもあるのかもしれない。
そのことを指摘すると,ふだん彼女の中で意識的に(懸命に)治そうとしている部分なだけに逆に彼女の神経をかえって苛立たせてしまうのか泣きながら反発する。
最近、夜になるのが怖い時すらある。
彼女の表情からも昼間の明るさが消えてベッドの中でため息をつくことが多い。
きっと麻痺している身体の右半分が相当に辛いのだろう。
そういうことを訴えられても身体をさすったりするだけではこの問題,そう簡単には解消しない。
おそらく精神的な不安定さと自律神経のアンバランスさがそうした痛み(というよりはダルさ,重さと彼女は言うのだが)を増しているのではと思い、私はなるべく彼女の心から「心配事」を取り去ろうと努める。
しかし、ことばを慎重に選ばないとかえって彼女の心を乱してしまう。
昨日の夜も「泣いてないでもうちょっと明るくしようよ」と言った途端(これがまた火に油をそそいでしまったようで)「だって,モノが高くなったって言ってたじゃない。心配だよ」と言われてしまった。
「そうかアレか」と,昼間の自分の発言を思い出す。
昼にスーパーに買い物に出かけ、家に帰って玄関を開けるなり私が言ったひとことを彼女がずっと気にしていたのだ。
「近頃、メチャクチャ物価が高くなったよ。以前だったらこれぐらいで3千円ぐらいの買い物と思っていたものが、今じゃあ軽く5千円越しちゃうもんね」。
私は,単なる世間話のつもりだった。
これがイケなかったのだ。
彼女の中では,買い物にも自分では行けないこと,そして自分は仕事もできずに私にお金のやりくりを全て任せてしまっていることは,自分の身体が思うようにならないことと同じぐらい「悔しい」ことなのだ。
そこまで思いを馳せるべきだった。
夜ベッドの中で泣きながらそんなことを言われて私は「ああ、そうか。あんなこと言うべきじゃなかったナ…」とちょっと悔やんだ。

それでも気を取り直し、彼女の機嫌を何とか直そうとする。
「別に,いま元通りになってなくったっていいじゃない。毎日明るく楽しく暮らせていればそのうち治るよ。テッチャンも言ってたじゃない。<ナマケナイ、アセラナイ、ガンバラナイ>って」。
テッチャンというのは,私の幼なじみの同級生で十年ほど前に恵子と同じ脳卒中を患った過去を持ちながら今はそれほど後遺症も残らずに仕事を元気にしている友人だ。
彼が,私たちに送ってくれた色紙には亀の絵が描かれていて,その脇にリハビリに励んでこの病気を克服するための(彼なりの)標語が書かれているのだ。
「ナマケナイ,アセラナイ、ガンバラナイ」。
きっと今の恵子にはこの3つのモットーのどれもがうまく行っていないのかもしれない。
けっしてナマケている訳ではない。
そんなことは百も承知だ。
しかし、以前のようなゆったりした気持ちで自主トレができていないのも確かなのだ。
それは、全て彼女の「焦る」心が全てを悪い方に回転させているからだ。
私はせめてものリラックスタイムを作ろうと,毎日夜ベッドサイドで彼女に足湯をする。
温泉をひいている我が家の利点を有効に活用しない手はない。
大きな容器に浴槽で温泉を入れてそれをベッドサイドまで運ぶ。
重たいお湯を運ぶ(ヘタをすると腰をやられそうな)日課だが,何とか彼女のためにも毎日欠かさずやっている。
固くこわばった右足を温泉につけ二人で一緒に「グーパー、グーパー」とリズムを取りながらかけ声をかける。
温かい足湯の中で右足の指を開く運動だ。
昨日と今日で何が違うのかわからないような(ささやかな)リハビリだが、それでも,成果を期待するのではなく、お互いの落ち着きを取り戻すために欠かせない日課の一つになっている。


ハサミが使えた!

2014-10-21 14:16:37 | Weblog
昨日のリハビリ病院でのこと。
作業療法士のOさんが,いつものように洗濯バサミをはさんだりお手玉を移動させたりの作業訓練をする中で初めてハサミで紙を切るという作業を持ちかけてきた。
あれ~できるのかナ?と半信半疑で眺めていたら,わお~できるじゃない!
しかも紙をほぼ真っすぐに切っている。
指先の力,相当に回復しているんダ。
と驚く一方で、ハサミを持つ手の小刻みな震えにも目がとまる。
指先の筋肉は回復しているのに肩の筋肉はまだまだ弱いんだナ。
だから手全体が震えるんだろう。
チェンバロの鍵盤の上に指を持っていく時もまだ震えは残っている。
でも、指先はちゃんと音楽を鳴らしている(というか、彼女の意思通りに音は鳴っているようだ)。

リハビリ訓練を見ていると,人間の筋肉というのはそれぞれの相互作用で動いているということがよくわかる。
ヴァイオリンだって指先の力さえあれば弾けるというものでもないだろう(手首から先だけでも実にさまざまな筋肉が走っている)。
肩の筋肉がしっかりと楽器を固定して別の筋肉が弓を持ち,動かす。
さまざまな筋肉の相互作用だ。
必要な筋肉全てがしっかりとそれなりの力を出さない限り演奏など夢のまた夢。
こんなに指先に力があるんだったら炊事や掃除をする日もそう遠くない…と考えるのはちょっと早計かもしれない(本当はそうなって欲しいけど)。
炊事は大体が立ち仕事。
足がしっかりと身体を支えていないと炊事どころではない。
掃除にしたって,身体をかがめたり斜めにしたりといろんな姿勢を支える筋肉が必要になってくる。
人間が普通に生きていくためにこんなにもいろんな筋肉の作業が必要なのかと恵子のリハビリにつきあっているといつも思う。
それに….。
いつも通うリハビリ病院で出会う人たちは皆「五体不満足」な人たちばかり。
時々ちゃんと歩けてちゃんと作業のできる自分の方が逆に「変なのでは?」といった錯覚に陥る。
あれ? 俺って普通にスタスタ歩けるじゃん!
あれ? 俺こんな高い所まで手が届くヨ!
こんなことに驚いたりする自分がいる。
日常生活で誰も不思議に思わないようなことが時々不思議に思えてくるのだ。
自分の「行動」が何か「特殊能力」のようにさえ思えてくる「このこと」が,ひょっとしたら「相手目線」でものを考えて生活するっていうことなのかナと思ったりもする。
巷でよく聞く「身体や心が不自由な人たちの目線にたって」というモットー(社会の合い言葉かな)はよくわかるんだけど,でもそれって実際にそれを実感することって無理でしょう…。

『五体不満足』の著者の乙武さんがよく世の中に対して挑発的な言動をするのはきっと私たちがそうした「障害者」の気持ちを実感できないからこそあえてかなり「挑戦的」なことばや行動で彼なりに煽っているのかナと思ったりもする。
病院には身体の障害だけでなく言語の障害を持つ人だっている。
そんな人たちだってこちら側にちゃんと相手の意思を理解しようという気持ちと忍耐さえあればコミュニケーションは何とかなる。
要は、やはり「アウトリーチ」の問題なのだろう。
どうこちら側が手を差し伸べていくのか。
私が所属している「介護家族の会」という在宅介護者ばかりが寄り集まる会でよくこんな話を聞く。
「自分の母を介護していて,あまりにも理不尽なことを言われてものすごく腹が立ってつい手が出たり暴言の言いあいになってしまったりします。どうすれば良いんでしょうか?」
認知症の母親を介護する女性がこんな話をすると,堰を切ったように私も私もという具合に同様の訴えや壮絶な話が次から次に飛び出してくる。
こんな時,身内同士の介護の難しさを実感する。
もはやことばでのコミュニケーションは不可能にも思える認知症患者へのアウトリーチでも音楽やボディタッチ、ペットなら意外にスンナリできる。
というか,「非言語」コミュニケーションというのは,ある意味,そういったものだ。
人間がことばでコミュニケーションをとるようになったのは人類史上それほど古くからではない。
それまで人間の左脳はそれほど発達していなかったのだ。
文化も科学も産業もすべて左脳が作り上げた「新しい歴史」だ。
自ら脳卒中体験を持つアメリカの脳科学者のジル・B・テイラー博士がTEDexやアメリカのトーク番組で盛んに言っていた。
「左脳は人間のアイデンティティを作る脳です。つまり,自分の存在を歴史(先祖でも家族でも同じ意味かナ)から論理的に導きだして今ここにいる自分を正当化する場所。つまり,エゴを作る脳です。ですから,もし人間がみんな過去も未来もない(エゴのない)右脳で思考するようになれば争いの全くない世界になるはずです」。
つまり,文明を作り出す脳が人間そのものをどんどん破壊しているんだと彼女は言っているのだ。
雑誌『タイム』の選ぶ「世界の重要な百人」の一人にも選ばれたことのある脳の専門家の彼女のこの考えがいつも私から離れない。
恵子がテイラー博士とまったく同じ左脳にダメージを受けた脳卒中患者になった後、恵子のことばや行動の一つ一つから右脳と左脳の働きを考えるようになった。
人の脳の働きなど可視化できるはずもないのに,恵子の言動の一つ一つに「今の右脳で考えたのかナ?」とか「今のは左脳かナ」とかいう風に彼女の脳を可視化しようとしている自分がいる。


オリンピック開会式の日、だから体育の日

2014-10-10 19:57:12 | Weblog
のはずなのに、誰もそんなことを口に出さないのがとっても不思議。
きっと,他の祝日と同じように体育の日が毎年移動するようになってしまったからなのだろう。
このこと自体も私には不思議でたまらない…。

ワシントンハイツがオリンピックの選手村になってしまった話を先日したが、それだけでも「革命的な大事件」に違いなかったのだが,それ以外にもオリンピックのせいで私の回りにはかなりドラスティックな変化が起こっていた。
その一つが,友達が急に近所からいなくなってしまった事だった。
小学校の同級生の多くは近所の商店街の子供だった。
彼ら彼女らの多くは、ちょうど今の代々木公園の西の端から一方は渋谷駅へ、もう一方は小田急線の代々木八幡駅へとつながる道路脇の商店街に店があった。
親友のHくんの家もその辺りで靴屋さんを営んでいた。
そのHくんが突然引っ越すと言い出した。
「どこに行くの?」
「ワラビ」
何だそこ?と思った。
初めて聞く名前だった,
食べ物と同じ名前なので,最初地名という感じがしなかった。
東京でないことは何となくわかったけれども、「ワラビって一体どこなんだ?」
「埼玉だって…」。
Hくんもよく知らないし、きっとHくんの親だってよく知らなかったのではないだろうか。
私も、埼玉という場所がどの辺なのかすらよくわかっていなかった。
なにか本当に「地の果て」に親友が連れていかれてしまうようなもの悲しさを覚えた。
自分がそこに行くわけでもないのに,なぜかとても悲しかった。

彼の店も取り壊され道路拡張のための工事が始まった頃,彼の引っ越し先に初めて遊びに行った。
知らない電車を幾つも乗り継ぎ(そんな気がした),その駅に降りてからもバスで15分ほど走った先に彼の新しい店と家はあった。
こんなところで靴屋さんの商売なんか出来るのだろうか。
子供心に余計な心配をした。
彼は楽器を一緒にやる仲間でもあった。
新居で久しぶりに合奏をした。
「ここならどんなに大きな音出しても大丈夫だよ」
Hくんはそう自慢げに言ったが,そりゃそうだろう。
まわりに家なんかあんまりないじゃないか。
改めて彼の家の商売の心配をした。
でも、立ち退きさせられた家はものすごく保証金もらっているから大丈夫だよ。
そんな話を大人がしていたことを思い出した。
そうか,だから大丈夫なのか…。
子供心に勝手に合点した。
オリンピックはきっと日本と日本人の暮らしを大きく変えたのだろう。
私に起こった変化もハンパではなかった。
すぐ近くに選手村があることを良いことに,中学に入って覚えたてのヘタな英語を使って毎日選手村でいろんな選手をつかまえてはサイン攻めに明け暮れた。
そんなガキを世の中の人はなんと呼ぶのだろうか。
「サイン小僧?」
そんなことばを聞いたことはないがきっと新聞のどこかにはそれにあたるようなことばが記者の手によってきっと書かれていたのだろうが、私にはその頃まだ新聞を丹念に読むような習慣はなかった。
目に見える全てのものを変えたのがオリンピックだった。
親友の家の前の道路。
オリンピック前は車一台がやっと通れるほどの幅しかなかった。
しかも舗装なんかされていない雨が降ると水たまりができるような道だった。
それがオリンピックで一挙に片側2車線のきれいな舗装道路に広がってしまった。
今は,そこにクラシック専用のお洒落な音楽ホールまで建っている。
6年後のオリンピックは,一体,日本の何を変えるのだろう。

ワシントンハイツ

2014-10-07 19:09:10 | Weblog
小さい頃,目の前にアメリカがあった。
後年そこに住みそこの大学で勉強することになるとはまったく想像もしていなかった国が,幼い頃の私の目の前に大きく存在していた。
家の回りにはまだバラックすら存在していた。
そんな時代に、いやそんな時代だからこそ、「アメリカ」はそこにあったのかもしれなかった。
現在のNHK放送センターから代々木公園、青少年オリンピック記念センターまでの全てを含む広大な敷地は、ワシントンハイツと呼ばれた「アメリカ」だった。
金網で四方を囲まれた「アメリカ」には青々とした芝生が一面に敷き詰められていた。
ただ、そこがいわゆる「基地」ではなく、米軍のおエライさんたちの宿舎だということを知ったのはもう少し後になってからのことだった。
幼い私の頭の中にあったのは、ごくごく近所にある「未知の世界」であり、日本でありながら日本ではない土地が金網の向こうにあるという感覚だけだった。
それだけでも,少年の気持ちをワクワクさせるには十分だった。
同級生たちもきっと同じ感覚だったのだろう。
いつしか、私たちは当然のごとくそのアメリカに不法「侵入」するようになっていた。
アメリカと日本の「国境」には小学生にとってはとてつもない高さの金網が張り巡らされていたが、な~に,子供は遊びにかけては天才だ。
誰かが金網の破れ目を見つけると私たちは国境を越えやすやすとアメリカへ侵入して行った。
子供たちには,金網をよじ登ることも割れ目から侵入することも造作もないことだった。
私たちは,毎日のように放課後「外国」に行き野球をした。
バットとボールさえあればグローブなど必要ない。
適当にベースを作り野球が始まる。
学校帰りの少年たちにこれ以上の遊びはなかった。
とはいっても,そこが「外国」であることに変わりはない。
不法侵入しているという意識は小学生の私たちにもちゃんとあった。
だから、誰かが訳知り顔でこんな話をする。
「この前AちゃんがMP につかまって一晩泊められたんだってヨ…」。
それを聞いてまわりのガキ共も「ふう~ん、そうなんだ。気をつけなくっちゃ」とわかったような顔をして相槌を打つ。
そんなことはあり得ないことだということが理解できるまでにはまだほんの少し時間が必要だった。
私たちは真顔で「MP につかまらないようにしようね」とお互いの顔を見合わせた。
だから、私たちの野球には必ず「見張り」が必要だった。
見張りが「MPが来たぞ」と大声で叫ぶと私たちは一斉にバットやボールをかき集めて一目散に「日本」へと脱出した。
日本へ戻ってくれば安心。
そんな気持ちを誰もが持っていたからだ。

ただ、実をいうと,私は同級生たちほどMPを怖がってはいなかった。
というのも、私の家にはこのワシントンハイツに勤務する本物のMP(ミリタリーポリス),アメリカの兵隊さんが一人下宿していたからだ。
彼の名前はヘイスさん。
黒人だった。
その頃,アメリカ式のファーストネームだとかラストネームだとかいった区別をまったく知らなかった私にとってその名前が名字だったのか名前だったのかはわかっていなかったし、そんなことはどうでも良かった。
いつもニコニコして私たち兄弟や近所の友達と一緒に遊んでくれる「気のいい外人」が一人家の中にいたという事実だけで私の虚栄心は十分満たされていた。
オレは違うんだゾ。ウチには外人がいるんだゾ。本物のMPが住んでいるんだゾ。

そんな気持ちが,ある日恐怖に変わった。
世の中が安保騒動で騒然としていた昭和35年(1960年)のある日、いつもはニコニコしているはずのヘイスさんが鬼のような形相で家に帰ってきた。
ある事件があった日だった。
毎日のようにデモ隊の警備で出かけ「ヤンキー,ゴーホーム」と学生やデモ隊からののしられてもそれほど顔色を変えることのなかった彼がその日だけは小学生の私が恐怖を覚えるほどの形相と大声で荒れまくっていた。
東大生の樺美智子さんが亡くなる事件の数日前のことだった。
アイゼンハワー大統領の先遣隊として来日しようとした大統領補佐官のハガティ氏の来日を阻止しようとするデモ隊と衝突したその日だった。
ハガティ事件として歴史にも刻まれたその日の彼はまったくの別人の顔を私に見せていた。
彼と私の家で同棲していた日本人女性マリコさんの顔も青ざめていた。
彼はマリコさんに繰り返し尋ねていた。
「なんで,何で?」
絶対に手をあげないと思っていた彼の手がマリコさんの顔を直撃した。
米兵の現地妻として日本人から「オンリー」と差別され後ろ指をさされていたマリコさんを私たち家族は常にかばい続けてきた。
「あいのこ」とか「オンリー」といった今では絶対に使えないような差別用語が巷に氾濫していた時代でもあった。
氾濫していたというよりも,戦争に負けた敵国への好意と憎しみの屈折した感情をそんな「ワード」としてぶつけていただけなのかもしれなかった。
なんでもかんでもアメリカが「ウェルカム」だったわけではない。
ちょうど折悪しく「安保」が格好の標的になっただけなのかもしれなかった。
ヘイスさんもアメリカ人としての職務を全うしているだけなのに「なんで日本人は私たちに悪口を言うのか」ときっと理解できなかったに違いない。
あの日の彼の鬼のような形相にはそんな憤りの気持ちがあったのだろう。
マリコさんは,それを身体を張って受け止めた。

それから数年して私が中学になったある日,その「アメリカ」は本当に「日本」に戻ってきた。
ずっと「アメリカ」として目の前にあったその場所は,ある日突然まったく別のショックを私に与えてくれた。
金網はすっかりはずされ自由に行き来できるようになったその芝生の上に,今度はまったく見慣れない黒人たちがたむろしていた。
ヘイスさんをはじめアメリカの黒人の顔はかなり見慣れていたはずだった。
しかし,「その黒人」の顔は,それまで見た黒人とはまったく違っていた。
「え~? なんなのこの色は? この人たちは一体何なの?」
東京オリンピックのためにワシントンハイツは日本に返還され,その敷地はすべて選手村にあてられていた。
私の見た「黒人」は,アフリカから来た陸上競技の選手だったのだ。
ヘイスさんの「黒」も大半のアメリカ黒人の「黒」も、このアフリカの人たちの「黒」色に比べれば「黒なんかじゃ決してない」。
ただの「褐色」にしか過ぎない。
本当の黒人というのは,こういう人たちのことを言うんだ。
そんな「当たり前のような」事実を,私は,かつて外国だったあの芝生の上で生まれて初めて学習したのだった。


初めてのヘルパー

2014-10-03 17:59:17 | Weblog
恵子が倒れてから丸三年。在宅で介護を始めてからも二年以上の月日がたっているのにヘルパーさんをこれまで一度も頼んだことがなかった。
ショートステイなどで施設を利用したことはあったけれども、ヘルパーという介護保険の制度を利用するのは今回が初めてだ。
「みつとみさん、家の中に他人を入れるのがイヤなんですか?」自分の祖母を長年介護している知人からそう言われたこともあった。
別に他人を入れるのがイヤとかそんな気持ちはサラサラない。
ただ、これまで炊事、洗濯、風呂の介助から何から何まで別にヘルパーさんに頼まなくても全部自分でできたので、頼む理由がなかっただけの話だ。
なのに、なんで今頃になってヘルパーさんを頼むようになったかというと、私と恵子だけの「二人の世界」は介護にとっても私たちの日常生活にとってもあまり好ましくないことだと最近思い始めたからだ。
毎日顔を合わせるのが二人だけ、というのはお互いにとってあまり良いことではない。
苛々をぶつけるのもお互いに一人しかいない。
特に、どこにも自由に行けない恵子にとっては、ある意味、私が世界のすべてになってしまう。
良くも悪くも、私という存在が世の中の全てになるのはどう考えても健全なことではない。
私は、仕事や他のことで「外」にすぐ出ていかれる。
でも、彼女はそうはいかない。
私以外の他人に接する機会が極端に少ない。
なので、強制的に他人を家の中に入れよう。外に出よう。
そんな意味でのヘルパーさんだ。
とりあえず頼んでいるのは「掃除」だが、これもある種の方便。
別にそんなに家の中が汚れているとも思わないが(私がマメに掃除するので)、でも「こことここの掃除をお願いします」と言って、なんとなく家の中の空気を変える。
これが私の目的だ。
でも、本音を言うと、食事を全部作ってくれるとありがたいナなんて思っていたりする(笑)。
だって、いつも思うのは「私は一日中台所で食事作っている気がする」からだ。
朝起きてすぐに考えるのは朝食のこと。
そして、片付けをしたと思ったら彼女の10時の飲み物(毎日10時にさまざまな栄養素を入れた特製ショコラを作る)を作る、ランチ、そして3時の飲み物(午後は特製抹茶ラテだ)、最後は夕食。
そんなわけで私はいつも台所に立っている。
う~ん。本当はもっと外食にも行きたいんだけどナ…。
彼女は、まだ外食に行きたいとは言わない。
まあ、しょうがないと言えばしょうがない。
外のお店でバリアフリーのところは少ないし、彼女はまだ介助箸かスプーンで左手で食べることしかできない。
食べるのにとても時間がかかる。
家の中では良いけれど、外で食べると普通の人の十倍は時間がかかってしまうので、そうなるのを恐れて外食に行きたいとは言わないのだろう。
でも、どこかで強引にでも引っ張って行かなければ…。
前に進むには、多少の強引さが必要。
多少無理に思えてもやってみれば案外「案ずるよりも産むが易し」になったりするものだから。