みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

低体温の私は

2009-07-26 02:08:02 | Weblog
寒いのが苦手で、夏でも冷房は超鬼門。電車に乗っても、お店に入っても、昨日みたいに演奏の現場でも容赦なく冷房の寒気が襲ってくるのは超ツライ。
平熱が5度1分から3分程度しかない(もうすぐ危険水域だ<ヤバ)の私の身体を暖めるにはものを食べるかお風呂に入るか運動するかしか方法がない。だから、ちゃんと食べてちゃんと身体を動かしてちゃんと演奏するという長年の習慣は私の身体の一種の防衛本能なのかもしれないという気もしている(それに多動症気味に落ち着きがないのもそのせいかナ?なんて考えてみたり))。もともと腰痛持ちなのも低体温のせいだろう(なんて勝手に思ってみたり)。
この前知人に会いに沼津に行った時、ちょっと早めに行ったので駅ビルの上の本屋で本をあれこれ立ち読みしていたら「低体温症は万病のもと」みたいなタイトルの本に目が行きつい立ち読みしてしまった(そりゃ目が行きますよ)。
まあ、体温が低いことが動物の身体にとってあまりいいことではないことぐらい常識としては知っていたのだけれども「低体温だと免疫機能が低下して病気になりやすい」と断定的に書かれてしまうと、「私は必ず病気になるのかナ?」と不安になってしまう。
でも、対処法も書いてあった(それぐらい書いてないとネ)。
半身浴をするといいとか入浴がいいとか体温をあげる食べ物とかいろいろ書いてあったのを見てみると、私がこれまでに実行したりしている事柄ばかりで、これもちゃんと自然に対症療法を行っていたのだなと自分で自分に納得した次第。
まあ、それはそうだと思う。この本によると、低体温だとすぐにでもガンにかかって死んでしまうぐらいの勢いで書いてあるのだがあいにくと私はまだ死んではいない。きっとそれなりのことをやってきたからまだ生きているのだろう(そうでなければ今ころどうなっていたことか?)。

まあ、それはそれとして、昨日の恵比寿の長谷戸社会教育館のコンサートではあらためて「うたの力」というものを思い知らされた気がする。
自分が今さらこんなことを言うのもおかしいのだけれども、音楽の中で「声の力」「うたの力」というのは圧倒的だ。
百人の大オーケストラでもたった一人の歌手のアカペラの歌の前ではまったく無力になるぐらい歌というのは人間の感覚の中で圧倒的なパワーを持っている。自分が楽器奏者ではなく歌手だったら … とこれまで何度思ったことだろう。
それだけ歌手をうらやましく思い、そして彼ら彼女らの声のパワーの前に楽器の力のなんとちっぽけなことかと何度も悔しい思いをしてきたのだが、昨日のコンサートでも、ある意味似たような感覚を味わった。
フルート、2本のヴァイオリン、チェロ、ピアノ、うたといったアンサンブルの昨日のコンサート。演奏もアレンジもちゃんとしていたつもりだし、お客さんも皆さんとても喜んで満足して帰られたので何の問題もなかったはずなのだけれども、どこかしっくりこない。
それは、ほとんどのお客さんの心が私たち楽器奏者の演奏にではなく歌の方に完全に奪われていたことが明白だったからだろう。もし仮に、うた、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、フルートがそれぞれ同じレベルの90点ぐらいの演奏をしていたとしたら、この時点で楽器奏者は歌手にまったく勝ち目がない。もしも楽器奏者が歌の人と同じぐらいのレベルかそれ以上にお客さんの心をつかみたいと思ったら歌の倍以上(3倍以上かもしれない)素晴らしい演奏をするしか方法はないのだ。それぐらい歌と楽器ではスタートラインが違う。それがわかっていたからこそ、私は自分の主宰するレディースオーケストラに歌手を何人も入れたのだけれども …。
「音楽というのは不公平なものだな」といつも思う。
モーツァルトの時代ぐらいまで、器楽音楽はオペラや教会音楽よりもはるかにレベルの低い音楽と見られていたのだが(オペラの前座音楽ぐらいの存在だったのだ)、それもある意味しょうがなかったのかナ?とついつい納得してしまう自分がちょっと悲しい。


明後日の恵比寿でのコンサートやら

2009-07-22 23:55:45 | Weblog
8/15の大田区の平和祈年コンサートやら、原稿やら企画書やらでやたら忙しい毎日。そんなことを言い訳にしてまたまた日記をサボる傾向が復活してしまった。
伊豆を自宅にしていると(東京ではおこりえないような)いろんなことが毎日起こるので書くネタには困らないのだけれども(笑)、肝心の書く時間があまりない。

今日の日食だって「どうせ雨降ってるので見れっこない」と一日中部屋にこもって仕事。それでも、午前11時ぐらいから外が少し暗くなって「やっぱり日食はあるのだろうな?」と思いながらパソコンに向かう。
ただ、夜まで仕事をする気はしないので TSUTAYAで映画を借りてくる(伊豆高原にも TSUTAYAはあるのです)。
「チェンジリング」という子供を取り替えられてしまうアンジェリーナ・ジョリーの映画だけれども、予想とはまったく違う展開で「けっこうすごい話じゃん」と長い実話ベースのストーリーに少々疲れてしまった。
ミッシングチャイルドの話というよりも実は猟奇殺人が根底にあるストーリーだったので、よけいに疲れてしまったのかもしれない。でも、いい音楽だなと思ってエンド・クレジットを見ると「音楽、クリント・イーストウッド」とあってちょっとビックリ。プロデュースと監督をやった映画で自ら音楽を作る才能にも敬服。これから映画を作ろうと思っている私にもかなり刺激になる。
映像の才能のある人は音楽にも優れた感覚を持っている人が多いが(チャップリンなんかはその典型的な例だろうけど)、イーストウッドもなかなか負けてはいない。おそらくアレンジやオーケストレーションは専門家がやったのだろうけど、あれだけの音楽が書ける才能は並ではない。そういえば、彼が出演する映画で彼自身がピアノを弾いている場面を何回も見たような気がする。やっぱりそういう場面を挿入したくなるのかナ?
私は常々自分が映画でやってみたいと思っている役がある。それはアパートの管理人。
事件関連の参考人のアパートにやってくる警察官に「こんな時間に困りますね。本人が帰ってきたら困るんですけね」とかブツブツいいながら鍵をチャラチャラさせてしぶしぶ警官たちを部屋まで案内する管理人のオヤジというのがそれ。
そんな役に何の意味が?と言われれば「何にも意味はありません。ただやってみたいだけ」としか応えようがない。
ただ、これも自分が小さい頃から持っている「妄想」に一つ。小学校の頃、学校の帰り道、ランドセルをしょいながら「大歌手になって大きなステージの上で歌い拍手を浴びている自分の姿」とかいろんな妄想を限りなく膨らましている変なガキだったので、これぐらいの妄想はわりと普通の部類だ。
アーティストとは自分の「妄想」を何らかの形で実現する人たちなのかもしれない(と思っているのは私だけ?)。



乳がん検診の精度をあげる

2009-07-04 00:05:42 | Weblog
という目的のための乳がん学会の模様をニュースが映していたがこれをTVで見ていた時どうも気になったことがあった。
学会の会場はどこかのホールなのかホテルなのかはわからないけれどけっこう広い会場が写しだされていた。そしてその会場は学者さんなのかお医者さんなのか大勢の乳がん学会の人たちらしき人たちで埋まっていた。しかし、その中にあまり女性の姿が見えないのがとても気になった。乳がんという女性に多い病気のことを話す学会の会場にどうして女性の姿が少ないのだろう?
単純に思った疑問だ。
集まっている人たちが学者さんだから?お医者さんだから?
いやいや、昨今の大学や医学部に女性が少ないなんてことはないだろう。医学部だけじゃなくても大学と名のつくところに女性がほんの少ししかいないなんてことがあるわけがない。それこそ、音楽大学などはその9割近くが女性と言ってもいい。普通の大学だってその半数近くは女性なのでは?と私なんかは単純に思ってしまう。でも、世の中の重要なポストにまだまだ女性の数は少ない。別に少なくたっていい分野もあるけれど、今夜ニュースで見た「乳がん」のお医者さんのような分野にナゼ女性が少ないの?
本当にそれでいいのかナ?首をかしげたくなる。

私がいつも読んでいる本がある。というよりは暇さえあればいつも眺めているといった方がいいかもしれない本だ。それぐらい好きな本の一つだ。
「女たちの20世紀」という集英社から出ているムック本で、明治以来の日本で社会的に活躍してきた先駆者的な女性たちを100人集めて彼女らの足跡を紹介している本だ。津田塾大学の創設者の津田梅子、日本画家の梅村松園、作家の与謝野晶子、歌人の柳原百蓮、社会運動家の福田英子など日本の女性の今の地位はこうした先駆者の苦労によって勝ち取られたものだということがよくわかる本だ。
もちろん、平塚らいてうや加藤シズエ、市川房江、土井たかこといった人たちも含まれている。こうした女性たちのことばと行動はとっても重くて深いものがあるが、その中でも明治時代に活躍したフェミニストの女性運動家、福田英子のことばは痛快でカッコいい。
「男はダメだね。位階や勲章に目がくらむからね。そこへ行くと女には勲章ぶらさげて喜ぶような馬鹿はいないから頼もしいよ」。
たしかにその通りだと思う。男が馬鹿なことは世の中の真理だし、もしそう思ってない人がいるならばそれこそ馬鹿だと思う。
地位や名誉を後生大事に床の間に飾っておく男という人種は基本的に人間の真理なんか何もわかっていない馬鹿どもなわけで(もちろん私も含めてだけど)、仕事以外何もできないからこそ「威張って」いるのかもしれない。

とは言っても、最近の男性はこの「威張る」ことすらできなくなっているのが現状で、その意味で言えばまさに「男はつらいよ」になるのだが、映画の中の寅さんはその「男」にさえなりきれない本当に「つらい人」なのだ。
自称寅さんフリークの私は「男はつらいよ」の映画は全巻それぞれ最低3回は見ている(と威張ってみたりして。ハハハハ)。本当にワンパターンの映画なのだけど、あの映画には男という存在の「弱さ」が本当によく描かれていると私は思う。寅さんは映画の中で毎回女性に恋愛しそして失恋するというのがパターンなのだが、実は寅さんが女性から本気でプロポーズされるパターンも何回かある。でも、女性から求愛されると寅さんは必ず逃げてしまう(つまり旅に出る)。「冗談いっちゃいけやせん。私みたいな男に惚れちゃあ、お天とうさまがひっくり返らあ」などと言って冗談ごかして逃げの一手に入ってしまう。つまり、寅さんはいつでも女性には惚れるけれども本気で家庭を持つつもりはまったくない人なのだ。家庭を持つ責任、社会人として生きる責任は寅さんにはまったくない。
社会的に男が男たりえるのは「仕事をして家庭を持つ責任を果たす」こと。それが男だというルールを人類は長い間かかって作り上げてきたのだが、寅さんはそのルールを果たそうとはしない。というよりは果たすことが怖い人なのだと思う。
「男になることがどれだけつらいのか」を寅さんはよく知っているからこそ一匹狼の風来坊でいようとする。風来坊がかっこいいのではなく、「男になるのがつらい」からこそ、「男」から逃げようとする社会の弱者になっているのがフーテンの寅さんの本当の姿なのでは?と何度も何度もあきずに寅さん映画を見る私は考えている。
男でも女でも、やたら「威張る」のはその人に能力がない証拠。
年を取ってから過去の栄光にしがみついて生きる男の人があまりに多いのはきっとこの「男の弱さ」がなせる業なのかナ?
それが証拠に、年取ってからの生き方は女性の方がはるかに強くてカッコいい。