寒いのが苦手で、夏でも冷房は超鬼門。電車に乗っても、お店に入っても、昨日みたいに演奏の現場でも容赦なく冷房の寒気が襲ってくるのは超ツライ。
平熱が5度1分から3分程度しかない(もうすぐ危険水域だ<ヤバ)の私の身体を暖めるにはものを食べるかお風呂に入るか運動するかしか方法がない。だから、ちゃんと食べてちゃんと身体を動かしてちゃんと演奏するという長年の習慣は私の身体の一種の防衛本能なのかもしれないという気もしている(それに多動症気味に落ち着きがないのもそのせいかナ?なんて考えてみたり))。もともと腰痛持ちなのも低体温のせいだろう(なんて勝手に思ってみたり)。
この前知人に会いに沼津に行った時、ちょっと早めに行ったので駅ビルの上の本屋で本をあれこれ立ち読みしていたら「低体温症は万病のもと」みたいなタイトルの本に目が行きつい立ち読みしてしまった(そりゃ目が行きますよ)。
まあ、体温が低いことが動物の身体にとってあまりいいことではないことぐらい常識としては知っていたのだけれども「低体温だと免疫機能が低下して病気になりやすい」と断定的に書かれてしまうと、「私は必ず病気になるのかナ?」と不安になってしまう。
でも、対処法も書いてあった(それぐらい書いてないとネ)。
半身浴をするといいとか入浴がいいとか体温をあげる食べ物とかいろいろ書いてあったのを見てみると、私がこれまでに実行したりしている事柄ばかりで、これもちゃんと自然に対症療法を行っていたのだなと自分で自分に納得した次第。
まあ、それはそうだと思う。この本によると、低体温だとすぐにでもガンにかかって死んでしまうぐらいの勢いで書いてあるのだがあいにくと私はまだ死んではいない。きっとそれなりのことをやってきたからまだ生きているのだろう(そうでなければ今ころどうなっていたことか?)。
まあ、それはそれとして、昨日の恵比寿の長谷戸社会教育館のコンサートではあらためて「うたの力」というものを思い知らされた気がする。
自分が今さらこんなことを言うのもおかしいのだけれども、音楽の中で「声の力」「うたの力」というのは圧倒的だ。
百人の大オーケストラでもたった一人の歌手のアカペラの歌の前ではまったく無力になるぐらい歌というのは人間の感覚の中で圧倒的なパワーを持っている。自分が楽器奏者ではなく歌手だったら … とこれまで何度思ったことだろう。
それだけ歌手をうらやましく思い、そして彼ら彼女らの声のパワーの前に楽器の力のなんとちっぽけなことかと何度も悔しい思いをしてきたのだが、昨日のコンサートでも、ある意味似たような感覚を味わった。
フルート、2本のヴァイオリン、チェロ、ピアノ、うたといったアンサンブルの昨日のコンサート。演奏もアレンジもちゃんとしていたつもりだし、お客さんも皆さんとても喜んで満足して帰られたので何の問題もなかったはずなのだけれども、どこかしっくりこない。
それは、ほとんどのお客さんの心が私たち楽器奏者の演奏にではなく歌の方に完全に奪われていたことが明白だったからだろう。もし仮に、うた、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、フルートがそれぞれ同じレベルの90点ぐらいの演奏をしていたとしたら、この時点で楽器奏者は歌手にまったく勝ち目がない。もしも楽器奏者が歌の人と同じぐらいのレベルかそれ以上にお客さんの心をつかみたいと思ったら歌の倍以上(3倍以上かもしれない)素晴らしい演奏をするしか方法はないのだ。それぐらい歌と楽器ではスタートラインが違う。それがわかっていたからこそ、私は自分の主宰するレディースオーケストラに歌手を何人も入れたのだけれども …。
「音楽というのは不公平なものだな」といつも思う。
モーツァルトの時代ぐらいまで、器楽音楽はオペラや教会音楽よりもはるかにレベルの低い音楽と見られていたのだが(オペラの前座音楽ぐらいの存在だったのだ)、それもある意味しょうがなかったのかナ?とついつい納得してしまう自分がちょっと悲しい。
平熱が5度1分から3分程度しかない(もうすぐ危険水域だ<ヤバ)の私の身体を暖めるにはものを食べるかお風呂に入るか運動するかしか方法がない。だから、ちゃんと食べてちゃんと身体を動かしてちゃんと演奏するという長年の習慣は私の身体の一種の防衛本能なのかもしれないという気もしている(それに多動症気味に落ち着きがないのもそのせいかナ?なんて考えてみたり))。もともと腰痛持ちなのも低体温のせいだろう(なんて勝手に思ってみたり)。
この前知人に会いに沼津に行った時、ちょっと早めに行ったので駅ビルの上の本屋で本をあれこれ立ち読みしていたら「低体温症は万病のもと」みたいなタイトルの本に目が行きつい立ち読みしてしまった(そりゃ目が行きますよ)。
まあ、体温が低いことが動物の身体にとってあまりいいことではないことぐらい常識としては知っていたのだけれども「低体温だと免疫機能が低下して病気になりやすい」と断定的に書かれてしまうと、「私は必ず病気になるのかナ?」と不安になってしまう。
でも、対処法も書いてあった(それぐらい書いてないとネ)。
半身浴をするといいとか入浴がいいとか体温をあげる食べ物とかいろいろ書いてあったのを見てみると、私がこれまでに実行したりしている事柄ばかりで、これもちゃんと自然に対症療法を行っていたのだなと自分で自分に納得した次第。
まあ、それはそうだと思う。この本によると、低体温だとすぐにでもガンにかかって死んでしまうぐらいの勢いで書いてあるのだがあいにくと私はまだ死んではいない。きっとそれなりのことをやってきたからまだ生きているのだろう(そうでなければ今ころどうなっていたことか?)。
まあ、それはそれとして、昨日の恵比寿の長谷戸社会教育館のコンサートではあらためて「うたの力」というものを思い知らされた気がする。
自分が今さらこんなことを言うのもおかしいのだけれども、音楽の中で「声の力」「うたの力」というのは圧倒的だ。
百人の大オーケストラでもたった一人の歌手のアカペラの歌の前ではまったく無力になるぐらい歌というのは人間の感覚の中で圧倒的なパワーを持っている。自分が楽器奏者ではなく歌手だったら … とこれまで何度思ったことだろう。
それだけ歌手をうらやましく思い、そして彼ら彼女らの声のパワーの前に楽器の力のなんとちっぽけなことかと何度も悔しい思いをしてきたのだが、昨日のコンサートでも、ある意味似たような感覚を味わった。
フルート、2本のヴァイオリン、チェロ、ピアノ、うたといったアンサンブルの昨日のコンサート。演奏もアレンジもちゃんとしていたつもりだし、お客さんも皆さんとても喜んで満足して帰られたので何の問題もなかったはずなのだけれども、どこかしっくりこない。
それは、ほとんどのお客さんの心が私たち楽器奏者の演奏にではなく歌の方に完全に奪われていたことが明白だったからだろう。もし仮に、うた、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、フルートがそれぞれ同じレベルの90点ぐらいの演奏をしていたとしたら、この時点で楽器奏者は歌手にまったく勝ち目がない。もしも楽器奏者が歌の人と同じぐらいのレベルかそれ以上にお客さんの心をつかみたいと思ったら歌の倍以上(3倍以上かもしれない)素晴らしい演奏をするしか方法はないのだ。それぐらい歌と楽器ではスタートラインが違う。それがわかっていたからこそ、私は自分の主宰するレディースオーケストラに歌手を何人も入れたのだけれども …。
「音楽というのは不公平なものだな」といつも思う。
モーツァルトの時代ぐらいまで、器楽音楽はオペラや教会音楽よりもはるかにレベルの低い音楽と見られていたのだが(オペラの前座音楽ぐらいの存在だったのだ)、それもある意味しょうがなかったのかナ?とついつい納得してしまう自分がちょっと悲しい。