の関係について本を書こうと、数年前からいろいろ調べている。
本を書く時いつも気をつけていることがある。
それは、あまりタイトルとか目的にばかり囚われないということ。
そうでないと、最初から結論ありきでそのためのデータばかりを積み上げてしまいがちになるからだ。
例えば「この病気になる音楽家にはこうした共通の要素があった」みたいな推論を最初にたててしまうとどうしてもその「結論」に持っていこうという意識が知らず知らずのうちに働いてしまう。
出版社の人たちは、本の帯に「作曲家はみんな認知症だった!」なんてコピーを書きたがる。
「そんなのウソに決まってる」と思っていてもつい本を手に取ってしまう人の心を知っているからだ。
そうした「釣り」を世の中は宣伝の手段として効果的に使う(特に、ネット社会ではその手法を一般の人たちまでが使うからかなり「トホホ」だ)。
最初から結論や結果ありきだと、当然のことながらデータの偽造やえん罪などが起こるリスクが増す。
製薬データ、燃費データ、冤罪云々にしても人の命にかかわることだという意識を持っていれば「そんなこと…ダメ」と常識的には考えられるはずなのだがそれでもこうしたことを人は常に繰り返す。
それは、別の見方をすると、人間が細かいところを掘り下げていけばいくほどまわりのことが見えなくなってしまうからなのでは….。
ある種、人間のサガの一つと言えなくもない。
常に「俯瞰で全体を見ながら細部の顕微鏡的考察をする」というような思考や論理はあくまで「理想」であって、それができる人はそれほど多くはない。
病気も、人間の身体や精神のある一部分の異常といった視点で考えると「大変!」とか「絶望!」とかいった方向に行ってしまうけれども、もっと大きな視点(つまり俯瞰的な視点)で考えれば「ふ〜ん、そうだったのか、手が動くことって別に当たり前でも何でもないんダ」という簡単な事実がわかる。
これがわかるだけでも病気に向き合いやすくなる。
未だに手も足も自由には動かない恵子と毎日一緒に生活しているとわかってくることがたくさんある。
毎日彼女が寝る前に足湯をする。
(自宅の)温泉を大きなたらいに入れてベッドサイドまで持っていき足のマッサージをするのだ。
彼女は毎日お風呂に入ることができないのでせめてもの代用品(としてやっている)のではなく、これもリハビリの一つとして積極的にやっている。
昨日も彼女に足湯を浸からせながら筋ジストニアで右手が動かなくなったピアニスト、レオン・フライシャーの話しをした。
ボツリヌス菌をほんの少量身体に注射するボトックス治療のおかげで彼は演奏活動に復帰できたんだよ、云々。
でも、この話しは「だからボトックス治療しようよ」と彼女に勧めているわけではなく、逆に「フライシャーの病気と恵子の病気は根本的に違う病気なのだし他の条件もまったく違うんだから、別にそれをやったからといって同じ効果が現れるわけじゃない。
だから、ふだんの地道なリハビリを頑張ろうよ」という意味での問いかけだった。
以前投与を続けていた筋弛緩剤の服用を再開したが、またすぐにやめた。
やはり副作用の方があまりにも多いので薬は飲まない方が良いという結論になった。
だったら最初からその薬服用しなきゃ良かったじゃないかと言われそうだが、人の機能が当たり前の状態にない人間は、それを元に戻そうと必死になる。
それこそ、「溺れる者、藁をも掴む」のも人間のサガの一つであることも間違いない。
結果、ダメだった。じゃあ、今度は違うやり方を探そうかと常に前を見て生きていかなければならない(と私は思っている)。
こうした「生き方」そのものや人間としての「当たり前」の意味を教えてくれるのも、ひょっとしたら病気というもののなせるワザなのではと最近よく思う。
作曲家ラヴェルが晩年に認知症になり、作曲もできたしピアノも弾けたにもかかわらず楽譜を読むことがだんだんできなくなったことを知り「ああ、そうなのか。音符を読むのもことばを読むのも脳の中では同じ機能なんだナ」ということがわかる(音を聞いているのは右脳の働きだが、音符やことばを記号として理解するのは左脳の働き)。
では、ラヴェルは認知症に罹患して以降音楽家として無能になってしまったかと言えばけっしてそんなことはない。
逆に、彼は、認知症になってから死ぬまでの25年間の方が音楽史に残る名曲をたくさん残したわけで、世の中の認知症の患者だって、別に新聞が読めなくなったからといって、昨日食べたものを覚えていないからといって「人間として終わった」わけではけっしてない。
そこを「終わった」ことにしてしまう現在の認知症に対する考え方そのもの(というか、メディアの報道の仕方かナ)が一番の問題だし、病気や健康の意味をもうちょっと別の視点から考えてみる必要があるんじゃないだろうかと思っている。
病気じゃない人間なんて一人も存在しない。
それぐらいラフな(いい加減な)考えから病気と向き合っていく方が、人はもっと楽に生きていかれるんじゃないのかナ。