というのはまさにこういうことを言うのかもしれないが、9月2日の晩に妻が脳卒中で倒れてからこの1ヶ月の間のめまぐるしい体験は私自身にとっても初めての体験だし妻にとっても晴天の霹靂だったはずだ。
ちょうど台風が関西方面を縦断して関東や東海にも強い雨と風をもらしていた9月2日の夜に「恵子が脳卒中で倒れて救急車で運ばれた」という義弟からの突然の電話で急遽東京の病院まで車で駆けつけた。
途中の雨風吹き荒れる伊豆の山道ではまだ状況が飲み込めずアレコレ悪い想像ばかりをしながらのドライブだったが、病院に到着しまだ生きている彼女の姿を見てとりあえずは安心した。
「生きてさえいれば何だってできるしどんな可能性だってある」。
これが偽らざる心境だった。
左の脳の視床の3センチに渡る出血。けっして少ない量の出血ではなかったはずだが、左の脳の損傷に多く見られる言語機能の障害がほとんどなかったことが不幸中の幸いだった。
ことばでコミュニケーションを取れることほど心強いものはない。
しかしながら、左の脳の出血は右半身の麻痺という結果をもたらした。
この日から私の毎日の病院通いが始まったわけだが、私の仕事は単に妻の看病だけではなく、妻が倒れるまで彼女が面倒を見ていた84歳の叔母の身の回りの世話を私が引き受けることまで含まれるようになってしまった。
つまり、妻と義理の叔母という二人の女性の全ての世話を私が仕事をしながらするというウルトラハードな日常生活がこの日からスタートしたのだ。
まあ、大変と言えば「大変」というひとことで片付けられるのだが、私自身疲れはするものの、これをそれほどイヤな仕事だとは思っていない(正直なところ)。
それは直前までしていた伊豆の家で海や自然と一緒に暮らすのどかな生活も「幸せで快適な」生活には違いないのだが、妻の面倒を見ながら彼女の身体の回復を手助けする今の生活もこの上なく「幸せな」生活だと実感している。
愛する人の世話をすることがこれほどまでに心を豊かにするものだとは思っていなかったのだ。
この気持ちは、単に快適にのどかに伊豆の奇麗な景色を眺めているだけでは絶対に味わえない感情だと思っている。
ピクリともせずまったく動かなかった妻の右手が少し動き始めた時の感動は筆舌に尽くしがたい。本当に「心が震えた」。
妻の乗る車椅子を動かしながら病院の中を散歩する時の何とも言えない「暖かさ」は、これまでの人生でも味わったことのない「幸せな気持ち」かもしれない。
このまま彼女が半身不随でいて欲しくないことは事実だし何とか一緒に努力して治していきたいと思っている感情は、その感情自体が「人生の喜び」にもつながっている。
どうしたら彼女が元通りに歩いたり絵を描いたり(彼女は画家だ)できるようになるのだろうか?
リハビリに毎日同行しながら自分自身どうやったらリハビリと向き合っていかれるのかを考えている。
同世代の親しい友人に脳卒中を既に経験した人が二人いる。
しかしながら、この二人の回復度も考え方も百八十度違っている。
一人は「この病気は百%回復することはあり得ない」と考えている。
もう一人は「リハビリに対する考え方さえ間違わなければ百%回復することは可能だ」と考えている。
前者の人は未だに車椅子だが、後者の人は健常者とまったく変わらない。それどころか、以前と同じくプロ並に楽器を演奏している。
この違いは一体どこから来るのだろうか?
後者の彼は「リハビリとは楽器を習うこととほぼ同じプロセス」と考えその通りにリハビリを実行した人だ。
楽器を最初から上手に演奏できる人など一人もいない。
ゼロからスタートして一つ一つステップをマスターしていくことによって高いレベルの演奏に到達する。どんな楽器でも考え方とやり方は一緒だ。
でも、よく小さい子がピアノを練習する時いつも同じ場所に来ると同じ間違いを何度もするようなことは誰でも経験していることだが、これが最もリハビリでも陥り易い間違いの一つだと彼は言う。
「いつも同じところで同じミスを犯すのは脳がミスを覚え込んでしまい<間違う>という指令を出しているから」。
まさしくそうなのだと思う。
いま現在妻の腕が動かないのも足の動かないにも別に腕に障害があるわけでも足に障害があるわけでもない。
妻の右手が動かないのは、妻が脳で考える「右手を動かす」という指令が妻の右手に届いていないだけの話。
ピアノを演奏する手の指がいつも同じ間違いを犯すのは、「正しい音符を正しく弾く」という指令が手の指に届いていないということ。
間違えるのは逆に「間違って弾く」という指令が届いてしまっているから間違えるだけの話なのだ。
つまり、手や足を動かすのが「筋肉」であるとか「力」であるとか誤解してしまうと手や足に間違った指令を脳が与えてしまって、たとえ動かせたとしても「とてもぎこちない」動きを手や足が覚えてしまうことになるのでいつまでたっても「障害者のような」動きでしか手や足が動かせなくなってしまう(同じように楽器を演奏するのはけっして筋肉ではない。演奏は脳がしている)。
これが彼の考え方で、なにしろひたすら「正しい動きのイメージ」を脳にインプットしてあげることしかリハビリの可能性はないと彼は言う。
この考え方はとても「理にかなっている」と私自身思える。
だから、私は毎日それを彼女に実践しインプットするようにしている。
結果がどう出るかはまさに「天のみぞ知る」だが、私はこの彼のようにひたすら人間の「脳の可能性」を信じてリハビリに励んでいこうと思っている。
ちょうど台風が関西方面を縦断して関東や東海にも強い雨と風をもらしていた9月2日の夜に「恵子が脳卒中で倒れて救急車で運ばれた」という義弟からの突然の電話で急遽東京の病院まで車で駆けつけた。
途中の雨風吹き荒れる伊豆の山道ではまだ状況が飲み込めずアレコレ悪い想像ばかりをしながらのドライブだったが、病院に到着しまだ生きている彼女の姿を見てとりあえずは安心した。
「生きてさえいれば何だってできるしどんな可能性だってある」。
これが偽らざる心境だった。
左の脳の視床の3センチに渡る出血。けっして少ない量の出血ではなかったはずだが、左の脳の損傷に多く見られる言語機能の障害がほとんどなかったことが不幸中の幸いだった。
ことばでコミュニケーションを取れることほど心強いものはない。
しかしながら、左の脳の出血は右半身の麻痺という結果をもたらした。
この日から私の毎日の病院通いが始まったわけだが、私の仕事は単に妻の看病だけではなく、妻が倒れるまで彼女が面倒を見ていた84歳の叔母の身の回りの世話を私が引き受けることまで含まれるようになってしまった。
つまり、妻と義理の叔母という二人の女性の全ての世話を私が仕事をしながらするというウルトラハードな日常生活がこの日からスタートしたのだ。
まあ、大変と言えば「大変」というひとことで片付けられるのだが、私自身疲れはするものの、これをそれほどイヤな仕事だとは思っていない(正直なところ)。
それは直前までしていた伊豆の家で海や自然と一緒に暮らすのどかな生活も「幸せで快適な」生活には違いないのだが、妻の面倒を見ながら彼女の身体の回復を手助けする今の生活もこの上なく「幸せな」生活だと実感している。
愛する人の世話をすることがこれほどまでに心を豊かにするものだとは思っていなかったのだ。
この気持ちは、単に快適にのどかに伊豆の奇麗な景色を眺めているだけでは絶対に味わえない感情だと思っている。
ピクリともせずまったく動かなかった妻の右手が少し動き始めた時の感動は筆舌に尽くしがたい。本当に「心が震えた」。
妻の乗る車椅子を動かしながら病院の中を散歩する時の何とも言えない「暖かさ」は、これまでの人生でも味わったことのない「幸せな気持ち」かもしれない。
このまま彼女が半身不随でいて欲しくないことは事実だし何とか一緒に努力して治していきたいと思っている感情は、その感情自体が「人生の喜び」にもつながっている。
どうしたら彼女が元通りに歩いたり絵を描いたり(彼女は画家だ)できるようになるのだろうか?
リハビリに毎日同行しながら自分自身どうやったらリハビリと向き合っていかれるのかを考えている。
同世代の親しい友人に脳卒中を既に経験した人が二人いる。
しかしながら、この二人の回復度も考え方も百八十度違っている。
一人は「この病気は百%回復することはあり得ない」と考えている。
もう一人は「リハビリに対する考え方さえ間違わなければ百%回復することは可能だ」と考えている。
前者の人は未だに車椅子だが、後者の人は健常者とまったく変わらない。それどころか、以前と同じくプロ並に楽器を演奏している。
この違いは一体どこから来るのだろうか?
後者の彼は「リハビリとは楽器を習うこととほぼ同じプロセス」と考えその通りにリハビリを実行した人だ。
楽器を最初から上手に演奏できる人など一人もいない。
ゼロからスタートして一つ一つステップをマスターしていくことによって高いレベルの演奏に到達する。どんな楽器でも考え方とやり方は一緒だ。
でも、よく小さい子がピアノを練習する時いつも同じ場所に来ると同じ間違いを何度もするようなことは誰でも経験していることだが、これが最もリハビリでも陥り易い間違いの一つだと彼は言う。
「いつも同じところで同じミスを犯すのは脳がミスを覚え込んでしまい<間違う>という指令を出しているから」。
まさしくそうなのだと思う。
いま現在妻の腕が動かないのも足の動かないにも別に腕に障害があるわけでも足に障害があるわけでもない。
妻の右手が動かないのは、妻が脳で考える「右手を動かす」という指令が妻の右手に届いていないだけの話。
ピアノを演奏する手の指がいつも同じ間違いを犯すのは、「正しい音符を正しく弾く」という指令が手の指に届いていないということ。
間違えるのは逆に「間違って弾く」という指令が届いてしまっているから間違えるだけの話なのだ。
つまり、手や足を動かすのが「筋肉」であるとか「力」であるとか誤解してしまうと手や足に間違った指令を脳が与えてしまって、たとえ動かせたとしても「とてもぎこちない」動きを手や足が覚えてしまうことになるのでいつまでたっても「障害者のような」動きでしか手や足が動かせなくなってしまう(同じように楽器を演奏するのはけっして筋肉ではない。演奏は脳がしている)。
これが彼の考え方で、なにしろひたすら「正しい動きのイメージ」を脳にインプットしてあげることしかリハビリの可能性はないと彼は言う。
この考え方はとても「理にかなっている」と私自身思える。
だから、私は毎日それを彼女に実践しインプットするようにしている。
結果がどう出るかはまさに「天のみぞ知る」だが、私はこの彼のようにひたすら人間の「脳の可能性」を信じてリハビリに励んでいこうと思っている。