みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

蜜柑の香り

2011-05-16 18:12:18 | Weblog
とはいっても蜜柑の花の香りのこと。
この季節、私の住んでいる伊豆の山々には蜜柑の白い花が咲き芳香をまき散らす。
まき散らすというのはあまりきれいな表現ではないけれど、伊豆のどの辺りを歩いていてもどこからともなく蜜柑の花の甘い香りが飛んで来て鼻腔を心地よく刺激する。
蜜柑の花の香りはジャスミンのような甘さを持った香りなのだが、ジャスミンよりもはるかに上品な香りだと私は思っている。

この季節はいろいろな花が香る季節だが、私の家の近くで支配的なのはモッコウバラの香りとこの蜜柑の花の香りの2種類だ。
もちろん、栗の花の匂いもするのだがこちらはあまり良い香りとは言えない(人によっては好きな人もいるかもしれない微妙な香りだが)。
自宅でたくさん育てているオールドローズも良い香りには違いないのだが蜜柑の香りほどは遠くまでとどかない(すぐ近くまで行かないとわからない匂いというやつだ)。
沈丁花にしてもクチナシにしてもキンモクセイにしても、良い香りというのは本当に遠くまで運ばれていく。
しばらくは蜜柑の花の甘い香りと新緑の青に囲まれて暮らせそうだ。

先週の12日に私の主催する「東日本大震災被災者支援のチャリティコンサート」が無事終わった。
総勢50人の参加者と10数名のスタッフをまとめる仕事でこの2ヶ月準備に追われていたせいか、コンサートを終えた翌日を含め2日間はかなりの疲労で他のことが手につかなかった。
当日はUstreamでコンサートをネット生中継した。
音質は圧縮されているのでCD並とはいかないが会場の雰囲気は十分に味わえるものだったと中継を見た人からは報告を受けた。
それにしても、自分たちの器材で自分たちだけの技術でコンサートをライブ中継できるなどということはひと昔前まではまったく考えもつかなかったことだ。
これをテクノロジーの進歩と人は言うのだろうが、じゃあ、それならこういう状況がアーティストにとって、あるいは、アートの世界にとって「進歩した」状況と言えるのかどうかはまた別の問題だ。
先日も若いミュージシャンが「スタジオの仕事がありません」とボヤいていたけれど、私が盛んにスタジオミュージシャンをやっていた80年代から90年代前半はそれこそ、一日のうちにスタジオを掛け持ちすることもあったことを考えると現在の世の中の状況は若いミュージシャンにとっては本当にツライ状況だと思う(私自身も大変な状況であることに変わりはないのだけれども)。
今回のチャリティコンサートには私の古い仲間のベテランアーティストにもたくさん声をかけたけれども、意図的に20代30代の若いアーティストも誘った。
少しでも彼ら彼女らにチャンスが広がってくれればと思ったからだ。
早速、今日参加した若いアーティストに仕事の依頼が来た。
若いうちは、タダの仕事だろうがおいしい仕事だろうが何にでも「顔を出す」ことが大事だと思う。
世の中誰が見ているかわからないのだから。

ヒトは料理をするサルである

2011-05-05 20:11:44 | Weblog
このことばは、『火の賜物』という本に書かれてあることばなのだが、ここ数日騒がれている焼き肉屋で生のユッケを食べて亡くなった方が出たというニュースを聞いて、この本のことを思い出した。
この『火の賜物』という本の主旨はひとことで言うと「人間は料理によって進化した」ということ。
つまり、どういういうことかと言うと、ヒトと類人猿の顔の特徴を比べれば一目瞭然のように私たち人間よりもチンパンジー、オラウータン、ゴリラなどのサル類のアゴはかなり大きい。
歯が大きいのだ。
彼ら類人猿に比べて我ら人間の歯のなんと小さいことか!アゴも何と小さいことか!
ヒトの歯とアゴがアレだけ大きかったら人間に小顔など絶対に存在できない!
この類人猿とヒトの顔の差は、サルは料理をしない、ヒトは料理をする、つまりヒトは火を使うことができたからヒトは進化した、というのがこの本の主旨なのだ。
それでは、食べ物を「生」で食べるのと「調理して」食べるのとどこが根本的に違うかと言えば、消化吸収の時間が調理したものを食べた方が圧倒的に早いということ。ここがポイントだ。
例えば、極端な例で言うと、ヘビは獲物を丸呑みする。そして、自分の消化器官の中で消化されるのを全く身体を動かさずにひたすら待つ。
おそらく食べたものによっては数日も待ち続けなければならないだろう。
消化している間は消化以外のことは何もできない。身体のエネルギーは全て消化に向けなければならないからだ。
もし、これと同じことがヒトの身体で起こったらどうなるだろう?
ヒトがヘビのようにモノを噛まずに飲み込むような身体の構造をしていたらきっとヒトは何も考えられないし労働もできない動物になっていたはずだ。
ヒトは類人猿よりもはるかに小さな歯でもちゃんとモノを消化できるように食べ物を「調理」するという方法を取得して消化以外にエネルギー向け脳を進化させてきたのでは?というのがこの本の著者の仮説だ。
著者は、文化人類学者独特の方法でこの考えの正しさを立証しようとする。
現代に生きる私たち人間を数十人実験台に選び、「生食で生活をするグループ」と「調理したモノを食べて生活するグループ」で数ヶ月実際に生活してもらい2種類のデータを取りその違いから彼の仮説の正しさを立証する。
この結果がとても面白い。
人間は別に「生もの」を食べるだけでも生きて行かれる(別に生肉だけというわけではない。野菜や果物も生で食べるという意味だ)。生ものだけでも必要十分な栄養を取ることができるからだ。
しかしながら、この2種類のグループ(生食生活者と調理食生活者)にはヒトの進化に関係のある、ある重大な違いが生じる。
生モノだけで生活していくとヒトは確実にやせる。
つまり、調理したものを食べないとヒトの消化吸収効率は明らかに悪くなりエネルギーが取りにくくなってくるのだ。
だから、「生食でダイエットをしよう」と唱える人たちも世界中にたくさんいる。
現在もこの考えを信奉している(しかもかなり狂信的に)人は一人や二人ではない。「生食ダイエット」は明らかにヤセルからだ。
しかし、ここで生じる弊害がかなりリスキーな問題を孕んでいる。
というか、これは弊害というレベルのものではないのかもしれない。
これこそ人間の進化に大きく関係することだからだ。

生食で生活を続けると人間の生殖能力は確実に劣化していく、つまり性欲がどんどんなくなっていくのだ。
デトックス的な考え方からすると、調理せずに不純な添加物を一切身体に入れずにひたすら調理をしないモノだけを食べていけば、身体から毒素が抜けていきコレステロール値も下がり低カロリーで生きていかれるようになる。おまけに性欲もなくなるんだったら「ヤセて清く正しい生活ができて何も悪いことなんかないじゃないか」と主張するかもしれない。
しかし、この考え方は、単純に、ヒトを退化させて絶滅危惧種になろうと主張しているようなもの。
このダイエット方法を取る限り脳に食べ物のエネルギーが行かないようになりヒトはどんどん脳が小さくなり頭が悪くなっていくはずだ。
そして、最終的には人類は滅亡の一途を辿るだろう。
そこで、今回のユッケのなま肉の話に戻る。
この地球上には生肉を主体のダイエットで生活している人たちがいる。
北極圏のイヌイットの人たちだ。彼らの主食はアザラシ。
イヌイットの人たちは基本的にアザラシのなま肉や内臓を食べる。
時になま肉が腐るまで放置してウジがたかっているものを食べることもあるという。
それでも、彼らが生肉で死ぬことはない。
でも、日本では、ユッケのなま肉で簡単にヒトが亡くなってしまう。
ナゼなのだろう?と考える。
私は医学の専門家ではないので生半可な知識でこの理由を解き明かすことなどできないが、おそらくは私たちの腸内細菌や消化構造が根本的にイヌイットの人たちとは違うことが原因だろうし、極寒の北極圏で繁殖する細菌と高温多湿の日本で繁殖する細菌では全く違うものが悪さをするに違いない。
それでも、現代の日本の子供たち(今回の生肉ではお子さんたちが多く犠牲になったわけだ)はあまりにも無菌で育てられ過ぎていることも一つの原因なのかナ?とは思ってしまう。
現代人に花粉症などのアレルギーが多いのも、寄生虫がいなくなったせいだと主張する学者さんもいる。
要するに、今の「ヒト」はどんどんヤワになっていき、ウジ虫がたかる食べ物をも消化できるような腸内細菌はもはや存在せず「生食」に耐えられるような身体の機能をあまり残していないのではないのか?
こんなことを、今回の中毒騒ぎと『火の賜物』という本の内容を関連づけて考えてしまったわけだ。



『音楽史を変えた5つの発明』

2011-05-01 19:38:45 | Weblog
という本がある。
ハワード・グッドールというイギリスの作曲家の書いた本だ。

とても面白い、というより、いろいろに啓発される本だし、「その通り!」と共感する部分と「?」と思う部分がいろいろあるが、私がおおむね共感しているのはこの本自体のコンセプトだ。
この著作のオリジナルタイトルは『BIG BANGS』。
要するに、そこから宇宙も始まりのビッグバンと同じように「どこから音楽は始まったのか?」という問いこそがこの著作のメインテーマなのだ。
その音楽史を変えた5つの発明とは、「楽譜、オペラ、ピアノ、蓄音機(つまり録音器材だ)と平均律」だと著者は主張する。
みんなそれぞれ「これがなかったら?」と仮定するといわゆる西洋音楽史の中では「あり得ない」ものばかりだろう(今それがないことを想像できないという意味で)。
なかでも楽譜という存在はとても面白い。
というのも「これって必要?」と思う人も世の中にはきっとたくさんいるからだ。
現在世界中にあるさまざまな音楽のうち楽譜を使わなければ演奏できない(と思っている)のはきっとクラシック音楽だけなのでは?と私は常々思っている。
楽譜というのは12世紀頃、グイード・ダレッツォというイタリア人が発明したものだが、これができるまでの西洋音楽は演奏家が覚えたものを「覚えた通りに演奏する」だけのものだった。
日本の民謡だろうが世界のどこの国の民謡だって楽譜で覚える人なんてほとんどいない。先輩や先生や仲間が歌っているものを真似ながら覚えていくだけのこと。
インドの音楽家たちは何百という音階に沿って常に即興的に音楽を作り出す(この何百種類のモードのそれぞれを楽譜にできる人なんかいないはずだ)。
ネウマ譜という中世の教会のグレゴリオ聖歌用の楽譜にしたってこのグイードが作った楽譜をもとに作り出されたカソリック教会独特の楽譜の形式。
ネウマ譜ができるまでは、どこそこの教会のグレゴリオ聖歌とどこそこの教会のグレゴリオ聖歌はまったく違うものでそこには共通の基準なんてどこにも存在しなかったわけだ(だから、それぞれの教会の秘法なんていう歌い方が存在した)。
つまり、楽譜の発明は音楽の歴史に何をもたらしたかというと、「この曲はどこそこの教会のグレゴリオ聖歌」であるとか、「誰誰の作った音楽作品」ということを証明する基準ができたということだ(ここから著作権という発想も生まれたに違いない)
そして、楽譜の誕生と共に演奏家と作曲家の立場は全く逆転する。
つまり、楽譜がない音楽に作曲家の存在なんか、ある意味、どうでもよかったのだが、楽譜ができると今度は途端に「これはオレの曲」という主張が力を持つようになってくる。
作曲家は、つまり自分の「権利を主張」できるようになり急に「エラく」なったのだ(著作権法がなかった時代であっても)。
楽譜がもしなかったらモーツァルトもベートーベンも存在しなかったのでは?と思うとある意味痛快だ。
もちろん、楽譜がなくったってウォルフガング・アマデウス・モーツァルトやルートビッヒ・ヴァン・ベートーベンという人間は地球上のどこかに産まれたのだろうが彼らの価値はきっと誰にも認められなかっただろうし、今も認める人は一人もいないだろう(「ベートーベン?それ誰だよ?」ってなもんだ。だって、彼がその曲を作ったと証明するものが何もないのだから)。
という意味で考えると、楽譜の誕生が音楽史の一つのビッグバンであることは間違いない。
それにしてもいつも思うのは、なんで日本人のクラシックの演奏家は楽譜がないと何も演奏できないのだろう?ということだ。
これって、こういう言い方ができないだろうか?
クラシックの演奏家の大半は「楽譜を読む技術には長けて」いても、必ずしも「楽器の演奏そのものに長けて」いるわけではないのではないのか?
世の中に、楽譜がまったく読めない人で「楽器の達人」はいくらでもいる。
要するに、クラシックの世界では「楽譜に書かれたモーツァルトやベートーベンがいかに正確に再現できるか」の能力が問われるだけで必ずしも「楽器を演奏している」わけではないのでは?と私なんかは思ってしまう(ここまで言うとかなり反発する人も多いだろうが)。
とにかく、実に不思議だ。
どうして、楽譜にないとまったく演奏ができなくなってしまうのだろう?
楽譜が誕生する前の音楽家はみんな楽譜に頼らずにいろいろな楽器を演奏していた。歌も歌っていた。いわば、みんながシンガーソングライターだったはずなのに楽譜ができた途端に音楽家は楽譜の呪縛から逃れられなくなってしまったのだ。
人間は、優れた発明品を次から次に地球上に送りだしてきたわけだが、その発明品の便利さにあぐらをかいているといつかその発明品自身にしっぺ返しをくらう。
このことは歴史が証明している。
今回の震災でいやおうなく電気に頼り過ぎる生活を見直した人たちも多かったのではないだろうか。
「電気という発明品がなくても人は生きていけるし生きていかなければいけないのでは?」
そう思った人もいただろう。
同じように、音楽家は「楽譜がなくても音楽は作り出せるはずだし、作っていかなければいけないのでは?」

便利なものにはトゲがある(笑)ということか。