みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

明日から7月

2008-07-01 00:53:07 | Weblog
7月から8月にかけて自分のコンサートやプロデュースしているレディースオーケストラflumusのコンサートなどがいろいろな形であったり、9月からまた新しいイベントも始まるので、何だかんだと準備に追われている。
もともと自称「サメ人間(その心は「動いてないと死んでしまう=サメは動いていないと呼吸ができなくなって死んでしまう生物なのだ)」の私としては、ただ仕事を待っている人生というのはまっぴらゴメンで、常に「攻めて攻めて攻めまくる」ことを一つの信条にしている。
政治や宗教的な信条とはまったく別に、自分が小さい頃から思い続けてきたことは「カッコいい生き方をしたい」ということ。別に、スタイリングとかルックスの勝負というわけではなく(若い時はそういうことにこだわった時もあったけど)、人から見て「あの人の生き方カッコいいよね」と思われたいという願望は常にあり、今もその気持ちは私の行動のスタンダードになっている。
今はそれほど真剣に考えなくなってきたけれども、高校生とか大学の頃は、「快楽主義で生きるのとストイックな禁欲主義で生きるのとどっちがカッコいいか?」などとよく考えていた。まあ、突き詰めていくと、快楽主義も禁欲主義も同じところに行き着くので「結局、あんまり変わんないじゃん」という結論でそれ以上追求することはしなくなってしまった。
という意味で、「カッコよさ」を求める時、やはり「何をもってカッコいいとするか?」という基準が必要なので、私は、それをその時々の具体的な人間にモデルを求めてきた。
「あの人みたいに生きられたらいいのに」という理想形に自分を近付けようとしてきたのだ。それが、小さい頃はシュヴァイツアー博士だったり、白州次郎だったり、植草甚一だったり、イチローだったりしてきた。おそらく今あげたこの4人(もちろん、この4人だけが理想ではないけれど)に「どんな共通項があるの?」思う人が大半だろうが、私の中ではいずれも「カッコいい生き方」なり「カッコいい信条」を持っている人たちなのだ。多分、それは表現は違うかもしれないけれど、「自分」というものの表現の仕方に一貫性があるということではないかと思う。

医学や哲学、音楽というものの中で「自分」という人間の役割をしっかり見つけそれを「自分以外の他者」にはっきりと実践していったシュバイツアー博士と、戦中戦後の日本の政治経済の世界の中でまったくゆるがずに「自分の信じる信条」をつらぬきそれを誰に対しても説き実践していった白州次郎という人、そして、文筆というポジションから、趣味やサブカルチュア、ファッション、音楽、などの本質を自分の行動で示していった「趣味人」の植草甚一の生き方のカッコよさも群を抜いていた。
そして、最後に、イチローという私よりも年下のスポーツマンの生き方のカッコよさにも私は一目置いている。彼のカッコよさは、数々の記録を打ち立て続けていることではない(そんな人はいくらでもいる)。彼のカッコよさの本質は、「自分に対する厳しさ」だ。これが結局、「カッコいい生き方」の共通項だと私は思っている。
自分に甘い人間、自分の弱さを言い訳にする生き方を私はけっしてカッコいいとは思わない。もちろん、「カッコ悪くてもいいじゃない。それが人間だよ」と自分を許し自分を甘えさせることも時には必要だろうけど、できれば人間は常に自分には厳しく、他者には寛大な生き方の方がいいと思っている。
昨日のネットのニュースの項目のトップに「なりたい大人がいない」という若い人に対する世論調査の結果が出ていたけれど、きっとそうだろうナと思う。きっと、今の若い人たちには尊敬すべき理想形の人間などこれっぽっちも存在しないんだろうナと思う(これは、かなり不幸なことだ)。私が小さい頃はすべての大人が輝いて見え、自分も早く「大人になりたい」と思っていた。そんなことを今言っても「いつの時代の話し?」と一笑にふされるに違いない。でも、そんな時代でもイチローのような素晴らしい人間はいるのだから、まんざら捨てたものでもないと私は思っている。自分の都合やまわりの都合だけで日和見的に発言し行動する人間が大半の世の中で、常に「自分の生き方」を貫ける人物はすべて尊敬に値すると私は思っているのだが。