今年出版したばかりのドキュメンタリ本の出版社とは違う別の出版社に新しい本の企画を出していた。
長年親しくしているその出版社の社長から連絡があり「編集会議でつぶされてしまいました。申し訳ないです」ということ。
といって、あ、そうですか、と素直に引き下がる私ではない。
「それで、ボツになった理由はどういうこと?」
彼曰く、学者や権威者による「お墨付き」がないからというのが表向きの理由だ。
要するに、単に音楽家みつとみ俊郎という個人が体験したこと、経験したことだけでは世の中を納得させられないし、まず売れないということなのだろう。
つまりは、「音楽が認知症などにどれほどの効果があるのかを学者なり医者がエビデンスと一緒に証明しない限り音楽と認知症の関係の本なんて売れるわけがない」、まあ多分そう言いたいのだろう。
このひとことで私はこの出版社に見切りをつけた。
音楽がある病気に対して効果があるとかないとかいったことの証明など一体どうやってエビデンスを取れば良いというのか。
それこそ、頭に電極をつけるかCTスキャンやMRIと一緒に音楽でも聞かせようというのだろうか(体験された方ならわかるように、機関銃のような騒音のするMRI装置の中で音楽なんか聞いていられるわけがない)。
仮に、何らかの方法で音楽と病気の科学的な因果関係がわかったとしてそれが一体何の役にたつというのだろうか。
現在、認知症の治療によく使われているA錠なども多くの被験者の実験の結果実際の治療に使われているのだろうが、果たしてそのクスリで本当に患者さんの病気が完治しているのだろうか(これは疑わしい)。
このクスリのおかげで果たして患者さんが幸福な人生を送れているのだろうか(これも疑わしい)。
ある症状が改善されたとしてもクスリというのは「モグラ叩き」のようにこっちで一つ、あっちでも一つという風に次から次に副作用が出てくるもの。
クスリというのはどんな病気のクスリでも「そういうもの」なのだ。
それに、第一、私は病気を治そうなんてそんな大それたことを考えたことは一度もないし、私にそんな役割や力があるとも思わない。
私にできること、それは、音楽の力でついさっきまで暗い顔に沈んでいた一人の人間の顔を明るくすることだし、それが人間にとって一番大事なことなのではないのか。
実際、先週行なった「音楽カフェ」でもそんな光景を目の当たりにした。
これまで介護施設などで一万人以上のお年寄りの人たちと一緒に「音楽」をしてきた中でも同じような光景は何度も目にしている。
そう言うと件の社長「そう、それですよ、それがエビデンスになるじゃないですか」。
でもね…。こんなことで学者さんやお医者さんは絶対にエビデンスだとは認めませんよ。
彼らが求めているのは、「学会で発表できるエビデンス」これしかありません(そうやって「例の細胞騒ぎ」も起こったんじゃないんですか)。
彼らがとりあえず欲しいのは「科学者として世の中から認められるための権威」。それがエビデンスなのです。人々の幸せは、多分、二の次でしょう。
でも、私はそんなことで学者や医師を責める気持ちもありません。
もうこれは世の中の構造的にしょうがないことだと思っていますから。
でも、私が望んでいるのはそんなことじゃない。
音楽が人々の頭の中をかき回して刺激して、そして結果「人間らしくハッピーな生活を送ることができるようになること」。
私にとって、これ以上の望みはありませんし、これができればこれ以上のエビデンスは必要ないのでは。そう思います。
だって、音楽は何千年、何万年の間、人間の生活をハッピーにしてきてるじゃないですか。
これ以上、一体どんなエビデンスが必要なんですか。
私のことばに彼も押されたのか、「一方的に音楽を聞くだけじゃダメでしょう」とか最近TV番組で覚えたばかりらしい「当事者研究が認知症治療に有効らしい」といったことを言いだしたので、私は「私が一方的に演奏したり聞いたりするだけの音楽をやっていると思いますか。当事者研究なんて、ユマニチュードと同じで、私にとってはごくごく当たり前のことですよ」と反論したが、まあ、こんなことを言ってみたところで私の頭の中で彼のところから本を出そうなどという気はとっくのとうに失せている。
私にとって必要なのは、もっともっと現場で多くの人たちと音楽をやりながら音楽がどれだけ認知症というものに影響を与えていかれるかを試していくだけ。
そして、一人でも多くの人たちの笑顔を見るだけ。
音楽家にとってこれ以上の幸せはないと思うのだけれども….。
長年親しくしているその出版社の社長から連絡があり「編集会議でつぶされてしまいました。申し訳ないです」ということ。
といって、あ、そうですか、と素直に引き下がる私ではない。
「それで、ボツになった理由はどういうこと?」
彼曰く、学者や権威者による「お墨付き」がないからというのが表向きの理由だ。
要するに、単に音楽家みつとみ俊郎という個人が体験したこと、経験したことだけでは世の中を納得させられないし、まず売れないということなのだろう。
つまりは、「音楽が認知症などにどれほどの効果があるのかを学者なり医者がエビデンスと一緒に証明しない限り音楽と認知症の関係の本なんて売れるわけがない」、まあ多分そう言いたいのだろう。
このひとことで私はこの出版社に見切りをつけた。
音楽がある病気に対して効果があるとかないとかいったことの証明など一体どうやってエビデンスを取れば良いというのか。
それこそ、頭に電極をつけるかCTスキャンやMRIと一緒に音楽でも聞かせようというのだろうか(体験された方ならわかるように、機関銃のような騒音のするMRI装置の中で音楽なんか聞いていられるわけがない)。
仮に、何らかの方法で音楽と病気の科学的な因果関係がわかったとしてそれが一体何の役にたつというのだろうか。
現在、認知症の治療によく使われているA錠なども多くの被験者の実験の結果実際の治療に使われているのだろうが、果たしてそのクスリで本当に患者さんの病気が完治しているのだろうか(これは疑わしい)。
このクスリのおかげで果たして患者さんが幸福な人生を送れているのだろうか(これも疑わしい)。
ある症状が改善されたとしてもクスリというのは「モグラ叩き」のようにこっちで一つ、あっちでも一つという風に次から次に副作用が出てくるもの。
クスリというのはどんな病気のクスリでも「そういうもの」なのだ。
それに、第一、私は病気を治そうなんてそんな大それたことを考えたことは一度もないし、私にそんな役割や力があるとも思わない。
私にできること、それは、音楽の力でついさっきまで暗い顔に沈んでいた一人の人間の顔を明るくすることだし、それが人間にとって一番大事なことなのではないのか。
実際、先週行なった「音楽カフェ」でもそんな光景を目の当たりにした。
これまで介護施設などで一万人以上のお年寄りの人たちと一緒に「音楽」をしてきた中でも同じような光景は何度も目にしている。
そう言うと件の社長「そう、それですよ、それがエビデンスになるじゃないですか」。
でもね…。こんなことで学者さんやお医者さんは絶対にエビデンスだとは認めませんよ。
彼らが求めているのは、「学会で発表できるエビデンス」これしかありません(そうやって「例の細胞騒ぎ」も起こったんじゃないんですか)。
彼らがとりあえず欲しいのは「科学者として世の中から認められるための権威」。それがエビデンスなのです。人々の幸せは、多分、二の次でしょう。
でも、私はそんなことで学者や医師を責める気持ちもありません。
もうこれは世の中の構造的にしょうがないことだと思っていますから。
でも、私が望んでいるのはそんなことじゃない。
音楽が人々の頭の中をかき回して刺激して、そして結果「人間らしくハッピーな生活を送ることができるようになること」。
私にとって、これ以上の望みはありませんし、これができればこれ以上のエビデンスは必要ないのでは。そう思います。
だって、音楽は何千年、何万年の間、人間の生活をハッピーにしてきてるじゃないですか。
これ以上、一体どんなエビデンスが必要なんですか。
私のことばに彼も押されたのか、「一方的に音楽を聞くだけじゃダメでしょう」とか最近TV番組で覚えたばかりらしい「当事者研究が認知症治療に有効らしい」といったことを言いだしたので、私は「私が一方的に演奏したり聞いたりするだけの音楽をやっていると思いますか。当事者研究なんて、ユマニチュードと同じで、私にとってはごくごく当たり前のことですよ」と反論したが、まあ、こんなことを言ってみたところで私の頭の中で彼のところから本を出そうなどという気はとっくのとうに失せている。
私にとって必要なのは、もっともっと現場で多くの人たちと音楽をやりながら音楽がどれだけ認知症というものに影響を与えていかれるかを試していくだけ。
そして、一人でも多くの人たちの笑顔を見るだけ。
音楽家にとってこれ以上の幸せはないと思うのだけれども….。