みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

大学の国語の入試問題に

2009-06-30 21:04:46 | Weblog
私の著作はこれまでに7、8回は使われてきたのだけど(予備校の模擬テストでも何回も使われたりしているらしいし正確な回数はよくわからない)、今度は中学校の入試問題でも使われたらしい(『音楽はなぜ人に幸せにするのか』という本からの引用)。
ただ、この「らしい」というのがクセもので、これまでに学校の入試で使われる時に事前の許諾を受けたことはない(あったら逆に問題だ)。入試問題という性格上、事前に関係者に問題を漏らすわけにはいかないので事後承諾のようなかっこうになってしまうのだ。でも、これも事後にきちんと私に通知してくれればいい方で、ほとんどの場合、「勝手に使って、勝手に引用して、オシマイ」だ(国立大学で使われた時も誰も何も言ってこなくてあることから偶然わかっただけだった)。
これって著作権法上どうなの?と思うが、入学試験問題というのは著作権法の特例で著者に断りなく勝手に使ってもいいことになっている。だからといって「ただただハイハイ」というのもしゃくなのでそういうことを扱っているところに所属して(いわゆる JASRAC に似たような団体が文章の方でもあるので私はそこに所属している)、そこからの報告で「今度、この学校で著作が引用されて使われましたよ」という報告を受ける。それではじめて私は「ああ、そうなんだ。今度は◯◯学校で使われたんだ」という風に知ることになる。
別に大学だろうが中学校だろうが何でもかまわないのだが、アカデミックな分野の常識っていつもなんだかオカシイことが多すぎるように思う(つまり世間の常識とずれているということ)。
先日、雑誌のインタビューで東儀秀樹さんに会っていろいろ話を聞く機会があり(まだ雑誌の発売前なので話の内容をすべてここで明かすわけにはいかないが)、その会話の一部にこんなことがあったのでちょっと話してみようと思う(この部分のネタは絶対に雑誌に載ることはないと思うので)。
私には個人的に前々からすごく疑問に思っていたことがあって、それは、ある意味、東儀さんのような立場の人にしか聞けないことなので先日思い切って聞いてみた。
正倉院の御物にはその昔シルクロード経由で日本にやってきた膨大な数の美術品や装飾品があるのだが、その中にはかなりの数の楽器も含まれている。そうした楽器というのは東儀さんのような宮内庁楽部の人たちならば自由に見たり触ったり演奏したりすることができるのかナ?というのが彼にぶつけた私の質問だ。
それに対する彼の回答は「とんでもない。私たちだってまったく見ることも触ることもできません」というもの。
この答えは私にはとっても意外だったのだが、東儀さん自身もこれにはいろいろ言いたいことがおありのようだった。
彼いわく「楽器のことも音楽のこともまったくわからない学者が楽器を鑑定したり研究して一体何がわかるのだろう?」。彼のその口調は明らかに「なんで私に演奏させないんだ?」と憤っているように見えた。
私もそれにはまったく賛成で、「学者が何もわかっていないから高松塚のようにカビを発生させて文化遺産をダメにしてしまうのだ」とさえ思っている。きっと同じようなことを東儀さんも言いたかったのだろうと思う。
学問それ自体は本当に大切なものだと思うが、「何のための学問?」っていうところが一番肝心なところで、本当に学者さんたちはその部分を理解しているのかナ?と思えてしょうがない。
きっと「学問のための学問」になっている人が多いのかナ?
それって学者さんたちには重要なことであっても(学会とかがあるから)社会全体には無価値な場合も多いし、時には害悪な場合さえある(もちろん、世の中のために身を粉にして研究している学者さんたちも大勢いるのだが)。

私の文章が入試で使われるのはけっこうだけれども、できれば何かの授業の教材とか参考書に使っていただいた方がよっぽど私は嬉しい。そちらの方がよっぽど私の文章が「生きてくれる」と思うのだが。


メシアンという作曲家は

2009-06-14 00:32:15 | Weblog
鳥の声を模倣した曲をたくさん残している人だけれども、以前の私は「なんてものずきな作曲家」ぐらいの感想しか持っていなかった。しかしながら、伊豆に暮らすようになって毎日鳥の声に囲まれて生活していると、「うん、メシアンの気持ちもよくわかる」という風に変わってきた自分がけっこうオカシイ。
日本野鳥の会も「紅白歌合戦の人数を数える人たち」ぐらいの認識しかなかったものが、最近では「あの鳴き声はあの鳥、あの飛び方はあの鳥」みたいに妙に鳥の姿や鳴き声に関心がわき、すぐに双眼鏡を見てしまう(人というのはなんて環境に左右されやすい動物なんだろうと思う)。
ホトトギスやルリビタキのやかましい鳴き声を音符にしてみたり(メシアンみたいに別にそれで曲なんか作ったりはしませんが)して自分の中での鳥の識別法にしている。
でも、そんなことよりも最近おこったとても素朴な疑問。「そもそも鳥って何で鳴くんだろう?」。
仲間を呼んでいるのか何かを伝えているのか警戒していのか、いろんな意味あいがあるのだろうけど、あんなに一日中鳴いていて疲れないのだろうか?といったバカみたいなこともいつも考えてしまうのだ。

そんな鳥の話とはまったく関係ないのですが、ちょっとここで私の近々のコンサートの案内をしておきたいと思います。私のHPがまだ更新不能の状態で(2月からずっと)、ライブ情報などが更新されずにずっと放置されているのでこのブログを借りて宣伝させていただきたいと思います。

とりあえずお知らせしたいのは6/27に行われるコンサート。
「みつとみ俊郎のミュージックレストラン」という私のレクチュアコンサートのシリーズの第三回目で、場所は荻窪のかん芸館で行います。サロンコンサート&レクチュア&パーティという盛りだくさんの催しです。
荻窪なのに、どこか郊外のリゾートにでも行ったような素敵な雰囲気のサロンです。
前回の「ミュージックレストラン」は打楽器がテーマで、ポルトガル語とブラジル音楽がどれだけ深く関わっているかなどをパーカッションの長岡敬二郎さんのトークと実演なども交えながら面白く解説したコンサートでしたが、今回のテーマは弦楽器です。ゲストがヴァイオリンとチェロなので当然のことながらクラシック曲のプログラムが盛りだくさんになってきます。パーティでは私の手作りスイーツも食べられます。
前回はレアチーズケーキにブルーベリーソースをかけたスイーツで大変好評をいただきました。今回何を作るかは当日のお楽しみです。

日時は、6/27(土曜) 14:00 ~ 16:30(パーティ時間も含む)。
出演:みつとみ俊郎(フルート&リコーダー)、弘田久美子(ヴァイオリン)、浜崎佳恵(チェロ)
曲目:ハイドン「ロンドントリオ」、バッハ「G線上のアリア」、ガーシュウィン「スワンダフル」、みつとみ俊郎「キッチン」など。

となっていますが、詳しくは以下の URL でコンサートチラシなどもご覧いただけます。
http://www.planet-y.co.jp/music_restaurant/images/mitsutomi_vol3s.pdf

予約などを主催者にお尋ねの際は、下記までどうぞ。もちろん、私の方に直接お申し込みいただいてもけっこうです。
有限会社プラネットワイ
Tel 03-5988-9316 mail info@planet-y.co.jp Web www.planet-y.co.jp



また一週間の東京を終え明日から伊豆

2009-06-07 23:05:16 | Weblog
この一週間の間に雑誌の仕事やミーティングをいくつもこなし、レッスンやリハーサルなどもやり明日から伊豆に戻る。
戻ったら戻ったでミーティングやレッスンが待っているのだから東京と似たようなもの。行ったり来たりの忙しさはこれからますます増えてくるのかな?と思う。

昨日、弟子の一人の女の子からメールをもらう。仕事でちょっと疲れて実家に帰ってノンビリしています。自分にしかできないことって何だろう?と悩んでますというメールの内容だった。
この彼女の悩みって、ある意味、人間として最もまっとうな悩みだろうと思う。
自分にしかできないこと、自分だけのオンリーワンの人生って何?と彼女は悩んでいるのだろうが、こうした悩みを持たずに、というかこうした悩みすら持てなくする強迫観念が日本の社会にはあるのじゃないのかなと時々思ったりする。

私が昔アメリカに留学しようと思った理由はただ一つだった。アメリカだったら私らしい生き方ができるんじゃないだろうか?
それが最大の理由だった。
誰にもおしつけられない、私にしかできないことを教えてくれるところ、それがアメリカかもしれないと思ったからだ。
アメリカ留学前、ヨーロッパに留学した先輩に話しを聞いたことがある。「バッハの正しい演奏法を教えてもらった」と先輩は言っていた。それを聞いた瞬間「こりゃダメだ。ヨーロッパに行くのはやめよう」と思った。
人生には百人には百通りの答えがあり、音楽にも百人の音楽家には百通りの答えがあるはずなのに「バッハの正しい演奏」って何のこっちゃ?と思った私は即座にアメリカ行きを決意した。
結果は大正解。アメリカには私の行き方を受け入れてくれる懐の深さがあったし、人生のあらゆる可能性も教えてくれた。
よく私のフルートの音は人と違っていると言われる。スタジオで演奏している時もステージでライブ演奏している時もそれは変わらない。他のフルーティストの音とはまったく違って聞こえるという。当たり前の話だ。私は人と違う音を出そうと思って演奏しているのだし、私が演奏するのだから「私の音」にしかなりようがない。
もし私の演奏や音が他の人と同じであるならば私が音楽家である意味なんて何もないじゃない?と私は本気で思う。
もし、私と同じことがAさんでもBさんでもできるのならば、どうぞAさんにお仕事を頼んでください。Bさんに頼んでくださいと言ってしまう。
そんな私は、ある意味、世渡り下手なのかもしれないが、この信念を変えてまで音楽の仕事を続けようとは思わない。私が音楽家であり私が演奏したり曲を作ったり解説したりするのは「私でしかできない仕事」だからこそ。そうでなければ私の存在理由などどこにもない。
でも、私にとってはこんな当たり前で単純なことが、意外と世の中では当たり前ではなかったりする。
人と同じことをやり、人と同じ目標を目指すことの方が理解されやすいし、何よりもこの国では一番評価されやすいのだろうから、ある意味しょうがないことなのかもしれない。でも、だからといって、私は自分の信念を曲げるつもりはないし、私の音楽と私の存在をもっとより多くのに欲してほしいなと思う。
自分を理解して欲しいのではない。理解して欲しいなどという不遜なことは思わない。自分がもっと欲せられればそれでいいのだと思う。
私という人間を私のやることを欲している人が一人もいなければ、それは即私の存在の否定になるのだから。

そんなこんなを書きつらねてその子に返信をした。
彼女からまた返信が返ってきた。
「みつとみさんはやっぱり強いですね。でも、勇気がわきました」。
そう思ってもらえることが何よりだ。

もう既に一昨日のことになってしまったが

2009-06-01 20:39:36 | Weblog
ジャズ・ヴァイオリンの寺井尚子さんのコンサートを聞きに品川のステラ・ボールに行く。
彼女の音源はほとんど聞き尽くしたと言えるほど聞いてきたのだが、彼女のコンサートに行くのは今回が初めて。
正直、これほどいいとは思わなかった。
彼女のCDはこれまで雑誌でも何度も紹介したりしてきたので、個人的にも相当評価してきたつもりだったが、生の演奏の方がCDより百倍いいかもしれない。
まあ、百倍はオーバーにしても、彼女の演奏をひとことで言うと「カッコいい」。それにつきる。
コンサート後のパーティで彼女に実際に目の前でお会いした時には「小さい人!」と驚くほど小柄なのだが、彼女のステージ姿はやたら大きく見える。その一つの理由がヴァオリンの弓の使い方だろう。
彼女は一曲一曲弾き終わるたび「ミエを切る」ように「さあ、どうだ」とばかりにヴァイオリンの弓を高々と上にあげる。これがかなりキマっている。
それと演奏中の足の動きも魅力の一つ。同じヴァイオリンの川井郁子さんはどちらかというと表情の艶っぽさで魅せる人だが、寺井さんは演奏中の身体の動きでけっこう魅せてくれる人だと思った(一緒に行った私の弟子の女の子もこれを見て「私も参考にします」=研究して多いに参考にしなさい)。
それよりも何よりも寺井さんが尊敬に値するのは、ヴァイオリンという最もジャズをやりにくい楽器であえてジャズのスタイルを作っていること。閉演後レコード・メーカーの人にも言ったのだが、なぜ世界的に見てもジャズ・ヴァイオリニストと言われる人が少ないかほとんどの人は理解していない。ステファン・グラッペリというアメリカの有名なジャズ・ヴァイオリニストがいたが、寺井さんの演奏は完全にグラッペリの演奏を超えている。
ヴァイオリンという楽器は「こする楽器」。管楽器やピアノ、ギターとは違って「こする」という作業で音を出さなければならない弦楽器(ヴァイオリンもチェロも同じだが、ジャズのベースだけはほとんどピッチカートで音をはじくのでギターと同じ演奏原理)は、弦の上をこする「距離」と「時間」が絶対的に必要になってくる。だから、この「時間」と「ノリ」の時間が一致していればいいのだが、ヴァイオリンの弓が弦の上をこする作業とノリの作業を一致させるのはそんな簡単な作業ではない。私はヴァイオリンを演奏する人間ではないが、寺井さんがヴァイオリンという楽器でジャズのスタイルを作りあげようとする時の困難さとディレンマは容易に理解できる。
その楽器でこれだけの音楽を作り上げる寺井尚子さんという人間の音楽にさらに興味がわく。
彼女の演奏でクラシックも聞いてみたい。
パーティの最後にメーカーの知り合いにこんな提案をしてみた。
「寺井さんの演奏でヴィヴァルディの『四季』を聞いてみたいな」と。
それを聞いたメーカーの部長さん曰く「お金かかりそうだけど、考える余地はありそうですね」。
うん、これは私も真剣に考えてみてもいいかナ?