私の著作はこれまでに7、8回は使われてきたのだけど(予備校の模擬テストでも何回も使われたりしているらしいし正確な回数はよくわからない)、今度は中学校の入試問題でも使われたらしい(『音楽はなぜ人に幸せにするのか』という本からの引用)。
ただ、この「らしい」というのがクセもので、これまでに学校の入試で使われる時に事前の許諾を受けたことはない(あったら逆に問題だ)。入試問題という性格上、事前に関係者に問題を漏らすわけにはいかないので事後承諾のようなかっこうになってしまうのだ。でも、これも事後にきちんと私に通知してくれればいい方で、ほとんどの場合、「勝手に使って、勝手に引用して、オシマイ」だ(国立大学で使われた時も誰も何も言ってこなくてあることから偶然わかっただけだった)。
これって著作権法上どうなの?と思うが、入学試験問題というのは著作権法の特例で著者に断りなく勝手に使ってもいいことになっている。だからといって「ただただハイハイ」というのもしゃくなのでそういうことを扱っているところに所属して(いわゆる JASRAC に似たような団体が文章の方でもあるので私はそこに所属している)、そこからの報告で「今度、この学校で著作が引用されて使われましたよ」という報告を受ける。それではじめて私は「ああ、そうなんだ。今度は◯◯学校で使われたんだ」という風に知ることになる。
別に大学だろうが中学校だろうが何でもかまわないのだが、アカデミックな分野の常識っていつもなんだかオカシイことが多すぎるように思う(つまり世間の常識とずれているということ)。
先日、雑誌のインタビューで東儀秀樹さんに会っていろいろ話を聞く機会があり(まだ雑誌の発売前なので話の内容をすべてここで明かすわけにはいかないが)、その会話の一部にこんなことがあったのでちょっと話してみようと思う(この部分のネタは絶対に雑誌に載ることはないと思うので)。
私には個人的に前々からすごく疑問に思っていたことがあって、それは、ある意味、東儀さんのような立場の人にしか聞けないことなので先日思い切って聞いてみた。
正倉院の御物にはその昔シルクロード経由で日本にやってきた膨大な数の美術品や装飾品があるのだが、その中にはかなりの数の楽器も含まれている。そうした楽器というのは東儀さんのような宮内庁楽部の人たちならば自由に見たり触ったり演奏したりすることができるのかナ?というのが彼にぶつけた私の質問だ。
それに対する彼の回答は「とんでもない。私たちだってまったく見ることも触ることもできません」というもの。
この答えは私にはとっても意外だったのだが、東儀さん自身もこれにはいろいろ言いたいことがおありのようだった。
彼いわく「楽器のことも音楽のこともまったくわからない学者が楽器を鑑定したり研究して一体何がわかるのだろう?」。彼のその口調は明らかに「なんで私に演奏させないんだ?」と憤っているように見えた。
私もそれにはまったく賛成で、「学者が何もわかっていないから高松塚のようにカビを発生させて文化遺産をダメにしてしまうのだ」とさえ思っている。きっと同じようなことを東儀さんも言いたかったのだろうと思う。
学問それ自体は本当に大切なものだと思うが、「何のための学問?」っていうところが一番肝心なところで、本当に学者さんたちはその部分を理解しているのかナ?と思えてしょうがない。
きっと「学問のための学問」になっている人が多いのかナ?
それって学者さんたちには重要なことであっても(学会とかがあるから)社会全体には無価値な場合も多いし、時には害悪な場合さえある(もちろん、世の中のために身を粉にして研究している学者さんたちも大勢いるのだが)。
私の文章が入試で使われるのはけっこうだけれども、できれば何かの授業の教材とか参考書に使っていただいた方がよっぽど私は嬉しい。そちらの方がよっぽど私の文章が「生きてくれる」と思うのだが。
ただ、この「らしい」というのがクセもので、これまでに学校の入試で使われる時に事前の許諾を受けたことはない(あったら逆に問題だ)。入試問題という性格上、事前に関係者に問題を漏らすわけにはいかないので事後承諾のようなかっこうになってしまうのだ。でも、これも事後にきちんと私に通知してくれればいい方で、ほとんどの場合、「勝手に使って、勝手に引用して、オシマイ」だ(国立大学で使われた時も誰も何も言ってこなくてあることから偶然わかっただけだった)。
これって著作権法上どうなの?と思うが、入学試験問題というのは著作権法の特例で著者に断りなく勝手に使ってもいいことになっている。だからといって「ただただハイハイ」というのもしゃくなのでそういうことを扱っているところに所属して(いわゆる JASRAC に似たような団体が文章の方でもあるので私はそこに所属している)、そこからの報告で「今度、この学校で著作が引用されて使われましたよ」という報告を受ける。それではじめて私は「ああ、そうなんだ。今度は◯◯学校で使われたんだ」という風に知ることになる。
別に大学だろうが中学校だろうが何でもかまわないのだが、アカデミックな分野の常識っていつもなんだかオカシイことが多すぎるように思う(つまり世間の常識とずれているということ)。
先日、雑誌のインタビューで東儀秀樹さんに会っていろいろ話を聞く機会があり(まだ雑誌の発売前なので話の内容をすべてここで明かすわけにはいかないが)、その会話の一部にこんなことがあったのでちょっと話してみようと思う(この部分のネタは絶対に雑誌に載ることはないと思うので)。
私には個人的に前々からすごく疑問に思っていたことがあって、それは、ある意味、東儀さんのような立場の人にしか聞けないことなので先日思い切って聞いてみた。
正倉院の御物にはその昔シルクロード経由で日本にやってきた膨大な数の美術品や装飾品があるのだが、その中にはかなりの数の楽器も含まれている。そうした楽器というのは東儀さんのような宮内庁楽部の人たちならば自由に見たり触ったり演奏したりすることができるのかナ?というのが彼にぶつけた私の質問だ。
それに対する彼の回答は「とんでもない。私たちだってまったく見ることも触ることもできません」というもの。
この答えは私にはとっても意外だったのだが、東儀さん自身もこれにはいろいろ言いたいことがおありのようだった。
彼いわく「楽器のことも音楽のこともまったくわからない学者が楽器を鑑定したり研究して一体何がわかるのだろう?」。彼のその口調は明らかに「なんで私に演奏させないんだ?」と憤っているように見えた。
私もそれにはまったく賛成で、「学者が何もわかっていないから高松塚のようにカビを発生させて文化遺産をダメにしてしまうのだ」とさえ思っている。きっと同じようなことを東儀さんも言いたかったのだろうと思う。
学問それ自体は本当に大切なものだと思うが、「何のための学問?」っていうところが一番肝心なところで、本当に学者さんたちはその部分を理解しているのかナ?と思えてしょうがない。
きっと「学問のための学問」になっている人が多いのかナ?
それって学者さんたちには重要なことであっても(学会とかがあるから)社会全体には無価値な場合も多いし、時には害悪な場合さえある(もちろん、世の中のために身を粉にして研究している学者さんたちも大勢いるのだが)。
私の文章が入試で使われるのはけっこうだけれども、できれば何かの授業の教材とか参考書に使っていただいた方がよっぽど私は嬉しい。そちらの方がよっぽど私の文章が「生きてくれる」と思うのだが。