みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

冠婚葬祭が人とのつきあいの基本だと

2010-02-23 22:49:45 | Weblog
いう人がいる。
オメデタイ方がいつ来るのかはある程度予測がつくが、不幸の方はいつ訪れるかがまったくわからないからやっかいだ。

義弟の死はかなり突然にやってきた。
入院期間はあったものの、入院からその「死」までの時間は本当に「アッ」という間だった。
血液のガン、いわゆる大きな意味での白血病なのだろうが、本当の意味での病名はわからないという。
ただ、わかっていたことは彼の身体の中で骨という骨が音をたててどんどん崩れていき、その崩れた骨が内臓を圧迫していたことだ。
だから直接の死因は肺が折れたアバラ骨で圧迫され呼吸ができなくなってしまったこと。
そのため、「痛み」はハンパなものではなかったようだ(もちろん、私自身がその痛みを味わったわけではないので、それがどれだけ痛かったのかはわからない)。
バタバタと告別式を今日終え、親類の間でふと漏れたことばは、「ある意味、あっという間に召されたのはヨカッタのじゃないだろうか。あの痛みがそれほど長びかずに済んだわけだし ....」。

それにしても、彼は私よりも若いのだ。
まだ50代半ば。
彼の娘さんは今年からやっと大学。
お嬢さんの就職や結婚、子育てなどを見守れない悔しさはいくばかりかと思う。
せめて私にできることはないかと思った。
お通夜と告別式でフルートを吹いた。
葬儀はキリスト教式で行ったので参列した人は皆献花をする。
その献花中、献花の人がまったくいなくなるまでずっとフルートを吹き続けた(伴奏なしのたった一人で)。
CDの白々しい葬送の音楽で送るのなら私が演奏した方が少なくとも気持ちはこめられる。
そう思い、即興で30分ぐらい演奏し続けたが、ピアノやギターと違い管楽器をまったく一人で休みなしで30分も吹き続けると唇が相当に疲れてくる。こんな経験は50年近く楽器を演奏し続けてきた中でも初めての体験だ。
でも、死んだ彼の苦しみに比べれば30分ぐらいノンストップで吹き続けられなくてどうすると自分に言い聞かせながら演奏した。
私の音を実際聞いていたのはそこにいた大勢の人たちだったろうが、私が音を届けたかったのは天国にいる彼一人。
届いていたのだろうか?

朝青龍引退の報道を

2010-02-06 10:55:44 | Weblog
聞いていて思い浮かんだのが、ある聖書の話。
ヨハネによる福音書8章1~11節にある話で、イエスの前に姦通の罪を犯したとしてある女性がひきだされてくる。その女性をだしに民衆がイエスという人間を試すシーンだ。

人々は、「この女をどう裁くのか?石で打って殺すのか?そうしないのか?」とイエスに問う。
もしイエスが「石で打って殺す」と言えばローマ帝国の権威軽んじる反逆罪に当たるし(当時死刑を宣告できるのはローマ皇帝だけ)、「許す」と言ってもこれまた皇帝に逆らって法律をねじまげたことになるし、イエスにとってはどちらにせよ八方ふさがりの窮地に立たされる状況だったわけだが、この時イエスが言ったのは、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」ということば。

朝青龍の問題では、朝青龍が悪いのか、相撲協会が悪いのか、高砂親方が悪いのかといった罪のなすりあいばかりしているように見えるが、根本的に悪いのは、相撲というもので利益を享受していながら、結局国技の定義もスポーツの定義もはっきりさせないまま外国人力士におんぶにだっこをして相撲を観戦してきたた私たち日本人全体なのではないのか?という気がしてならない。
「相撲は品格を重んじるスポーツです」と言うのならば、まずこのイエスのことばを思い出して欲しいと思う。
「一体、今の日本人にどれだけ品格を持っている人がいるのですか?一体、誰が朝青龍に石を投げる資格があるのですか?」と。
これは、何も相撲の問題だけではない。
相撲が「日本の文化」と言いながら外国人の人たちのお世話にならなければ存続できない状態と同じように、日本の食文化と言われる「さしみ」や「寿司」だってほとんど状況は変わらない。
もともと江戸前のネタで作っていた江戸前の寿司のネタが江戸前で捕れたのはとっくの昔。今や近海で取れる魚もあまりなくなりほとんどは遠洋漁業、つまり外国で捕ったり、深海で捕った冷凍の魚でさしみや寿司を作らなければ「日本の食文化」だって維持できない状況だ。
こんな状況でも日本の文化とか日本の食文化といったことばだけをお題目にして自分勝手な文化論を語る日本人って、この聖書の中に出てくるイエスを意地悪く試そうとする民衆とまったく同じなんじゃないかな?と思ってしまう。
きっと、貴乃花は、生来が生真面目な人なのだろうから、本来あるべき相撲道からあまりにもかけ離れてしまった現在の相撲をもっとしっかりと見つめなおしたいという意思で行動しているのだと思う。貴乃花という人の姿勢は本当に評価できる。
一方、朝青龍は「土俵では鬼になる」と語り彼なりの思想と信念を持って相撲をとっていた人だと思う。
相撲は一体「スポーツなのか?文化なのか?」。
ここをはっきりさせない限りいつまでたってもこの罪のなすりあいは永遠に続くだろうし、モンゴルの人たちが言うように「これは日本がモンゴルに対して悪意をもってやっている」という風なとらえかたをされてしまう。モンゴルだってブルガリアだって、アメリカだって、どの国だって「日本人は勝手だ」という意識で見るのだと思う。
曙が今回の問題でいうっていたこと。
「日本の相撲は外国人の力士をたくさん引っ張ってきておきながら、そうした相撲取が引退した後相撲界に残ろうとすると日本人に帰化しないとダメという。こんな勝手な理屈はない」というっていた。
まさしくその通りだと思う。
都合のいい時だけ外国人を利用して使い古したら後はポイでは、曙ならずとも「それはないでしょう?」だ。
こんな人権侵害まがいの行為を支えているのが私たち日本人だということも忘れてはならないと思う。
もしかしたら復活するのは不可能なのかもしれない貴乃花の言う本来の「相撲道」という思想と、私たちが現在娯楽として楽しむことのできるスポーツという矛盾する二種類の思想の間の折り合いをきちんとつけていく役割は、思考の停止した相撲協会のお年寄りたちでもなく、馬鹿なことをあおるだけのメディアでもなく、私たち日本人一人一人の役割だと思うのは私だけではないと思うのだけれども….。

朝青龍がいない土俵に一体何が残っているのかナ?
とてもサビシイ気持ちでいっぱいだ。

一年ぶりのキッチンライブは、

2010-02-03 17:45:27 | Weblog
幸い、満杯のお客さんに恵まれ無事終わったけれども、やはり「疲れるな」というのが正直な感想。
料理を作ったり考えたりするのも楽しいし、音楽を演奏するのも楽しいのだけれども、どちらも完璧にこなそうとすると、当たり前のことだが、二倍疲れる。
昨日は終わった後、若干放心状態で、スタッフの数人やお客さん10人ぐらいとお茶をした時も、何を頼めばいいのかそれすらわからず「何でもいい」といった投げやりな状態。
まあ、それでも、料理はすべて完璧(豚肉と富山の山菜のエラをメインに使った春巻きを梅肉ソースで食べる一品と、赤みそ、甜麺醤をベースにしたリゾットをイカに詰めたイカメシ、クラムチャウダーとグリュイエルチーズが詰まったシューの3品に、骨つき鶏肉をハチミツとバルサミコ酢、ローズマリーにつけたものをグリルしたメインディッシュにマッシュポテトを添えたもの。そして、デザートは、ラム酒とオレンジジュースのソースに浸したサバランの上にチョコレートソースと生クリームをかけたもの)にできたつもりだ。
家での試作を何度も繰り返してきたので、本番の日の厨房ではもう自分で食べる気はしなかったけど、お客さんは皆さん満足されていたようだった。

今日の朝、東京から伊豆に帰る途中、伊豆の海岸沿いには熱海桜や河津桜がたくさん咲いていて、「伊豆はもう春だな」という感じだ。
もちろん、北陸や東北はまだまだ寒い季節が続くのだろうが、伊豆というのは、本当にのどかでおだやかなところだとつくづく思う(私の住んでいるところは標高が300 mぐらいあるので、風はちょっと強い時もあるが)。