みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

アプローチ

2015-12-26 12:53:11 | Weblog

病気って何だろうナといつも思う。

別に、難しい哲学的な意味とか科学的な意味あいを考えているわけではなくって、単純に、病気とどうつきあっていくかという問題。

ここ数年、妻の病気の脳卒中とか麻痺とか認知症といったいろいろな「病い」のことを考え続けている。

4年前、恵子が救急車で運ばれたその日救急病棟の一室で考えたことは一つだけ。

「これは自分の運命なんだからそのまま受け入れるしかない。でも、自分は、その運命にどう取り組んでいけば良いのだろうか?」。

昏睡状態で眠る彼女のベッドの脇で本気でそう考えていた。

だから、懸命に病気のことを知ろうと出来る限り病院内で彼女と一緒に過ごした(病院の面会時間なんか完全に無視して病院に入りびたっていた)。

療法士さんや看護士さんがどんなことをするのかをじっくり観察しその方法を学んだ(医師は、大病院だったせいか若いインターンたちが下らない質問を繰り返しするだけなので、論外)。

でも、私が恵子の病気を通じて一番学んだことは、自分が「普通である」ことの奇跡。

これ以外にないと思う。

これを奇跡と言わずして「一体何が奇跡なの」という感じだ。

だって、(私は)普通に歩けるじゃん。普通に手が動くじゃん。普通にしゃべれるじゃん….。

言い出したらキリがない。

でも、こんな「当たり前」のことが「奇跡」だということに気がつくようになったのも、間違いなく恵子が病気になってから。

そして、人が幸福であるか不幸であるかを決めるのも自分だということも彼女の病気から学んだ。

自分の境遇を「不幸」だと思えば不幸以外の何ものでもないし、逆に「幸せ」だと思えば、これ以上の幸せもない。

要は、自分の日常をどう捉えるかだけのこと。

こんな単純な(当たり前の)アプローチに気づけたのも、彼女の病気があったからだろう。

一時は車椅子から脱出できた恵子が一年ほど前から車椅子に縛られたままだ。

自分では懸命に(車椅子から)脱出しようと試みているけれども、何かが決定的に彼女の邪魔をしている。

彼女の「奇跡」を邪魔しているものは、麻痺だけではない。

さまざまなものが彼女の目の前や頭の中に立ちはだかっているのだろう。

それが何なのかを一緒に考える。

でも、なるべく「手」は出さない。

介護というのは、何でもかんでも「やってあげる」ことではない。

その人が「普通に生活できる」ように考えてあげることが本当の介護だということにもいつしか気づかされるようになった。

今の私にとって毎日の彼女のケアが最優先課題だ。

別に、それで自分の生活や時間が犠牲にされているとは思わない。

目の前に助けを求めている人がいるのにその人を放っておいてまでやらなければならない大事な仕事なんてあるわけがない。

私は、何か人からしてもらうよりもしてあげられること(考えること)の方がはるかに幸せだということにも、ある日ふと気づかされた。

この気持、音楽家なら本来当たり前に持っているはずの感情なのだが、若い時にはなかなかそれに気づかない(すべての音楽家の仕事は、世の中に幸せのタネを撒くこと)。

 

今、世の中は認知症対策の大合唱だ。

どんなメディアも認知症の問題を取り上げないところはない。

でも、何か違う。何かが根本的に違うと思う。

ほとんどの情報が医者や健常者、家族などの介護する側から発信されているからかもしれない。

認知症を実際に患っている人からの情報があまりない(必死に探すと、少し見つかるのだが)。

世の中に溢れているのは「認知症にならないようにするにはどうしたら良いのか…」そんな話ばかりだ。

だから、認知症情報は、メディアのネガティブキャンペーンに終始する。

だから、人々は認知症に対して「悪い印象」しか持たないようになる。

「じゃあ、なってしまった人はどうするの?なってしまったら人生終わりなの?」

私が「セミナー」や講演会でいつも言っているのは、認知症「予防」でも「対策」でもない。

「認知症になろうがなるまいが、どうやって人生を生きていけばよいのか、どう死んでいけばよいのか」。

つまり、病気とのつきあい方、アプローチの方法を考えて欲しい。

そう訴えているだけのこと。

認知症なんかで人生が終わってしまって良いわけがない。

今年自主上映を各地でやった映画『パーソナルソング』を見た方の感想にこんなのがあった。

「音楽は若い時に誰でもかかるハシカのようなものだと思っていましたが、映画を見て音楽がこれだけ人の記憶に重要な作用を及ぼしていることを知り驚きました」。

音楽がハシカ?

まあ、音楽が流行歌、ポップスだけだったらたしかにそうとも言えるかもしれないが、音楽は、間違いなく人類が何万年も前に産み出したもの。

その音楽がハシカなんかであるはずがない。

人が産まれる前から聞いている母親の心臓の音。

これが人間の生活の全てだと私は思っている。

人が歩くこと、走ること、動くこと、考えること、人間のすべてがこの心臓の音、つまり鼓動というリズムに制御されている。

もちろん、音楽もここから離れることはできない。

音楽というのは、ハシカなんかじゃなくって、人類の普遍的価値の一つなのだと思う。

それを人間の生活の中で上手に使っていかない手はない。

「人の日常をより豊かにより幸せにするために音楽は一番役立ちますよ。だって、人の心臓(こころ)と直接対話できるものって音楽以外にないでしょ?」

音楽家が演奏を通じて発信すべきは、そうした情報やノウハウなのでは…。

 

私の現在の生活の最優先課題は、恵子の病気との闘いと彼女との日常。

でも、その闘いを通じて学んだことは限りなく大きい。

ひょっとすると、私は、音楽の本当の価値さえ彼女の病気から学んだのかもしれない。


野坂昭如さんとの思い出

2015-12-10 17:09:18 | Weblog

作家の野坂昭如さんが85歳で亡くなられたという。

以前から脳梗塞で臥せられていたということは知っていた。

今日その訃報がメディアから流されて「そうか…あの方もとうとう亡くなられたのか」という感慨と共に私にとっては「悪夢(それほど大げさでもないが)」とも言えるような思い出が蘇ってきた。

多くの人にとって野坂さんは『火垂るの墓』の作者、童謡の『オモチャのチャチャチャ』の作詞家として記憶に残っているのだろうが(そうだ、あと国会議員になった時もあったナ)、私にとっては、私の学生時代に彼が歌う『黒の舟歌』をピアノで伴奏した時の悪夢にも近い思いでが蘇ってくる。

それが学生時代だったことはハッキリ覚えているが「いったいアレって幾つの時だっけ?」というぐらい自分のその時の年齢が思い出せない。

おそらく二十歳前後だったはずなのだが、きっと長い間自分の過去から消し去りたかった記憶の一つだったのだろう。

今日、急にその記憶が蘇ってきた。

私の所属しているサークルが野坂氏の講演会を企画した。

そして、私もその企画の中心人物の一人として動いていた。

学生運動真っ盛りの頃で、野坂氏はその当時多くの学生に支持されていた作家の一人だった。

だから、講演会は超満員だった(はずだ)。

大学の教室を会場に使ったのだけれども、何人ぐらい収容の教室だったかもよく覚えていない。

「ウィスキーの瓶を演台の上に置いておくように」。

これが彼から出された絶対条件だった(そそぐグラスは置いたっけかナ...?記憶にないナ)。

そう、彼はいつも酔っぱらっている人なのだ。

なので、飲まないで人前でしゃべるなんて行為はけっしてしたくなかったのだろう。

私たちは、彼の講演以外にも「歌ってください」と注文をつけた。

ちょうど『黒の舟歌』というヒット曲が彼にはあったからだ。

そのために、私たちは教室にわざわざアップライトピアノを運びこんだ。

今だったらカラオケセット一つ用意すれば十分間に合うのだが、この当時カラオケなんてものは存在しない。

こちらにはその曲のためにバンドを雇うお金なんかありゃしない。

仕方なく、みんなから「お前ピアノ弾けるんだろ。伴奏しろ!」。

「え、そんなムチャブリしないでよ。私はピアノ専門じゃないんだよ、そんな上手くないよ…」と言い訳しつつもみんなの剣幕におされそのまま私が恐れ多くも野坂先生の歌の伴奏をするハメになった。

(多分)当日マネージャー氏が持ってきた楽譜をその場で渡され私はそれほど上手くもないピアノに向った(もうこの時点で頭真っ白だったと思うが開き直るのは案外早い)。

汗をかいたというようなレベルではなかった。

聴衆の中には私なんかよりピアノが上手な人なんかいくらでもいるだろうにと思いつつも、私は主催者の一人なのだから「これも義務の一つ」と観念してピアノに向った。

きっとかなりのミスタッチを繰り返していたのだろう、

たまらず野坂氏自身から(歌いながらの)「ガンバレ!ピアノ!」コールが(アッちゃ~あ)。

それを聞いてお客さんがウケることウケること(そりゃ、そうダよネ)。

こっちは、顔から火をふきそうになりながらの必死のピアノ演奏なのだが、とりあえず観客には大受けだから「まあ、いいか」みたいには結局なったが、今思い出しても冷や汗タラタラの野坂氏との思い出だ。

野坂先生、あの時のピアノ、すみませんでした。

安らかにお眠りください。

合掌。