みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

野いちごを

2009-05-27 23:28:46 | Weblog
ラズベリーだと知らない人もけっこういるのだということが最近よくわかった。
キイチゴとか野いちごというとあまりラズベリーということばと結びつかないのかもしれない。
今は伊豆の家の庭に野生に生えている野イチゴを摘んでジャムを作ったりしているが、私が小さい頃渋谷の家のそばでもたくさん野イチゴを取って食べたりした記憶がある。
渋谷の富ヶ谷というところが実家だが、それこそ今伊豆の自然の中で体験することのほとんどはこの渋谷の町でも当たり前のように体験していた。それだけ東京にも自然がたくさんあったということだ。
近所の小川でメダカと取ったりザリガニを取ったり、雨になるとすぐにカエルが出てきたりした光景が渋谷の町であったということはにわかに信じがたい人も多いだろうがそれこそまぎれもなく自分が体験した事実だ。
今日は家の庭のラズベリー(つまり野イチゴです)を取ってジャムを作った。まだまだ取りきれないほどなっているので、しばらくジャム作りは続くだろうし、これから先は桑の実やブルーベリーなんかも取れる季節になる。
やっぱ、自然がそばにあるといのは楽しい。

雨音を聞きながら

2009-05-22 17:08:41 | Weblog
ショパンではなくノンビリと温泉に入っていると、ここが自宅だとは思えなくなってくるが、昨日までの東京での一週間はやはり怒濤のように忙しかった。
特に、昨日は朝からレッスンの後、雑誌の取材でオカリナの宗次郎さんのインタビューで浅草の事務所へ、その後は知り合いの芝居を見に下北沢へ、それが終わって今度は映画プロデューサーと打ち合わせ。こんな感じで一日が終わっただけに今日伊豆の自宅に戻って雨の中をゆったりと過ごすのも、そういう意味では悪くない。

それにしても、昨日宗次郎さんにお会いして思ったのもやはりこの人もアーティストだということだった。
きっと今のことばは意味不明の発言だと思うが、私が意味しているのはこういうこと。
これまで何十人も一流のアーティストと呼ばれる人たちにインタビューしてきたのだが、インタビューのたびに思うのは皆さんそれぞれまったく別のオーラを持って輝いているということ。これは、あまり年齢にもキャリアの長さにも関係がない。
要するに、こうした形でメディアに乞われて話をしたり記事になったりするような人たちというのは、人や社会との距離感とそこにどういう発言をしていくかという自分なりのスタイルを持っているからだ。そして、その発言もそれぞれそれなりの説得力を持っている。だからこそ、その人は一流のアーティストなのでありスターなのだと思う。
という意味では、私は正直なところ宗次郎さんという存在にどういったカリスマ性とどういったスター性があるのだろうか?という目でずっと見ていたのだが、昨日じかにお会いして「うん、この方も他の人とはまったく違うけれども、スターでありカリスマなんだな」ということを納得して帰ってきた。
「とにかく私はオカリナが好きだし、それを一人でも多くの人に聞いて欲しい」という一途な思いがきっと宗さんを今の存在にしたのだと思うし、彼の話を聞いているとそうとしか思えない。
土で作ったオカリナで木や水や風を表現していく、というような自然派的な発言もこの人の口から出るとまったく「そうですね」と思わず頷いてしまうような説得力がある。
 世の中にはエリートコースを歩みながらいつの間にかアーティストになりスターの座を獲得してしまう人も多いけれども、この人はそんな星の下に生まれた人ではないのだろう。昔、宗さんは、立松和平さんの出るTV番組の音楽をやっていたことがあるけれども、朴訥とした栃木弁で語る立松さんの語り口に彼の音楽はものすごくハマっていたような記憶がある。群馬出身の宗次郎さんがオカリナ修行をしたのは栃木の山奥(と宗さん自身が言っていたのだが)というような話と妙に符号して、これまたすごく納得した次第だ。

ただ、今までこんなことを誰にもしゃべったことはないのだが、このアーティストのインタビューという仕事が私にとって若干ストレスになる時もある。
どんなアーティストの方とお会いしても、彼や彼女たちのことばが私の頭の中では常に先取りされて「きっと次はこうしゃべるだろうな」という大体の予測はつくことが多い(きっと、これは自分自身がアーティストだからだろう)。それに、アーティストの方たちがいろいろ説明してくださっている専門的な事柄もこちらは当たり前のように承知していることが多い。しかし、私はそれを知らないフリをして聞かなければならないし、「そうおっしゃると思ってました」なんてことは口が避けても言えない(それが相手に対する礼儀だからだ)。こちらの立場と向こうの立場は明らかに違うのだから私が出過ぎた発言や行為は絶対にできない。
 ある意味、自分がインタビュアーになっている時は、自分がアーティストであることを忘れなければできないことが多いのも事実だ。ということは、ひょっとしたら、こういう仕事は専門的なことを何も知らない純粋な編集人、あるいはライターの方がやった方がいいのかな?と思う時もあるけれども、雑誌の方もこんな私を見込んで使ってくださっているのだし、私でしか書けない記事というものを期待してくださる読者も大勢いらっしゃるのだと思い毎回いい記事を書こうと努力している次第だ。

人生には落とし穴が

2009-05-15 00:11:33 | Weblog
いつもころがっているもの。
都会から伊豆の田舎に引っ越してきて快適そのものの暮らしを続けていたつもりが思いっきり「痛い初体験」をするハメに。

朝方、右の手に強烈な痛みを覚えて(夢なのか現実なのか一瞬わからなかったが、何か手にガラスの破片でもささったのか?という意識で目が覚めたことだけは覚えている)起きた。ひょっとしてクモか何かにさされたのかナ?とベッドの下をのぞくとクモらしき影が通っていったので「ああ、クモか。毒ぐもじゃないといいな」なんてノンビリ考えていると目の前にクモとは違う黒い影。
「あ、こいつだ!真犯人は」。
その見るだにおそろしい影の正体はムカデ。
さあ、つかまえなければと思った瞬間、そいつは一目散にプリンターの中ににょろにょろと侵入してしまった。
「ウソ!」と思った時は既にそいつの姿はプリンターの中へと消えていた。
「先月買ったばかりの新しいプリンターがヤバイ」という恐怖よりも、「こいつを始末するまでは安眠できん」という思いが先にたつ。時間はまだ5時だ。
「こいつは何が何でも殺してしまわねば」と思い、プリンターの電源を抜き、パソコンとのケーブルも抜き、プリンター本体だけをリビングの真ん中にド~んと置き臨戦態勢。
多分そのうちこの中から出てくるだろうという予測のもとに片手に新聞紙を丸めたものをもちながら待機すること15分。のこのこ出てきたそいつに思いっきり恨みの一撃をくらわした。
と、ここまでは夢中だったのだが、憎むべき「敵」を片付けた後は、自分の手のかまれた跡が急に気になり始めた。当然かなり痛い。ズキズキもしているし重くだるい。
「これは一体どういう毒素なんだろう?」と早速ネットで検索すると出てくるわ出てくるわ、おそろしい提言やらおそろしい体験談などゾロゾロ。結論としては医者に行けということなのだが、まだ時間は朝の6時頃。こんな時間から医者に行くわけにはいかない。と、とりあえずまた寝てから(多少ビビリながらだったけど)、10時ぐらいに医者に行く。
伊豆高原の駅のそばにある内科に行ったのだが、まあ、ご多分にもれずどこも病院は老人ばかりで、待たされるかナ?と思いつつも意外と待たされずすぐ診療室へ。
ただ、かなり若い先生でちょっとイヤな予感(ちょっと頼りなさそうな若いお医者さんだったし)。
その先生はこちらの症状などを聞き取りながらパソコンのキーボードの手をまったく休めない(もうペンで書く時代ではないのでしょうが)。
途中、「かまれた方の手はどちらですか?」と言われ右手を差し出すと、「ああ、右の方がはれてますね」。
私としては右も左もそんなに変わらないように見えるのだが(単にむくんでるだけじゃないの?)、あまりそこをツッコンでもしょうがないので言われるままにしておく。
結局、かまれてから5時間もたってるんだからもう大丈夫ということらしく(何が大丈夫なんだろう?)、軟膏だけ出しておきましょうでチョン。解毒をする必要はないんですか?と聞くと、あっさりと大丈夫ですよと言われてしまった。
まあ、実際ハレもそれほどひどくはならなかったので私はアレルギー体質ではないのだろう。
虫さされとかハチさされは、たまにショック症状を起こす人がいるらしいが(そんなこともネットにたくさん書いてあったが)、まあ、そんな体質の人はそれほど多くはないはずだ(もし、そんなに多かったらいつもいろんな所で「ハチにさされてショック死」とか「虫にかまれてショック死」なんてニュースが頻繁に流れるはずだろう)。
とにかく、田舎暮らしで虫体験はある程度不可避なので、これからも何やらアヤシゲな体験をしていくことになるのではないだろうか(あんまり期待したくはないけれど)。

私がプロデュースする

2009-05-12 02:35:19 | Weblog
ラップグループのレコーディングに行くのがちょっと早過ぎて時間つぶしも兼ねて車の中で次回の雑誌原稿(CD評)のために新譜を数枚聞く。
その中でジャズ・バイオリンの寺井尚子さんを聞いていてちょっと考えこんでしまった。きっと朝読んだ新聞の広告記事に三宅純さんのインタビューが掲載されていてそれを読んだせいもあるかもしれない。
三宅さんが日本を離れて海外で音楽活動をする理由の一つにマイルス・デビスと共演して「ジャズは死んだ」と感じたことだと語っている部分がとても印象的だった。
私は別に「ジャズが死んだ」のか「クラシックが死んだ」のかはよくわからないけど、寺井さんのように、「ジャズ語」のしゃべりにくいバイオリンという楽器であえて「ジャズ・バイオリン」というレッテルを貼られながらも音楽活動を続ける人の心の葛藤はよく理解できる気がする。
17世紀イタリアに出現してそれ以来クラシックの世界で代表的な地位を占め続けているヴァイオリンという楽器にジャズ語をしゃべらせるのはそんなに容易なことではない。私は正直言って寺井さんの演奏がジャズだとも思わないし(レコードメーカーは当然ジャズアルバムとして売るのだろうけど)、寺井さんの音楽がどこに所属しているのか何語を話そうとしているのかもわからないけれど、彼女がバイオリンで話そうとしている言語の意味は十分理解できるつもりだし彼女の音楽はそれなりの説得力を持って世の中の人にメッセージを伝えているとも思っている。
音楽がこれほどまでに細かいジャンルに分かれ、それぞれの分野のアーティストがそれぞれの言語でしかしゃべろうとしないのは音楽にとってもマイナスだし、それを聞く人間にとってもマイナスなことだと思う。
音楽はコミュニケーション、と言いきった時に一番大事なのは「何語を話す」かではなく「何を話す」かだけだしその話す内容がどれだけ説得力を持つかということにつきると思う。
それを好きか嫌いかだけでも判断はできないし、ましてや何の根拠もない「いい」か「悪い」かみたいなことばで音楽を歪小化してしまうのは私たち音楽をやる人間にもそれを楽しむ人間にも本当の意味での「ことばの本質」を見失わせることになるのではないだろうか。
孔子は六経という易や詩、書、礼、音楽、などの言語(儒教の教典だ)の解説書として論語を書いたのだけれども孔子という人がさすがだナと思うところは、人が陥りがちな傾向(物事を言語によってどんどんわかりにくくさせてしまうこと)を逆にシンプルなフレーズにまとめて人々に投げかけたことだろうと思う。別に四文字熟語でなくても孔子のことばは十分にシンプルだし十分に説得力を持っている。
要は人間同士のコミュニケーションにどういう言語を使うかでありその言語によってどれだけ相手を説得することができるか?だ。
私はこれまでに何百回となく同じ質問をされ続けてきた。
「みつとみさんはどんな音楽をやられるんですか?」
きっと、この質問を私にされた方は「どんなジャンルの音楽をやるんですか?」という意味で聞いているのだと思う。そして、もし私が「クラシックをやります」と言えば、その人は、頭の中で「みつとみ俊郎がやるクラシック音楽」というものをイメージして私の音楽を理解しようとするだろう。それは私がジャズですと答えようがロックですと答えようが同じことだ。
人は「どこどこ出身のどこどこ学校を出たナニナニをやっている〇〇さん」で人を理解しようとする(要するに身上調書だ)。この納得する材料がないと相手に対して不安の方が先に来てしまうからだ。
何のインフォメーションもないコンサートや映画に行くことを人はあまりよしとしない。特に、今のようにネットで何でも検索できる時代ならなおさらかもしれない。でも、何のインフォメーションもなく行ったコンサートや映画でとんでもない感動をもらった時に、人はこの上もない喜ぶと幸せを感じるはずだ。それは誰の力も誰の意見も介入させずに対象と自分が直接コミュニケーションして得た納得であり感動なのだから何よりも重要なはず。
そんな風に真っさらの気持ちでいろいろな物や人に接する方が人は何倍も幸せになれるのにな…。