みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

彼女のお父さんには

2006-02-25 23:08:56 | Weblog
何度かスタジオの仕事でサックスを吹いていただいたことがあるのだが、お嬢さんに会うのは今日が初めて。
雑誌『ミセス』のイタビュー記事のために平原綾香さんと六本木のドリームミュージックで会う。
おそらく、街で見かければ普通の若いお嬢さんなんだろうが、目の前で私の用意した質問に丁寧に、そして、ひとことひとこと、ひとフレーズ、ひとフレーズをしっかりとことばを選びながら答える態度は、とてもまだ21才ぐらいの若い女性には見えない。
立派にアーティストとしての解答が、私のすべての質問に対して出てくる。しかも、その答えは、私の予想を裏切らないどころか、ある意味、パーフェクトな答えばかり。

でも、話しをしながら納得した。
すべては、ご両親や家庭から来るモノなのだなと思った。
仕事上のことなので全部のネタはバラせないが、一つだけ私が感動したことばがある。
平原さんのお母さんが小さい頃から彼女にいつも言っていたということば。
「音楽を奏でるようにことばをしゃべりなさい」。
なんという深いモノを持ったお母さんだろう。なんという愛情を持ったお母さんだろう。
何か、私は彼女のこのことばを聞いただけで、ついホロっときてしまい、思わず叫びそうになってしまったのだが、そこはグッと我慢。インタビューは私の仕事なのですから(小さい頃に両親をなくしている私はこの手の話しに弱いのだ...グスン)。

でも、ホントにいい子ですネ。
ある意味、理想的な娘。理想的な父母。そして、結果として、理想的な家庭がそこにあるっていう気がした。
今でも、よく3人で一緒に映画に行くのだという。
サックス吹きとしてもいつか父を越えてみたいとも言っていた。
彼女のサックス、ぜひ聞いてみたいと思った。

すごい!

2006-02-25 00:39:31 | Weblog
もう、すごいのひとこと。

今日は、人形劇団飛行船に打ち合わせに行った後、私が雑誌ミセスでインタビュー紹介した能管の一噌幸弘さんのコンサートを見に東京オペラシティの大ホールまで行った。
彼のライブ演奏を最初に見た時もかなりの衝撃だったのだけど、今夜のコンサートは「ぶったまげた」の一言。「この人、ただモノじゃない」と本気で思ったコンサートでもあった。

私は、これまで、すごいアーティストと言われるような人を数限りなく見たり、一緒に演奏したりしてきたので、滅多なことじゃ驚かないと思っていた私だけれども、この人には完璧にノックアウトされてしまった。
バッハの管弦楽組曲をオーケストラと能管で完璧にやってのけただけでも衝撃以外の何者でもないのに、彼の自作のオーケストラの組曲やベースの吉野さんたちとのセッションなど、これほど興奮したコンサートも珍しい。
まあ、こうやって自分がいかに今日のコンサートに感激したかをことばで伝えようとするのだが、ある意味無理だナと思う。
こればかりは、実際に行って聞いた人にしかわからないショックと感動と興奮。今日、あの場所にいた人は本当に幸せだと思う。

おかげで、明日インタビューする平原綾香の来月発売のニューアルバムを今BGMにしながらこのblogを書いているのだけれども、彼女に明日何を聞けばいいのかサッパリ浮かんでこない。
え~い、明日考えよう。今日は、すっかり頭と身体が一噌幸弘モードだ!

昨日

2006-02-23 23:58:34 | Weblog
ディレクターが電話をかけてきたCXのドラマ『小早川伸木の恋』を見たけど、あいかわらず日本のドラマってサイテーだなと思って、ただアキレルだけ。
基本的には脚本家の頭が悪いのが根本の原因なんだろうけど(まあ、いろいろなことや方面に配慮した書き方にはなるのかある程度はしょうがないのはわかるんだけどネ、それにしてもなんであんなセリフになるの?っていうモノが多すぎる)、役者もヘタだよネ。役者がヘタだから間がもたないから音楽がやたら多い。それでトータルとしてなんとか見れるレベルになっているという感じだけど、あれなら高校演劇の方がマシなんじゃないとさえ思ってしまう。
なくなってしまったけど、火曜サスペンスの方がドラマとしての作りはまだマシだナと思う。
何か、私の文章の使われ方によっては、もう一度ディレクターに話して、きちんと謝罪させようかと思ったけど、それもアホらしくなってくるぐらい。
でも、昨日の話しと大分違うので、明日ひとこと言ってやろうと思う(どうも、私をただの音楽評論家と思い、ナメてるようなフシがあるし)。
まあ、ホントはそんな連中と関わっているヒマはないぐらい忙しいのだけれど...。

今日は、レコード会社の親しい宣伝マンに映画とフルフルの売り込み。前からつきあってきた某大手のレコード会社はもう諦めて別の会社に鞍変えだ。実は、今日行ったレコード会社の方が世界レベルで見ればNO.1の会社。
来週は制作の副部長とのミーティングだが、その席でキメてやるつもり(商談成立!といかないかナ?!)。

明日は、別の映画の話しでプロデューサーとミーティング。こっちは、私が脚本を書くつもりの映画。どんな脚本家よりも私の方がレベルが上だということを実際に見せてやるいい機会だと思う(ハハハ、私もこんなこと言っていておおボラ吹きと言われないようにしなきゃ....実は、私はこういうことをわざわざ言いふらして自分で自分にプレッシャーを与えているのです、ブヒ)。

またまた

2006-02-22 00:12:52 | Weblog
長い一日。
午前中から午後3時まではフルフルのリハーサル。
それが終わると、オーディションや打ち合わせ。
その間にもぼんぼん仕事の連絡が電話やメールに入るので休まるヒマがない。
でも、夜は天王州のアートスフィアにピアノ西村由紀江のコンサートに行く。このコンサートは、私が雑誌に紹介した関係で行ったのである意味仕事の延長のようなモノだが、正直言ってよかったと本気で思った。

彼女には以前数回会ったこともあるし、その音楽の内容はよく知っていたつもりだったけれど、不覚にも演奏を聞きながら涙してしまった。私が音楽会で涙したのは後にも先にも2回だけ。
一つは、もう30年以上も前に行ったコンサート。当時、東と西に分かれていた共産圏の東ドイツのオーケストラが来日してバッハの『ロ短調ミサ』をやった時。しかも、その時泣いた場面は、ソプラノのアリアにフルートがオブリガートを吹くところ。
普通、同業者の演奏は必ず批判的な耳で聞いてしまい、純粋に演奏を楽しむことなどないのだが、この時ばかりは別。私は、それがフルートの音だということさえ忘れていた。それぐらい、純粋に感動できた演奏だった。
もう一つは、アメリカのシンガー、フィービー・スノウのコンサートに行った時。これも、単純に彼女の歌声を聞いているだけで涙が止まらなかったことを昨日のように覚えている。
今日の西村由紀江さんのピアノもそれに近い感動だった。
意地悪な言い方をすれば、西村さんの音楽は基本的にどれも同じ。ヒーリングということばがピッタリくるような類いの音楽だ。正直言って私の好むタイプの音楽ではない。それでも、今夜の彼女の演奏を聞いて涙したのは、彼女の音楽に対する姿勢が素直に伝わってきたからだと思う。
彼女はまさしくアーティストだなと思った。自分の気持ちを表現する術を知っている人。そして、それを聞く人に伝えられる人。だから、私は感動できたのかもしれないと思う。
バッハの時も、フィービー・スノウの時も今日の西村由紀江さんのピアノも、私は何も考えていなかったような気がする。そして、だからこそ私に人間以外のメッセージが伝わってきたような気さえした。
いつも、理屈や理論で人に音楽を説明する私が、何にも理屈抜きでただただ音楽に感動できた瞬間というのも、私にとっては何モノにも変え難い体験だ(私は、こういう理屈抜きの感動を与えられるアーティストにフルフルを育てあげたいと思っているのだが...)

長い一日がこんな形で締めくくれるのもそうザラにはないので、今夜はいい気持ちで寝れそうだ。
あ、まだ寝れないや。今夜は荒川静香を見ようと思っていたのだ(ブヒ)。




もともと

2006-02-20 23:01:19 | Weblog
一日のうちにどれだけいろんなコトができるか?みたいなことを楽しむタイプなので、スケジュールがたくさん埋まっている方がうれしいのだが、ここ最近は、ちょっとつまり過ぎかナ?とも思う。

人形のことでいろいろ打ち合わせに大宮まで出向いたり、会社関係の親族のご葬儀に出たり、パレードの原案の絵コンテを作ったりとけっこうやることは多いし、フルフルの方でも家で曲を書きいの、外で人に会ったりと、リハーサル以外で使う時間はかなり多い。この2つでも超多忙なのに、これに雑誌関係やその他の仕事がこれまた多いときてるので、さすがのコンピューターのような頭脳の私の頭でも(どこがじゃい?ハハハハ)もうグジャグジャに近いです(笑)。
家に私設秘書でも置きたいぐらいの心境だ(そうでないと、モノ探しにまた時間を使わなければならないので)。
でも、家に私設秘書なんていうと誤解されるからヤメときましょう(誰も誤解なんかしてないか?ブヒ)。


今日の東京は一日中雨。そのせいか、あまり寒くは感じない。これからひと雨ごとに春が近づいてくるだろう。
今頃、伊豆のミモザの黄色い花が満開に咲き誇っているかもしれないと思うと気が気ではないのだが、そんなにすぐには行かれる距離でないので、まあ今度行く時まで少しは残っててくれよと願うばかり。
恒例の私の弟子たちの合宿は3/18、19の週末にやる予定だが、それまでにも一回ぐらいは行きたいなと思ってる。
でも、いつ行けるのかナ?(自分の家なのに、自分の自由にならないというのも「何でやネン?」という感じだが、まあしょうがないですネ)。





朝早くから

2006-02-17 00:47:34 | Weblog
(実は今日は朝の5:30に起きている)インタビューの準備をして待っているというのも大変な作業だなと思う。
ニューヨーク・メトロポリタン・オペラのスター・ソプラノ、アンナ・ネトレプコの電話インタビューを雑誌「ミセス」のためにする予定が二転三転して、最終的に今日の朝に電話がかかってくるのを朝7時から9時の間に待つということだったのだが、実際は私の方からかけることになった。
まあ、別に仕事だからいいんだけど、レコード会社とアーティストの関係というのもこれまた大変なモノだなといつも思う。特に、相手がメトの大スターともなれば腫れ物にさわるような扱いになり、向こうの方から来る注文をムゲにすることもできないのだろう。私は、こういう関係に直接たずさわっているわけではないから、ただ単に、延期になりました。この時間にここにかけてください。ハイわかりましたというだけのkとおだけど、どんな仕事でも裏方のスタッフの苦労はいかばかりかと思う。表にたつスターは、人々の脚光をあびるだけですむが、後ろで働く人たちは大変だ。でも、それもこれもスターたちの才能あっての話しだから何とも言えないけれど。
でも、結局インタビューは何の問題もなく無事アッという間に終わった(何せ、時間が20分に制限されているのだから、こちらも質問は用意周到に準備していたので、逆に時間は15分ぐらいで終わってしまった)。彼女はもともとロシアの人なので、英語は後から覚えた言語だから、それほどおしゃべりにはならないので、こちらの質問に答えるとそれ以上余計なことは言わないので、私の質問の数が少なかったかナと若干後悔した(でも、いろんな資料があるので、それほど質問することもなかったのも事実だけど。要は、直接声が聞きたかったというのが本音。笑)。

でも、長い一日はそれだけでは終わらなかった、というかそれからが本番だったと言ってもいい。
本番の詳細は書かないが、昨日まで出来過ぎなぐらいうまく行っていたプロジェクトがいきなり足元からすくわれたという感じ。まあ、世の中何ごともそう簡単にはいかせてくれない。ここが辛抱のしどころだと神様が言ってくれているのかなとも思う。

今日一日でドドっと疲れてしまったようだ。頑張らねば。

何か知らないけど

2006-02-15 00:56:50 | Weblog
いつの間にかヴァレンタインデーだったのだと改めて気づかされた(毎年、この日はキッチンライブをやっていたのだが、今年はそれをやらないので意識の外にあったのかもしれない)。

フルフルの長いリハとダンスレッスンの後(私がレッスンを受けたわけじゃないけど)、一本打ち合わせをすまして夜ライブに行った。弟子の子がサポートで参加しているバンドのライブだが、もろパンク。弟子自身もどういうバンドか形容ができなかったのも無理はない(私がどんなバンドかと尋ねてもあまり要領を得た答えが返ってこなかったので)。
リーダーのヴォーカルの女の子が完璧にロリのコスプレ入っているので、いっけんパンク・バンドのようには見えないけれど、音楽の内容は完璧にパンクだ(まあ、昔だったらグラムという言い方も微妙にできないことはない感じのバンドだけれども、今はロックは、メタルかパンクかロックンロールしかない時代だから、パンク・バンドと言ってもいいのだろう)。
対バンの福岡のギャルバンド(女性4人のバンド)はモロ絶叫型のパンクでこちらの方がインパクト度は強かった。だから、こちらの方がわかりやすい。でも、どちらも自己陶酔型のバンドなので、歌詞はまったく聞き取れないし爆音で攻める方法論は同じだ。2つのバンドとも、最後には失神寸前まで行こうとしているのだけれども、やっぱまだ自己陶酔度が足りないと見え、本気の失神まではイケてない。
ロックは基本的に自己陶酔でいいのであって、本気でイってくれないことにはお客もイケない。
昔、山瀬まみちゃんもパンク系のロックをやっていたことがあったけど(そんなことを知っている人も今は少ないかもしれないけど)、彼女はステージでマジで全力を出し切るタイプで、楽屋に戻ってくるなり完璧に失神していたこともあった(あれはバブル期だったような気がするけど、時期はもうはっきり覚えていない)。
何ごとも中途半端はいけない。ハンパにやるぐらいなら最初からやらない方がいい。音楽なんてのは、完全なる自己陶酔かお客をとことん楽しませるかのどっちかしかないのだから、そのどちらかにツキ抜けて欲しい。どっちにもいけてないステージほど腹だたしくてイライラするものはないのだから。

今日は満月

2006-02-14 00:07:13 | Weblog
明日はヴァレンタインデー(あんまり関係ないか?)

満月というのはいつ見ても気持ちのいいもの。真んまるなお月さま(ちょうど『ニャンちゅうワールド』のエンディング・テーマにこんな歌詞があったっけ)が空にあるだけで空気がキレイに浄化されているように見える。特に冬の空は透明感があるから余計にそう見えるのかもしれない。

フルフルのアーティスト写真を撮るための衣裳を借りにファイナルステージさんに行くが、お目当てのパンツスーツはまだ一着しかなく、また今週、日を改めて行こうと思っている。紺か黒のパンツスーツを探しているのだが、メンバーの手持ちのだけで揃えるとどうしても個人の趣味が入るので統一感が出ないために、一つのブランドで統一した方がいいと思っている。どのブランドが一番いいかというようなことは言えないが、私の思っているフルフルのイメージは大人のカッコよさなので、あまりカワイイ服装はさせられない(私は、「萌え」がキライですからネ)。
日本の場合、女の子の共通言語はどんな場合も「かわいい」だが、私の場合の共通言語はどんな場合も「かっこいい」だ。自分の身の回りからも自分の生き方からも、できるだけ「かっこ悪い」ものは排除していく。かっこ悪さをなくせば、自然とかっこよくなっていく。私の場合の単純な消去法だ。
道にゴミを捨てるのはかっこ悪い。だからしない。自分の責任を誰か他人に押し付ける。これもかっこ悪いからしない。両足を広げて歩く。これもかっこ悪いからしない。男でも女でも年寄りでも若くても「威張る」のはかっこ悪いからしない。ロリの男もマザコンの男もかっこ悪いからキライ。私が考えるかっこよさは「潔よさ」だから、潔くないことは絶対にしたくない。
まあ、すべては自分の主観だけれども、要するに自分から見てかっこ悪いと思われることはどんどん自分の生活の中から排除していき、とことん潔く生きていきたい。そして、自分が死んだ後に、「あの人の生き方ってかっこよかったよネ」と言われて死にたい。
ハハハ、死んでから後にかっこよかったと言われてもしょうがないじゃないかと言われそうだけど、これは私の求める究極のかっこよさだから、多分、ゆずれないナ。

久しぶりに

2006-02-12 02:55:56 | Weblog
昔プロデュースしたCDを引っぱり出してきて弟子と聞く。
もう15年も前にソニーで作ったキャロル・セラのCD。全曲ユーミンのフランス語カバーだが、この手のモノの走りということもあり、50万近く売れた私としては珍しいヒットCDだ。
サックスの柳沼さんのソロを聞かせるために引っぱり出してきたのだが、そこに書かれているミュージシャンの顔ぶれをみて改めて驚いてしまう。
コーラスにおおたか静流、アコーディオンにKOBA、スティールドラムにヤン冨田、ベースが松永孝義、ドラムが河野通生、サックスが柳沼さんに、平原まこと(平原綾香のお父さん)にギターが梶原順というメンツだ。いま、この人たちを普通に雇ったら彼らのギャラだけで何百万になるだろう?(もちろん、このレコーディングでは普通のスタジオミュージシャン代しか払ってないのだが、それでもこれだけの人たちだ。けっこうギャラは使った)。
このCDの制作はバブルの末期だったのでけっこうぜいたくに作っていたんだなと改めて思い知らされる。そういえば、この時のexectuive producerの目黒さんはその後ソニーの社長になってしまったし...ナ。
う~ん、今どき、こんなゼイタクな作りのCDはなかなか作れないだろうなどと、弟子に説明するが、彼女、わかったのかわからないのかキョトンとはしていたが...。

昨年から水栽培をしていたアボカドの若芽がそろそろ成長し始めている。以前にもアボカドを育て、1メーターぐらいの高さまで育てたのだが結局枯れてしまった(冬の寒さにさらしてしまったのが原因だが)。それだけ成長しても実を結ぶことはなかったが、今度のアボカドは伊豆に持っていき向こうの土で育ててみようと思っている。伊豆の暖かさならアボカドの生育には問題ないのではと思っているからだ。
今年は、伊豆での野菜作りがかなり楽しみになってきた。

けっこう朝早くから

2006-02-10 02:02:27 | Weblog
ミーティングに出かける。
「ニャンちゅう」のテーマ・ソングとお絵書きうたのピアノ譜が出版されるので、それの楽譜を届けにNHK音楽出版まで行ったのだ。
午後から用事があるためのいや応なしの早朝ミーティング。でも、早朝とはいっても10時だ。この時間を早朝と言ってしまってはサラリーマンやOLの人たちに叱られるかもしれないが、私が朝の9頃に家を出ることは滅多にないので、感覚的には早朝だ。

「ニャンちゅう」の話しをそっちのけで別の話題で盛り上がる。音楽出版の人なので著作権ネタには詳しい。こういう話しを実名でするの問題があるのでしないが、韓国映画が日本の音楽をパクったり盗作したりすることはよくあるので、その話しで盛り上がってしまう。例の『冬のソナタ』では、監督自らがある日本の作曲家のCDをそのまま映画のBGMに使ってしまっために莫大な慰謝料を払った話や、『頭の中の消しゴム』では、日本の有名な作曲家の曲のパクリを堂々とやっていたというような話し、など。こんな話しが横行するぐらい韓国の著作権意識は低い。でも、考えようによっては、韓国でさえこうなのだから、他のアジア諸国の著作権意識はほとんどないに等しいのだろうと思う。それに比べたら、まだ日本はアジアの中ではマシな方かもしれない。でも、欧米から見ると、日本はいつでも叱られる立場の国だ。著作権意識が低い、と。

でも、音楽のまだマシな方なのかもしれない。映画などの映像の著作権の方がはるかに遅れている。それも、ある意味、しょうがないのかもしれない。というのも、音楽よりも映像の方が関わっている人の数がベラボウに多い。それだけ著作権管理が難しい分野でもあるのだ。一時、著作権収入が収入の半分を越えていた時期もあったけど、私の場合、そういう状況はあまり好ましいことではない。著作権収入が増えてくるということは、それだけ現場仕事が少なくなるということであり、私としてhけっして望ましいことではない。
いつも、現場に命を賭けられるぐらいの力とスタンスは維持していたいと思う。


天気予報が

2006-02-08 02:09:38 | Weblog
大ウソつきだったけれども、まあ春の天候というのは予測しづらいのが昔からの相場。
春も秋も低気圧だ高気圧だとかいった気圧はイマイチ安定しない。要するに、温度差があればあるほど海から吸い上げられる水蒸気の量も変化するわけで、それによって起こる雲の発生が不安定になるからだ。でも、まだ春じゃない(花粉が飛んでいるから「春だ」と主張する人もいたが)。春になるには長雨が必要。菜種梅雨はいつなのだろう?

フルフルのリハで写真を撮った後、関係者とミーティング。主な議題はTV番組とアパレル・タイアップ。そして、Duo Exchangeでのデビュー・ライブ。まあ、どちらにせよもうすぐだ。

家に帰ってからも仕事が多い。NHKの『ニャンちゅうワールド』のCDがもうすぐ東芝EMIから発売されるので、それの楽譜集をNHK音楽出版が発行する。ピアノ伴奏楽譜を作らなければならないので、それの作業。
そして、ミセスの4月号の原稿をメールで送る。ここ十年ぐらい、原稿はすべてメールで送っている。原稿用紙に書いた手書きの原稿を最後に編集者に手渡したのはいつだったろうか?さっぱり思い出せないぐらい、もうはるか昔になってしまったようだ。
テレビで見ると大江健三郎さんとかは未だに手書きの原稿を書いているようだが、編集者もそれに対応できる人でないと(つまりベテランでないと)、大江さんような作家の編集者にはなれないだろうナと思う。まあ、大江さんクラスの作家に若い人が担当になるとは思えないけれど。

昨年水栽培で育てていたアボカドの若芽が少し大きくなった。それを見ると、やっぱり春は近いナという気がする。

午後、ミーティングの

2006-02-07 00:11:08 | Weblog
後、家に帰って原稿を書く。
コンサート紹介のページを担当しているので、コンサート情報にはいつも気をつけているが、紹介するのが全国誌なので、あまり小さいライブなどは紹介できない。となると、自然ビッグ・ネームということになり、チケットの値段も高いコンサートばかりになってしまう。本当は、もうちょっと安いチケットでいいコンサートも紹介したいのだが...。

アメリカに留学する友人(これからするというよりは、一度行って帰国しまた行くというパターンの人だが)が午前中に私の家に訪ねてきて、しばし音楽の話しやアメリカの話しで盛り上がる。
彼とも話したのだが、外国にいると、日本人というのは、日本人と街で会ってもなるべく目を合わせないようにする。これは日本人に特有の性癖だ(外国生活の経験のある人はきっとそう思うだろう)。同じアジア人でも、韓国の人も、中国の人もそんなことはない。なぜに、日本人だけが日本人であることを恥じるような行動を取るのか?
その理由はハッキリしていると思う。日本人は自分のアイデンティティを持たない国民だからだ。

今の日本人の中の何人が自分をアジア人だと自覚しているだろうか?
日本人は西洋人の仲間だと誤解している人もいるかもしれない。アジアにいても、他のアジア人とは違うんだと思っている人もかなりいるのではないだろうか?
首相や政治家が靖国神社に参拝に行くたびに韓国や中国が怒るけれども、これって宗教の問題でもないし、戦争時代の日本の行動を謝ったと謝ってないとかいう問題ではないと思う。根本的に日本人が自分たちをアジア人の一つだという意識を持ってないことが問題なのだと私は思っている。アジアの一つの国だという意識、自分たちはアジア人だという意識がもうちょっとあれば、とっくに解決している問題だろうとも思う。

アメリカで生活していると、韓国の人や中国の人たちがいかに堂々と、というか傲慢なぐらい自分たちにプライドを持って生活しているかがよくわかる。ある意味、彼らが日本人を見下している。当然だろうと思う。日本人のように、アメリカ人の顔色を伺いながら暮らすようなバカなまねは絶対にしないから。中国人は中国人としてアイデンティティを持っているし、韓国人もそうだ。ところが、日本人というのは一体どういうアイデンティティを持てばいいのかすらわかっていない。私はアメリカ人?私は日本人?私はアジア人?私は一体何?
もともとそういうアイデンティティ教育をされていないから、日本にいても日本人であるということの意味がわからない。アジアの一つなのに、アジア人という意識はまったく持っていない。だから、英語がわからないと世界で通用しないんじゃないのか?といったバカみたいなコンプレックスを持つようになってしまう。

アメリカでフルートを勉強していた私は、なぜ尺八を演奏しないのかとアメリカ人に何度聞かれたことか。確かに、私も、何で自分は尺八ではなく、フルートなんだろうと何度も考えた。そして、尺八の演奏ができない自分を恥じたこともある。日本人なのに、なんで尺八の一つも演奏できないのか?
単純な疑問だし、自分の中でなかなか答えのでない疑問でもあった。フルートを演奏できることで自分が日本人であるというアイデンティティはなかなか持ちにくい。ピアノだってそうだろう。なぜ琴じゃないのか?ヴァイオリンも、なぜ胡弓じゃないのか?
自分が中国人だったら、小泉さんの態度はきっと腹がたつだろうと思う。おまえは何様じゃい?
きっと、そんな気持ちなんだろうと思う。韓国の人にしてもそうだろう。単に、戦争の時の侵略を謝れとかいった問題だけじゃないのだろうと思う。日本人のアイデンティティのなさ。きっと、それが許せないのだろうと思う。日本人は、もっと自分がアジア人の一つだということを自覚すべきではないのか?

今日は

2006-02-05 01:50:56 | Weblog
日本橋の三越劇場に映画『そうかもしれない』の特別上映会を観に行った。
一体、私はこの映画を何回観たことになるのだろう?
音楽をつけるために観たラッシュの時点から数えても、40回から50回は観ている計算になる(要するに数えられないぐらい観ているということだ)。それでも、毎回感動し、新しい発見をする。そして、いつも泣く。今日も、この映画を初めて観たという人たちから何通も「泣きました」というメールをもらった(場内でも泣いている音があちこちから聞こえてきた)。
実に不思議な映画だと思うし、私がスタッフの一人だから言うのではなく正直「いい映画」だと言える映画だ。

私は、自分の身の回りに認知症という人を持ったことがないので、その苦労やその実体というものをはっきりと言える立場にはないのだが、そういう人たちを家庭に持っていたりそういう人たちを看護する看護士さんたちから見ても、映画の主役の雪村いずみさんの演技はかなりリアルなものだそうだ(認知症の患者さんたちは、二十四時間ずっとボケているわけではなく、時には正気に戻ると言われているけれども、その辺の演技が実にうまく表現されているのではないかと私も思っている)。
この映画の中で、下条アトム(雑誌編集者役)が言うセリフに「このお二人の生き方は実にすさまじい。人間とは、夫婦とは何かを考えさせられます」というのがあるが、おそらくこの映画のテーマと見どころはこの辺りにあるのではないかと思う。
妻はボケ、夫はガンにおかされ、救いようのない状態になりながらもけっしてお互いを愛することをやめない夫婦。
子供のいない夫婦。50年もの長い間、時間と空間を共有してきた年老いた夫婦。もし子供がいたとしてしても、その子供たちに彼ら二人の時間の意味はけっして理解されることはないだろう。

老いと若さが順繰りにめぐっていくという事実を、世の中の人はすべて頭では理解しても、それが現実のものとなって自分に襲いかかってこられると人はなす術を持たない。映画の中で、ボケた妻や入院した夫に何気なくあびせる若いヘルパーや看護士たちのことばは、それが善意であるにもかかわらず、その残酷な現実を容赦なく突きつける(若い看護士たちは、自分たちのその若さ自体が年老いた人間にとっていかに残酷なモノであるかということを理解していない)。

黒と白、老いと若さ、善と悪、そうした対立するモノどうしの二元論が世の中を動かしているのだと言ったのは毛沢東だが、そうした無機的な唯物論から人間を救ってくれるのはおそらく「情」しかないのかもしれないと私は思う。「こころ」はきっと唯物論的には進展していかないだろう。だからこそ、音楽が人間の救いになっているのかもしれない。

なんだか

2006-02-04 00:58:23 | Weblog
よくわからないけど、いろんな仕事をしたような気がするけど、それ以上に疲労感が残るのはメールがあまりにも多かったせいだろうと思う。
原稿を書いている時でも曲を作っている時でもメールは容赦なく来る。放っておけばいいのだろうけど、すぐに返事をしてしまう。放っておくとそのメールが来たこと自体忘れてしまうし、後から見たので手後れ(まあ、そんなに重大なことをメールでは言ってこないとは思うけど、食事の誘いとかだと手後れということはありえる)になってしまわないかと思ってすぐに見て返事をするクセがついている。
それに、ついつい長い返事をしてしまうことも多いので(一聞かれると十答えるタイプなので)それで疲れてしまったのかもしれない。

来週電話インタビューするニューヨーク・メトロポリタン歌劇場のスター・ソプラノ、アンナ・ネトレプコのDVDがレコード会社から届いたので見ていたら、その中にもインタビューがあり、とっても面白いことを言っていた。
小さい頃からオペラ歌手を夢みていた彼女は、オペラを勉強するために地元ロシアのペテルスプルグのマリンスキー歌劇場の掃除人として働こうと思い立つ。そうすれば、好きなオペラがいつでも見られると思ったからだ。そのおかげで彼女が念願のオペラ歌手としてスター街道を歩いている。
一つの夢を追うなら、それを絶対に手にいれるという気持ちが夢を引き寄せるものだ。気持ちが薄い人は夢は追えない。
それにしても、このアンナ・ネトレプコは、同じロシアのシャラポワにも劣らず美人だ。白系ロシア人というのは美しい遺伝子をたくさん持っている人種なのだろう。そうでなければ、あれほどの美人ぞろいということの理由がわからない。

でも、ゴールデン・グローブ賞の授賞式に出ていたマライア・キャリーの太っていたこと!
あれじゃ、ただのオバサンだよ(歌はうまいけど)。

最近

2006-02-03 01:37:12 | Weblog
天皇の跡継ぎ問題で女系天皇を認めるか認めないかで政治家が右往左往しているけれども、今日のニュースを見ていると、とうとうトンデモないことまで持ち出してきたなという印象だ。
男性遺伝子のXY染色体と女性のXX染色体を持ち出して、女系だと男性にだけあるY染色体が女系だと継承されないので、厳密には血が継承されないというような論理を持ち出してきたが、これはちょっと変だなと私は思う(私でなくてもそう思う人は多いだろうが)。
この考えは、明らかに女性蔑視につながる(正統な遺伝子はY染色体にしかないといった論調になりかねないからだ)。
私は、皇室の家系は女系がいいのか男系がいいのかといった判断は個人的にはしたくないのだが、このXYとXXの論理を持ち出すのは科学的に考えてもちょっとオカシイ気がする。

そもそも、人の細胞の染色体数は46本で、そのうち性とは関係ない常染色体数は44で男女共通。
性を決定する性染色体は、男性はXYでそのうちXは母親由来。女性のXXの一本のXは母親由来、もう一本のXは父親由来になる(そもそも、この時点で先ほどの女系には父親の血が流れないという論理の半分は崩れる)。
男性は、常染色体の44本と性染色体のXYの体細胞で生きている。X染色体が一本でも生きて行く事ができると言う事は、X染色体は一本あればよいということにもつながる。
女性のX染色体の立場からすれば、各細胞につき母親由来のX染色体を使った細胞と、父親由来のX染色体を使った細胞を持つことになる。細胞の多様性が、一つの細胞で2倍ある女性は、いろいろな種類の細胞の組み合わせを考えると、男性の無限倍に近い多様性を持っている事になるわけだ(しかも、個々の細胞は二本あるX染色体のうち片方を使わない状態にもできる)。
進化論では、近縁の種の間で多様性が高いほうが、より進化していると考えるのが普通(それの方が突然変異も起こりやすいからだ)で、細胞の多様性がより高い女性の方がより進化しているという解釈する方が自然だ。それに、昔私が習った理科の教科書では、Y染色体は、X染色体が、退化してできたと書いてあったと思う(これは、今でも定説らしい)。

私は昔から、女性は完全なる生物で男性はそれの半分とは言わないまでもそれにちょっと満たない生物だと思ってきた。ありとあらゆる面で女性の方が男性より優れた面が多いと私は思っている(女性の方が男性よりも長生きできる理由には、この染色体の構造も関係しているとする学者も多い)。
現在のような男性中心の社会は、人類が移動を始め、食べ物や場所をめぐって戦争を始めるようになってからできた比較的新しい秩序(考え方)だ。なぜなら、戦いになれば男性の方が女性よりも優位に戦えるし、本来、女性は戦争を好まない生物でもあるからだ。
だとしたら、この天皇の皇位継承問題は、単に皇室の問題というよりも、より社会学的な問題、あるいは、生物学の問題にまで踏み込もなければ解決されない問題なのかもしれない。単に、日本に固有の天皇制の問題だけでは片付かないのではないだろうか?
こんな問題、そもそも政治家たちの手におえるような問題なのだろうか?