みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

春の突風というのは

2011-04-27 17:16:46 | Weblog
なかなかあなどれない。
家の河津桜の木は2年前の春の突風で根本からへし折られてしまった。
その横倒しになった桜の幹を必死に真っすぐにおこし支えを作り生き返らせて現在に至っているのだが、今日の風でまたちょっと怪しい状態になってしまった。
そのため、今日はその応急処置に半日費やした。
私の家は海抜300メーターほどの高台にあるので風は半端なく強い。さっきまで凪いでいたと思って油断しているとすぐに強い風が吹いてくる(この辺りの東伊豆地域は風力発電でも有名なところだ)。
今日の応急処置でウチの桜が持ちこたえてくれるといいのだが、桜の木というのは意外ともろい。東京の街路樹として植えられている桜も良く見るとけっこう支え棒でしっかりとおさえられている。桜というのは案外そういう植物なのだろう。

ウチの桜の木の生き死にも気になるのだが、今日のABCニュースがアメリカのフォーク・ブルース・シンガーのフィービー・スノウの死亡を伝えていた。
60歳。彼女は私の最も尊敬するアーティストの一人なのでちょっとショックだ。
私がフィービー・スノウの名前を知ったのは私が十代だった60年代。
『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』というアルバムを聞きその独特の声と歌い回しですぐにファンになったのはいいのだが、次のアルバムが待てど暮らせど出てこない。
そのうち彼女の存在すら忘れてしまったある日、彼女が突然初来日した。
89年だったと思うが、新大久保のグロ-ブ座というふだんは芝居の公演の多い場所での1週間ぶっ通しの公演だった(芝居小屋なので1週間貸しが基本なのだろう)。
これは絶対に行かねばと思って初日のチケットを買って劇場に行くと知った顔がかなり並んでいる。
しかも、アーティストのマネージャーばかり。
渡辺美里、チャーなどのマネージャーたちと会いお互いに「実はフィービー・スノウのファンだったんだ」ということのカミングアウトで盛り上がったことを今でもよく覚えている。
ただ、実際のコンサートを聞き始めると私はそんな盛り上がりなどすぐに忘れ、もう涙ボロボロの感動の嵐で休憩時には立ち上がれなくなってしまった(たんに顔を人に見せるのが恥ずかしかったからなのだが)。
彼女のコンサート中のMCを聞いて初めて彼女の20年以上のブランクの理由を理解した。
デビューしてすぐに子供を産んだ彼女の子供が自閉症などのさまざまな病気を抱えていたからだ。
彼女は娘の介護でアーティスト活動を休止していたのだ。
だからというわけではないが、彼女の歌うその歌声の優しさに身も心も完全にノックアウトされ、私は翌日から最終公演までの全公演毎日通いつめた。
そんな彼女はもうこの世にはいない。
でも、アーティストというのは「トラは死して皮を残す」ではないけれど、いろいろなものを世の中に残していく。
早速彼女のヒットチューン「Poetry man」を聞く。

福島原発の問題は

2011-04-25 21:49:38 | Weblog
私たちの喉元にささった大きな魚の骨のようなモノでその痛みと苛立ちを一体いつになったら取り去ることができるのか?といった感じだが、私はこの事件に関して今ある一つの出来事を今い出している。

それは、私が大学を卒業する直前の1972年の年末のこと。
今の大学生には当たり前の卒業旅行などというものは私の卒業した70年代にはまったく存在しなかった。
しかし、私と同級生数人は「卒業前にひとつ修学旅行でもやらかそうか」と意気投合して東北旅行を4拍5日で計画した。
参加したのは男子学生だけ9人に引率の先生(学生の頼みをシブシブ引き受けてくれたこの人の良い先生は後に学長になった)が一人の計10人のツアー観光だった。
私たちの専攻は仏文科というほとんど女子大のような環境だったのでこれでも男子学生のほぼ全員(しかも2クラス分)。
女子大のような仏文科の中で大勢の女子に紛れ込んだ男子学生はいつも隅っこで小さくなっていたのでその団結力と絆はとても強かった。
あの事件の前までは…。
それは卒業旅行の最終日の旅館で起こった出来事だった。
その頃、東京では「ゴミ戦争」という社会問題が起きていた。
ゴミ戦争というのは、江東区の夢の島で処理されていた東京都のゴミを時の都知事の美濃部さんが23区に一つずつゴミ処理工場を作り自前でゴミを処理してもらおうということでゴミ処理場の建設を計画したところから始まった。
この計画に真っ先に反対したのが杉並区だった。
高井戸に作ろうとした工場の建設を地元の住民が実力で阻止しようとしたのだ。
これには、これまで東京中の「臭いもの」を一手に引き受けてきた江東区の住民もブチ切れた。
江東区は、怒り心頭で「何を山の手のプチブルエゴイストが」とドンパチが始まったのがいわゆる「ゴミ戦争」だ(つまりは、ことばを変えれば下町と山の手の戦いでもあったわけだ)。
いっけんこの話と何の関係もないように見える私たちのクラスの卒業旅行でこのゴミ戦争の代理戦争が始まったのは、ちょうどおりしも私たちのこの10人の中に江東区の人間と杉並区の人間がいたことが原因だった。しかも、この同級生の二人はこれ以上この代理戦争にふさわしい人間はあり得ないほど特別な二人だった。
杉並在住の同級生は時の最高裁の長官の息子(つまりは日本の超VIPの息子だ)、片や、江東区の同級生は江東区の代々続くプレス工場の経営者の息子(つまりは、けっとばし工場の息子だ)。
このあまりにも環境の違う二人(しかも、杉並区と江東区の代表のような二人)が、おりしも社会問題となっていた「ゴミ戦争」の代理戦争を酔った勢いで始めてしまったから(旅行最終日なので明日でもう解散という安堵感もあったのかもしれない)、それ以外の私を含めた同級生たちはこの二人のどちらの味方をすればいいのかただオロオロするばかり。
ただ、このオロオロ組の男たちも今では衆議院議員の国会議員や大学教授、大企業の重役などになっているのだから(その中に私もいるのだが)まあこれも青春時代のある出来事、単なる思いでと考えればいいのだろうが、私には今回の福島原発の問題とこのゴミ戦争が妙にダブって見えてしょうがない。
つまりはこういうことだ。
福島の原発は実際に何を作っていたかと言えば「東京の電気」だ。
東京の電気をなんで福島で作らなければいけないのか?
ここが一番の問題だ。
杉並のゴミをなんで江東区で処理しなければならないのか?
要するに、今回の原発の問題もトドのつまりは人間のエゴが生み出した問題そのものなのでは?という気がしてならないのだ。
福島の海沿いの特に貧しい地域を選んで札束でほほを叩いて「さあ、ここに原発を作ればアナタたちはハッピーになりますよ」と言って作った電気で東京の人間は毎日のほほんと浮かれて暮らしていたわけだ。
ゴミ戦争の時も、杉並のホワイトカラーのサラリーマンたちはけっして自分たちの手は汚さずにどこかで誰かがゴミを処理してくれるものだと信じきっていた。
こんな風に考えると、今回の原発の問題って、二重三重に悲しい出来事なのでは?と思えてならない。

先日の栃木の事故

2011-04-22 18:13:58 | Weblog
の原因がてんかんという報道があったけれど、アメリカのABCニュースを見ていたらちょうど「子供のてんかんには高脂肪のチーズとかベーコンとか生クリームを与えると発作がかなりの割合で抑えられる」と報道していた。
要するに、高脂肪の食べ物であってもブドウ糖を含まないこうした食べ物を食べるとブドウ糖の代わりに「ketonesキートーン」というものを作り、それが脳でテンカンなどの原因となる物質を抑えてくれるからという説明だった。
ニュースでキートーンっていうことばを盛んに言うので調べてみたら日本語では「ケトン」というらしく、「通常アルデヒドまたはケトンからのアセタールの調合における中間生成物として生成される有機化合物」という説明。これだけじゃあよくわからないのでさらに調べてみると、「ケトンダイエット」というものが存在していることに気がつく。
要するに炭水化物の食べ物の摂取を減らすダイエットのことらしい。
炭水化物を減らせばたしかにブドウ糖は作られないから血糖値を下げてダイエットになる、ということか。
ABCニュースの中で説明していた大学の先生は、「これはテンカンだけでなく、老人のダイエット、つまりアルツハイマーにも効きます」と説明していたが、血糖値が上がらないんじゃイライラしないか?と思うのだが、それは通常の健常者ではそうなのであって、テンカンとかアルツハイマーの人には「良い結果をもたらす」という説明だった。
それがどれだけ本当でどれだけ効果があるのかは科学者ではない私には判断できないけれども、先日の小学生を6人もひき殺してしまった事件の加害者がテンカンだったというニュースをみて「きっとそうなんだろうけど、これでテンカンの人がまた差別されることにならなければ良いけど」と思ったのはきっと私だけではないだろう。
「坊主憎けりゃ袈裟まで」というステレオタイプに人間を類型化することをメディアは好む。
メディアだけじゃなくてごく普通の人間だってよくそうする。
要するに、これって人間であればごく普通の感覚なのだけれども、人間や病気を類型化してしまうことは本当に大きな問題を含んでいる。
今「日本人はすべて放射能に汚染されている」と本気で信じる世界の人はきっと多いのだろうと思う。これをいったん思い込んでしまうといくら科学的に説明しようが理性的に説明しようがこの誤謬を解くことはほとんど不可能に近い。
テンカンの人がすべて事故を起こすわけではないし、危険なわけではない。
でも、きっとそう思ってしまう人は多いと思う。
いったんそう思いこんでしまった人の心を解きほぐすのは容易なことではない。

震災以来外国の報道が

2011-04-12 09:41:23 | Weblog
気になって、毎日 ABC,BBC,CNNなどのニュースをネットでチェックするようになった。
日がたつにつれ日本関連の報道はどんどん少なくなっているがその代わり「ロングアイランドで娼婦ばかりをねらった10人の連続殺人、被害者家族に告知電話」だとか(映画そのままだな)「日焼けサロンで肌をやくと発ガンリスクが高まる(そんなこと昔から言われてきたことだろうが...)」とか相変わらずアメリカらしいニュースが目立つようになってきた(イギリスの BBCでも似たり寄ったりだ)。
それよりも、私はこういう外国の報道を見るようになって急に里心がついたというか(それも変な話だが)アメリカ留学時代の大学での授業のことを思い起こすようになってしまった。
私は日本では音楽大学というものを経験していないので単純な比較はできないのだが、アメリカの音楽大学での授業のユニークさは今でもすごく印象に残っている。
特に教師の教え方のユニークさと個性は際立っていたように思う(「きっとこんな先生、日本にはいないんだろうな?」と思わせてくれる先生が多かったからだ)。

私が取っていた音楽史の先生はかなりセレブっぽい雰囲気のある(つまり、上品な感じの)50代ぐらいの女性だった。
楽器の演奏とは違い、音楽史などはモロ語学力が必要とされる課目なので私みいたいな外国人にはハンデとされていたのだが、私はこの授業がとても好きでおそらく他のアメリカ人よりも成績は優秀だったはずだ。
この先生のユニークな点はことばへのこだわりだ。つまり英語(アメリカでいうところの国語だ)というものに大変こだわりを持っている先生で、試験の時に学生の答案に英語としての誤りがあると答えがたとえ合っていてもバシバシ点数を引く人だった。
そのおかげで、男子学生が答案を返された後必ず教師にクレームをつけにいく。
「先生、これ答えあってるじゃないですか。なのに、なんでこんなに点数引くんですか?」
こう質問しようものなら学生もタジタジとなるような答えが機関銃のように返って来る。
「それはアナタの語学力が劣っているから。語学もまともに使えないような人がまともな音楽家になれるわけがないでしょう?もう一度英語から勉強し直しなさい」(この人は特に若い男性に恨みでもあるのか?そう思えるぐらいその剣幕はスゴかった)。
先生のこの啖呵を聞くのが私は大好きだった。
私は外国人だからさぞ点数を引かれただろうと思われるだろうが、この先生は私たち外国人が犯しやすい単語のミスなどにはけっこう目をつぶってくれる。文法がきちんとあっていれば単語のスペルや単語の間違いではそう点数は引かれなかった。だが、この先生、何よりも文法の間違いにはウルサイ。その点、日本人は学校の英語教育で文法はけっこう鍛えられているのである意味ネイティブのアメリカ人より有利だったかもしれない(その意味でも今日本の小学校で始まった英会話の授業というのは「どうなのかな?」と思ってしまうのだが)。

さらに、もう一人忘れられない先生がいた。
名前をハイジと言って自分のことをレズビアンとだ言って憚らない人だった。
この先生から私は音楽理論を習ったのだが、この先生の授業は生徒全員まず教室の脇でみんなで手をつなぎ円陣を作らされるところから始まる。
そのサークルの中に先生も入り、先生がまずCならCの音をハミングする(このピッチは毎回変わる)。すると先生と手をつないだ隣の人が今度はC#をハミングする。そして、その次の人がDをという風に次々に半音ずつ上がりながら歌い継いで行くことから授業が始まるのだった。
つまり、これがこの授業のウォーミングアップというわけだ。
手をつなぐことで隣の人の振動を感じてより正確なピッチをもらい、それをまた次の人に空気中の音と手から伝わる振動でピッチを伝えて行くという彼女ならでは独特のやり方がこのウィーミングアップだった。
もちろん、最初はけっこう調子っぱずれになって、元のCがオクターブ目にはとんでもないピッチになっていることもあったが、不思議なものでこれを続けると生徒はだんだんピッチの取り方が上達していく。
基本的に半音はとても歌いにくい。その取りにくい半音のピッチを感じることで円陣の中で自分の役割をしっかりと見極め全体のハーモニーを感じる(自分の出したピッチがおかしいと隣の人のピッチも狂わせてしまうわけだから自分が出すピッチの責任は重大だ)、という、まあ、ある意味、レズビアンの先生らしいやり方だとは思ったが、これは今でも十分使えるやり方なのでは?と思っている。
こんな授業を進める日本の音楽大学ってどこかあるのかナ?
まったく日本の音楽大学には縁のない私にはこの比較が今だもってよくできないのだが。

福島の農家から

2011-04-10 18:47:04 | Weblog
風評被害にあった野菜を購入し始めている(厳密に言うと農協からだけど)。
お米も含めて通常の野菜や米粉まで変えるのである意味便利と言えば便利なのだが宅急便の送料を含めるとけっこう高くつく。
野菜自体の値段はリーズナブルなのだがこの送料がかなりネックだ。
こういうところを宅急便の会社がきちんと割引するとかすればもっとこうした野菜を買う人が増えるのではないかと思う。
品物だけなら3千円ぐらいでも送料を含むと4千円以上になってしまうと「ちょっと高いよ」というところが偽らざる実感。
だったらワザワザそんな野菜買うこともないか、とみんな二の足を踏むだろう。
こういう細かいところにも配慮してくれるような企業の心というのはないのだろうかと思う(具体的には宅急便の会社だが)。
ここで「心」なんてことばを使うのはちょっと大げさなのかもしれないが、今の日本の社会全体がこの「心」ということばで動かされているような気もしないでもない。
というか、全ての日常が日常でなくなってしまっている以上、人々の行動を動かすエネルギーはこうした空気感だけなのかもしれない(ある意味、それって考えようによってはけっこう危険は空気ではあるのだけれども)。

人間のサガ

2011-04-06 10:19:25 | Weblog
のさまざまな面を見せつけられてしまう今回の災害。
地震と津波の被害だけなら、世界中から同情される「被害者」で済んだものが、原発事故のおかげで日本は一転「加害者」扱いされている。
世界中が「日本のモノを買うな」と一斉に輸入禁止に踏み切り始めたのは、まあこれも人災なのだろうし、ある意味「天罰(?)」なのかもしれないと思う(アメリカのグレン・ベックという日本が大嫌いな保守政治家が「日本に天罰が下ったのだ」とバカなことを言って顰蹙を買ったけれども、もちろんそれとは違う意味で)。
日本は唯一の被爆国とずっと世界に主張してきたし、だからこそ「原子力には人一倍厳しい国」と言い続けてきたはずなのに、実は「こんなにも原発に甘かったのか」と全国民が思い知らされたのが今回の原発事故だ。
もちろん、そんな非科学的な理由でいつまでも世界各国の輸入禁止が続くとは思えないけれど、人というものは「見えないものに対する恐怖」というものを今も昔も変わらず持ち続けている動物だ。
人類の長い歴史の中で、人間は常に「見えないもの」を恐れ畏怖しそれを信仰や儀式の対象にしてきたのだけれども、逆にそれが「攻撃」の材料になってしまうこともある。
見えない「核兵器」を理由に戦争をしかける国もあれば、こうした見えない「放射能」を武器に相手を遮断してしまう国もある。
これも人間のサガの恐ろしさの一つかもしれない。

人の歴史の中には「洪水伝説」というものが多々あるが、アトランティス大陸とかムー大陸のように「水に一つの文化をさらわれて消滅してしまい、そこに新しく違う文化が創造されていく」といったものの繰り返しだと主張する人もいる。
別に、今回の災害にあてはめるつもりはないけれど、イタリアのベニスという町も水を利用して敵からの侵入を防ぎそして豊かな文化を作ってきた(他の町から追われた人の行き着く「駆け込み寺」的な要素のあった町でもあるが)歴史を持つように、社会や政治というのは全てリスクマネージメントなのでは?と思うのだが(日本中火山や水に囲まれている日本が「水や揺れに溺れた」とは思いたくはないのだが)、多少「見えない敵」に対する備えを怠ったのかも?という気がしてならない。

「ピアノパラリンピック」というコンサートを

2011-04-01 22:41:07 | Weblog
ある方から手伝ってくださいと言われ、「もちろん何でもお手伝いさせてください」と言って文京シビックに勇んで駆けつけたものの「若い方がたくさん手伝っていただいているので、みつとみさんはゆっくりご覧になってください」と言われちょっとショゲ気味に客席に座った(たしかに、私はもうそんなに若くはないもんな...笑)。
でも、このコンサート、私はボランティアの一人として行くつもりだったのだが、この障害を持つ人々のためのピアノコンクールという内容をまったく知らなかった自分を完璧に恥じなければならなかったほどその内容に打ちのめされて帰ってきた。
コンサートの冒頭、この団体の名誉顧問をつとめる聖路加病院院長の日野原重明先生がご挨拶をしたのだが、その内容にあった「このご時勢、ほとんどのコンサートや会合がキャンセルされる中にあって、このコンサートだけは立派に開催してその意味を世の中に広く知らせる必要がある。なぜなら、さまざまな苦労と困難を生まれてからずっと味わってきたこの子たちこそが、今被災している人たちの苦労を本当に理解できる子たちなのだから」ということばの意味を彼ら彼女らの演奏を聞いてはじめて本当に理解できた。
彼ら彼女らの障害は本当にさまざまなのだけれども、右手の指がほとんど不自由で左手だけで弾きこなす人もいれば、鍵盤を動かす両方の手は自由だけれども、ペダルを踏む足がほとんど動かないために口から息を送ってペダルを踏む装置で器用にショパンやチャイコフスキーを弾きこなす人もいる。
私は、彼ら彼女らの演奏を聞いて(見て)、まったくことばを失った。
そして、演奏を聞きながら昨年全盲でバン・クライバーン・コンクールに優勝した辻井さんのことを思い出していた。彼がどれだけの苦労と苦難の道を歩みながらあの栄冠を獲得したのだろうかと。
楽器というのは、どの楽器でも多かれ少なかれ肉体の運動を伴う。スポーツのようなフィジカルな動きを習得し同時に精神的な感動をも生み出さなければならないのが楽器の演奏だ。特にピアノという楽器の物理的な大きさは圧倒的だ。あれだけの鍵盤の幅を自在に動き、かつ指の圧力をコントロールしていく運動能力は我々健常者にとってもそんな簡単にねじ伏せられる相手ではない。そのピアノに対して、両足のほとんどの長さと機能を失い、手も背丈もとても小さな全盲の少女の演奏を見て「ピアノってなんて意地悪なんだろう」と思えてしまうほどその大きさは圧倒的だった。
「もうちょっと易しくしてあげてよ」と言いたくなるほどピアノという怪物はモンスターのように彼女の前に君臨していた。
しかし、それでも、彼女は「ピアノが私に翼をくれた」と言いピアノに感謝し、ピアノにありったけの愛情を注いでいく。「こうしなければ私と仲良しにはなってくれないんだもの」とでも言っているように(その姿のいじらしいこと)。
本のタイトル(『ピアノが私に翼をくれた』)にもなっている通り、ピアノと仲良くなることによって、彼女は翼を持ち世の中に羽ばたくことができたのだろう。
演奏を終わった彼女は終止笑みをうかべ、つきそいに手をひかれながら聴衆にいつまでも手をふり袖へと消えていった。

被災地の人の苦しみもこの彼女の苦しみも本当には理解のできない自分を恥じるしか術はなかった。