と言って簡単に片付けられる問題でもないと思う。
昔、N.Y.でストリートライブをやった時もそう感じたし、ロンドンの地下鉄の構内でも、パリのバスの中でも、アメリカでの映画のロケの自由さについてもそう思うのだが、なぜに欧米ではそういうアーティスティックな行為に関して社会や人々が寛大なのか?電車の中で誰が詩を朗読しようが、いきなり歌を歌いだそうが、駅の中で音楽をやろうが、絵書きが絵を描き始めても誰も文句を言わないどころか、それを楽しんでさえいる。
日本で映像のロケをやったり、ストリートライブをやるだけですぐに係りの人間が血相を変えて飛んで来ることをこれでまでに何度も経験しているが、この国の文化というのは一体どうなっているのだろうと思う。
多分、文化の違いではないと思う。おそらく、官僚に支配され、官僚になることが男子の第一義的な目的とされてきた日本や中国の社会制度の問題、そして歴史の問題なのかもしれないと思う。
数年前に、大道芸を許可制にしたのが東京都。大道芸の人たちは本当に大道芸だけで食べている。それを許可制にしてすべてを抱え込もうという東京都は、ある意味、プロダクションであり、芸能事務所でもある。すべてをお上の意向で決めようとする官僚的な国家だからこそ、通りで音楽をやっても、似顔絵を書いても道路交通法違反になるのがこの日本という国だ(石原東京都政は官僚制に文化の匂いを少しだけ滲ませる)。
昨日、フルフルの5人が渋谷で街頭ゲリラライブをやった。
駅前(ハチ公側ではない。あそこは交番があるので無理)、宮下公園下、マークシティの前などでやったが、まったくPAを使わないライブだったので、音量的にはイマイチでちょっとインパクトに欠けたが、逆に女性5人が路上で突如フルートを吹きはじめる図というのは、ある意味、一般の人には驚きになるかもしれない。
銀座や新宿でもやろうと思い、銀座のど真ん中にある有名な楽器店の知り合いに聞いて、目の前のスペースを使わせてもらえないかどうか聞いたが、さすがにこれは断られてしまった。逆に、「それは困ります」という泣きすら入る。まあ、それが現状だろう。
アートを表現するのはとても難しい国だ。
昔、N.Y.でストリートライブをやった時もそう感じたし、ロンドンの地下鉄の構内でも、パリのバスの中でも、アメリカでの映画のロケの自由さについてもそう思うのだが、なぜに欧米ではそういうアーティスティックな行為に関して社会や人々が寛大なのか?電車の中で誰が詩を朗読しようが、いきなり歌を歌いだそうが、駅の中で音楽をやろうが、絵書きが絵を描き始めても誰も文句を言わないどころか、それを楽しんでさえいる。
日本で映像のロケをやったり、ストリートライブをやるだけですぐに係りの人間が血相を変えて飛んで来ることをこれでまでに何度も経験しているが、この国の文化というのは一体どうなっているのだろうと思う。
多分、文化の違いではないと思う。おそらく、官僚に支配され、官僚になることが男子の第一義的な目的とされてきた日本や中国の社会制度の問題、そして歴史の問題なのかもしれないと思う。
数年前に、大道芸を許可制にしたのが東京都。大道芸の人たちは本当に大道芸だけで食べている。それを許可制にしてすべてを抱え込もうという東京都は、ある意味、プロダクションであり、芸能事務所でもある。すべてをお上の意向で決めようとする官僚的な国家だからこそ、通りで音楽をやっても、似顔絵を書いても道路交通法違反になるのがこの日本という国だ(石原東京都政は官僚制に文化の匂いを少しだけ滲ませる)。
昨日、フルフルの5人が渋谷で街頭ゲリラライブをやった。
駅前(ハチ公側ではない。あそこは交番があるので無理)、宮下公園下、マークシティの前などでやったが、まったくPAを使わないライブだったので、音量的にはイマイチでちょっとインパクトに欠けたが、逆に女性5人が路上で突如フルートを吹きはじめる図というのは、ある意味、一般の人には驚きになるかもしれない。
銀座や新宿でもやろうと思い、銀座のど真ん中にある有名な楽器店の知り合いに聞いて、目の前のスペースを使わせてもらえないかどうか聞いたが、さすがにこれは断られてしまった。逆に、「それは困ります」という泣きすら入る。まあ、それが現状だろう。
アートを表現するのはとても難しい国だ。