みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

文化の違い

2006-05-19 22:26:34 | Weblog
と言って簡単に片付けられる問題でもないと思う。
昔、N.Y.でストリートライブをやった時もそう感じたし、ロンドンの地下鉄の構内でも、パリのバスの中でも、アメリカでの映画のロケの自由さについてもそう思うのだが、なぜに欧米ではそういうアーティスティックな行為に関して社会や人々が寛大なのか?電車の中で誰が詩を朗読しようが、いきなり歌を歌いだそうが、駅の中で音楽をやろうが、絵書きが絵を描き始めても誰も文句を言わないどころか、それを楽しんでさえいる。
日本で映像のロケをやったり、ストリートライブをやるだけですぐに係りの人間が血相を変えて飛んで来ることをこれでまでに何度も経験しているが、この国の文化というのは一体どうなっているのだろうと思う。
多分、文化の違いではないと思う。おそらく、官僚に支配され、官僚になることが男子の第一義的な目的とされてきた日本や中国の社会制度の問題、そして歴史の問題なのかもしれないと思う。
数年前に、大道芸を許可制にしたのが東京都。大道芸の人たちは本当に大道芸だけで食べている。それを許可制にしてすべてを抱え込もうという東京都は、ある意味、プロダクションであり、芸能事務所でもある。すべてをお上の意向で決めようとする官僚的な国家だからこそ、通りで音楽をやっても、似顔絵を書いても道路交通法違反になるのがこの日本という国だ(石原東京都政は官僚制に文化の匂いを少しだけ滲ませる)。
昨日、フルフルの5人が渋谷で街頭ゲリラライブをやった。
駅前(ハチ公側ではない。あそこは交番があるので無理)、宮下公園下、マークシティの前などでやったが、まったくPAを使わないライブだったので、音量的にはイマイチでちょっとインパクトに欠けたが、逆に女性5人が路上で突如フルートを吹きはじめる図というのは、ある意味、一般の人には驚きになるかもしれない。
銀座や新宿でもやろうと思い、銀座のど真ん中にある有名な楽器店の知り合いに聞いて、目の前のスペースを使わせてもらえないかどうか聞いたが、さすがにこれは断られてしまった。逆に、「それは困ります」という泣きすら入る。まあ、それが現状だろう。
アートを表現するのはとても難しい国だ。

午前中は、

2006-05-17 01:49:46 | Weblog
私が毎月CD紹介の原稿を書いている雑誌『毎日が発見』の編集部に行って、11月にやる私のコンサートの後援をお願いしてきた。その足で、先日インタビューした藤原道山さんの尺八と友吉鶴心さんの薩摩琵琶の演奏をオペラシティのギャラリーに聞きに行く。
琵琶の友吉さんとはかなり久しぶりの再会だ。もう十五年ぐらいは会ってなかったかもしれない。彼とは、頻繁に、それこそ一週間のうち数回会うぐらいの交流があった時期もあったのが夢のようだ。
浅草の老舗の店に生まれた彼は小さい頃から和モノのお稽古ごとはひと通りやっていたという(本当は、琵琶のプロになるのではなく、日本舞踊のある流派の名取りになるはずだった人だ)。彼の自慢話しの一つに、京都の祇園の芸子さんに三味線や太鼓の稽古をつけて料金をただにしてもらったというのがあるが、それはまんざらマユツバでもなく聞こえるぐらい彼はこの伝統芸能の世界の人間だった(今でもその世界では第一人者の一人だ)。将来、確実に人間国宝クラスになる人だ。その彼に関してもう一つ驚いたのが「聞き酒」ならぬ「聞き醤油」ができるという話し。
彼は老舗のお店の育ちなので、もともとDNAの中に芸事だけでなく、伝統の味の舌を聞き分ける下地を持っている人でもあった。それにしても「これはどこどこでできた醤油」というのを言い当てられるというワザには驚かされた。
彼とつきあいのあった頃、彼を通じて日本の伝統的な芸能の世界を垣間見、こんなにも和文化の世界と西洋文化の世界が違うのかという事実に愕然としたものだった。私たちは音楽をやっているからといって、そのすべての人間と交流があるというようなことはけっしてないが、和の世界ではその楽器が三味線だろうが尺八だろうが、琵琶だろうが踊りだろうが、一つの伝統芸能の世界でくくられお互いにかなり交流があるのだということにも驚かされた。例えば、歌舞伎の舞台の上で長唄を歌っている人、踊りを踊っている人、太鼓を叩いている人、そして主役クラスの人、....。皆さん、小さい頃からの仲間、と言ってもいいぐらいの狭い社会なのだという。
うん、西洋音楽はそれほど狭い社会ではないナ、とその頃はよく思った。ただ、長い間、この芸能の世界にずっと浸っていると、かなり狭い社会だなということは日に日に実感させられる。まあ、芸事の世界は要するに堅気の世界ではないのだから、一般の人の世界とは違って当然なのかもしれないのだが...。

フルフルが日に日に形になっていき、私の目指す世界に近付いていくのを見るのは嬉しい。おそらく、私の目指している世界が彼女たちにも少しずつ見えてきたのかもしれない。まだ誰も見たことのない神秘の世界、ってわけじゃないけれど、とにかく、まだ誰もやったことのない舞台であることは確かだ。まだことばだけが先行している部分も多いけど、とにかく前進していることだけは確かだ。ライブがかなり楽しみになってきた(以前は、どうしたもんかナ?という気持ちの方が強かったけれど...)。

どんな業界でも

2006-05-10 01:03:06 | Weblog
そうだろうが、同じ業界といいうのは本当に狭いんだなと思うことが多い。
私も音楽業界に何十年もいるとつくづくそう思う時がある。今日の藤原道山さんのインタビューの現場でもそう感じた。

指定された世田谷のスタジオに予定時間より早めに行くと、まだ何かの撮影をしていた。NHKの番組の収録だ。藤原さんと先住明さんがゲストで料理を作っている。ああ、そういうことね、と思いながら、そっちは私の仕事ではないので、静かに収録が終わるのを待つ。そして、そちらが終わり、そちらのクルーが片付けをする間、藤原さんやマネージャー、そして千住さん、千住さんのマネージャーさんらに挨拶をすると、千住さんのマネージャーの女性が私の本を読んだことがありますと言う。まあ、たくさん本は書いているので、当たり前と言えば、当たり前の話しなのだけど、そういう現場でいきなりそういうことを言われると悪い気がしないというよりも、「ああ、私の本がこういう仕事の話しのつなぎとして役にたったんだナ」という風に思ってしまう。まあ、要するに、本にしてもCDにしても、世の中に出た自分の商品はすべて名刺の代わりになる。それを通して人とのコミュニケーションがスムースになるのであればそれに越したことはない。
千住明さんとは今日が初対面だが、真理子さんとは何回かお会いしているし、彼女のCDのライナーを書いたこともあるので、何か明さんとお会いしても初めてのような気がしない。
それに、藤原さんも、彼が来週共演する(来週だけでなく、武満徹の『ノベンバーステップス』でも共演するのだという)薩摩琵琶の友吉鶴心というアーティストを以前少しだけプロデュースしていたことがあって、いろんな雑誌に登場させたり、コンサートを企画したりもしたことがあった。そんなこんなを話したりしたが、一番話しがあったのが、藤原さんも私も小さい頃、現代音楽少年だったこと。
中学や高校の頃現代音楽にハマり、その後ロックやポップス、ジャズを聞き始める人間というのはそうザラにはいない。何か一人、自分以外の同類を見つけた感じがして、今日はけっこう嬉しかった。

梅雨の走り

2006-05-09 01:23:52 | Weblog
のようなうっとおしさ。そして寒い。
はっきりした雨ではなく、一日中霧雨。やはり天気がよくないと心もあまり明るくならないかナ?
今日のフルフルのリハーサルは、今度の6/6のライブで上映するビデオ映像の撮影。
今回のライブで、MCは一切ない。つまり、アーティストのしゃべりもバックのミュージシャンのしゃべりもひとこともないのだ。その代わりに、それぞれのメンバーを紹介するためのインタビュー映像を舞台上で流す。私が考えた質問にカメラの前で応えてもらい、その映像にスティール写真やリハーサル映像などを編集して挿入するというモノ。
ヘタなしゃべりよりはよっぽど気がきいているはず。
今日は、プレスの人が(モデルさんでもあるが)メンバーそれぞれのキャラクターにあった自分のブランドの服を持ってきてくれた。そして、それにあわせたメイクをしてもらっての撮影。今回のメイクさんはCMのメイクをたくさんやっているプロ中のプロ。彼女の手にかかるとみんな短時間に大変身してしまう。コスプレでも何でもそうだけど、人間というのは、外見が変わることによって心の中身まで変わる。というか、変えられてしまう。
アーティストでも、役者でも、舞台にたつ人は、素の自分は舞台の上に持ってきてはいけないと私は思っている。気の小さい優しい人がふてぶてしい犯罪者になれるのが舞台の上の自分。こんなハデな服はふだん絶対に着ないよというモノも舞台の上では平気で着れてしまうのがアーティストであり役者、そして表現者。
そういう意味でいえば、究極のオタクは学者になって教壇にたつけれども、舞台の上にたつ人というのは究極のコスプレなのかもしれないナと思ってしまう。
本来、アーティストもミュージシャンもシャイな人が多いのに、舞台の上に立派にたち堂々としていられるのは、みんなそれぞれ仮面(コスプレ)を持っているから。役者は当然役柄によってコスプレをしているわけだし、アーティストは自分のキャラを衣裳でまったく別の自分を作り上げている。そして、ミュージシャンは、ある意味、自分の楽器をコスプレにしているのだと思う。それが証拠にギタリストからギターを取り上げて舞台に乗せてごらん。たちまち、恥ずかしくなって逃げ出すはずだ(そういう人はミュージシャンにはとても多い)。
フルフルのメンバーがこれからどれだけ自分を変身させられるようになるのか?
彼女たちが本当のアーティストになれるかどうかは、そこからだ。

連休の間

2006-05-06 10:42:47 | Weblog
どこにも遊びに行かず、ひたすら仕事やミーティングに追われている。
まだ連休は終わったわけではないが、私の中ではもうとっくに終わり(笑)。もうすでに来週からの日常モードに突入している。
連日外には出ているので東京の街の様子もよくわかるが、やはりどこへ行っても家族連れが圧倒的に多い。きっと家族連れだと出かける場所も限られるのかもしれない。一つの時期に、一つの場所に集中するように出かけなければならないわけだから、混んで当たり前。そんな中で本当に楽しめるの?という気もするが、ある意味、人がたくさんいた方が回りのテンションにつられて行楽をしているという気分になるのかもしれない。
昔から、人と同じことをやるのが大嫌いな私は、みんなが左を向けば自分だけは右を向いていたい人間。だから、混雑する場所にわざわざ出かける人の気が知れないが、それはそれで楽しいことなのかもしれないとも思う。どこかに遊びに行って、自分一人しかいないというのも寂しいものだし(まあ、私はそれでも平気は平気だけど)、食べ物屋に飛び込んで自分一人しか食べていないというのも「本当にここで食べていていいんだろうか?」という妙な気分にもなるかもしれない。
まあ、とにかく、日本中のお父さんやお母さん、ごくろうさま。

昨日の五日は子供の日と同時に菖蒲湯の日でもあった。なので、私も菖蒲を買ってきてお風呂に入れた。昔、銭湯で入った菖蒲湯はもっといい香りがしていたような気がしたけど、昨日の菖蒲、たいして匂いがしなかった。というか、菖蒲というのはホントにこんな香りだっけ?という気がしてならなかった。自分の記憶が曖昧なのかもわからないが、昔の菖蒲の方がはるかにいい香りだったような気がする。
別に、菖蒲に限らず、最近の野菜も花も香りが妙に薄い。匂わないことがいいことのように言われている最近の傾向に迎合して、まさか意図的にそんな野菜や花を作っているわけではないだろう。野菜がキライな子供の大半はこの野菜独特の匂いがキライで野菜を食べないはずなのだが、最近の野菜は匂わない上に味も薄い(というか、ほとんど味がしない)。それも当たり前だろう。食べ物の味というのは、その大半が匂いで決まるのだから、匂いが薄いということは味も薄いに決まってる。いつも、食品成分表を片手に料理を作る私は(マジでそんな姿を想像しないように。ただの比喩ですから)、野菜の栄養が本当に少なくなっているんだナと実感する。ホウレンソウってピタミンAや鉄分が豊富だって習ってきたから、それを信じて食べてきたのだけれども、今のホウレンソウにはそれほどのピタミンも鉄分もない。鉄分が一番多い食品はノリやヒジキ、ウナギの類いだ。そして、意外なことにバジルやタイム、セージなどのスパイス類にビタミンやミネラルが驚くほど多い。もちろん、スパイスは香りづけに使われるだけだからそれほどの量をとらないのであまり栄養素としての役割にはならないかもしれないが、そういうことを昔の人は体験的に知っていてスパイスを使ったのかも?とも考えてしまう。食べ物で得られない栄養をスパイスで補うという知恵を自然に身につけていたのかもしれない....。

春雷

2006-05-03 09:28:29 | Weblog
しゅんらい。
とってもいい響きだと思う。でも、家を直撃して火事まで起こすと、そう風流だとばかりも言っていられない。
自然は宇宙の中の地球という星の営みを繰り返しているだけなのだから、その中のほんの端っこにいる人間という生物に容赦なんかしてくれない。自分たちも自然のほんの一部なんだということを忘れない方がいいだろう。

春は三寒四温というけれど、今年の暑かったり寒かったりはかなり激しいナと思いつつ、渋谷のクアトロに浜田真理子さんのライブを見に行く。クアトロに行くのも久しぶりだけれど、浜田さんのライブを生で聴くのも初めて。これまで何度もそのチャンスはあったのだけれども、いずれも実現していなかった。
以前浜田さんのインタビューを雑誌ミセスでしていた関係もあって、招待席に案内されてちょっと気がひけた(だって、中は超満員なので、自分だけが特等席にゆったりと座っちゃっていいのかナ?って思ってしまう)。大体、クアトロの招待席はいかにもっていう場所にあるので、なおさら他のお客さんたちの視線が痛い(イタッ!)。

うん。でも、彼女の歌はかなりイイ(当たり前だけれども)。
彼女の歌はまさに「うた」としか言い様がない。
うたも楽器の演奏も、人間の心の表現なのだけれども、その表現方法を知っている人は意外に少ない。しかも、彼女は声がいい。
声だけで人を感動させられる人、声だけで人を泣かせられる人もそれほど多くない(おおたか静流さんや井上陽水さんなんかもそれができる人たちだけれども)。
聴きながら、いろんなことを考えた。
こういう歌は、若い人にこそ聴いて欲しいナと思った。
今、私がプロデュースしている若い子たち全員に聴かせたいとも思った。
勉強して欲しい、というより、これが本当の音楽だよ、これが本当の表現だよと見せてやりたいという気持ちになった。
音楽には呪術的な面があるので、ひたすらリズムやノリで聴く音楽も一方で音楽の表現としては必要なモノなのだが、音楽にはコミュニケーションという大事な側面もある。
コミュニケーションの基本は人の心と心のキャッチボール。
きっと、昨日のクアトロのお客さん一人一人と浜田さんの歌は何かしらの心のキャッチボールができていたのだろうナ?
そんな気がした。