子どもたちの元気な声と行動は時に音楽なんか掻き消してしまう。
おまけに私のしゃべりに反応し過ぎて「おいおいお前たちいい加減邪魔すんのやめて」と叫びたくもなるが「ここで負けちゃイカン」と自分をなだめ、子どもたちに「じゃあ、これはどう?」と、何とかあの手この手でかわそうとする。
でも、はっきり言って子どもたちには勝てません(笑)。
というか、勝とうとすること自体が無謀。
まあ、だからコンサートの進行も完全に子どもたち任せ。
彼ら彼女らが満足ならコンサートは大成功なのだから。
それよりも、私が保育園の中で気づいたことは、保育園の遊び道具がリハビリ施設にあるそれとほとんど同じものだということ。
つまりはこれまでずっと思ってきた「リハビリとは赤ちゃんから保育園、幼稚園、小学生、高校生、…と人の進歩の過程をもう一度やり直していく作業に他ならない」ということを保育園のコンサートで改めて認識したということだ。
ただ、…。
ただ子供たち以上に気になるのは、(子供たちの成長も個々バラバラなように)リハビリという作業の最終「結果」も本当に個々バラバラなことだ。
車椅子から離れられない人、見るからに杖で不自由そうに歩く人、あるいは逆に、言われなければ障害があるとは思われないほど回復した人など、その結果は千差万別。
でも、私にとってはこの違いこそが一番の問題。
先日ずっと探していた日本未公開の映画`The music never stopped'のDVDをネットで購入して見た(日本でもきっと来年あたり公開されるだろう)。
私が雑誌でもコンサートでもことあるごとに紹介してきた映画『レナードの朝』の原作の「Awakening」の著者で医師/音楽療法の権威のオリバーサックス博士の`The last hippie'という別の著作を元に作られた映画がこれ(今年のサンダンス映画祭で招待作品として上映されたそうだ)。
脳腫瘍で記憶障害になった息子を治そうと両親がひたむきに努力して見つけた治療法が音楽療法だったという実話を元にした映画なのだが,この青年の記憶が本当に戻ったかどうかの「結果」が曖昧なままで終わるのでその意味ではちょっと不満の残る映画だった。
せっかくオリバー・サックス博士の原作ということで期待してわざわざネットでオーダーしたのだったけど…(アメリカのDVなのでリージョンまで変えないと見られないし)。
ただ、病気の「結果」というのはとても微妙な事柄であることは確かだ(ひょっとしたら、だからこの映画では「結果」を見せていなかったのかもしれないとも思う)。
『レナードの朝』でも映画では奇跡的に治ったかに見えた眠り病の患者たちも実際には薬が切れるとまた元に戻ってしまったそうだし、「いつ」の時点を病気の「結果」とみなすのかの絶対的なポイントというものはない(普通はそれを医者が決めるのだがそれもかなり問題だ)。
というか、それを決めること自体、ある意味、不可能なのかもしれない(結局死ぬまで結果はわからないという言い方もできるわけだし)。
私の周りで知っている脳卒中の患者だけ並べてみても、
発症後 2年=現在車椅子と杖の併用生活。(60才女性)
発症後 5年=現在完璧にノーマルな状態へ復帰。( 61才男性)
発症後 1年=現在杖で歩く。ちょっと不自由な歩き。(67才男性)
発症後 4か月=現在杖で歩く。歩き方多少不自由なぐらい。(42才女性)
たった4人しか直接の知り合いでは同じ病気を体験した人はいないがそれでもこれだけ「結果」に開きがある。
この結果をどう分析するのか,結果をどの時点とするかとても大きな問題だ
恵子の発症は9月2日なのでもうすぐ3か月ということになる。
そろそろ車椅子から離れ、杖での歩行に切り替える段階に来ている。
多分、このスピードはそれほど驚異的に早いわけでも遅いわけでもないと思う(手が足よりも若干遅めだがそれも人によって違うのは当たり前だ)。
やはり問題はその「結果」の良し悪し。
動くには動いてもいかにも「不自由な動き」であっては、私は治ったことにはならないと思っている。
私と恵子にとっての「結果」はあくまでも自然で美しい動きを得ることだ。
なので、リハビリ中、恵子の動きにちょっとでも変な動きを見つけるとたとえ療法士さんがOKを出しても私がダメを出す。
これは二人の戦いであってけっしてお医者さんの戦いでも療法士さんの戦いでもないと思っているからだ。
今私と彼女が多くの時間と精神的エネルギーと肉体を最大限に費やして得ようとしているものは他でもない「二人の生活」なのだから。
おまけに私のしゃべりに反応し過ぎて「おいおいお前たちいい加減邪魔すんのやめて」と叫びたくもなるが「ここで負けちゃイカン」と自分をなだめ、子どもたちに「じゃあ、これはどう?」と、何とかあの手この手でかわそうとする。
でも、はっきり言って子どもたちには勝てません(笑)。
というか、勝とうとすること自体が無謀。
まあ、だからコンサートの進行も完全に子どもたち任せ。
彼ら彼女らが満足ならコンサートは大成功なのだから。
それよりも、私が保育園の中で気づいたことは、保育園の遊び道具がリハビリ施設にあるそれとほとんど同じものだということ。
つまりはこれまでずっと思ってきた「リハビリとは赤ちゃんから保育園、幼稚園、小学生、高校生、…と人の進歩の過程をもう一度やり直していく作業に他ならない」ということを保育園のコンサートで改めて認識したということだ。
ただ、…。
ただ子供たち以上に気になるのは、(子供たちの成長も個々バラバラなように)リハビリという作業の最終「結果」も本当に個々バラバラなことだ。
車椅子から離れられない人、見るからに杖で不自由そうに歩く人、あるいは逆に、言われなければ障害があるとは思われないほど回復した人など、その結果は千差万別。
でも、私にとってはこの違いこそが一番の問題。
先日ずっと探していた日本未公開の映画`The music never stopped'のDVDをネットで購入して見た(日本でもきっと来年あたり公開されるだろう)。
私が雑誌でもコンサートでもことあるごとに紹介してきた映画『レナードの朝』の原作の「Awakening」の著者で医師/音楽療法の権威のオリバーサックス博士の`The last hippie'という別の著作を元に作られた映画がこれ(今年のサンダンス映画祭で招待作品として上映されたそうだ)。
脳腫瘍で記憶障害になった息子を治そうと両親がひたむきに努力して見つけた治療法が音楽療法だったという実話を元にした映画なのだが,この青年の記憶が本当に戻ったかどうかの「結果」が曖昧なままで終わるのでその意味ではちょっと不満の残る映画だった。
せっかくオリバー・サックス博士の原作ということで期待してわざわざネットでオーダーしたのだったけど…(アメリカのDVなのでリージョンまで変えないと見られないし)。
ただ、病気の「結果」というのはとても微妙な事柄であることは確かだ(ひょっとしたら、だからこの映画では「結果」を見せていなかったのかもしれないとも思う)。
『レナードの朝』でも映画では奇跡的に治ったかに見えた眠り病の患者たちも実際には薬が切れるとまた元に戻ってしまったそうだし、「いつ」の時点を病気の「結果」とみなすのかの絶対的なポイントというものはない(普通はそれを医者が決めるのだがそれもかなり問題だ)。
というか、それを決めること自体、ある意味、不可能なのかもしれない(結局死ぬまで結果はわからないという言い方もできるわけだし)。
私の周りで知っている脳卒中の患者だけ並べてみても、
発症後 2年=現在車椅子と杖の併用生活。(60才女性)
発症後 5年=現在完璧にノーマルな状態へ復帰。( 61才男性)
発症後 1年=現在杖で歩く。ちょっと不自由な歩き。(67才男性)
発症後 4か月=現在杖で歩く。歩き方多少不自由なぐらい。(42才女性)
たった4人しか直接の知り合いでは同じ病気を体験した人はいないがそれでもこれだけ「結果」に開きがある。
この結果をどう分析するのか,結果をどの時点とするかとても大きな問題だ
恵子の発症は9月2日なのでもうすぐ3か月ということになる。
そろそろ車椅子から離れ、杖での歩行に切り替える段階に来ている。
多分、このスピードはそれほど驚異的に早いわけでも遅いわけでもないと思う(手が足よりも若干遅めだがそれも人によって違うのは当たり前だ)。
やはり問題はその「結果」の良し悪し。
動くには動いてもいかにも「不自由な動き」であっては、私は治ったことにはならないと思っている。
私と恵子にとっての「結果」はあくまでも自然で美しい動きを得ることだ。
なので、リハビリ中、恵子の動きにちょっとでも変な動きを見つけるとたとえ療法士さんがOKを出しても私がダメを出す。
これは二人の戦いであってけっしてお医者さんの戦いでも療法士さんの戦いでもないと思っているからだ。
今私と彼女が多くの時間と精神的エネルギーと肉体を最大限に費やして得ようとしているものは他でもない「二人の生活」なのだから。