みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

今回の選挙は

2007-04-23 23:18:36 | Weblog
日曜に伊豆に行く予定があったので、初めて期日前投票に行ってきた。あまり人がいないのかと思ったけど、意外と期日前投票をやりに来る人が多いのにはびっくりした。
それよりも、もっとびっくりしたのは、今回のフランスの大統領選挙の投票率。84%というのは、もうほとんどのフランス人が投票に行っているということ。おそらく、関心が高いとか低いの問題ではないのだろう。ある意味、これがホンモノの民主主義ということなのかもしれない。日本の選挙では40%台とか50%台が当たり前というのは、やっぱり日本には民主主義がないということに等しいのかもしれない。ヨーロッパのように、個人の権利と義務の意識がはるか昔から当たり前のようにあった社会と(戦争と略奪と領地争いの歴史では「個」の意識が芽生えるのは当然のことなのだろう)、日本のように島国で、どこからも侵略された歴史のない国ではそもそも権利と義務の意識は違って当然なのかもしれない。ただ、それにしても、この投票率の違いには愕然とする。
私は、選挙権を獲得してからこれまでの数十年たったの一度も投票に行かなかったことはない(こんな人はたくさんいるだろう)。それが国民としては最高の権利だと思ってきたから。もちろん、義務は税金を払ったりすることだが、義務ばっかり負わされて権利が使われないのはしゃくだから絶対に選挙を休もうとは思わない(滅多に使え得ないこの権利を使わない人がいるのはナゼなのだろう?もったいないと思わないのだろうか?)。
今度の国民投票法案もそれが日本人の義務と権利に直結しているものなのだから、決まってしまったら絶対にそこに自分の票は入れなければと思う。しかし、その大事な投票にも国民の40%とか50%ぐらいの人しか参加しないのではあまりにも情けなくはないか?自分たちの生活の大事な根幹の部分をきめる投票に今回のフランスの選挙ぐらいの投票率がなくてどうする?と思っているのは私だけではないだろう。

ヴァージニア工科大学の乱射事件とAくん

2007-04-19 01:14:08 | Weblog
このアメリカ史上最悪の銃乱射事件の内容を知れば知るほど、私のアメリカ留学時代のことがオーバーラップしてくる。
私は、イリノイ、ミシガン、アイオワと3つの州に住んでいたことがあるのだが、最後の場所、アイオワ州では、その街の日本人会の会長をしていた(どういうわけか)。で、その街の大学(かなり大きな大学だ)に留学していた一人の留学生と今回の銃乱射事件の犯人の韓国人(というか、永住権を持ったアメリカ人学生なのだが)が重なって見えてしょうがない。
この日本人学生Aくんは、この街の問題児だった。今回の韓国人と同様、他の人たちと混じりあって交流することはまったくない孤立した人だった。このAくんが、問題児扱いされたのは、あるアメリカ人女性からのクレームからだった。彼女いわく、「Aさんが、毎日私のアパートのドアの前に立っていて、じっとしている。気味が悪いが、別に部屋に入ってくるわけでもなく、実際に危害を加えるわけでもないので、警察に被害届けもだせない。日本人のコミュニティの中で何とか処理してもらえないんだろうか?」ということなので、日本人会の会長としては、何らかの行動をおこさざるを得ない。ということで、早速そのAくんに会うのだが、彼は、「自分は何にもしていないし、別に誰に迷惑をかけているわけでもない」という主張をくり返すばかりで、自分がストーカー行為をしているという意識はまったくない。実際、誰かに危害を加えたわけではないし重大な問題をおこしているわけではないので、警察もAくんをつかまえるわけにもいかない。
ただ、彼に対するクレームは至るところで起こっていた。どうしたものかと思案している最中に、そのAくんがとうとう問題を起こしてしまう。彼が住んでいた寮の自分の部屋で放火騒ぎを起こしてしまうのだ(その前に、トイレ立てこもり事件なども頻繁におこしていたのだが)。この辺も今回の韓国人学生とまったく同じ。ストーカー騒ぎから、放火にまで至るとさすがの警察も乗り出してくる。Aくんは、とうとう留置場に入れられてしまう。そこで、私は早速面会に行くハメに(日本人会の会長なので、ある意味、それは義務だったわけだ)。留置場での彼の話しもまったく要領を得ない。最終的に、彼は精神病院に強制入院させられ、国外退去処分になってしまった。
このAくんの場合は、今回の銃乱射事件のような深刻な問題を起こす前に国外退去処分になってしまったからいいようなものの、もしA くんが、あのまま放置されていたら、今回のような事件を起こしていたかもしれない。
日本人や韓国人、中国人などの留学生などで外国で問題を起こす人たちは、本国でも問題をかかえていた人たちが圧倒的に多い(日本での失恋をひきずったまま、アメリカで自殺してしまった人を数人知っている)。問題は、アメリカ社会というのは、そういった社会生活上問題のある人たちも、普通の人たちの暮らしの中に同化させなければならない社会だということだ。基本的にすべての人に平等の権利と平等の義務を負わせるのがアメリカ社会。だからこそ、ある程度深刻な問題が起こることを前提に暮らしている社会でもある。そうした不安をかかえた社会だからこそ、自分の身は自分で守る、銃を持つのが当たり前という社会構造ができあがってしまうわことになる。要するに、自分以外の他人はすべて敵、という思想がアメリカ社会に存在しているということだろう。きっと、30人死のうが100人死のうがアメリカから銃を取り除くことは永遠にできないような気がする。

今年もまたどこかの大学で

2007-04-17 23:40:03 | Weblog
私の本のどれかが入試に使われるかナと思っていたら、またどこかで使われたらしい。
らしいというのは、当の大学からは何の連絡もないのでわからないが、その入試問題を問題集に載せたいからという出版社からの連絡でそれがわかったわけだ。以前も某地方国立大学でも同じようなことがあった。私立大学の場合は、わりときちんと入試問題のコピーと断りの手紙(それもたった1枚の紙っきれだが)を入試が終わった今頃の時期に送ってくる場合が多いのだが、国立などの公立大学はまったく送ってよこさない。つまり、勝手に使って知らんぷり、ダ。それって随分だなと思うのだが、きっと、相手は公務員の人だろう。心の底から官僚意識、役人意識が抜けない職員の人たちが多いのだろう。著者にいちいち手紙なんか出していられるかい、って思うのか思わないのかはわからないけど、どっかでそんな意識は抜け落ちてしまっているのかもしれない。やはりこの国ではお役人の人たちが一番エラいのだろうか?どこかに民間の人間を見下す意識があるのかもしれない(とは言っても、公務員といったってピンからキリまでいろいろだ。そんな風に十束ひとからげで考えてしまうことも問題なのかもしれないが)
 大体が、入試問題には著作権使用料が発生せず、使いっぱなし(しかもこのように事前承諾ではなく、事後承諾でいい)などという著作件法の特例が認められているからこういう事態が起こるのだと思う。入試は営利事業ではないから著作権使用料を払わなくていい、などいう規定そのものがお役人的な発想以外の何者でもない。大学入試を営利だと思わない人が日本中にどれだけいるというのだろうか?あんなもの、立派に営利目的だし、きっと大学も入試を一番の稼ぎ時と思っているのではないだろうか?そういうものに特例を与えているお上もお上。それにあぐらをかいていつまでも、何でもかんでも使い放題の大学も大学。入試問題が著作権フリーというのは、いかがなものだろうか?
その点、きちんと真面目に使用許可を求めてきた出版社はエラいと思う。でも、そのおかげで、使用状況が発覚してしまったのもけっこう笑える話ではあるのだが。

映画『クロッシング・ザ・ブリッジ』

2007-04-11 21:53:53 | Weblog
前から見ようと思っていた映画『クロッシング・ザ・ブリッジ』をやっと観ることができた。
先週、先にバーバ・ズーラのコンサートに行ってしまって、若干順序が逆かナ?なんていう気もしたのだけど、別に映画を観た限りでは、別にどちらが先でもあまり問題はないのだなと思った(そりゃ、そうだ)。
先日観た映画『パリ、ジェテーム』が、ほとんどパリ観光の映画のようだったけど、この『クロッシング・ザ・ブリッジ」も、ある意味、トルコ観光にもなる映画だと思った。しかし、こちらは、音楽が全面に出ながらトルコや中東の音楽状況、政治状況のことも語られているドキュメントなので、より世界の中のトルコ、世界の中のヨーロッパとアジアの位置関係などが明確に語られていて見ごたえのある映画でもあった。
クルド人がどれだけトルコの中でも抑圧され、ある意味、トルコのヨーロッパ化(これは、アメリカ化でもあるのだけど)の中で犠牲になっていたかが音楽の面からも上手に語られていた。これって、日本の明治維新の時の文明開化の時にもよく似ている。江戸時代の文化を全面否定して、ひたすら西洋人に似せようと洋食を食べ、洋服を着て、無理して舞踏会などに出かける滑稽な日本人像がこの明治初期の日本にはあったわけだけれども、今の日本もその頃とそうたいして変わらないかナ?とも思ってしまう(ということは、クルド人の状況と似ているのかナ?)
でも、未だに、アメリカ文化に迎合して、英会話ができる日本人の必須条件のように勘違いする人たちが多い状況では、この映画の中のトルコの状況をけっして笑うことはできないなと思った。

それにしても、トルコの音階の幅の広さとあの怪しい魔力にはいつもながら心を本当に揺り動かされる。ひょっとして、私の前世はトルコ人?と思えるほど、あの音階にはとてつもない魅力を感じる(それって、かなり若い頃からだ)。でも、トルコ音楽やインド音楽、アラブ音楽を聞くたびに同時に感じるのは、絶対音感の無意味さだ。英会話と同じように、子供に絶対音感をつけさせようとする親がとても多いが、「一体何のために?」と思ってしまう。世の中のすべての音に「ド」とか「レ」のレッテルを貼るだけの作業(しかも、西洋音楽の中だけで通用するドレミのラベリングだ)にしか過ぎない絶対音感が、音楽を理解することにも、音楽を演奏することにもまったく役に立たないことは私は百万回言っても言い足りないぐらいだと思っている。絶対音感を持った人にとって中近東音楽やトルコ音楽、インド音楽、その他の民族音楽はすべて「計りきれない」音を持った音楽にしか響かないのでは?と思ってしまう。
はっきり言うが、絶対音感とは音楽的な能力ではけっしてない。ある意味、英語ができる、フランス語ができるのと同じように、脳の右脳で聞いた「その音」についた「ド」という記号を左脳が記憶しているだけのこと(この脳の作業は、語学の習得とまったく同じプロセス)。それ以上でもそれ以下でもない。こんなものは、音楽を聞く、あるいは、理解する能力、楽器を演奏する能力ともまったく関係のない事柄。音楽を楽しみ、理解するためには、相対的に音の高さを理解する相対音感(ドの音を与えれれば、そことの相対的な高さの差で、レやミの音の場所を理解する能力)があれば十分だし、むしろ、こちらの方が大事だということをわかって欲しい(まあ、それでも、モーツァルトやベートーベンなど歴史上有名な作曲家たちは絶対音感を持っていたとされるので、それが音楽家にとって必須な能力だと思ってしまう人も多いのだろうけど)。

「日本人としての意識」

2007-04-06 22:58:50 | Weblog
 昨日も午前中に3つもミーティングをいれておお忙しだったのだが、今日も朝からミーティング。
ふつう、音楽関係者は午前中にミーティングや仕事なんか入れないのに!と昨日も言われてしまったけど、まあ、相手がミュージシャンだったらそれも言えるのだが、相手が音楽関係とはサラリーマンの人だと、午前中の方が都合がいい場合もある。たまたま昨日、今日と連続でそういう日だったということだ。
 今日の午後は出版社の人と打ち合わせで渋谷だったので、時間調整のため渋谷駅前のTSUTAYAに立ち寄る。
あまり真剣に借りるつもりはなかったけど、フランス映画のある階に行くと、『あるぜんちんなんとか』とかいう日本映画のDVDの予告ビデオがエンドレスで流れていた。というより、その階にエスカレーターで上がった時、その映画の音楽だけが先に聞こえてきて「あれ、『アメリ』のまた別ヴァージョンでも出たのかナ?」と思ってしまったぐらい、この『あるぜんちんなんとか』の音楽は『アメリ』に酷似していた。けっこうヤバイぐらいそっくりで、テーマらしき音楽以外にも似ている曲が数曲あった。日本映画は、最近脚本とか俳優さんなどが世界的に注目され、その実力が評価されてき始めているのに、音楽のレベルはこの程度なのかナ?と思ってしまう。洋楽が日本に入ってきて150年なのに比べたら、映画の方がもっと歴史が浅いだろうに、日本の洋楽というのは、未だに西洋のコピーというレベルからなかなか脱却できないでいるのかナ?と思う時がある。
 先日行ったトルコのバーバズーラのライブを思い出す。トルコやアラブ系の中近東ポップスの人たちは、本当に独自の音階、独自のサウンド、独自のノリで民族的な主張、宗教的な主張をはっきり持っている。今の日本には、宗教も哲学も、民族意識もほとんどないのだろうナと思う。右翼的な民族意識とはまったく違うレベルで日本人としての哲学や美学、民族意識はあってもいいような気がするのだけど。
 まあ、日本語のことばや知識を覚えるよりも先に英語を教えようとするぐらいヒドイ国になってしまった今の日本ではいたしかたのないことなのかもしれない。ことばというのは、人間の思考にとって最も大事な道具だし、意識の基本なのだから、日本語というものを基本に知識や経験、哲学を作らないうちに英語教えて一体どんな人間に育てようとするのだろうか?と真剣に思う。
アメリカに暮らしている時に、能や日本音楽、文化について質問された時、そういうことを日本で体験してきた自分にとっても感謝した。英語で説明しようとしたって、肝心の中身を知らなくては何も説明しようがないのだから。

昨日の夜は青山のクラブのイベント

2007-04-01 17:57:55 | Weblog
に行く。ハウスやトランスにソウルが中心の選曲はかなりセンスがいい。これから一緒に仕事をしていくDJなので、とても期待がもてる。
クラブイベントというのは必ず夜中に始まるので、あまり遅くなって朝起きれなくなっても困るので、早めにクラブは切り上げ帰宅して少し睡眠した後、すぐさま今日は午前中に東京池袋の芸術劇場の日本フィルの取材に行った。今年中に出版予定の著作の取材のため。自分が出演するのでもなく、人のコンサートの陣中見舞いでもなく、取材だけの目的で楽屋に行くのはそう滅多にない機会なので、けっこう面白かった。
たまたま今日のコンサートは日曜日の午後の名曲コンサートだったために、CFなどで知れたアイドルのNM嬢の演奏するモーツアルトのピアノコンチェルトが演目に入っていたため会場は超満員。最後まで必要最小限度のミスで貫徹した彼女の演奏は立派。さすがに「のだめ」の影響か、お客さんの拍手が暖かい。こういうコンサートばかりだと、オーケストラの経営も楽になるのだろうが、普通、オーケストラの経営というのはかなり大変な事業なのだ。
 アメリカでは、基本的に都市がバックアップする体制にはなっているのだが、それでも、単純にオーケストラをサポートするのとフットボールやバスケット、野球などのスポーツをバックアップするのでは、スポーツの方がわかりやすいので、人もお金もみなそちらに流れていき、音楽や文化は最終的なカスのようなお金だけをもらうことになる。それでも、ヨーロッパは、自分たちの伝統音楽だという意識が強いせいか、クラシック音楽に対する意識はアメリカや日本とは比べものにならないほど高い。そのため、音楽家の生活はヨーロッパの方がはるかに楽だ。今の日本はクラシックブームだとはいえ、それじゃクラシックの演奏家だけで食べていかれる人が一体何人いるのか?本当にいるのかいないのかわからないぐらいごく少数の人しか演奏家として食べていくことができない。まあ、その中の希少な部類の人がオーケストラの団員ということになるのだが、その辺の実情や内情をちょっと紹介していくような著作(?)とだけ今のところは書いておこう。書き上がる前からネタをバレバレにするのも、自分で書く内容を制約してしまうことになってしまうので。

 ここ数日は、春の嵐が吹きあれて、サクラ吹雪きが舞っている。まさに「春本番」なのだが、私は、春が季節の中で一番キライだ。別に花粉症に苦しむからではなく、この浮かれた世の中の情景が毎年私の心を落ち込ませてくれる。サクラの木の下に死体が埋まっていなくとも、鬱のネタはたくさん埋まっているような気がして仕方がない。新入生、新入社員。どれを見ても爽やか過ぎて「おいおい、ウソだろう」というような気分になってしまうからだ。新入生、新入社員、そして赤ちゃんの誕生も、新婚生活も、引っ越しも、すべての新しさはオメデタく晴れやかなように見えるけれども、その先に必ずある「終局」がかいま見えてブルーになってしまう。考え過ぎだよと言ってしまえばそれだけなのだが、こんなひねくれた考え方をするのは私だけなのかナ?