みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

闘う相手を間違えるな

2013-09-25 19:57:10 | Weblog
恵子が二年前に発症して私自身がこの病気にどう対処してよいかわからなかった時すぐに助言を仰いだのは、この病気を体験した先輩でもあり知り合いのアマチュア音楽家のA氏だった。
彼は、恵子よりも大分前に発症していたので、恵子が発症した時点で既にかなり回復していた。
なので、この病気に対して何の知識もなかった当時の私には、彼に「回復のひけつ」を聞くのが最も望ましいことだと思えたのだ。
結果として、彼に相談して良かった。
適確なアドバイスをもらえたこともそうだし、「リハビリは楽器を練習するのと同じこと。ゼロから少しずつ積み上げていかなければ目標に到達しない」という彼のことばがどれだけ励みになったかわからない。
彼は楽器のプロではなかったが音楽業界の専門家ではあった。
その意味では彼も音楽のプロだ。
私も音楽のプロ。
だから、私たちの間で「音楽」が共通言語になるのは至極当たり前のことだった。
彼の音楽に例えた解説はとてもわかりやすかった。
そして、最後に彼はこうも付け加えてくれた。
「頑張っちゃダメ。この病気と闘うには相当の努力と時間が必要なので、あまり頑張り過ぎると疲れちゃうよ。だから、頑張りすぎないように。楽しくリハビリをやっていかないと」。
こんなことばで慰めてくれたのも、彼が体験者だったからに他ならない。
だから、私も恵子も出来る限り「頑張らずに楽しく病気と闘ってきた」つもりだ。
しかし、実際の日常生活では、人は時として混乱する。
できるだけ楽しくとは思っても、夜眠れずに苦しむ姿を毎日のように見せられたり、自分の意思に反して(クスリが原因の可能性は高いが)トイレに失敗し「だんだん自分が自分でなくなっていくようで怖い」と訴える悲痛な声を聞いたりすると、どんなに平常心でいようと思っても時にその気持ちは大きく揺らいでいく。
今日も通院している病院で理学療法士のリハビリを受けた後、身体が衰弱したのか、あるいは、何か精神的な動揺があったのか、彼女は急に歩くことができなくなってしまった。
いつもリハビリの後は、担当の医師の診察を受けることになっている。
「診察室まで歩けるか?」の私のことばに首を横にふる。
仕方なく、病院の玄関にある車椅子をあわてて持ってきて彼女を乗せ診察室まで連れていく。
車椅子に乗せること自体がいやなわけではないが、彼女がこうなってしまう原因がよくわからないことが不安だ。
帰りの車の中、私は運転しながら彼女に聞く。
「さっき歩けなくなったのは、疲れたから?それとも、また頭の中の何かゴミが邪魔したの?」
つまり、彼女の中に何か精神的な原因があるのかと聞いているのだ。
すぐさま、彼女は「両方だと思う」と答えた。
「じゃあ、そうさせているのは何だと思うの?」
天気のせいだよ。ずっと天候不順だし、今、温度差もあるから身体がついていけないんだよ。
そこまで彼女が言ってところで私は彼女のことばを遮った。
「天気なんかのせいにしちゃダメだよ。いつも自分の身体の調子が悪いのを天気とか他のことのせいにしたがるけど、そうやって他のことに原因や理由を求めるのはウサギ自身が負けているからなんだよ。何何のせいでこうなってしまったという言い訳は自分がその何何に負けていると言っているだけなんだよ。ましてや、天気にせいにしたら、一体いつ身体は元通りに回復できるわけ?天気なんかと喧嘩して勝てるわけないじゃないか。闘う相手を間違えてるよ。ウサギが闘って勝たなきゃいけない相手は自分自身なんだよ。自分で全てをコントロールできるようになれば全てはOKなはずでしょ?」
「だから、いつも自分に自身を持って自分の身体をコントロールしていかなきゃダメなんだよ。わかった?」
病気と闘うのは患者自身。
患者が病気をコントロールできるようになるための手助けをするのが医者や、看護士、療法士、家族の役目なのだと思う。
もちろんクスリや医療器具もそうかもしれないけど、そういうモノも含めてコントロールしていくだけの「意思」と「知識」が人間には必要なのかナといつも思う。
知識があれば治るわけではけっしてないが、人はもっと自分自身の身体や心について知るべきだと思う。
そんな大事なことを医者や薬や学者なんかに任しておくこと自体が危険だ。
自分自身が本当に「闘える」だけのモノをしっかりと持っていないと、これからの日本の高齢化社会で幸せな生活なんて送ることはけっしてできないのではないだろうか。
私にはそう思えてならない。

講演を終えたばかりなのに

2013-09-21 15:21:31 | Weblog
こんなことを言うのも気が引けるのだが、先週は恵子の介護を始めて以来初めて自分自身がダウンしてしまった。
おそらく、目の前で苦しんでいる私の様子を見て恵子の方があわてたのかもしれない。
彼女は麻痺でまだ思う通りに身体を動かせないのだから、いくら私が倒れたといっても彼女に私の身体を運んだりする芸当などできるわけがない。
それでも、「火事場のなんとか」ではないが、彼女も必死だったのだろう。
携帯電話を駆使して何とか私の急場を救ってくれた。
幸い、こんな「限界集落」のような別荘地でもすぐ近所にとても親しくしている元高校の養護の先生Yさんがいる。
彼女は八丈島の学校で養護教員を長い間やった後私たちの近所に家を買い、以来近所づきあいをずっと続けているが、恵子は咄嗟にこの彼女に救いを求めたのだ。
しかし、電話をしてすぐに駆けつけて来てもらったのは良いが、鍵のかかっている玄関のドアを開けないことにはYさんを家に招き入れることができない。
発症以来これまで恵子が一人で玄関の鍵を開けたことは一度もない。
きっと恵子にしてみれば「清水の舞台から飛び降りる」ような気持ちでその作業(廊下から20センチはある「あがりかまち」を降り、玄関ドアまで行き鍵をおろすまでの一連の動作にどれぐらいの時間を要したのだろう)をやったに違いない。
何度も「待っててください。今開けますから」と外に向って叫ぶ声が朦朧とした私の耳にも届いていた。
外からはそれに応えるように「いいよ、いいよ。ゆっくりで」とYさんの声がする。
ようやく家に入ってきたYさんがベッドの私に尋ねる」「どうしたの?」
立ちあがるとフラフラして真っすぐ立っていられない。身体が右に右に傾いてしまうし、気持ちが悪くて身体が動かせない。
何とか自分の症状を説明する。
彼女は私の血圧を計りながら「左手上げられる?」と私に聞く。
私が左手を上にあげると「ああ、大丈夫だ」と私をなだめる。
この日の昼間、私は暑いさなか恵子の入浴の介助をしたり忙しくたち働いたおかげで熱中症にかかったのかもしれなかった。
あるいは、長い間の介護疲れが出たのかもしれない。
しかし、この近所のYさんの適確な処置のおかげで、救急車を呼ばずに済んだ。
救急車を呼ぶことに抵抗があるわけではないが、その後に一人で家に残されてしまう恵子のことを考えるとそう簡単に「救急車を呼んで」とは言えない。
恵子にしてみれば、ちょうど二年前の自分自身が体験した「悪夢」が蘇り気が気ではなかったはずだ。
恵子が二年前脳溢血で倒れた時ちょうど一緒にいた叔母の話によれば、恵子は、食事をしていて急に「身体の右側が変だよ。気持ちが悪い」と言い、畳の上に倒れ込み吐いたのだという。
きっと私の症状に過去の自分の姿を見たことだろう。
彼女の頭の中はパニックになっていたのかもしれないが、しっかりと私を助けてくれた。
介護の現実というのはこんなところにも如実に現れる。
子供が親を介護するのは、子供にとってすごい「負担」であることは間違いないが、まだ子供は親より若い分「楽」なのかもしれない。
しかし、世の中には、老人が老人を介護する、認知症が認知症を介護する「現実」がそこかしこにあるし、その数はきっと増えこそすれ減ることはないだろう。
政治や行政は「予防医学」ということを盛んに言っていて「病気にならない」「介護の必要のない」健康を国民に求めるが、そのためにしなければならないことは一つや二つではないはずだ。
一人一人が自分自身の健康をもっと「義務」として考えるべきだし、もっと地域差や個人差など多様化した「生活」の中で多様化した「健康ライフ」を考えるべきなのではないのかなとも思う。
私の講演会でもそこにいた介護士、看護士、施設関係の人たちから浴びせられる質問は、私の語った「介護現場への音楽の必要性」などという「総論」などではなかった。
そんなことはわかっているから具体的にどうすれば良いのか教えてくれという叫びが私の耳の奥に聞こえるようだった。
「介護する疲れた人」にこそ音楽が必要と言って立ち上げた「MUSIC-HOPEプロジェクト」だが、ひょっとしたら一番音楽が必要なのは私自身なのかもしれない。
「医者の不養生」「紺屋の白袴」と言われないよう、自分自身の健康は今以上に気をつけなければと思う。

さながら心理戦

2013-09-07 20:08:28 | Weblog
のようだといつも感じる。
恵子の中枢神経の命令系統がどこでどういう風に機能しているのかは人の身体の内部のことなのでわからないが、彼女の中枢神経がどう末梢神経の感覚をコントロールしていくことができているかどうかの勝負が、さながら毎日の二人の間で起こる心理戦なのだ。
昨日、久しぶりにお風呂の介助をした。
まだ右足に装具を身につけている彼女にとって唯一素足にならなければならないのがこのお風呂だ。
なので、彼女にとっては一番「怖い」場面でもある。
もちろん、そのリスクの高さが彼女の中枢神経にどれだけの「恐怖」を与えているのかは私にはわからない。
しかしながら、彼女の右足の力はこの二年間で飛躍的に回復している。
一時は「装具なしで歩こうか」と療法士と相談していたぐらいだった。
しかし、その状況は、今年の春に始まった彼女の家族とのバトル(まあ、彼女の姉弟同士のことだ)と、この夏の異常な暑さですっかり変わってしまった。
第一に彼女のリハビリの時間がすっかり失なわれてしまったのだ。
まあ、これも彼女によれば「暑さのせい」ということになるのだが、私にしてみれば自分の「不調」を必ず何かのせいにしてしまう彼女の性癖が一番問題なのではと思っている。
今年の冬も、寒さでそれまで自分一人で降りていかれた玄関のたった三段の階段が降りられなくなってしまった(一段が20センチなので若干高いと言えば高い段差だが)。
降りようとしても「足がすくむ」のだという(昇るのは案外簡単なのだ)。
仕方がないので私が抱きかかえながら降ろすことになる。
でも、私はこれを本当はしたくない。
私は、彼女の着替えにしても何にしてもなるべく「手伝わない」ようにしている。
「自分でできた」という自信が彼女の中枢神経にしっかりと情報として固定されないと次からも誰かに何かに頼らなければならなくなってしまうからだ。
つまり、脳が「頼らなければできない」と思い込んでしまうのだ。
リハビリというのは、酷なようだが、「困難な状況」をどう乗り越えていくのかが一番重要なポイントなのだ。
乗り越えられればそれが自信になり「能力」としてその人の身体と心に固定されていく。
それが「できない」と、身体と心は自信を喪失して「できない」ことを脳が容認してしまうのだ。
なので、昨日のお風呂もそれまでと同じように、見守りながら入るはずだった。
この一年半の間、彼女の入浴は私の見守りで十分だった。
しかし、昨日は彼女の足がものすごくぎこちない。
「おいおい、そのままじゃあ、倒れてしまうぞ」という宙ぶらりんな足の動きなのだ。
それでも、なるべく助けずに「大丈夫、だいじょうぶ」を繰り返しながら彼女が一人でいつも通りできるように見守ろうとするのだが、本当に久しぶりの入浴で(彼女はずっと風邪をひいていたので控えていた)、まるで「初めての風呂体験」のようなギコチなさだ(でも、実際は、本当に初めての昨年の4月の「風呂」の方が昨日よりもはるかに上手だったのだが)。
私はこれを恐れていたのだ。
なので、昨日はお風呂に入る前の午前中に彼女に「iPodでリストを聞きながら、大丈夫、大丈夫、私は強いと自分に言い聞かせなさい」と、彼女に自己暗示にかけるようにと指示していた。
そういう「自分を強い、手も足も問題なく動く」と自分の頭に思い込ませることは実際のリハビリトレーニング以上に重要な作業だからだ。
でも、結果的にこれはあまり効き目がなかったようだ(彼女がどれほど強い自己暗示をかけていたかどうかわからないが)。
お風呂での彼女の狼狽ぶりは目もあてられないほどだった。
本来真っすぐ足の裏がしっかりと降ろせるはずなのに、足は曲がり宙に浮いてしまいどこにも降ろす場所を失っている(まるで退院前のひどい麻痺状態の足に戻ってしまったようだ)。
もちろんそんな状態では立っていられないので私が身体を支えるが、これまで一年半お風呂の介助をしていて一番悲惨な状態なので、私も頭の中で「ここで全部私が助けてしまっては、また彼女が余計に自信を喪失してしまい、これから先お風呂に入るたびにトラウマになってしまう」と思い、何とか必至に解決策を探す。
私は、彼女を一時的に椅子に腰掛けさせた。
つかまりながら前に進めなくても椅子に一時的に腰掛け彼女自身に次の行動を考えさせる。
それが大事なことだと思ったからだ。
私が彼女の身体をかかえてあっちからこっちへ移動させ全てを済ませてしまうことはできるが、今まで一度もやったことのない「そんなこと」をしてしまったら多分彼女はこれから先立ち直れないほど自信を失ってしまい、お風呂だけの問題ではなく、今後のリハビリ全体にも影響してしまうだろう。
多分彼女の頭の中では「できない、できない」というパニック状態が起こっているのだろうが、そのパニックを起こさせているのは私でも病気でもなく彼女自身の脳なのだ。
彼女は、いつも「初めてのこと」を極端に怖がる。
一度できてしまうとこちらでもビックリするほど何でもスイスイこなしていくのだが、初めての行為にはことのほか慎重だ。
いや、慎重を通り越して「異常なほどの怯え」に陥る。
一旦この怯えに陥ってしまうと、私が無理矢理動かすことすらできなくなってしまう。
脳卒中の患者の後遺症との闘いは、運動能力の回復だと思われがちだし、私自身もそう思っていたけれども、実際は、それよりももっと「心との闘い」の部分が多いことに気づかされる。
手足をいくら訓練しても頭がそう思い込まない限り、人の運動能力というのはけっして思い通りには機能しない。
ラベルが「左手のためのピアノ協奏曲」を書いたことで有名なウィーンのピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインは第一次大戦で右手を失った人だが、彼は実際に右手を失った後も、「幻肢」という現象にずっと悩まされていたという。
幻肢というのは、「そこに右手は実際はないのに、あると頭が錯覚してしまう」ことだ。
彼は、この幻肢のために、実際はあるはずのない右手の「痛み」にまで悩まされていたという。
ただ、逆に、彼はこの「幻肢」によって失った右手の運指を完全に思い出すことができ、そのおかげで弟子に右手の運指を教えることができたのだともいわれている。
これを「思い込み」と片付けてしまって良いのかどうか。
「錯覚」だよと言ってしまって良いのかどうか。
恵子の脳の後遺症とずっとつきあっていると、やはりこれは「心の病気」なのだろうなという気が本当にしてくる。
まあ、極端に言えば、全ての病気は心の病気だとも言えるのだろうけれども、脳だとか麻痺だとかが関わってくる病気においては、この「心のコントロール」が最も大事な要素なのだということがよくわかる。
だから、私はいつも彼女に「頭の中の最もプライオリティが高いところに自分の自信を持ってこなきゃダメだよ」と言う。
つまり、「自信に満ちた」脳の最高司令官の命令が「絶対」にならなければ、末しょう神経から来る「暑い」「寒い」「痛い」という感覚にこの中枢神経の司令官が負けてしまうからだ。
「寒いから身体が動かない」「暑いから身体が動かない」。
健常者は、普通「今日は暑いから足が動かないので会社には行けません」とは言わない。
中枢神経が全てをコントロールしているからだ。
でも、彼女は自分自身の身体の麻痺に頭で口実を与えている。
「甘えている」のかもしれない。
誰に?何に?
私に甘えているのかもしれない。身体が動かないこと自体に甘え得ているのかもしれない。
もちろん、「甘え」以上に「苦しみ」はその何倍もあるのだろう。
だからこそ、私は、その甘えが時々許せなくなる。
「苦しいことに甘えてちゃダメだよ。
早くその苦しみから脱したいだろ」。
「歩けるはずなのに、何で歩けないの!」そう叫びたくなってしまうのだ。
一体どこまでこの「心理戦」が続くのだろうと思う。
そして、その心理戦は一体誰が勝利するのだろう?
誰が勝利すべきなのだろう?

二年前の記憶は

2013-09-02 19:09:59 | Weblog
今でも昨日のことのように鮮明だ。
2011年の9月2日。ちょうど台風が日本列島にいくつもやってきていた日だった。
ふだん自宅から見えるはずの房総半島も伊豆大島も伊豆七島もまったく見えない、ただただ雨と風だけの一日。
そんな日は逆に練習に身が入るのでかなり練習に時間を費やした日だった気がする。
夕食を食べソファに横になろうとしていたちょうどその時、突然携帯電話が鳴った。
久しぶりに聞く義弟の声だった。
彼が、電話の向こうでこう告げてきた。
「ケイが倒れて救急車で運ばれたよ」。
え。何。恵子が倒れた?
自分の身内が病気や事故で倒れるなどという事態を予測している人はあまりいない。
私は、その時の彼のことばの意味をしばらく理解できないでいた。
恵子が脳溢血で倒れた。電話口の向こうの声ははっきりとそう告げていた。
しかし、私の頭は「そんな、まさか。あり得ない」という先入観から、まったく違った風に彼のことばを理解しようとしていた。
「え。ケイ? 叔母さんじゃないの?」
恵子の東京の実家で同居している八十四歳の叔母ならいつ倒れてもおかしくない。
私の頭は、勝手にそう解釈しようとしていた。
しかし、この私の小さな望みは彼の次のことばであっさりと否定されてしまった。
「いや、倒れたのはケイの方。たった今救急車で運ばれたところ。けっこう大変そうだよ。また病院に着いたら連絡する」。
 そう言うなり彼は電話を切った。
戸外の強風のもたらす激しい音に我に返った私は、一体何をなすべきか呆然と佇み考え込んだ。
窓を叩く雨音が激しさを増しているような気がした。
 「ええい」。私は、車のキーを握りしめ、取る物も取り敢えず外に飛び出した。 
ふだんは観光客であふれかえっている伊豆高原の町だが、さすがに台風の日に訪れる観光客は少ない。
いつもは品川、練馬、足立などの東京ナンバーや千葉ナンバー、湘南ナンバーで賑わう国道も、その日ばかりは地元の伊豆ナンバー、沼津ナンバーばかりだった。
伊豆から都心に向うには幾つもの急な峠を越えていかねばならない。
心の中で「落ち着け、落ち着け」と自分自身の気持ちをなだめながらフロントガラスの向こうに視線を集中させた。
「こんなところで事故ってしまっては身もふたもない」。
正直、最悪の事態を何度も予想した。
そのたびに、私は首をふりそれを否定する。
運転中はひたすらその繰り返しだったような気がする。
東名高速を用賀料金所で降りて国道二四六号線に入った私は、病院への曲がり角を探した。
私が東京目黒の病院に着いた時、既に時計は午後十一時を回っていた。
救急外来の入り口を見つけてそこから中に入った。
入り口のすぐそばにある待合室には、こんな遅い時間にもかかわらず大勢の患者が診察を待っていたのは驚きだった。
私はそんな人たちの脇をすり抜けるように、四階の救急病棟へと向った。
ほとんど人気もなくガランとした薄暗い救急病棟の待合室にいたのは、電話をくれた義弟一人だった。
「先生は明日の朝改めて説明すると言っていたけど、私には、左の脳の出血が三センチぐらいあるのでかなりの重傷だと言っていた。相当長い入院生活を覚悟しておいた方がいいかもね」。
義弟は、事情もよく飲み込めていない私にあっさりと「それなりの覚悟をしろ」と迫っていた。
どこの病院でも一番重篤な患者はナースステーション付近の病室に置かれるが、恵子の寝ている病室はまさにナースステーションのすぐ目の前にあった。
私は、おそるおそる病室に入った。
目の前に並ぶたくさんの管。
そして、薄暗い部屋の中でひときわ明るい光をはなつ心電図のモニターには、ピッピッという規則的な電子音と共に恵子の心臓の波形が映しだされていた。
恵子は、そんな器械の中に埋もれるようにベッドの上で眠っていた。
静かな呼吸音が彼女の口から漏れてきた。「ああ生きている。良かった」。
これがその時の私の偽らざる気持ちだった。
運命の女神がもしそう願えば二度と会うことが叶わなかったかもしれない人が生きてそこにいた。
私はベッド脇に置かれた椅子に腰を掛けた。
何が起こったというのだろう。
これからどうなるのだろうか。
私の頭は状況を懸命に整理しようとしていた。
ただ、不思議と悲壮感はなかった。
まだ情報があまり頭の中になかったからかもしれない。
そんな私に繰り返し襲ってきたのは「これは何の啓示なのだろう」という思いだった。
私は、何をしろと言われているのだろうか。
数年前から介護と音楽とを結びつける企画をいろいろな介護企業にプレゼンしていた。
だから「お前も口で言うだけじゃなく、頭で考えるだけでなく、自分で実践してみろ」そう言われているのだろうか。

恵子の眠る静かな病室でそんなことを考えながら過ごしたのがちょうど二年前の9月2日の晩だった。
あれから丸二年という月日がたってしまったが、あの晩に考えた「これから起こるかもしれない数年間」と現実に体験した「実際に起こった二年間」はまったく違っていた。
両親を十代でなくした私に親の介護は無縁のはずだった。
だから、子供もいない私たち夫婦にとって、「介護」という二文字は、お互いの間にしか起こりえないと思っていたが、現実にそれが起こってしまったのだ。
介護の事情というのは、一人一人ケースバイケースで全部違うのだから、自分の状況を「大変だ、大変だ」と叫んでみても何の助けにもならない。
それよりも、介護という現実は人にいろいろなことを教えてくれる。
そのことの方がはるかに大事なような気がしてならない。
時に「地獄」のような場面も訪れたりはするが、問題はそんなことではない。
やはり、問題は「どう生きるか」ということ。
つまり、介護とは「生き方」そのものが問われているんだということに結局は気づかされる。
私という「介護する人」と恵子という「介護される人」はまったく違う人間だし、それぞれ別の人生があるということ。
こんな「当たり前」のことがとっても新鮮で「大発見」のように思えるのが「介護」なのかもしれないと思う。
「介護する側」と「介護される側」では百八十度も立場が違う。
でも、この二者は絶えず近い距離(精神的にも物理的にも)にいなければならない。
ここが一番の問題なのだろうと思う。
本当は「近く」なければならない二人なのに、この二人の間の距離は思ったほどは近くない。
時に、絶望的とも思えるほどにこの距離がなかなか縮まらないのだ。
「早く治してあげたい」「早く治りたい」。
この二つの願望は、一見同じことを目指しているようだが実際は微妙に違う。
「全部食べなきゃ体力つかないよ」「でも、なかなか全部食べられないよ」
こんな何気ない日常の食事場面が何度も何度も繰り返されていくうちに、お互いの中でズレていくものを修正することがだんだん難しくなっていく(介護というのはこんな小さなズレが日々集積していくことなのかもしれないとも思う)。
それまで一緒に行けた外食も、一緒に行っていた映画も「そんなこといつのことだっけ?」と感じるほど遠い世界に追いやられてしまっている。
別にそんなこと望まないよと強がってみても、心の中では「早く一緒に外で食事を楽しみたいな」と思う。
でもそれを許さない現実の二人の「距離」に時に絶望し、時に涙する。
そんな日々をどう生きていくのか。
あるいは、どう演出していくのか。
介護に疲れちゃいけないんだよな。
介護に疲れるということは、すなわち「生きることに疲れてしまう」ことにつながっていくんだから。
まだそんな結論には到達したくないし、そうするべきではない。
介護というのは、結局「介護する側」と「介護される側」の距離をどう縮めることができるのか…その方法を探ること。
だんだん素直にそう思えるようになってきた。
その答えを見つけることができるのかできないのか、残りの人生をそこに賭けてみるのも悪くない。
「これから」やっていくことの一つ一つでその答えに近づいていければ…。
「あの日」から二年後の私の偽らざる心境といったところだろうか。