みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

身内の不幸が続き

2008-10-11 00:22:46 | Weblog
つい最近大阪まで葬儀に行ってきた。
どなたのお葬式であってもお葬式のたびに思うことは、人の一生涯の中にあるいろいろの儀式の中で最も重要なのはやはり告別式なのではないのかナ?と思うことだ。
結婚式に関しては、私はさほどの感動もないし、感動する理由もない。まだこれからキャリアや人生そのものを積み重ねていくスタートラインの儀式に過ぎないのだから、それほどの感動もおこしようがない。結婚式で感動する場面があるとすれば、結婚する状態にまで育てあげた両親(あるいは、それに替わるような存在の人)に対する感謝の情や心が表現されている式に出会った時しかない。私は、結婚する当人たちを育てた両親の方の感情を思って涙することはあっても結婚する当人たちに涙することはほとんどない。
しかし、告別式というは人生の終わりだ。つまり、生まれてから何十年かのその人の人生がそこに全部表現されているのだからこれは感動しない方がおかしい。
亡くなった人の赤ん坊時代のことをよく知る人もいるだろう。故人に恋心を抱いていた人も来るかもしれない。仕事で本当に苦労を共にした人もいるかもしれない。世話になった、世話をかけたなど、ありとあらゆる故人の出来事と時間がもう屍となった人の身体には凝縮されていることを思うと本当にそこに人のドラマを感じずにはいられない。たとえ、それがごく普通の主婦という立場の人であっても、生まれてから人と出会いそして結婚して、そして、苦労して子供達を育て、そして、いろんなドラマを味わってそして死んでいくのだから、平々凡々の人生なんてあるわけがない。そこにもう冷たくなってしまった人の中に一体何が隠されて何が凝縮されているのかを考えるだけでもあまりにも壮大な宇宙の出来事のような気がしてならない。
私の母と呼ばれる人は戦争中に台湾に疎開してある男性と出会いそして道ならぬ恋をして子供を産み、そしてその子を生後数カ月で亡くし、その後に私という人間を産む。それだけでもたいしたドラマなのに、そこから先にも父と呼ばれる人、母と呼ばれる人の間には壮絶なドラマが起こり、そして、その二人は結果私が十いくつの時にこの世から去ってしまった。そして残された私にもまだ終わりの来ないドラマが展開されているということを考えると本当に人と人の出会いそのものが奇蹟だしドラマだし、壮大な宇宙の営みそのものなのかな?とノーベル賞にははるかに及ばないヘナチョコ頭で考えこんでしまう。

そんなこんなを考えながらの大阪での葬儀であったが、一つだけ腑に落ちないことがあった。
葬儀場でお骨を取り扱う習慣が東京と大阪でこれほどまでに違うのか?と思った点だ。
東京では、普通火葬された遺骨は箸と箸で二人がかりで骨つぼに入れるがその葬儀場では一人一人が黒と赤の箸でつまんで骨つぼに運びいれていた。しかも、骨つぼが東京のそれと比べて異様に小さい! これでは全部のお骨は入らないだろうと思っていたら、案の定、葬儀場の人が「後の残った骨はこちらで葬らせていただきます」と言うだけで、結局遺骨のすべてを骨つぼに入れたわけではなかった。
「え?そんなのアリ?」とか私は思ったものの、私が喪主でも何でもないので私がクレームをつけるわけにもいかず、残りの遺骨はそのまま戻されて喪主の方にはその小さな骨つぼを渡されただけ。
何か今でも腑に落ちない。あれが大阪、あるいは関西では当たり前のやり方なのだろうか?
骨自体が故人とは考えないのだろうか?
私は、それがたとえ灰や骨になってしまおうとも、愛する故人であればそのすべてを持っていたいと思うのだが。