みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

「貧しい芸術家はいない」

2016-08-28 15:59:29 | Weblog

十九世紀末、ノルウェーの貧しい漁村に住んでいる二人の姉妹。

この姉妹は、父が厳格なルター派教会の牧師で、父亡き後教会を守り村の人たちの監督牧師の役を引き受けて細々と暮らしている。

そこに住み着くお手伝いさんの名前はバベットさん。

もともとはフランスの三ツ星レストランの一流シェフだったバベットさんだが、1871年のパリコミューンの騒ぎでフランスを追われこの北欧の片田舎まで流れ着き姉妹の家の家政婦として働くようになる。

姉妹の毎日の暮らしを驚くほど豊かに切り盛りするバベットさんの唯一の楽しみはフランスの宝くじを買い続けること。

そして、ある日とうとう当りくじを引き当てる。

バベットさんは、姉妹や村人への感謝の印に昔働いていたパリの高級レストランのフルコース料理を当りくじで得たお金を全て使い果たしてもてなす。

これぞフレンチの極み!のような高級料理に対してわざと何も感じないフリをする村人たち(すべての快楽に対して禁欲的に生きるルター派にとって、カソリック信者のように味を楽しむことはある意味「罪」の一つだからだ)。

一方「こんな美味しいもの、フランスでも滅多に食べられない!」と目の前の料理やワインの蘊蓄を語る客の一人の将校。

この将校は、かつて姉妹の妹に恋心を抱いていた人。

晩餐が終わり招待された村人(姉妹も含めて)がこの上ない至福に浸る時、姉妹はバベットさんが「これが最後」と別れを切り出すものと覚悟する。

しかし、バベットさんの答えは意外なものだった。

「私は、また元の無一文になってしまったので、引き続き家政婦として働かせてください」と。

このことばを聞き姉妹は「(賞金を全部食事に使ってしまうなんて)なんでそんなバカなことをしたの」と唖然とする。

その問いに対する答えが「この世の中に貧しい芸術家はいませんから」というバベットさんのことば。

私は、この映画を最初に劇場で観た時、このことばを聞けただけでも映画を観た価値があったと思った。

しかし、原作ではもっと適確なことばで芸術の意味が説明されている。

バベットさん曰く「わたしは、すぐれた芸術家なのです。すぐれた芸術家はけっして貧しくなることはないのです」。

さらにこう付け加える「芸術家が次善のもので喝采を受けるのは恐ろしいことなのです。芸術家の心には、自分に最善を尽くさせて欲しいという世界中に向けて出される悲痛な叫びがあるのです」。

一番ではなくて二番で良いのではと言った政治家がいたが、世の中、最初から二番手を狙う人に何かを成し遂げられる人はいないと思う。

別に芸術だろうと科学だろうとスポーツだろうとどんな世界でも。

「芸術家が次善のもので喝采を受けるのは恐ろしいこと」。

私もそう思う。

だからこそ一切手を抜かずに全財産使い果たして最高のフレンチを村人たちにふるまったシェフ・バベットさんの味が「幸福」を招いたのだと思う。

 

『バベットの晩餐会』を書いたイサク・ディーネセンは、デンマークの貴族の家に生まれ嫁ぎアフリカに移住する。

しかし、夫のプランテーション経営は失敗し(しかも、夫は浮気で梅毒になってしまい彼女も感染させられる)離婚しデンマークに戻り作家として自立する。

しかし、まだ女性が自立して職業を持つことなど許されない時代だったため、彼女は、カレン・ブリクセンという本名を捨てて、イサク・ディーネセンという男性名で作家としての活動を始める。

それがこの『バベットの晩餐会』を書いた人物だ。

さらに、彼女の夫とのアフリカでのプランテーション経営破綻と恋愛の話しが、メリル・ストリープとロバード・レッドフォード主演の『愛と哀しみの果て(原題は”Out of Africa”)』という映画にまでなる。

『バベットの晩餐会』も『愛と哀しみの果て』もまだ観たことがないという人はぜひ二作ともご覧になることをお勧めする。

この2つの映画を既に見た人も、「『愛と哀しみの果て』でメリル・ストリープの演じる女性が、『バベットの晩餐会』を書いた人物なんだ」と思って見ればけっこう味わいも違ってくるだろう。

もちろん、私が一番注目してもらいたいのは、当時の北欧の貴族の生活でもアフリカの生活でもなく、「全財産を捨ててもなおかつ心を豊かに人を幸せにしてくれるもの、それが芸術なんだ」という点だ。

最近メディアで売れっ子になってしまった脳科学者の中野信子さんがどこかで(ご自分の IQの高さを例にあげながら)「IQの高さと人の幸せは比例しません」と言っていた。

当たり前じゃん。

そんなこと今頃気がつかれたのですか(と逆に彼女を突っ込んでみたくなる)。

実際は逆でしょう(とさえ思う)。

現実にはIQの高い人ほど、(お金や高い地位は得られるかもしれないけど)逆に、本当の幸せからは遠いのでは?

私の演奏(音楽)で誰かが幸せになれる。

もうそれだけで、私(自身)は貧しさから解放されている(ということになるのだ)。

バベットさんの料理で人が幸せになる。

この喜びを与えられる人たち(すべての芸術家)が貧しいわけはない。


2016-08-23 18:05:33 | Weblog

先日、アメリカ人の友人3人とお茶している時(一人はアーティスト、一人は教育者とその娘で私以外は全員女性)、突然「ジョン・ケージのspace と日本の文化について…」みたいな話しになった。

日本の絵画とか音楽、そして人と人の距離、つまり「間」をどう計るかみたいな話し、ダ。

すぐに思い浮かんだのはかつて恵子がやっていた日本画。

彼女は帯の会社に勤め帯の下絵を描いたりもしていたが、アメリカ滞在中は、アートフェスティバルやマーケットなどで売ったりもしていた。

そんな時アメリカ人は必ずこんな風に質問してくる。

「この絵、まだ未完成なんだろ? 何も描いてないスペースがこんなに残ってるじゃないか」。

いや、そうじゃなくってさあ、と西洋人は日本文化の「間」が理解できないのかとは思いつつも、私と恵子で丁寧にゆっくりと「日本画の間というのは、これこれこうであって…」と説明してさしあげる(笑)。

その甲斐あって彼ら彼女らが本当に理解したかどうかはよくわからないけれども、最終的には「interesting!」とかいって買ってくれるのだから、私たちにとっては有り難いことだった。

日本文化には本当に何もない「space(間)」がたくさんある。

音楽でもしかりだ。

私は、かつて自分のリサイタルで(そういえば、そんなスタイルのコンサートから遠ざかって久しいナ…ハハハ)三味線とフルートの曲を知りあいの作曲家に書き下ろしてもらった。

その作曲家は弘前大学の教授で津軽三味線とオーケストラの曲をたくさん書いていた作曲家/指揮者の人だったので(しかも、私のごく親しい友人だったので)躊躇なく依頼した。

フルートとお琴のため曲はそう珍しくないけれども、フルートと三味線の曲なんて滅多にあるものじゃない。

もちろん、出来上がった曲は素晴らしかった。

でも、この曲の完成には一つ大きな問題があった。

それは、どうやって練習すればよいのかということ。

だって、三味線の演奏を頼んだ端唄のお師匠さん(粋な着物姿の似合う美形のオネエサンではあったが)オタマジャクシがまったく読めないのだ。

なので、取り得る方法は唯一つ。

私が、楽譜に書かれた音を一音一音歌いそれを彼女に覚えてもらったのだ(これがホントの「口三味線」ってネ、ハハハ)。

これは、ある意味、日本音楽の習得方法としてはわりとオーソドックス。

なので、彼女に三味線のフレーズを覚えてもらうのにさほど手間はかからなかった。

問題は、休符。

西洋音楽では、休符も音符と同じく「1、2、3、4」と数えれば用は足りる。

しかし、これが彼女にはまったく通じない。

これも、考えれば当たり前の話しなのだが、日本の伝統音楽で数は数えない。

フレーズと同じように「間」は「これぐらい」と感じるものなのだ。

恥ずかしながら、私はこの時初めてそのことに気がついた。

どうしたものか。

これも、答えは一つ。

彼女がどこでどれぐらい休むのかを(全曲を通して)私が感じ取るしかない。

私が彼女の「間を計る」のだ。

なので、間が悪ければ「間違い」になるし、逆の場合には、とっても「間が良い」ことになる。

はは〜ん、これネ…。

日本語の慣用句に音楽用語が多いのはこんな理由だろう(ちなみに「打ち合わせ」も雅楽で使う音楽用語)。

音楽の「お休み」というのは、けっして「音が何もない時間」ではないということだ。

「間」という音楽がそこには存在しなければならないということなのかもしれない(と、私は理解した)。

多分、ジョン・ケージが作った有名な『4‘33”』という曲(4分33秒の間演奏者は何も音を出さない)はこのことを表現したかったのだろう。

音楽って結局「楽器が何かしらの音を出していること」なのではなく、色や形で紙を埋め尽くさない日本画や日本庭園の「間」の概念のように、「世界は、あるものとないもので構成されている」ということを表現することに近いのかナと思ってみたりする。

まあ、それが本当に正しい解釈かどうかはわからないし、究極それが「正しいか正しくないか」はどうでもよいことなのだと思う。

同時に、こんなことも思い出した。

宮中で催す晩餐会。

そこで必ずといってよいほど雇われるクラシックの室内楽(私も、かつて一度だけ迎賓館で演奏したことがある)。

西洋の晩餐会でつきもののBGMには明確な意味がある。

それは、VIPの皆さんが食事をしている最中に一番起こってはいけないことを避けるための「保険」なのだ。

それは、たとえそれがほんの一瞬であっても絶対に起こってはいけないsilenceを避けるための「保険」と言ってもいいだろう。

「沈黙」は、晩餐会の最中に「絶対に起こってはいけない事故」のようなもの。

それを避けるために楽士は雇われる。

「間」を極力避けようとする西欧文化と「間」にこそ万感の思いを込める日本文化との違い。

これは、人と人との距離感でも同じ。

「空気の読めない」人というのは、結局、人と人との「間を計れない」人なのかもしれない。

 

 


一人暮らしのおばあちゃん

2016-08-16 21:45:27 | Weblog

別荘地という、ちょっと変わったコンセプトの場所に住んでいるので、隣近所というのがあまり多くない。

この別荘地全体で何世帯、何人ぐらいの人たちが住んでいるのかもよくわからないが私のエリアには家が十数件ありそのうち常時住んでいるのは私の家も含めて5世帯ほど。

別荘地でいうエリアというは、東京郊外の建て売りが並ぶ新興住宅地によく見られる碁盤の目のような区画とは違い、どちらかというとドン詰まりの細い道路が無数にアリの巣のようにある(というか、人間の毛細血管といった方が近いのかナ)エリアの中の一つのドン詰まりエリアのこと。

その一つ一つのエリアだけみれば、それぞれまったくの「限界集落」。

まあ、日本中どこでもこういう場所は似たり寄ったりだと思うが、こういうエリアでの近所づきあいというのはとても微妙だ。

隣近所がけっこう遠い。

家は見えているものの、きっと大声出しても駆けつけてはくれないのでは…と思うぐらいの距離だ。

それでも災害を含めイザという時にはやはり近くにいる人同士の結びつきは欠かせない。

その私のエリアで一件だけ一人暮らしの家がある。

もともとはこの家のおじいさんとのつきあいもあったのだが、数年前になくなられ現在はSおばあちゃんの一人暮らしだ。

時々自分で作られた家庭菜園のものを「ダイコン持ってきたよ」と行って見えたりする。

私もお返しに「お菓子作ってきましたよ。食べてください」と持っていったりする。

そんな仲のおばあちゃんなのだが、最近姿が見えないナと心配になっていた。

朝の散歩の途中でも、「うん、どうしよう。ドアノックしようかナ」とも思ったりするのだが、まあお盆の最中だしどこかに出かけたのかもしれないと勝手に自分を納得させて人気のない家の前を通り過ぎる。

まあ、それでもちょっと心配で「電話を….」と思うものの、ダイヤルを回すきっかけがつかめないまま、そうだ、今日は午後から台風だナと思い、あわててスーパーへ買い物に出かけた。

するとよくしたもので、そこでちょうどそのSさんの向いの家に住むおばさんから声をかけられた。

これ幸いと私は「Sさん、どうしてます?最近見かけないですネ」と切り出すと彼女「ああ、Sさんね、いま東京の娘さんのところに行ってらっしゃいますよ」。

そうだったのか。

それならよかったと、とりあえず胸をなでおろす。

そう言えば、Sさん以前に言っていたっけ。

「前は、よくマゴたちが遊びに来ていたの。でもこの頃は虫が嫌いと言ってこちらに来るのをいやがるようになって最近はサッパリ」。

だから、おばあちゃんの方から娘さんやお孫さんたちに会いに出かけたのかナ。

年寄りに無理に旅させずにみんなでこっちに来てあげればいいのにとは思うものの、とりあえず無事がわかっただけでもデメタシ、デメタシ、でした。


アクティブラーニングということを

2016-08-05 18:42:57 | Weblog

文科省が言い出した。

厚労省が「認知症カフェを作れ」と言い出したことと同じで、なんで行政の初動というのはこうも遅いのかといつも不思議に思う。

事件の初動捜査の失敗で迷宮入りする事件があまりにも多いのと同じで、アクティブラーニングも認知症カフェもきっとたいした成果をあげられずに終わるのではと思ってしまう(のは、勘ぐり過ぎかナ?ハハハ)。

大体が、こんな当たり前のことと今までやってこなかったことの方がオカシイ。

生徒が同じ格好をして同じ方向を向いて同じ教科書を同じように眺めていることが「教育である」ということの方がはるかにオカシイということにやっと気づいたのだろうか。

日本という国は、なにしろ「同じ」ということへの呪縛があまりにも多過ぎる。

なんで人と同じことをしなければいけないのか。

なんで人と同じように学校に行かなければいけないのか。

私の小さい頃からの疑問だし、今でも「疑問」に思っている。

先日ある高校生から「親になぜ大学に行かなければいけないのか尋ねても、とりあえず行けとしか答えてくれませんでした。どう思いますか?」と聞かれた。

みんなが大学に行くから、お前もとりあえず行け。

それって(マジに)答えになってないと思うのだけれども、きっとほとんどの親はそう答えるだろうナ(と思う)。

「みんなが行くから行く」「みんながやるからやる」。

だから、「オマエも大学にとりあえず行け」。

ある意味、この国ではこれが正論なのかもしれない。

でも、人生の一番ナイーブな時期にいる高校生にしてみれば、そんなこと「オカシイ」としか思えないだろう。

件の高校生、私から「そんなところ行く必要ないよ」という答えを期待したのかもしれないが、私としては「じゃあ、何をする」という代案を用意せずに安易に「大学なんか行く必要ないよ」と答えるわけにはいかない。

じゃあ、(大学に行かない代わりに)どうする?が必要なのだ。

「ラーニングピラミッド」というものがある。

どういう風な教育スタイルで学べば知識の定着率が高くなるかという分布をピラミッドのような表にまとめたものだ。

ピラミッドの頂上に行くほど定着率が悪い。

つまり、効率の悪い教育法ということになる。

このピラミッドの一番頂上にあるのは「教室での講義を聞くこと」。これが5%(の定着率でしかないとこのピラミッドは教える)。

その次に来るのが、「マスタークラス」などの特別な講義スタイルで、これが10%。

3番目が「視聴覚による授業」で20%。

次の「プレゼンテーション(生徒に発表させること)が30%。

そして、以下、ディベイト(50%)、体験学習(70%)、他人に教えること(90%)、と続く。

つまり、教室でただ授業を聞いていてもほとんど知識は頭の中に入りませんよということをこの「ラーニングピラミッド」は示しているのだ。

人に教えられるようになってはじめて「自分の知識」として定着する(そりゃそうだろう)。

だから、「アクティブラーニング」が必要なんです。というのが、おそらく行政の考えていること。

まあ、この定着率云々はアメリカの教育機関が調べた結果だからそのまま鵜呑みにもできないけれども、きっと概ね当っているのだろう。

いつも思うこと。日本の教育に絶対必要なのはディベイトや体験学習。そして、日本語の学習。

体験学習は、実際の会社やお店に体験的に「実習」として出向く授業は既に(小学校でも中学校でも)実施されているけれども、子供たちを営業時間内に引き受けるのはお店にとっても会社にとっても厄介なお荷物。

だから、どこかの高校のように、実際にレストランを作るところから「体験」して「運営」していけば本当の意味での体験学習になるだろう。

容赦なく人間の生活に入り込んできているロボットや Aiをうまく使いこなすワザを発見できるのは、間違いなく(頭の固い)大人ではなく子供たち。

ポケモンGO やペッパーなどという、現実の世界にVRが殴り込みをかけてくるような「無礼な存在」とどう対峙していくのか。

毎日の生活に容赦なく入り込んでくる(ビッグデータ)による「おせっかい」にも私たちは対峙しなければならない。

二十世紀に作られた数々のSFが現実のものとなっている「今の生活」に正しい処方を書けるのも子供たち以外にない。

「現実」を変えたいとも思わない大人たちの怠慢を子供たちが「未来の希望」に変えられるようにするにはどうしたら良いのかを最近よく考える。

その答えが、「アクティブラーニング」や「認知症カフェ」とは到底思えない。