1キロ近く桑の実を採ってジャムにしたけど、できたのは180g瓶が3つと30gのミニ瓶が一つ。
これだけの量のヘタ取りだけでほぼ3時間。
毎年桑の実のヘタを取るたびに何とかならないのか…と考える(これが面倒だからみんなあまり桑の実に関心がないのかナ)。
でも、ジャム作りは楽しい。
もうすぐブルーベリーも実が熟してくる。
1キロ近く桑の実を採ってジャムにしたけど、できたのは180g瓶が3つと30gのミニ瓶が一つ。
これだけの量のヘタ取りだけでほぼ3時間。
毎年桑の実のヘタを取るたびに何とかならないのか…と考える(これが面倒だからみんなあまり桑の実に関心がないのかナ)。
でも、ジャム作りは楽しい。
もうすぐブルーベリーも実が熟してくる。
一時5,6種類の薬を飲んでいた恵子。
それが、ここ半年ぐらい全く薬を飲む必要がなくなっていた。
主治医もなるべく薬は処方しないタイプの医師なので、半年ぐらい薬ゼロの日々が続いた。
しかし、つい数日前から一つだけクスリを一種類こちらから頼んで処方してもらった。
最近、麻痺のために足がツッパって固まる痙縮(けいしゅく)がひどくなっていたので以前処方してもらっていた筋弛緩剤を復活してもらったのだ。
もともと医師に勧められて飲み始めた筋弛緩剤。
でも、薬である以上副作用は避けられない。
しかも、筋弛緩剤なのだから(その量が少ないとはいえ)胃薬とはワケが違う。
これは一種の賭けに近い。
すべては彼女の「明日(復活)へのモチベーション」をあげるため、なのだ。
一年ちょっと前にある日突然杖の歩行から車椅子生活になってしまった彼女の(復活への)モチベーションは、以前ほど高くはない。
本人は「そうではない」と否定するが、突然動かなくなってしまった自分の足への(彼女自身の)信頼度はほとんどゼロに近い。
たしかに以前よりツッパリやこわばりは強い。
それが何によるものかは医師にも彼女にも、療法士にもわからない。
ただ、世の中にまったく理由がなく起こる事象はないはず(と私は思っている)。
だから、彼女自身の心の「何か」が彼女の足を動かなくしているものなのか、それとも、以前よりもつっぱってしまった身体が彼女の歩く意欲をそいでいるのか。
きっとどっちもなのだろうと思う。
心が先か身体が先かなんて「鶏が先か卵が先か」論争のようなもので、同じ事象の裏表でしかない。
でも、それがネガティブな事象である限り、この堂々巡りの「負のスパイラル」は断ち切れない。
だから、ここで「身体のこわばりが取れる」という多少のポジティブな要素が彼女の心に少しばかりのポジティブさを与えることができればという「賭け」とも言える薬の服用なのだ。
でも、とても危険な賭けには違いない。
案の定、服用を始めるとすぐに「あ、そういうことか」と思った。
少し痙縮は和らいだ(と私は思うし、療法士さんもそう感じているようだ)。
でも、やはり薬のせいで何かが起こる。
彼女は、1日中「ダルい」と訴える。
夕食の後などは、すぐに寝てしまう。
つまり、身体の力が(クスリによって)そがれてしまっているのだろうと思う。
たった一つの薬でこれだ。
介護施設でよく見てきた光景がダブる。
なにしろ、お年寄りはよく寝るし動かない。
多分、寝たいから寝ているわけではないのだと思う。
きっと、いろんな薬を飲んでいるせいに違いない。
一人で十種類以上飲んでいる人だってザラにいる。
そんなにたくさん薬飲んだら…、と思う。
若い人だって、身体の力はそがれてしまう(だって、風邪薬一つであれだけの睡魔や倦怠感に襲われるのだから)。
施設のテーブルでみんな仲良くテレビの方を眺めていながら目線もまったく動かず会話もしない。
中にはずっとひたすら寝ているだけのお年寄りたち。
でも、これってその(理由の大半は)彼ら彼女らが飲んでいる薬のせいだと私は思っている。
年寄りだから無気力なのではなく、(薬によって)無気力にさせられているだけなのだろう。
こうやって、どんどん身体や心の力を奪って一歩一歩「寝たきり」を作っている日本の介護や医療って何なのだろうと思う。
だからこそ、薬に頼らない生活、最後まで胃に穴を開けないで(普通の)食事を取っていけるように「音楽の力」を使えるケアのノウハウをしっかりと作っていかなければと思っている(別に音楽だけでなく、アロマテラピーとか絵画セラピーとかペットセラピーとか世の中にはいろんな代替療法がある)。
でも、こういう話しを始めると必ず出て来るのが「胡散臭い」「アヤシイ」…あるいは、「それって宗教?」といった反応(まあ、確かにアヤシイものもたくさんあるからナ)。
だから、私は意図的に「音楽療法」ということばを使わないようにしてきた。
この「音楽療法」ということばには偏見と誤解があるし、そして何よりも音楽家のやる「演奏によるケア」と音楽療法士のやる、いわゆる「音楽療法」の間には、とても深い溝があることをどうやって説明したらといつも頭を抱えるからだ。
なので、そんなメンドくさい説明をしなくても良いように、なるべく「音楽療法」ということばを最初から使わないようにしてきたのだ。
だから「それって宗教ですか?」と聞かれれば「ああ、またか」と思うだけ。
この「壁」を崩すのには相当時間がかかる。
基本的に人間にとって「生きたい」という気持以上の薬はないと私は確信している。
でも、じゃあその気持を恵子にどうやったら持ってもらえるようにできるのかをいつも考える。
恵子の今の投薬をどうするかは次の診察で医師と相談することになるだろうけど恵子の心の中に何かしらの「変化」をもたらさないといけないことに代わりはない。
そんなことを考えていたら、私と同じように奥さんを介護している友人から電話がかかってきた。
彼曰く「ウチのは極端に人嫌いで外に出たがらない(彼の奥さんには以前から軽い認知症の症状が出ている)。だから、みつとみさんの演奏会でもあればそれを口実に外に出したいんだけど近く何かある?」。
実は、この人の家に私の方から出向いて演奏してあげたいと話したこともある。
しかし、彼の奥さんは、彼の言うように「極端な人嫌い」らしいので(というか人見知りなのだろう)、私のような他人が家に入ることはそう簡単ではないと丁重に断られた。
それぞれの事情はそれぞれだけれども、問題の「根」はどこでも同じ。
基本的に人間にとって「生きたい」という気持以上の薬はないのだから、恵子も含めどうやったらその気持を持たせることができるのだろうかといつも考える。
薬に頼らずに生活しようと思っているのにあえて薬を使うのは、ある意味、自己矛盾だけれども、マイナスにマイナスをかけてプラスにしようとしている自分の心の迷い(これも多少ヤケッパチかナ?)が取れるかどうか、もうしばらく様子を見てみることにする。
なんということばの矛盾だろうと思う。
「返さなければいけない奨学金って何よ」。
返さなければいけないんだったら単なる「ローン」、借金じゃないの?と思う。
経済的な問題を抱えている学生、あるいは才能豊かな人の才能をより伸ばすために「奨学する」ためのお金が「奨学金」なのじゃないのと思う。
私がアメリカの学生だった時、いろいろな奨学金をもらっていた(もちろん、それらのお金を1セントも返してはいないしその必要性もない)。
州立の学校だったので州からの奨学金(つまり、アメリカ国民の税金だ)、あるいは、財団からの奨学金、そしてプライベートな人からの奨学金、など。
大学院時代は、 私は担当のフルートの先生の助手としてお給料をもらっていた。
いわゆるteaching assistantという奨学金だ(なので、週に何時間かは先生の代わりに学部の学生を教えていた)。
この奨学金で一番オイシイ特典は、毎月給料がもらえることよりも学費が全額免除になることだ。
アメリカの大学の学費がベラボウに高いことは日本でもよく知られている(高いのは私立だけじゃない、公立だって高いのだ)。
なので、この teaching assistantという奨学金を得たい学生はゴマンといる。
その狭き門をなんとか突破して大学院生活を送った。
正直これがなかったら私はアメリカで勉強を続けていられたかどうかわからない。
それと、音楽の学生にはもっと別の奨学金の可能性がある。
学内にあるオーケストラ、吹奏楽のバンド、室内楽、個別の楽器の優秀な学生に、一般の有志が個人的な奨学金を作っている。
例えば、オーケストラのコンサートマスターには Aさんというお金持ちが「 Aさんチェア(つまり、その席に座る人に与える奨学金という意味)」とかいうネーミングで毎月2万円奨学金を与えるとか、オーボエの主席には Bさんが「Bさんチェア」で3万円の奨学金を与えるとかいった風に(ジュリアード音楽院なんか、こんなプライベートな奨学金だらけだ)。
だから、自分の得意な分野でそれぞれの奨学金の可能性にチャレンジすれば良いわけだ。
だから、自ずと演奏のレベルも上がっていく(スポーツ選手の奨学金も同じ理屈で優秀な学生を集めて各大学はレベルを上げていく)。
どうして、こんな制度や考え方が日本では普及しないのか不思議でしょうがない。
今頃になって「給付型奨学金」を導入しようとかしないとか議論しているから日本の才能がどんどん外国に流れていくのだと思う。
アメリカではありとあらゆる分野にこうした個人の奨学金、企業からの奨学金、あるいは財団からの奨学金が用意されている。
私が学生だった70年代、化学( chemistry)はサイセンスの中では比較的「日陰者」扱いの分野だった。
誰も本気で研究したがらない地味な分野だった(あまりお金にならない学問だと思われていたからだ)。
おかげで、日本人とか中東からの留学生とか東洋人の優秀な学生がたくさん奨学金をもらって研究を続けていた。
しかし、時代は変わり、今やbio chemistryをはじめ、この化学分野は最も発展性のあるサイエンスとして世界中で脚光を浴びている。
しかし、こうした分野での「業績」や「成果」はほぼアメリカが独占している。
当然のことだ。
だって、彼らが「お金を出して世界中の優秀な頭脳を育てていた」のだから(日本人ノーベル賞学者のほとんどはアメリカで勉強したか研究してきた人たちだ)。
多分、日本もやっと気づいたのだろう(気づいていてもなかなか実行に移せないのがこの国の空気だ)。
ただ、いかんせん日本は数十年遅れている(私が学生だったのは70年代だ)。
70年代にアメリカでは既にバリアフリー、ユニバーサルデザイン、多様性という考えが当たり前だったことも忘れてはならない。
しかも、現在、世の中はどんどん内向きになっている。
ネットやスマホが普及したせいできっと外国のことをわかった気になっている「エセグローバリズム」が多くなったせいかもしれない。
ネットで見る「世界」はホンモノの世界ではないということをもっと知るべきだ。
シカゴの移民局で簡単な手続きをするだけで3時間も4時間も並ばされ、あげくの果てに黒人の担当者にイヤミを言われアゴでせせら笑われた屈辱が(私にとっては)ホンモノの外国だ。
今日の午後の光景。
私は、交差点の赤信号で車を停車させた。
私の停車位置は信号から数えて10台目ぐらい後方。
つまり、信号からけっこう遠い位置で私の車は停まった。
待っている最中すぐ左の歩道を歩いていた一人の老人がいきなり私の車の目の前を横切り道路の向こう側に渡っていった。
あっと言う間だった。
信号からも遠いし信号も赤だから「えい、や」とばかり横断してしまったのだろうが、その渡り方がいけない。
私の車線側の車はみんな停まっている(赤信号だから当然だ)。
しかし、反対車線を通行している車はある(これも当然だ)。
なのに、この老人、私の車の前を通り過ぎて向こう側に行くのにまったくと言っていいくらい左側を確認していなかった(左をまったく見ていなかった)。
つまり、左から車が来るはずがないと思い込んでいるらしい。
たまたま車は一台もその瞬間に来なかったからよかった。
でも、もしこの人が私の目の前を突っ切り反対車線に出た瞬間に向こうから車が来ていたら…。
この光景を目撃した瞬間、先日報道されていたある自動車事故のことを思い出した。
その事故は老人ではなくまだ一才にもならない赤ちゃんを背中に背負い自転車で同じように道路を横断しようとして反対車線の車にはねられた若いママ(この場合、はねられたという表現自体正しくないと思う。この人は自ら車にぶつかりに行ったようなものだ)。
ママは怪我はしたけれど助かり、赤ちゃんは亡くなった。
ネットには、この母親を非難するコメントで溢れかえっていた。
たまたま向こうからやってきたドライバー(二十代の若い介護士さんらしい)と亡くなった赤ちゃんがかわいそう…。
私もそう思う。
でも、今日私が見た光景もそうだが、どちらの当事者にも言える過失は、やはり自己中心的な行動なのではと思う。
信号まで行くのがメンドくさいから渡ってしまえ…という気持は誰にも起こる気持だが、その行動を起こす前に考えるべきことはたくさんあるはずだ。
自分の背中に赤ん坊を背負っている(しかも、まだ首も座っていないガラス細工のような存在だ)。
これだけでも重大なことだ。
おまけに自転車を運転している…。
今日の高齢者の方も、左を確認しようという気はさらさらないように見えた。
みんなすごく自分勝手。
こんなに身勝手な行動がいつから当たり前になってしまったのだろうか。
午後この買い物に出る前、午前中は家でパンを作っていた。
ちょうど二次発酵中に玄関のドアがノックされた。
誰だろう?宅配の車が来た気配もないが…と思いながらドアを開けると近所の一人暮らしの(八十代の)おばあさん。
「これ、ウチのみかん。そのまま食べてもおいしいよ。私はママレードにしたけれど… 」と大きな甘夏を袋にいっぱい置いていった(ついこの前も自家製の大根をくれたばかりだ)。
小さい頃は、都会のど真ん中に暮らしていた(今は山の中の一軒家だが)。
でも、「こんな光景、小さい頃よくあったよナ」とおばあさんが帰った後そんなことを思い出す。
どこでも普通に人と人が密接に結ばれていたはずなのに今はSNSとかネットとか、そんな仮想領域でしか人と人はつながらない。
昨年から通っている「看取りセミナー(ほぼ隔月、東大本郷で開かれている)」で「ドゥーラ」ということばを知った。
ギリシャ語語源のこのことばのもともとの意味は「他の女性を助ける経験豊かな女性」ということだそうだ。
それが転じて「妊娠、出産、育児の現場で寄り添う女性」つまり「助産婦」とか「産婆」さんのことを指すことばに変わったという。
この「ドゥーラ」という概念を、出産、子育ての現場だけでなく介護、看取りの領域にまで広げていこうという動きがここ数年世界的に広まってきている。
その根本にあるのは、現在の介護現場と出産現場のあまりにも酷似している環境だ。
どちらも、本来あるべき「家庭」という空間から「病院」という空間に移り、医療行為という専門性に全てが集約されてしまっている。
本当は、「家で生まれて家で死ぬ」が普通だったのが、ある時から人間は「病院で生まれて病院で死ぬのが普通」に変わってしまった。
だからこそ起きる「子育ての迷い」や「人と人の心の絆の欠如」「(人の一生に起きるさまざまな)悩みと絶望」といったものにもう一度「原点」に戻って対処していこうという動きがこの「ドゥーラ」ということばには含まれているのだ。
このセミナーの主宰者であるK先生(この方は看護士さんでもある)から「みつとみさんのやっていることは、音楽の領域でありながらこのドゥーラの考え方にとても近いので、<音楽ドゥーラ>という新しい立場で発言なさっては?」と勧められた。
いや、しかし、私がそんなことばを大上段に名乗るには私自身がまだあまりにもドゥーラについて勉強不足です。ですので、もう少し勉強させてください」と言ってその申し出はとりあえず丁重に辞退した。
しかし、私がやってきた「(フルムスという女性オーケストラの活動を含め)女性支援のための音楽活動」やこれまでの「音楽を世の中へどうしたら役立てていくことができるのか」といった運動のベクトルはたしかにこの「ドゥーラ」に限りなく近い。
こうした人と人との絆がどんどん希薄になる地球という星をもっと「良い空気」で満たすには音楽の役割もけっして少なくないのではと思う。
音楽療法なんてことばを使わなくても、もう音楽という存在自体が「セラピー」だし、十分人々や世の中の「癒し」になっているのだから。
ふと、60年以上前の5月15日に実家で生まれた弟の誕生風景を思い出した。
実家の居間で出産した弟を取り上げるお産婆さん(実家の近所には何人かのお産婆さんが看板を掲げていた)。
お風呂で産湯につかっている生まれたての赤ん坊。
祖母や叔母から「入ってきてはいけない」と言われた「禁断の光景」は、(私の脳内でのみ)今でも忠実に再現される。
そうか、明日があの日だったのか…。
私は、自分のブログにいちいち「こんな映画観ました」なんていう感想文は書きたくないのだが、この映画、正直言って「?」だらけの映画で、ひょっとして私のこれまでの音楽家としてのキャリアそのものを否定する映画(?)とまで思えたのでひとこと。
別に難解な映画だとは思わない。
十分エンタテインメントしている。
でも、見てて全然楽しくないしワクワクもしない。
見終わって「これは絶対に音楽映画なんかじゃない!」と思った。
ネタバレも何も気にせずに言うと(けっこう見た人多いと思うし)、主人公とおぼしき音楽大学の初老の白人教師(ほとんどジャズバンドの指揮者として登場しているが)と彼に指導される(というかイジメ抜かれる)若い白人学生ドラマーの二人でほとんどのストーリーが進行していくのに、いわゆる音楽映画のオチとしてあるべき「音楽への愛」も「音楽に対するリスペクト」もまったく存在しない。
なので、私は最後のエンドロールを見ながら言いようのない「不快感」に襲われていた。
これは、きっと私が音楽家で「音楽を愛している」からに違いない(とそう確信した)。
これまで見たどんな音楽映画( A級だろうがB級だろうが、最低のDランクであっても)にも必ず「音楽による救い」はあった。
しかし、この映画にはそれがまったくない。
それは、この二人の主人公(音楽教師と学生)がまったく音楽を愛していないからに他ならない(と私は結論づけた)。
普通、音楽家である私は、どんな音楽映画を観ても「音楽家で良かったナ」という(ちょっとした)優越感に浸れるのだが、この映画を見終わった後はまったく逆の反応だった。
「音楽家であることが恥ずかしい」ぐらいの暗い気持にさせられてしまったのだ。
軍隊式に学生を鍛えようとする教師の姿は、まさしく軍隊の「鬼教官」そのもの。
私が今現役の学生で目の前にこんな教師がいたとしたら間違いなく私の右手は彼の顔面に飛んでいる(はずだ)。
その後の展開がどうなろうと知ったことじゃない(訴えられようが退学になろうが知ったことではない)。
こんな教師が存在すること自体が我慢ならない。
一方の学生の方も、音楽をスポーツと完全に誤解している(救いようのない)学生で、こちらも音楽に対するリスペクトはゼロ。
普通は、こういう「勘違い野郎」が(映画の中で)どんなにバカなことをやっていても、最後には「こうした態度はすべて間違いでした。やはり、音楽は愛です。音楽にかなうものはありません」的な大団円のオチが用意されているはずなのに、それがどこにもないのだ。
以前、ベートーベンはどうしようもない自己中の男で、ヘタしたら「ストーカー」で訴えられてもおかしくない変態野郎みたいに描かれている映画があったが、それでも最後には「やっぱりベートーベンの音楽は素晴らしい」的な救いがあったのだが、この映画『セッション』にはそんな救いすらない。
見終わって「え?この映画、一体何が言いたいの?」と、もう一度オチを懸命に探したぐらいだ。
ただ、この映画、巷の人気は相当なもの(らしい)。
きっと、音楽家の視点と一般の視点は違うのかナと思っていろいろ検索していたら「あった!あった!」。
音楽家の菊地成孔氏と映画評論家の町山智浩氏がお互いのブログで『セッション』をめぐって大バトルをやっていた。
やはり菊池さんは音楽家の視点からこの映画を酷評している(音楽家がこの映画をホメていたらどうしようと思っていたけれど)。
一方の町山氏は、(別に映画評論家だからではないだろうけど)、この映画をそれなりに評価している。
別に、誰がどう言おうと勝手なので、そのどちらの意見にもケチをつける気はないけれども、菊池さん、何を好き好んでわざわざそこまで言わなくてもと思うぐらいこの映画をボロクソに言っている。
たかが映画にちょっとムキになり過ぎる菊池氏に「ちょっとおとなげないですよ」とは思ったものの、彼の意見にはやはり「音楽愛」ということが根底にあるのだナと思って妙に納得。
そして、音楽をスポーツと一緒にするような風潮(この映画のその部分の描写が病的で納得できない)を煽って欲しくないともマジに思う。
音楽とスポーツの目指すものは根本的に違うはずなのに、それを混同する傾向は世の中にけっこうある。
この映画の主人公2人がドラムをいかに早く叩けるかにこだわるところにそれが象徴されているし、クラシックの世界ではそれがあたかも音楽の目的であるかのように考える人も多い。
スポーツは、オリンピックの理念にあるように「より高く、より早く、より強く」が基本だけれど、音楽の理念はそれとはまったく相容れない。
音楽になければならないものは「愛」。
私は、そのひとことだけで十分だと思っている。
それは、もちろん「人への愛」だし「神への愛」だし、「地球という星への愛」でもよい。
とにかく「愛のない音楽なんて音楽じゃない」と私は信じているし、信じているからこそ「死ぬ、その瞬間まで楽器を演奏していたいナ」と毎日のように念じながら練習を続けている。
つい数日前に大阪の七十代の男性が介護していた妻の首を締めて殺害したというニュースがあった(この手のニュースは今に始まったことではなく常に後をたたない)。
私自身、この介護者とまったく同じ立場の男性介護者。
私のまわりにも同じ立場の人はたくさんいる。
それどころか、日本中、いや世界中には連れ合いを介護する立場の男性はゴマンといるだろう。
では、そんな人たちみんなに同じような悲劇が訪れるのだろうか。
まあ、(可能性が)まったくないとは言えないだろうが、普通はそうならない。
多分、この問題の立て方(男性介護者という問題)、捉え方がまず違うような気がする。
介護は確かに社会問題だし、その問題は深刻だ。
しかし、このニュースを「介護問題」とか「男性介護者の特殊な事情」みたいな形で捉えると問題の本質を完全に見誤まる。
介護に疲れたから思いあまって殺してしまった、という風にとらえると「男性が一人で介護していて相当疲れたんだろう。だから、このなったもある程度理解できる」といった同情的な論評になるがこれは絶対にしない方が良い(でも、こういう捉え方をする人は多い)。
問題は男性だから女性だからではないと思うし、介護していたからでもない。
多分、たぶん…本当に多分なのだが、男性が女性を介護する時陥りやすい罠は、多分「プライド」。
プライドと言っても「オレ様はエライんだゾ」的なプライドではなく、「なんで私がこんな目にあわなきゃいけないの」的なプライド(この思考を「プライド」と考えない人が多いが、実は「自分だけは不幸にはならないし、なるべきではない」という意味でこの思考もかなりのプライド思考だ)。
この「自分だけが不幸」という文脈で物事を考え始めると既にもうそこは悲劇の一歩手前。
だって、このニュースの男性、身体の不自由な奥さんを介護し始めてまだ一年もたっていない方らしい。
私は5年。他に10年20年なんていう男性介護者はザラにいる。
でも、この方、たった数ヶ月で(絶対に陥ってはいけない)思考に陥ってしまった。
この方、多分(ここの「多分」は「確信」に近い)覚悟があまりなかったのではないかと思う。
つまり、一種の開き直りというか、「自分だって、他の大多数の人たちと同じ人間なんだから、人生どんなことが起こるかわからない」という意味での「納得」する心がなかったのではと思う。
「どうして自分は妻を介護しなきゃいけないのか... なんで毎日家事、介護に追われなきゃいけないのか…」。
このロジックにだけは絶対に陥らない方が良い。
男性は、一般的に家事や炊事には慣れていない人が多いが、それでも皆さん一生懸命それをこなしている。
たとえ料理に不慣れでも洗濯や掃除に不慣れでも先ほどの意味で開き直ってやっている。
それに、男性はイザとなるとけっこう優しい人が多い。
日常的に素直に愛情表現できない男性でも、こうした状況(介護をしなければならない立場)になると(連れ合いの方に)とても優しく接していこうとする人を私はたくさん知っている。
男性は女性よりも社会的地位を持っていた人が多いので、その「プライド」を捨てきれない人が多いが、要はできるだけ早くこの「プライド」を捨てて「一介護者」、「一人間」になりきることだ。
だから、このニュースを「介護の悲劇」とかいった文脈で私は見たくない。
そうではなく、これは、生きていく上での一人の男性と一人の女性の悲劇なのであって、けっして「介護」という悲劇ではないのだ。
介護も子育ても、仕事も、恋愛も所詮、宇宙の中のほんのちっぽけな地球という星の中の出来事じゃん。
何が偉くて、何が問題で、何がプライドなのかと言いたくなる。
どう生きるか、どう死ぬか。
人間の問題って結局これしかないわけで、それをきちんと整理して生きられる人が「幸せな人」なのではと思う。
「片付けることにトキメキなさい」と言った片付けコンサルタント近藤麻理恵さんのことばの本質はここかナと一人合点したりする(だから、彼女は「世界で最も重要な百人」の一人に選ばれたのかナ)。
「どう生きるか」「どう死ぬのか」、ここだけ片付けられれば人生の問題って99%片付いたようなものだし…、ネ。